第七十八話 記憶
「____だからさ、足を滑らせたんだよ」
「ほんとに、本当にそうなのね。……シンらしくない、気をつけなさいよ」
頬骨が少し出た色白の顔を軽く歪ませて、母は俺に訴えかけた。「分かったよ」と俺は苦笑する。他にも何か言いたげそうな表情を浮かべていたが、飲み込むようにしてうつむき、顔をあげたときには頬を少し緩めた。
「……無事でよかったわ、ほんとうに」
母の話を聞いたところ、俺は近くの公園にある池に落ちたところを発見されて救出されたらしい。目が覚める前に感じたあの息苦しさ、死の感覚はおそらくそれが原因で見た幻覚だろう。
しかしおかしい。なぜ、俺には落ちる前の記憶がないんだ。ショックで落ちる直前の記憶がすっぽり抜けているならまだしも、朝起きてから公園に来るまでの記憶すらまったくない。
______それに、
「心配かけて悪かったって。……今度は気を付けるから」
____俺の声で、俺の姿でしゃべっているこいつは、いったい誰なんだ?
***
その日の時点で退院が決まった。病院を出たときには夕方で、俺は母と一緒に買い物をしたのち家に帰った。
駅から徒歩10分くらいの場所にあるマンション、その8階。いつも来てたはずの場所なのに、何故か高さが気味悪い。
「遅くなってしまったわね。___もしかしたらお父さん、もう帰ってきてるかも」
「___父さんか」
相変わらず、「俺」は勝手に動いて話している。見えてる視界、におい、声を出した時の喉の震えまで自分の感覚だと分かるのに、身体の自由が一向に効かない。
俺のふりをする「こいつ」の正体を知りたいが、今の自分じゃどうしようもない。記憶も曖昧で、情報が少なすぎる。_____今は様子を見るしかなさそうだな。
「ただいま。___お父さん、いる?」
「おー、帰ってきたか」
扉を開けて照明をつけると、左奥の扉から人影が現れた。母よりも小さい身長と軽く肥満の進んだ体型。間違いない、俺の父さんだ。……って、間違いないってどういうことだ。当
たり前じゃないか。見慣れた父の顔だろう。
そんなこっちの思惑はまるで無視して、「俺」と父は会話を続ける。
「……ただいま、父さん」
「お前……心配したんだぞ、川に落ちたんだって?」
父は俺に近づいてじーっと眺めた後、ポンと肩に手をのせて、
「疲れてたのかもな。今日はゆっくり休みなさい」
「____…うん」
皴が寄り目尻の垂れた瞳を細めると、父はそのままリビングのほうへ歩いて行ってしまった。「俺」の方はというとうつむいたままで、母に背中を押されるまでその場に立ち尽くしていた。
別に珍しくない。父と俺の関係は淡泊で会話は少ない。別にお互いがお互いを嫌っているわけでもないが、これといって特段話すこともない。心配こそしただろうが、無事が分かればとりあえずそれでいい。というのが大方父の考えだろう。偽物の「俺」にその思惑が伝わっているのかは謎だが。
自室へと戻った俺は、そのまま勉強机に向かった。横に吊り下げてあるカバンからノートと教科書、そして筆箱を取り出すと、白紙のページを開いてその上にシャーペンを置いた。それから机に置いてあった教科書をパラパラとめくり出す。
___我ながら真面目すぎなような気がする。病み上がりなんだからさっさと休めばいいものを。そこまで勉強が好きなわけでもなければ、逆に学業に焦りを感じるほどの成績でもなかったはずだ。
____などと考えているうちにも「俺」の視線はノートと教科書を一定のリズムで交差し、止めることなく手を動かして文字を書き連ねている。その文字にまた妙な感覚を覚えつつも、やはりどうすることもできない俺は自分の勉強を眺めるだけだった。
***
スマホが鳴ったのは、勉強を始めてから一時間くらい経った後のことだった。
自分の意思じゃどうにもならない身体が、勉強しているのをただ眺めるだけというのは酷く退屈だった。解いてる問題について考えようにも、どうも問題文を理解するのに時間がかかる。解読に苦労してるうちに次の問題に進んでいるし、その繰り返しに疲れて何も考えずに見てるだけというのも苦痛だ。
しまいには考えを放棄しようとしたところで、ちょうどスマホが鳴ったのだ。せわしなく動かしていた手を止めて、「俺」は着信音のなる方へと体を向ける。スマホはベッドの上に無造作に置かれていた。
椅子から降り、スマホを手に取って電話に出る。
「____もしもし」
「おー、シン!お前生きてたんだな〜!」
またしても変に懐かしい声。……確かに日は開いたかもしれないが、しかしそれでもここまでの懐かしさを感じるはずのものではないはずで____
「……コスケか。いきなり電話なんかしてどうしたんだよ」
面倒くさそうな口調で答えつつも、「俺」はベッドに腰かけて背中から倒れこむ。
「そりゃあ心配したからだろ。お前、俺がお見舞いしに来ても寝てばっか。ちっとも起きやしなかったしよ」
コスケは同じクラスの友人だ。ガタイ良し、運動神経良し、コミュ力高しの人気者。おそらく頭はいいが、勉強が嫌いで成績が低くなるタイプ。教室の俺と性格こそまるっきり違うが、ある程度仲良くやってきたつもりだ。意識せずとも自然とクラスの中心になっていく彼と仲良くすることは、クラス内で安定した立ち位置となることに少なからず繋がっていた。
「にしても。あの池で足滑らすなんてよ、シンって意外にドジな奴なんだな」
「____考え事してたんだよ。」
それにしても、この「俺」の行動はまさしく俺のそれと同じだ。こっちとしては体の自由も効かないのである程度客観的な視点になってしまう。だからそれによる違和も若干感じるが、こいつの行動に俺“以外”を感じることは一度もない。
今まで「偽物」に乗っ取られたものだと思い込んでいたが、もしかしたらそれは少し違うのかもしれない。もっとこう、別の……クソ、うまくまとまってくれないな。
「いやぁ、でもさ」
「……」
「てっきり、俺ぁ、シンが彼女に振られたショックで飛び込んじまったのかと思ったぜ」
「_____なわけ」
____あたしには、シンくんが何考えてるのか……分かんないよ。
「悪かった冗談。とりあえず、はやく元気になって学校こいよな。みんな心配してるぜ」
「もう元気だよ。明日には学校に行くさ。ありがと」
____なんだ?今の。誰の声だ。聞き覚えの無いはずなのに、変に頭に響いて離れない。
向こうの「俺」に気づいている様子はない。既に電話を終えて勉強机についている。今のはこの俺にだけ聞こえてきたのだ。
幻聴だ、と一蹴すればいいはずの話。ただでさえ記憶が曖昧なんだ。そんな状態で聞こえてきた声にどこまでの信ぴょう性、影響力があろうか。とりとめもない思案の一つとして捨てればいい。いいはずなのに、なぜ。なぜここまで考える必要がある。
裏側の「自分」の葛藤を知ってか知らずか、「俺」は手を動かし続ける。手も足も出ない俺にできることと言えばせいぜい、膨大な数式を眺めて思考を押し流すくらいだった。
***
「だめっ……この、____あっ!」
両手に持ったコントローラに、拝むような形で倒れこむ。そんな母親を横目で見ながら、俺は涼しい顔でAボタンを連打した。リザルト画面をスキップするためである。
「すっかり俺の方が上手くなっちゃったね」
にまり、と笑みを向ければ母は目をひん剥き歯を食いしばる。30近く年の離れた親とは思えないほど子供っぽい悔しがり方だ。
母は大のゲーム好きである。加えて、小さい頃の俺にゲームを教えては一緒にプレイして全力で叩きのめすほど大人げない。それでもこうやってゲームを嫌いにならずここまで付き合えている分、俺も母の血を引いてゲーム好きだったということだろう。
「もう一回よ、もう一回!」
「明日は学校だし、もう寝るよ」
「___学校?学校って、体調はもう大丈夫なの?」
「うん。もうなんともないよ」
そう言って、俺はコントローラのコードを抜いて引き出しにしまってしまう。母は何か言いたげだったが、はぁ、とため息をつくだけで引き留めることはなかった。
「それじゃ。おやすみ母さん、___それと父さんも」
一連のやり取りを後ろで見ていた父にも声をかける。「おう、」と短い返事が返ってきたのを耳に入れ、俺は自室へと歩いて行った。
自室に帰るやいなやベッドに直行。掛け布団を軽く整えて床につく。手元のリモコンで照明を消し、ヘッドサイドランプを弱めにつける。布団をかぶって目をつむれば、五分と立たないうちにすー、すーと寝息を立ててしまった。今日一日色々あったし疲れていたのは分かるが、なんと早い寝つきだろう。
………あれ?
……俺はどうすればいいんだ?一日でこの状況に慣れてすっかり「俺」の行動のなすがままになっていたが、こいつが寝ても俺の意識は途切れないのか?___だとすると困ったな。これから「俺」が起きるまでの時間、8時間近くあるがどうしたものか。じっとして朝が来るのを待つしかないのか……?
……はぁ。後ろ向きに考えても仕方ない。そもそもどうしてこんな状況になってしまったのかを考えよう。
結局、今日一日過ごしてみても身体を動かすことはできなかった。俺の代わりに身体を動かし言葉を話す「こいつ」を偽物かと睨んだが、どうも偽物にしては俺にそっくりだ。身体のコントロール権を握っているのはほぼ間違いなく「俺」本人とみていい。
何かの本で読んだことがある。「心」が複製可能だとしたら。自分と全く同じ記憶、性格を持つ「心」が自分の他にもう一つあるとしたら。その二つを区別するのは「自分は自分である」という意思のみになる。
この状況は、それと同じではないだろうか。身体を動かすことのできる「こいつ」はまごうことなき「俺」自身で、今こうして考えている俺と同質の「心」。そう考えてしまえば、記憶も曖昧で身体を動かすこともできない俺は、むしろ「俺」から分裂してしまった「心」ということになってしまわないだろうか。
____いや、待て。これ以上考えてしまうのは危険か。ただでさえ今は身体もない不確かな状況なんだ。下手をすれば消滅しかねない。
____それに、この考えには若干腑に落ちない点もいくつかある。
そこまで考えたところで、俺はあることに気づいた。
____「俺」の身体が、遠い。
今までは、それこそ自分自身だった。「俺」の目が見ている視界を共有していたし、「俺」の耳が拾った音を聞いていた。それが今は、俺の寝顔はおろか身体全体まで見えてしまうくらいには距離がある。
そしてさらに気づく。
___動かせるのだ。身体はない思念体のような存在だが、自分の意思で視界を動かすことができている。
身体が寝てしまったことで、意識の束縛が解かれたのだろうか。詳しいことはよく分からないが、動けるなら好都合だ。ここではないどこかを調べていけば、今のこの状況の手がかりもつかめるかもしれない。___それに、
____あたしには、シンくんが何考えてるのか……分かんないよ。
______さっきの声の、ことも。
さて、そうと決まればまずは家の中からだ。物に触れることはできないから、やれること言えば人の話を聞くか、家の中を見て回ることぐらいだが。さっきと違って自由がある分、何か発見が………
「____」
部屋のドアをすり抜けたところで、話し声が聞こえてきた。……両親の声だ。
リビングのほうから聞こえてきたな。二人でゲームでもしてるのか。母とは違って父はそこまでゲームにのめりこむ性格ではないが、何故か母より上手い。俺に負けて悔しさが収まらない母が、父に勝負をふっかけているのかもしれないな。
「___でも、____は__」
この身体でバレることなどないのに、人の存在を感じると変に動きが慎重になってしまう。ゆっくりとリビングのドアをすり抜けて、二人の位置を確認する。
テレビは消えていて、明かりはリビングの夜間灯のみ。テーブルにグラスが二つあって、父と母は向かい合って座っていた。父はこちらに背中を向けていてその表情は見えない。対する母はうつむいて、目元で何かが光を反射して煌めいている。
これ以上近づくのを躊躇しようとしたとき、下唇を噛みしめていた母が震える声で言った。
「____それじゃあ、シンは死のうとしたっていうの…」