第七十九話:走馬灯
「じゃ、行ってきます」
「無理しないでね。何かあったらすぐ早引きさせてもらうのよ?」
「分かってるって。それじゃあね」
まだ何か言いたげな母に背中を向け、「俺」はさっさと行ってしまう。扉の閉まる音はしない。おそらく母は扉を開けた状態でずっと「俺」のことを見ているのだろう。昨日まで死にかけていた息子が次の日になってすぐに出かけるというのだから無理もない。しかし、そんな母の視線を意に介することなくずんずんとエレベータのほうへ俺の身体は進んでいく。振り向くことはおろか、立ち止まりさえしない。
ついには母の顔を見ることなくエレベータに乗り込んでしまった。「一階」のボタン、「閉」のボタンをタタンッと押してそのまま直立不動。エレベータが一階に到達して再度扉が開くまで、瞬きしかしなかった。
_____この「俺」が目を覚ましてからというもの、こいつの動き、その一つ一つが歪に見えるようになった。こいつは「俺」だ。俺がするであろう行動をしている。それは理解できる。理解できるからこそ、違和感を感じてしまう。
___こいつの行動を、俺は何一つとして覚えていないのだ。
思念体のような俺が言うのもなんだが、背筋が凍ってしまう。
こいつは、この男は、いつも通りだ。
いつも通り、朝七時に起床して朝ごはんを食べ、歯を磨いて顔を洗い、支度を済ませて家を出る。何も変わっていない。何も変わっていないからこそ、俺が予測できる行動をしているのだ。……この状況においても。
あくまでいつも通りの「シン」を貫いている。
自殺未遂の二日後に、普段通り学校へと向かっているのだ。
この俺が、意識だけあって身体を動かすことのできない理由が今ならわかる。
___走馬灯。
俺は死んだ。そして、その死に至るまでの記憶をたどっているのだ。
確かに前日こそ未遂で済んだ。しかし未遂を見逃されている以上、二度目を実行することは明らかだ。
この男、「俺」はこれから死ぬ。おそらく自分の手を以て。
死を前にしてこの行動。いつも通り、「シン」の行動をしているこいつの「意図」
がまったく分からない。欠片も理解できない。それが怖い。いつ死ぬのかも分からない。このままいきなり舌を噛み切るかもしれない。車道に躍り出るのかもしれない。分からないからこそ、様々なパターンが予測できてしまう。予測して、その一つ一つに慄きながら、奥底の恐怖が膨れ上がっていく。
……だが、手が打てないわけではない。
手も足も出ないが、俺には「思考」ができる。考えることができる。何も知らずにただ死に至るわけにはいかない。
___知る必要がある。
なぜ、「俺」は死のうとしたのか。
自殺の原因を突き止める必要がある。理不尽ともいえるこの状況は、おそらくそのためにある。
「見つめ直せ。」
自死は地獄行きという話を聞いたが、ともかく魂的なものが行くべきところへ行く前に自分の死と向き合う必要があるといったところだろう。
そんなことを考えている「心」の存在に対し、あくまで素知らぬ顔をしている「俺」は、気づけば高校の門をくぐっている。変に懐かしい感覚を覚えるのは、死してからずいぶん時間がたっているからだろうか。
***
「俺」が湖に落ちたという事実は、既にクラス中に知れ渡っていた。どのような形で噂が広まったのかは分からない。ただ、普段と比べて周りから距離をとられていることは明らかだった。最初こそ、心配そうな言葉をかけてくれる知り合いが何人かいたが、二限の時間にもなればそれも無くなり、いつもならば軽く授業の話やゲームの話をしていたはずの知り合いも、「俺」に話しかけてくることはなかった。
昨日の親と同様、「自殺未遂」をしたと受け取られている可能性がないわけでもない。死のうとしてるかもしれない人に話しかける気はなかなか起きないだろうし、そう考えれればクラスメイト達の対応がぎこちなくなるのは理解できる。
「よう。購買行こうぜ」
コスケだけがその例外だった。クラスで顔を合わせてからこれまで、暇があればこちらに話しかけてくるレベルだ。今日学校で会って初めてのセリフも、他の人が10割「大丈夫?」系統であるのに対し、コスケの第一声は、「ちょっと痩せた?」。心配していないわけではなさそうだが、その素振りをほとんど見せず普段通りの調子である。
人望もあるコスケの周りにはいつも何人かの友達がいる。そのため、彼が話しかけてくれることで、他の人とのコミュニケーションも間接的にだがとることができた。おかげで「自殺未遂」の噂が立ってるにしては、クラス内の居心地も悪くない。コスケに感謝しなければならないな。
「このカレーパンまずくね?前のクリームパンのほうがよかったわ〜」
「シンさー、次の授業の課題やったか?ちょっとさ、もしよかったらでいいんだけど写させてほしいな〜なんて」
「みすった!寝てたわ!ノート写させて!」
「おい、知ってるか?……マツセンとキョーコちゃん、、できてるらしいぜ……」
ちょっと話しかけ過ぎのような気もするが、ともかくコスケのおかげで復帰直後にも関わらず、ある程度そつなく過ごすことができた。しかし逆に言えばそれは、自殺の理由は欠片も分からなかったということでもある。
気づけば終業のベルが鳴り、皆が帰り支度をはじめる時間となった。
「俺」自身、いつも通り荷物をまとめ、帰り支度を完了させる。結局のところ、「俺」は今日一日ボロを出すことはなかった。……なかったが、それでも「俺」が自殺をするであろうという予感は、依然として確固たるものとして残り続けている。
「よっ!____一緒に帰ろうぜ」
「ああ」
視界が急に変化する。「俺」が移動を始めたのだ。思考にふけっていて一瞬理解が遅れたがコスケと一緒に帰るらしい。
俺の通う高校は、家から歩いて行ける場所にある。コスケの家もその近くであり、大半は電車や自転車通学のクラスメイトと違って徒歩で通学する俺たちは、こうして一緒に帰ることがよくあった。
16時を回った今の時間は、日がちょうどいい高さに落ちていて気温も穏やかだ。どの季節であっても極端に暑かったり寒かったりしない。さらに言えば、人の数が多すぎず少なすぎないのもポイントだ。妙な孤独感や圧迫感にとらわれることもなく、のびのびと歩いて行ける感じがする。そういったことから、これくらいの時間がお気に入りだったことを覚えている。
一昨日、「俺」が湖に飛び込んだのは、その一時間後だったらしい。下校後にあの公園に直行して湖に飛び込んだということになる。コスケに誘われなければ、もしかしたらこいつは再び湖に向かっていたのだろうか。
「でさ___」
「____でもそれって___」
身体と分離した「こころ」だけの状態になって約2日。最初は、いちいち感覚として響いていた音や視界の情報も、ある程度ならこうして意識の外に置くことができるようになった。自殺の原因を探るためには些細な情報も見逃してはいけない気もするが、自分の意思とはまったく無関係に行われつつも感覚だけリンクしている行動を、いちいち追うのはなかなか精神上疲れるものなのだ。
現に、今はたわいもない課題の話をしているし、そこから「自殺」の原因の断片が出てくることはまあないだろうとたかをくくっている。
「……で、サキには会ったのかよ」
「会わないよ。別に会う必要もないし」
「なんだよ、振られたからって拗ねてんのか」
「そんなんじゃないって」
______来ないな。
昨日、この話題をコスケから振られたときはあの妙な声が聞こえたが、今はなんともない。やはり、あれは気のせいだったのだろうか。……今は情報が少なくてなんとも判断できないな。
サキに振られたことはなんとなく覚えているが、その周辺あたりから記憶が曖昧だ。トラウマやショック的なもので記憶が無くなっているのだとしたら、やはり「自殺」の原因として現段階で最も可能性が高いのはサキに対する失恋ということになる。……自分がそこまで心の弱い人間だったのかとすこし嫌になるのでその線は無しであってほしいが。
「____てかさ、シンって今日暇?」
「……え?」
いきなり話が変わったぞ。さっきまでサキの話をしていたはずだが、俺が考えている間に話が飛んだのか。いや、この体を操作している「俺」自身も頓狂な声をあげているし、コスケ特有の話題ワープが生じたと考えていいだろう。コスケとはそういう男でもある。地頭はいいが多少の天然が入っているのだ。もちろん人に害をなすような天然では全くないため、そこも含めて彼の魅力だという人は多い。ある程度付き合いのある自分としては、不意こそつかれるが慣れた展開だろう。
「………」
「いやさぁ、ラウツーいきてぇなと思ってよ」
「___急だなぁ。今から?」
「ああ。ほら、あれよ。ポッ拳のアプデ来ただろ?」
「___あー」
ポッ拳か。そういえばコスケと二人でよくやってたな。大体俺が5連敗くらいさせられてた思い出しかない。だが、嫌いなゲームではなかったはずだ。むしろ好きだからこそ、ぼこられるのが分かってても付き合っていたような気がする。
「な?一戦だけでいいからさ」
「………まぁ、一戦だけなら」
若干くぐもった声で「俺」は答えた。どうせ予定はないはずだが、返事に遅れたのは___つもりだったからだろうか。
「よっしゃ、決まりだな」
気に留めることなくコスケは微笑み、ずんずんと先へ歩いて行ってしまった。
***
結局、3戦することになった。
珍しく一勝して帰ろうとするも、コスケに駄々をこねられもう一戦。そのまま二連勝したところでコスケが折れて終いとなった。外に出た時には既に日が落ちていて、時刻は19時を回っていた。
「んー。悔しいな。なんで勝てなかったんだろ」
「調子、悪かったんじゃないの。しょうもないミスばっかりしてたし」
「んー。おかしいな。。。」
人通りの少ない裏道を歩きながら、適当にゲームの感想を語っていると、交差点にたどりついた。自販機がぽつんと置かれ、さび付いた電灯が点々と光をちらつかせている。何の変哲もない交差点だ。俺とコスケの帰り道は、この交差点を境にして別れていた。
「それじゃ」
「おう」
短い挨拶をかわしたのち、俺の視界からコスケが消える。「俺」は特に振り返ることもなく前へ前へと歩く。一定のリズムを刻む足音。そしてその裏をとるかのように、もう一つ別の足音が近づいてくる。
振り返れば、さっき別れたはずのコスケがすぐ後ろをついてきていた。
「おう」
「おう、じゃなくて。どうしたんだよ?」
忘れ物でもしたのだろうか。コスケの不可解な行動に俺は首をかしげる。対するコスケはあっけらかんとした表情でこう答えた。
「たまにはこっちから帰ろっかなと」
「こっちからって……完全に遠回りになるぞ」
「まぁ気にすんなって。別に困りはしないだろ」
「まぁそうだけどさ……」
またコスケの気まぐれかとあきらめたのか、「俺」はそのまま歩き始めた。コスケは当たり前のように横に並んで話し始める。再び会話しながら二人で暗くなった道を歩くことになったが、だんだんと「俺」の返答がぎこちなくなってくる。いつコスケが引き返してくれるのかと気になり出してから、足を止めるまでそう長くはかからなかった。
「なぁ、どうしたんだ?用があるんじゃないのか?」
「だからなんとなくだって。気にするなよ」
「気にするなって言ってもなぁ……」
声の感じからして、なんとなくいやそうな表情をしているのが伝わる。思い返してみれば、そもそもポッ拳に誘われたときから乗り気でなかったかもしれない。コスケが嫌というわけではなく、一人になりたがっているのだ。___その理由は語るまでもない。
そんな「俺」の感情を読み取ったのか否か、コスケが口を開く。
「実はさ……」
「____実は?」
少しくぐもったその声には、さっきまでの軽薄さは感じられない。どうせ適当なことを言い出すのかと思っていた「俺」は、意外な声色に思わず聞き返す。
彼の顔にはりついていたニヤケ面は消え失せ、目の奥が揺れているように見えた。口をキュッと閉じて、じっと「俺」の表情を確かめるかのように見つめている。
ごくり、と唾を飲み込んだ。
「______ポッ拳、もう一度だけやらね?」
「_____は?」
一瞬、俺自身が言葉を発したのかと思った。ついに身体を動かせるようになったのか、と。しかし、それは勘違いで、正確には「俺」と俺の反応がぴったりと合ったためであった。
肩の力が抜けていくのを感じる。拍子抜けの言葉に変に張っていた緊張の糸が切れたからだろう。見れば、コスケは何事もなかったようににへらと笑っている。少し調子のずれたところのある彼だが、さすがに今のは狙ってやったようにしか思えない。彼なりの凝ったジョークのつもりだろうが……。
「はぁ……」
別に怒るわけでもなく「俺」はため息をついた。少し付き合いきれないとも思っているのかもしれない。言葉にしないのは、今日一日彼のおかげである程度普段通りの学校生活を送ることができたという借りが、頭の中をよぎるからだろう。
「さすがに……だめ?」
「ああ」
「そっかー。……ま、しゃーねーな」
そこまで残念そうでもない。片手に持ったカバンを肩に担いで、後ろに二、三歩下がる。それを合図ととったのか、
「それじゃあな」
「俺」はコスケに二度目の別れの挨拶を切り出し、この場から離れようとする。コスケは立ち止まったまま、からっとした表情をむけて「おう」と短く返事する。
今度はついてきそうな気配はない。「俺」は彼に背を向けて歩き出した。
電灯の光と建物の光が点々と夜道を照らしている。ラウンドツーのある大通りと違って、この小道はいつも人が少ない。「俺」とコスケの茶番じみたやり取りが終わり、しんとした空気があたりを包んでいた。今はまだコスケと別れたばかりだが、この角を曲がれば誰にも見られることはないだろう。昨日の公園は、時刻も夕方で人もまばらだが存在していたため発見も早かった。
今日は違う。コスケの気配が消えたら実行に移すことができる。
手に下げたカバンの奥底、積み上げた教科書の下にそれがしまってあることを知っていた。普段通りを装いながらも、徹底的に他人にカバンを触らせることはなかった。
結局のところ、理由も原因も分からなかった。こいつの行動は予測できるのに、動機も意思も理解できない。それがたまらなく不気味で、どうしようもできないやるせなさがこみあげてくる。
____カバンのチャックに手を伸ばした。
「____あのさ!!!!」
……またか。
さすがにしつこいな、と言おうとした「俺」の動きが止まる。
彼は笑っていなかった。冗談を言い放ったさっきの表情と同じ……とは言えなかった。青ざめていたのだ。息を切らしていたのだ。
カバンをさりげなく後ろに回す。今までと明らかに違う彼の素振りに、少なからず警戒しているのだろう。無言のまま、次の言葉が来るのを待った。
「いや、その……」
「………」
「__明日、また、学校で…な?」
遠慮がちで、不安げな彼の声は、到底冗談とは思えなかった。演技の気配もなく、素の感情が表れている。そして、その姿は普段の彼のイメージとは明らかにかけ離れていた。
「ああ、また明日」と俺は返事し、またコスケに背を向ける。少し冷酷ともいえる対応をしたのは、先を焦っていたからではない。___おそらく、別の理由だ。
「あの……」
小さい声だ。「俺」は聞こえないふりをして歩き出そうとした。
「_____……ああもう!やっぱだめだわ!」
今度は唐突な大声にびくっと体の動きが止まる。さっきまでの遠慮がちな空気も小さな声も投げ捨てて、コスケは帰ろうとする「俺」の腕を引っ張った。
「気、効かせようとしたけど無理だ。向いてないんだよ、俺」
「は?……お前さっきから何考えてんだよ」
さすがにむかついてきたのか、声色に苛立ちを隠すことなく言葉をぶつける。掴まれた腕を無理に引きはがそうとするが、まったくもって離れない。当たり前と言えば当たり前だ。勉強派の俺とスポーツ系のコスケでは力比べは話にならない。
戸惑いつつもコスケの表情を注意深く観察する。彼は、気にすることなく続けた。
「お前、死ぬ気なんだろ」
「……は?……何言ってんだよ。死ぬ気って…そりゃどういう…」
「_____」
「まさかお前、俺がわざと湖に飛び込んだと思ってるのか?……前にも言っただろ、あれは足を滑らせただけで…………」
「……カバンだよ」
___思わずカバンにむかいそうになった手を必死に抑える。
なんで、コスケがカバンの中身を知ってるんだ。今日は誰にも見せていない。見せないように徹底してきたはず。気づかれるはずがないのに。
「カバンがどうかしたのかよ?」
あくまで平静を装って「俺」は答える。
「……シンはさ。嘘が上手いつもりですこぶる下手くそなんだよ」
先ほどまでの詰めるような口調ではなく、静かに、語るようにコスケは言った。
「口先だけで誤魔化した気になってるんだ。身振りでバレバレだっていうのにさ、昔から」
「………」
「小中高、ずっと一緒だったから。そりゃ大体のことはわかるんだ。」
「____何か、あったんだろ?」
電灯の光が彼の顔を瞬くように照らしている。。
「………」
「…___勘違いなら、いいんだ。俺の思い過ごしで、本当にお前がドジ踏んだだけならそれでもいいんだ」
「でも___でもよ」
噛みしめるように、声を震わせる。
「____俺は、お前に死んでほしくねぇよ……」
_____コスケは、泣いていたのだ。
「……あ____」
そして、気づいた。
「えっと……____」
声が、出た。
____あたし、シンくんと離れたくない…。_______
声が、聞こえた。
____その時だった。
突如まばゆい光が眼前に広がり、目の前が真っ白になった。電光のごとき衝撃が脳を貫き、音と映像が次々に駆け巡る。夕焼けに光る海岸、じめじめとした岩場、橙色のイタチに、大きな葉を頭上に伸ばした四足。大きな丸い目をしたピンク色の生命体。それを模した悪趣味なテントと切り立った崖。声をかけられて振り向けば、そこには_______
_____栗毛色の、イーブイ。
____メアリーが、そこにいた。
「……あぁ、…」
____そうだ。
「……そういう……そういう、ことか…」
___思い出した。
胸の奥がすーっと開けてくるようなクリアな感覚。疲れ切っていたはずの脳が活力を取り戻す。それでも視界が歪んでいるのは、涙が目を包んでいたから。その理由は分からない。分からないけど、いずれ知ることができるような気がした。
___カバンのチャックを開ける。大量に積まれた教科書を丁寧によけつつ、底にある「それ」に手を伸ばす。
「___!?……シン、お前!」
「……大丈夫」
飛び掛かろうとするコスケを手で制し、俺はそれを投げ捨てた。嫌な金属音を立てながら転がったナイフは、銀色の表面に俺の顔を映している。
「シン……」
呆然とコスケが立ち尽くしている。状況が飲み込めていないのだろう。当然だ。目の前にいた自殺志願者が、突然うわごとを言ったと思えばナイフをカバンから取り出したのだから。投げ捨てたといえ、そのショックは大きいだr_______
「シン!!」
「ぐぇっ!」
唐突の肘固め。予期せぬ攻撃は完璧に決まり、俺はすぐさまコスケの腕を叩いたギブアップの意思を示す。腕の力は弱まって、ぐわんぐわんする頭にコスケの声が響いてくる。
「びびらせんなよ!死ぬかと思ったじゃねぇか!」
「……今、死にかけたよ……」
ぜぇぜぇ、と息を切らしながら俺は小さな声でそう答える。
ははは、と馬鹿笑いしたコスケは、しかしすぐに眉を寄せ、目を細める。すると、大きく息をつくようにして言った。
「_____よく分かんねぇけどよ。……もう、大丈夫なんだな?」
「……あぁ」
「……そうか」
そこまで言ったところで二人の間に言葉が無くなる。しかし、それはさっきまでの気まずい沈黙ではない。底の読めない探り合いはそこにはなく、ただ___安堵を噛みしめていた。
***
結局、コスケは俺の家にまでついてきた。「もう死ぬ気はないし大丈夫だって」と言ったのだが、「まぁまぁ」の一点張り。別にそこまで強く断る理由も今の俺には存在しないので、そのまま帰ることになったのだ。
「それじゃ、また明日」
「おう、絶対に来いよな!」
コスケに軽く手を振って、俺は家の鍵を開けた。
すぐに母親が飛んできて、頬骨の張った顔を心配そうに歪ませる。
「おかえり。なんともなかった?」
「うん。いつも通りだった」
「嫌なこととかはなかったのね?」
「なかった、なかった。大丈夫だって」
矢継ぎ早に飛んでくる質問をいなしながら、早歩きで洗面台に逃げ込む。しばらく母の声が扉越しに聞こえていたが、うがいを終えるころにはリビングへと戻っていた。
リビングでテレビを見ていると、すぐにご飯の時間になった。帰宅時こそ心配していた母だったが、ご飯を持ってくるころには不安の色も顔から消えて明るい声で声をかけてきた。
「お父さんも、あんたのこと心配してたのよ」
「うん」
「昨日、あんたが寝た後だってね……お母さんとお父さん、二人でずっとあんたのこと話してたんだから」
「うん……ごめん」
「謝ってほしいわけじゃないのよ。ただね。お母さんもお父さんも、シンのことが本当に大事だから。大切だから。だから、悩んでることとか、嫌な事とかあったら……言ってほしいの」
「うん」
そこまで言って、母は口を手で抑えて眉をひそめる。
「____分かってるなら、いいのよ。___ごめんね。お母さん、ついついいっぱいしゃべっちゃって……」
母は、世間一般からすればいわゆる「過保護」といわれる人だ。いつも途中で返事が面倒くさくなってしまい、「うん」だけで返事を終わらせてしまうこともしばしばある。
「いや、違うよ」
しかし、今日は別だ。
「いろいろ心配かけて、ごめん。」
最後の一口を食べ終え、母と自分の食器を持って立ち上がる。母が目をまるくしてこちらを見るが、俺はそのまま台所にむかった。
「今日は俺が洗うよ」
「え?……ありがとう」
「こちらこそ、いつもありがとう。……本当に」
「な、」
机から立ち上がった母は、眉間にしわをよせる。「別にそういうのが言ってほしいわけじゃないんだけれどね……」と呟きながら、そそくさとリビングを後にしてしまった。
蛇口をひねり、水を出す。スポンジに洗剤を絡ませ食器に当てて手をうごかすと、すぐに白い泡が膨れ上がってくる。「少し洗剤の量多かったな」などと思いながら、食器をひとつひとつ泡まみれにしていった。
***
風呂に入り、くつろいでいるうちに時計は11時を回っていた。母によると父は今日遅くなるらしい。
「明日も学校なんだし、さっさと寝ちゃいなさいな」
眠そうな目をこすって、母は俺に言った。普段は夜に強い母だが、今日はかなり早起きしたらしく、瞼がくっつきかけている。「うん」と短く返事して、俺は寝支度に入った。
自室に入ろうとしたころにはすでにリビングの明かりは消されていた。母は眠ってしまったらしい。俺もベッドに直行___とはいかず、そのまま勉強机の椅子に座った。
今日一日を整理しよう。
まず、俺の身体の主導権を握ることができた。てっきり走馬灯だと思っていたが身体を動かせるのなら話は違ってくる。走馬灯であれば、日中俺の身体を動かしていた奴はまぎれもなく「俺」自身だと言えた。しかし、この場合は単純に「乗っ取られていた」という可能性が出てくる。そしてその原因は何一つ分かっていない。
もう一つは、ポケダン世界のことだ。
コスケのあの言葉をきっかけに、俺はポケダン世界での思い出を取り戻すことができた。しかし、現状として俺は現実世界に戻ってきてしまっている。これはどういうことだろう。……最も考えられる仮説としては、あの世界での出来事はすべて俺が湖に落ちて意識を失っていた時に見た「夢」だったということ。この仮説であれば、無理なく現状を受け入れられる。受け入れられるのだが……。
______。
脳を反響するメアリーの声が、その仮説をかたくなに否定するのだ。
……結局のところ、今日一日で身体を取り戻すことができたとはいえ問題は山積みだ。わけのわからない事態が目の前に広がっている。
それでも、
_____俺は、お前に死んでほしくねぇよ……。
コスケがいる。
____ただね。お母さんもお父さんも、シンのことが本当に大事だから。
母さんと父さんがいる。
_____それに、メアリーが待っている。
「……そうだ」
手がかりがあるとすれば。
椅子から立ち上がって本棚の最下段をのぞき込む。教科書やマンガの中に埋もれるように、プラスチック製の箱があった。埃をかぶっているとまではいかないが、この調子だと開けたのはきっとずいぶん前だろう。
蓋を開け、中に入っているゲームソフトをあさる。十数個あるDSのカセット。がらがらと適当にカセットをかき回しても「それ」は見つからない。一個一個取り出して確認してみて、箱の中には存在しないことが判明した。
____捨てたとは思えない。
どこかにあるはずだ。
隣にあったDS本体を確認する。____別のソフト。
引き出しを片っ端から開け放ち、中を確認する。____文房具。
本棚の本をひとつひとつ取り出す。____埃をかぶった紙切れが数点。
「……あるはず。あるはずなんだ。」
ベッドの下も。机の奥も。覗き込んでもそれは見つからない。部屋中ひっくり返すような勢いで探していると、扉のノックの音がした。
「……何してるの?」
母だった。
気づかないうちにずいぶん大きな音を立てていたらしい。
「あのさ母さん、『ポケダン』のカセット知らない?」
「ポケダン?」
「うん。ほら、DSの」
「そんなのお母さん知らないわよ。お母さん、PS3派だし」
「まぁ、……そうだよな…」
「もう遅いんだし、明日探せばいいでしょ。まさか、今からそのゲームするつもりじゃないでしょうね?」
「うーん……」
言葉に詰まる。確かにプレイしようとは思っていたが、それは別に遊ぼうと思っていたわけでもなくて……。だからといって、「前までポケダンの世界にいたからその手がかりを探すために必要なんだ」と伝えた場合、再び母を心配させてしまうだろう。信頼していないわけではないが、話すべき時期は選ばないといけない。
「……そうだね。明日にするよ」
「そうしなさい。おやすみ」
最後に母は微笑んで、扉を閉めた。
見渡せば、部屋はすさまじい散らかり様だった。……それに気づくと同時にどっと疲れが押し寄せてくる。
少し、テンションが上がり過ぎていたのかもしれない。今日はもう寝て、明日もう一度探してみよう。
電気を常夜灯に切り替えて、大きく位置のずれたベッドを定位置に戻す。そしてそのまま床につき、俺は静かに目を閉じた。
***
再び意識が舞い戻ったとき、俺は焼けるような喉の熱さを感じていた。寝起きだからか、視界がぐらつき、ぼやけている。その真ん中に、何かある。もっと近くでしっかり見るため、這いずって対象へと近づき瞬きを繰り返す。
ピントがだんだんと合ってくるにつれ、息が荒くなる。空気が喉から漏れているような感覚。そこに尋常でない熱が発生しているが、今はそれどころではない。
「____ぁ」
_____あった。
「ポケモン不思議のダンジョン 空の探検隊」。
小さいころから何度もプレイした大好きなゲームであり、かけがえのない時を過ごした世界でもある「それ」が、目の前にあった。
思わず、目頭が熱くなる。
手に取ろう、そう思って体の違和に気づいた。
____手が動かない。どころか、指先の間隔がまるでない。視界を腕へと移すも、ぼやけていてよく見えない。
喉が熱い。業火で永遠とあぶられているような感覚がまるで離れない。息も苦しい。吸っても吸っても喉の穴から漏れ出てしまう。その穴をふさごうにも、手が動かせないのでずずり、ずずりと地面に喉を押し付ける。べっとりとしていて上手く穴を防げない。
意識ももうろうとしてきて、ただただ涙が大量に流れ落ちる。その涙が赤くにじんで、視界を真っ赤に染め上げていくころには、喉の熱さも、空気の漏れも、腕の感覚も、足の認識も、触覚も、音も、鼓動も。
ぜんぶ、ぜんぶ。なくなって、消えて、赤になる。
その
赤すら「
赤
」でなくなり、
______シンは自殺した。