第七十七話 剥き出しの
冷たい。
_____………ッッ!!
何か……聞こえるな。
____……んな………して……。
なんだ?誰の声だ?どこかで聞いたことがある。それも、ずっと昔に聞いたことがあるような……。
____………シン……!……シン……!!
呼ばれてる。誰かに。
けど、答えられそうにないな。だって、ずいぶん遠い場所にいるじゃないか。
悪いけど、_____諦めてくれ。
「………くん!!……シ…く…!!」
___あれ、今度はやけに近くで…。
「______シンくん!!!」
「_____あ…」
目の前には、栗毛色のイーブイ……………メアリーがいた。
「よかった!気が付いたんだね!ほら、オレンの実」
はい、と口にオレンの実を入れられ、抵抗することもなく噛んで飲み込んだ。たちまち冷え切っていた身体が奥からじんわりと温かくなっていく。おぼろげだった意識も鮮明になっていき、徐々に周りが見えてきた。
……ここは____そして俺は……____
「……大丈夫?立てる?」
「あ、ああ………えっと…」
「……?どうしたの?」
首をかしげるメアリーの表情はどことなく落ち着かない。焦っているのか瞳が揺れている。
それに、周りのこの状況。異常な湿気と熱気。巻き起こる轟音。そして身体に打ち付けるような豪雨。………異常だ。
いったい、どうゆう……。
メアリーに手助けされつつ身体を起こす。そのまま立ち上がろうとして下を向く。
____地面が、赤く濡れている。
ぬめりとした。右手だ。体を起こそうと地面を押さえたとき何かに触れたのか。
確認した。
____血が、滴っていた。
「………こ、これは…」
あたりを見渡す。さっきまで自分が横たわっていた地面に血がべっとりと付着している。まだ新しい。と、いうことは……。
確かめる。血の付いていない左手で。
ゆっくりと、背中に手を伸ばした。
「______グゥゥゥォォオォオオオオオオオオオオオッッッ!!!!!」
爆ぜる。
「___痛い」
尻もちをついた。
「シンくん!!?」
そうだ。
思い出した。
「……あぐッ!!」
再度激痛が背中を襲う。
起き上がれない。
「大丈夫!?オレンの実ならまだ___」
怪物がこちらをにらんだ。
「ひっ……!!」
___覚えている。
あの咆哮に腰をくだかれた。身の毛が全部逆立って、恐怖が体中を支配した。
あのツメに背中をえぐられた。どろどろになった肉塊が、刃によって削られていく。神経の一本一本が、血管の一本一本が、千切れるたびに悲鳴を上げて血を噴き出す。
______痛い。痛い痛い痛い痛い痛い痛い_____!
覚えている__!
身体があの感覚を、痛みを、思い出して繰り返す__!
「ウグッ……ぁああっ!!!」
「シンくん!?」
逃げなければ。
捕まれば終わりだ。今度こそ殺される。
いやだ。嫌だ。
背中が燃えるように痛い。打ち付ける雨はそれをいっこうに冷やしてくれない。熱い。痛い。熱い。痛い。
でも、逃げなければ。今は、それだけを考えねば。遠く。遠くへ。怪物の声のする方から、ずっと遠くへ。
「_____しまった!!」
遠くで別の声がした。
「____う、あっ」
地響きが鳴る。足元の地面が崩れ去り、直後身体が吹き飛ばされた。衝撃波が巻き起こり、背中の傷に無数の石礫が突き刺さる。
「あぐっ__」
漏れた悲鳴は、顔から地面に突っ込んで塞がれる。何をされたか分からない。背中の傷が張り裂けたような激痛。痙攣し始めた手に必死で力を込め、顔を上げる。
「うぐぅあぁ……」
大声を出す元気もない。苦痛に呻き声をあげながら、ふらふらになりながらそれでも歩き続ける。遠くへ。怪物から、ひたすら遠くへ。
「_____!!」
誰かの声が、爆風でかき消される。聞こえない。聞こえないふりをして、震える足をしかりつける。逃げろ。それしかない。
また地響きが鳴る。ざあざあと雨がふりしきる。視界が雨と血で濁り、目から涙が流れて止まらない。
どうして____。どうして、こうなった。
傷つきたくない。傷けられたくない。痛いのは嫌だ。壊されるのは嫌だ。そうならないためだけに、頑張ってきたはずなのに。なんで。……なんで。
「____イブゼル!!!」
甲高い怒鳴り声。後ろから聞こえたが振り返らない。後ろには怪物がいる。目指すべきは____。
「____ッ!!」
風切り音をともなって何かが飛んできた、と思うや否や「それ」は地面に激突して土煙をあげた。発生する余波を弱り切った足でなんとか耐えきり、よろよろと煙のほうに近づく。
いつのまにか、雨は止んでいた。
砂が目に入るのを手で抑えながら、その中心を見れば____
_____泥と血にまみれたブイゼルが横たわっていた。
「……い、…イブゼル?」
「……くッ……てめ…シン…か…?」
かろうじて、息を漏らしながらイブゼルは答えた。
「……よ、よかった……生きて…」
「ふ、………け…な…」
「……___え?」
「____ふざけんな!!___…げふっ!!」
絞り出すような声でイブゼルはがなり立てた。血反吐を吐く彼に胸倉を掴まれる。
「うっ……!」
「てめぇ……っ!……いつまで、そんなツラしてるつもりだぁ!?あぁ!?」
「や、やめろイブゼル……そんな大声を出したら、き、傷が……」
「_____ッッ!___偽善もたいがいにしろよっ!!」
全身の毛を逆立たせてイブゼルは叫んだ。
「___げふッ、…てめぇ、……はぁっ…、メアリーちゃんは、こんな……やつを…」
「____」
「……お、前……みたいなやつを……メアリーちゃんは……」
「イブゼル……それ以上は……」
「メアリーちゃんは!!……げふっ、……それでも、信じて_____」
途中で彼は言いよどんだ。血の色に染まった目が見開かれ、眼の奥で光が燻る。一瞬歯噛みし首を振ると、
「_____伏せろ!!!」
____背後の熱気、異に照らされた彼の相貌を確認する間もなく、爆風に意識を刈り取られた。
***
「____ぁ」
覚醒のきっかけは、業火による熱気でも、怪物の一撃による破壊音でもなく、ひやりと冷たい感覚だった。首筋に感じたそれを手でなぞる。ぴちゃりと、水滴が手に跳ねた。背中にうずく傷の痛みをこらえながら、ゆっくりと身体を起こす。
「____い、」
____灰のような色をしたイブゼルが、水に濡れ立ちつくしていた。
「うわぁっ!!」
思わず後ずさりをすると、支えを失った彼の身体はいとも簡単に崩れ落ちた。
「あ、ぁ、あぁ……」
周囲には点々と炎が燃えさかっていた。熱気が、背中の傷を焦がす。
びしょ濡れになった自分の身体には、ほとんど火傷の跡は見られない。理由は分かりきっている。
……どうして。どうして、どうして。
こいつは、イブゼルは、こんなことをするやつじゃない。知っている。自分勝手で、「俺」とは相容れない関係のはずだ。なのに、なんで。
もう、うんざりだ。考えるのも、痛いのも。
逃げよう。遠くへ。彼のことも忘れるくらい遠くへ。___そうしないと。
____おかしくなる。__頭が、割れそうなくらいに痛いんだ。
走った。地面を踏むたびに骨がひび割れるように痛む。けど、気にしちゃいられない。
「グゥォォォオオオオオオオ!!!」
反響する怪物の声はいっこうに小さくならない。しかし、俺には見えていた。
____出口だ。
揺れる地面。霞む視界。震える脳の中でも、「それ」がはっきり確認できた。あそこまで言ってしまえば、終わり。
「やった………っ」
地面がひび割れ、炎が散る。咆哮が飛んで、星が弾け、衝撃波に飲まれそうになる。
____気にしない。振り向かない。
「_____グゥオオオオオオオオオアァアアアアア!!!」
崩れ去る。足が飲まれそうになるのを堪えて地を駆ける。怪物が追ってくる気配はない。衝撃も地割れもあくまで余波で、こちらのことは気にも止めていない。
_____その理由に気づかない。考えない。
「_____ッッ!!」
考えてしまえばきっと。振り向いてしまえばきっと。
「____はぁっ……はぁッ…」
荒れ狂う揺れのリズムは、やがて一定となる。怪物が暴れるのを止めたのか。脳を揺らしていた咆哮がぴたりと止んだ。つまり、障害はなくなった。出口はもうすぐそこだ。
「_____」
足に力が入らない。頭の中が真っ白になる。
「_____」
ゆっくりと、こちらに近づいてくる。踏みしめるたびに揺れる地面の感覚、足先から頭の上まで駆け上る感情。距離を詰められている。……逃げないと、殺される。
______メアリーは、どうなった?
___考えている場合じゃない。逃げないと殺される。四肢を引き裂かれるだろう。灰になるまで焼き焦がされる。……イブゼルのように。想像を絶する苦痛に襲われるぞ、死ぬんだ。
____それなのに。一刻も早く、この場から立ち去りたいのに。
イブゼルの、あの表情が離れない。逃げる心を後ろから掴んで離さない。
「____ハッ……ハッ…」
呼吸が荒くなる。気配がすぐ後ろにまで迫っているのが全身で感じられる。
出口はすぐそこだ。あの巨体では入れない。飛び込めばいい。
「_____くそ、」
それ、でも。
_____メアリーの笑顔を、頭から消せない。
_____メアリーの声を、頭から消せない。
死への恐怖も、痛みへの拒絶も、凌駕して震える。
一片のノイズだったそれは、たちまちに膨れ上がって反響する。知ることを恐れていたはずなのに、気づけば知らないことに慄いている。
熱されていた頭の中が、急速な勢いで冷たくなっていた。狂わせてフル稼働していた心臓が、余裕を取り戻し始めていた。脳が、再理解しようとしている。
手放しで認めた感情を、精査せず解放した衝動を、理解してしまう。
_____彼女との記憶が、逃避を許さない。
「_____あぁ……」
______「君で、最後だよ」
耳元の囁き。
振り返れば目に映るのは、血に濡れた巨大なツメ。
____そして、栗毛色。
***
_____暗い。
冷たい感覚が、首を、足を、身体全体を捉えている。
ここは、どこだ。俺は今どうなってるんだ。四肢がどこにも落ち着かない。ゆらゆらとずっと漂っている。目を開けても何も見えない。暗闇が続いている。
「_____」
記憶がおぼろげだ。
さっきまで、自分は何をしていたのだろうか。
「____ごぼっ!?___うっ」
大量の水が口の中に入り込む。意識の霧が取り除かれ、脳が覚醒する。___
ここは、、、水中……。
気づくと同時に大量の水が体内に迫りくる。息が苦しい。手足を必死に動かしても何も掴めない。____苦しい。このままじゃ、このままでは。____死ぬ。ふたたび。あの時のように。脳が侵食され。手足の神経がおぼれて死んでいく。肺に水がたまり。心臓が重くなって止まり。水圧で皮膚が膨れ上がり。押しつぶされた眼球が液体とまじり。視界が消え。意識が闇に落ち。
_____死、
ぬ
***
_____シン……シン……
「……シンッ!!!」
呼ぶ声が聞こえる。
_____聞いたことがある。それも、ずいぶん前の懐かしい声だ。
「____、___」
重い瞼を開ければ、そこには暗闇ではなく白い天井があった。何もない真っ白な空間の中で何かが激しく揺れている。視界がだんだんと鮮明になっていくにつれ、それが人間の髪の毛と顔であることが分かり、意識が開花していくにつれ、その人物の輪郭が定まった。
「________かあ、さん」
___忘れるはずのない、母親の泣き顔だった。