第七十五話 火蓋
その怪物が進むたびに俺達は並んで後ずさる。
メアリーの毛は逆立ち、チコの頭についている葉はピンと垂直に立っている。二股に分かれたイブゼルの尻尾も、メアリーほどではないが空を刺すようだ。
一歩、怪物が地を踏みしめる。足元が揺れ、心臓が跳ねる。全身をめぐる血液がまるで沸騰したかのように騒がしく暴れたてた。
左を見る。メアリーと目があった。逆立つ毛が湿気と汗で少し垂れていた。瞳が揺れ、唇を迷わせている。
もう一度前に向き直った。前進を止めたグラードンは静かに、それでいていつ爆発せんとも分からない覇気を纏って立ちふさがっている。異常な熱気のせいか、その周囲は異に歪んで見えた。
頭が回らない。猛烈に沸き上がってくる感情に埋め尽くされ、脳が理解を拒否し始める。
この……化け物は……この……場所は……。
それでも身体は認め始める。全身の毛が立ち、膝が震えだした。肺に空気を取り込むことすら忘れ、喉は無意味に吸っては吐くを繰り返す。
知っていたはず。分かっていたはず。けれど、これは………。
「ソーラービーム!!!」
閃光。そして爆発。怪物の体に光が爆ぜ、土煙をあげて見えなくなる。
メアリーの奥にいた少女は、残光を葉に乗せて叫んだ。
「なにボケッとつっ立ってんのよあんた達!!前を見なさい!こいつが……」
「グゥアオオオオオオァォオオオ!!!!」
言葉を咆哮にかき消され、チコは再びグラードンを睨む。
瞬間。彼女のいた地面が抉れ、たと思うやいなや轟音を挙げて岩つぶてが散り飛んだ。
メアリーが悲鳴を上げる。
「チコ!!」
「だから、見るのはこっちじゃないでしょ!!」
衝撃波の方向とはずれた位置。チコはすでにソーラービームの構えに入っていた。強気な姿勢こそ崩れていないが、その顔には汗が浮かんでいた。
___見えなかった。
無残に抉れた地面に、個体とも液体ともいえないような物体がへばりついてる。茶色いそれが、泥であることを理解し、怪物が何をしたのかを理解した。
……マッドショット。
泥を勢いよく射出して攻撃する技。本家のポケモンでも、ポケダンのゲームにおいてもそこまでの威力はなく警戒されるような技でもない。そんなレベルの技。それなのにこの破壊力。技を知っているほど理解してしまう。
この怪物が、自分よりもはるかに上の存在であることを。
閃光が弾ける。チコが第二波を発射した。空を切り裂くような音を立てて放たれた極太の光線。赤黒い装甲をまとった怪物は、巨大なツメでそれを薙ぎ払い、その図体からは想像できないスピードでチコへと接近する。
「……ッ!?」
チコは強い。間違いなく、俺たちの中では頭一つ飛びぬけるレベルの実力の持ち主。俺には目を追いつかせることで精一杯な怪物の動き。その軌道を瞬時に捉え前足を蹴って後方へ。引き裂くはずの彼女がいた空間を空振りし、鋼のツメは勢いそのまま地面を抉った。はじけ飛ぶ岩や砂を蔓で叩き落し、チコの頭上に再び光が集まり始まる。
「この距離なら……!!」
地面にツメを突き刺した姿勢から、グラードンはゆっくりと体を起こし始める。その背後で光球がまばゆく輝き、チコの頭上の光とせめぎあう。対峙する二つの太陽。大小二つの影の間を飛び交う有象無象の黒い塵。小さい影の頭上、輝きを増して光が散り飛んだ。
「くらえ!ソーラー……___」
「___危ない!!!」
光線はあらぬ方向へ飛び、天井を削って岩を降らせた。一部が怪物の頭に落下するも音を立てて塵になる。その皮膚には、依然として傷一つ付いていない。装甲の奥で赤いまなざしが鋭く光る。眼光はがれきの中の小動物を射抜いていた。泥にまみれつつも力なく立ち上がるそのポケモン。チコのそばに、メアリーが駆け寄った。
「大丈夫!?」
「……おかげさまで…少し、かすっただけよ」
オレンの実をかじり、表情を少しやわらげてチコは言った。メアリーの顔は青ざめていたが、その言葉を受けて小さく息をついた。チコのことを気遣いながらも、耳をピンと立てて怪物をにらむ。怪物の口元からは、泥が垂れていた。
岩つぶての裏から現れた高速のマッドショット。気づけたのは、その発射を読んでいたメアリーのみだった。とっさのスピードスターが泥の弾丸の軌道をそらし、チコは直撃を免れた。
またしても、俺は見ているだけだった。
怪物は、さっきまでの荒々しさが嘘のように静止して動かない。じっと、がれきの中のチコ達をにらんでいる。こちらのことなど、まるで眼中にない。
だから、背後から迫る水球に怪物は____
「イブゼル!!」
高速で振り返り、巨大なツメで切り裂いた。水球が弾け、水しぶきが飛ぶ。
「チッ!!」
すぐさま発射される茶色い弾丸。イブゼルは水をまとった高速移動でそれをかわす。アクアジェットは、並みのポケモンでは目視すら難しいスピードで移動できる。突進攻撃としての使い道の他に、イブゼルのように回避として使うことも可能だ。
欠点は、直線移動であること。
軌道さえ読めていれば、そう、このように着地地点に攻撃を……
「ソーラービーム!!」
イブゼルを狙うツメに、極太の光線が直撃する。怪物の腕は目的をとらえることなく下に逸れ、発生した衝撃波がイブゼルを吹き飛ばした。怪物は光線の発射地点に再び向き直り、地を蹴って駆けだす。高速でチコ達に接近するが、その展開は先と同じ。メアリーとチコは別々の方向に飛び、スピードスターとマジカルリーフを怪物めがけて打ち込んだ。直撃し、爆発して煙があがる。一瞬怪物は動きを止めるが、狙いを定め再び動き出す。
直後、青白い光が怪物の背中で爆ぜた。
水の波動。イブゼルが放ったものだ。
怪物の背中の装甲にはやはり傷はついていない。怪物は歩みを止め、振り返ると同時にマッドショットを撃ち放った。しかし今回は距離もある。イブゼルは後方に飛んで弾丸をかわした。
なんとか戦えている。……というよりは攻撃を回避することはできている。彼女たちが仕掛けた攻撃の効果は見られないが、動きを止めることはできている。……だが、それまでだ。このままではジリ貧。スタミナが切れれば追い詰められるのは目に見えている。
チコとメアリーが攻撃。反応した怪物が彼女たちに接近するも、背後からイブゼルに攻撃されて動きを止める。イブゼルのほうに注意を向ければ、再びチコとメアリーの攻撃が待っている。それの繰り返し。それでも傷一つつかない怪物の装甲。終わりの見えないやり取り。
その中に、俺はいない。
チコが最初のソーラービームを放ってから今までの間、一歩たりとも俺は動かなかった。いや、動けなかった。息つく間もないような攻防。つけ入る隙がなかったから、などと言い訳しようと思えばできるかもしれない。だが現在、グラードンは三匹の対応につきっきりで俺には目もくれていない。グラードンだけじゃない。目の前で繰り広げられる攻撃の応酬に参加するチコ達も、立ち尽くす俺を見てすらいない。
役者の意識から外れるとき。これまでもあった。それを利用して危機を乗り越えたこともあった。イブゼルのときも、スリープのときもそうだった。今と同じ状況だった。
なら、何故できないのか。
地面タイプのグラードンに、電気タイプの自分が不意打ちで攻撃しても意味がないから?イブゼルの時のように、不意打ちを回避される可能性があるから?間違えてメアリー達に被弾してしまうから?
違う。どれも違う。そんな理性的な理由じゃない。
怖いのだ。ただひたすら。鋭い爪、凶悪な相貌、近づけば八つ裂きにされてしまいそうな豪気に圧倒されているのだ。
膝が笑っている。汗が噴き出て止まらない。手の先まで震えが止まらない。
誰もそんな自分に気づいていない。このまま震えていれば気づかれない。
このまま止まっていれば。動かずじっとしていれば。気づかれない。襲われない。傷つけられることもない。
このままではいけない。知っている。
いずれメアリー達はやられてしまう。知っている。
状況理解。脳内の納得。それらすべてを膨れ上がる恐怖が破壊する。
怖い。だめだ。怖い。このままじゃ。怖い_____
「ぅ、う、うぉおおおおおお!!!!!」
残された手段は、叫ぶことだった。
こころを支配しようとする感情を、声で吹き飛ばすことだった。
震える足に怒号を飛ばし、揺れる目で怪物をにらむ。電気ショックも、アイアンテールもおそらく通らない。せめて、やつの注意だけでも……___
――――もう、いいかな。
怪物は、相変わらずこちらを見ることはなかった。
「____ッ!!」
泥がはじけ飛ぶ。岩つぶてと砂煙が巻き起こる。
ところどころ、赤く。声にならない悲鳴が、反響する。
「_____チコッ!!!」
赤いしぶきを散らしたチコリータが、鈍い音を立てて落ち崩れた。