第八十二話:霧の湖
藍色の空に、大きな噴水が一つ。
噴出された水は月の光に照らされて、鮮やかなワインレッド色を暗い空ににじませている。そんな巨大な水の柱の周りを、赤と青の光球がゆらりゆらりと舞い踊る様を生命の神秘としてあがめたたえるポケモンもいるのだろう。
繊細で淡い光でありながら、その中心で圧倒的な存在感を放つ「時の歯車」。波打つその光に照らされたルカリオ、トーサが口を開いた。
「ふ、……ふふっ…。まさか、ここまでやるとは……ねぇ」
彼の身体には痛々しい裂傷がいくつもついているが、どれも致命傷にいたるようなものではない。トーサは、若干汗をかきながらも薄ら笑いを崩さない。
「____お前じゃ俺には勝てん。……悪あがきはやめろ」
「……殺すの…かなぁ?君は、私を」
淡い光の影に覆われたジュプトルことスタイナーの表情は見えない。彼は、トーサの言葉を無視してその距離を詰めていく。_____必殺の間合いに入った瞬間に、「でんこうせっか」で一気に勝負を決めてやる。それまでは、あくまで標的の様子を伺いながら近づく必要がある。スタイナーはそう考えていた。
あと3歩。
はやくメアリーたちのもとに向かわなくてはならない。
あと2歩。
そのためにはこいつをここに残しておくわけにはいかない。
あと1歩。
そのためにケリをつける。
「……_______くらえ」
間合いがきた。地面を強く踏み込んで身体を加速、「でんこうせっか」の速度にのったまま「リーフブレード」であのルカリオの首を斬る。
「____!?」
しかしスタイナーの腕の刃は空を掻っ切ることになる。トーサは寸前で身体をよじって回避、態勢を崩して転がりながらもスタイナーから一定の距離をとった。
トーサのずば抜けた反射神経によって回避できたというわけではない。トーサの反応速度は並のポケモンをはるかに凌駕していたが、それでもスタイナーには及ばなかった。
正確に言えば、スタイナーの攻撃にスキができたのだ。「リーフブレード」を発動するその時、一瞬だがスタイナーの集中の糸が切れてしまった。
何故か_____あの感覚が、肌に伝わった。全身が急に冷え込むような嫌な感覚。木枯らしが吹いたときの薄ら寒さでも、朝起きたときに感じる凍える寒さとも違う。命の暖かさを根っこから奪い去るような凍てつき___________「時が止まった感覚」を、彼は感じてしまったのだ。
スタイナーは振り返った。時の歯車を背にして動いた自分の愚かさを呪う。すでに灰色に包まれてしまった世界で、唯一輝く光の中で笑うポケモン。背景の効果もあいまって、スタイナーの目にそのポケモンの姿かたちがはっきりと映った。
小柄な体で二頭身。小さな手足にギザギザな尻尾がツンと伸びている。丸い目は細められ、歯を見せて笑う様子はおそらく、見るものに気持ち悪さを与えるだろう。
「……貴様_______」
「____君が『時の歯車』を盗んでいる噂のジュプトルだね。……探検隊として、君を捕えに来たよ」
_____シンと呼ばれていたピカチュウがそこにいた。体にはいくつもの裂傷が浮かんでいて、彼が戦いを終えた後であることは容易に想像できた。その戦いがどこで行われ、_____結果がどうなってしまったのかも。
頭に血が上る。
スタイナーは目にも止まらぬ速さでそのピカチュウの下に飛び込み、押し倒して相手の首根に「リーフブレード」を突き付けた。
「貴様、メアリーを、チコをどうした!?」
「____残念だったよ。俺もあいつらを守ろうと奮闘したのだけれど」
「______っ!!」
血は上りきった。腕を押し込んでそのまま首根を切断する______「おや、危ないな」
_____金属音が鳴り響いた。
背後の殺気、すんでのところで察知したスタイナーはピカチュウの首を切断する勢いで振り返り、「リーフブレード」で攻撃を受け止めた。スタイナーの視線の先には、血を垂らしたルカリオがねばついた笑みを浮かべて立っていた。硬質化した骨を握る彼の握力は、身体にいくつもの裂傷を抱えてもなお一切衰えていない。徐々に力負けしていると悟ったスタイナーは身をひるがえし、トーサから距離をとった。
「……落ち着いてくれ、ジュプトル」
諭すような声でそういったのは、いつの間にかトーサのそばに移動したピカチュウだった。______切断したはずの首が繋がっている。
「君と争うつもりはないんだよ。トーサが早とちりしたのは謝るさ。ただ……」
「___その時の歯車をわたせ」
「それはできないな」
____ならば話すことは無い。スタイナーは歩いて二匹に近づいていく。腕の葉が再び緑色に発光し刃と化した。
「……残念だが、今の君と対話するのは難しいみたいだね」
無言で攻撃姿勢を見せるスタイナーを前にして、ピカチュウは心底悲しそうにそうつぶやいた。トーサは隣で笑いながら、骨の棒を手の中で転がしている。
次の瞬間、音速をも超える斬撃が繰り出され、巻き起こった衝撃波が灰色の空を切り裂いた。
「_______」
そこにいたのは、かすかながらも息があるユクシーと、えぐれた地面の真ん中に立ったジュプトルの二匹だった。彼らの周囲には動きを忘れてしまった瓦礫が浮いている。灰色の空間に立ち尽くすジュプトルを照らす光は存在せず、遠い背後で噴水を模した巨大な石像が、そこにたたずんでいた。