第七十三話 : 夜の光
久しぶりの再会に心が安堵したのは束の間、彼女から出た提案に俺は呆気にとられた。
「待て。ただでさえ番人がいる場所は難易度が高いんだ。そのうえに、さらに厳しい条件をつける理由がどこに……」
「メアリーよ」
若草色をした小柄なポケモン。俺よりも一、二回りも小さいそのポケモンは堂々たる態度で言った。躊躇することなく出たその言葉に俺はたまらず周りを確認する。
メアリー。
無理難題とも言える条件を付加するに値するメリット。それがメアリーだと彼女は言ったのか。
「ずいぶんと警戒してるのね」
「させたのはお前だろ。……それよりも__」
次ぐ言葉がスムーズに出てこない。
周囲を気にしたからではない。接触の場所として選んだこの森。さっきはついいつもの癖がでたが、実際その心配はほとんどないのだ。俺たちが囲む焚火の明かりのすぐ近くを真っ暗な闇が囲っている。草木を揺らす風の音もない。数少ない生き物の気配、正気を失ったポケモンたちは道中で黙らせた。この会話を聞くポケモンは自分たちの他にはいない。
言葉が出てこないのは別の理由からだった。
「彼女は……今…。いや、今の彼女が俺たちと会っても何もいいことはないだろう?」
少なくともこの時期ではない。メアリーもチコと同じ様な境遇であれば話は早かったかもしれないが、状況はさらに複雑だ。チコはともかく、自分がおいそれと接触できるものではない。それに…
「お前の言っていた、あのピカチュウ……奴の素性も割れてない。聞いた話、ぶつかって負けるとは思えないが俺が会わない方がいいのは確かだ」
彼女から聞かされたピカチュウの存在。明らかな異分子であるその存在に気づいてから、チコはこれまで最大の警戒を彼に置いていた。今のところは目立った動きは見せておらず戦闘力も高くない。だが彼の立ち位置は見逃せない、それが彼女の意見だったのだ。彼の前で下手な動きを見せるわけにはいかない。ましてや、今この大陸全土で指名手配されている俺とメアリーの繋がりを悟られるわけにはいかないはずだ。たとえそれが、一方的なものであったとしても。
「……そいつを警戒してるからこそ、よ」
「は?」
チコの思わせぶりな言葉に眉をひそめる。警戒しているからこそ、俺と接触させるというのはどういうことだ。
「まさかチコ……お前…」
「……もしあなたが、__あれを考えてるのだとしたら、それは要らぬ心配よ。まだ、そうするだけの確証はない」
「___……そのほうがいい。だが、だとしたら俺と奴を接触させる理由がどこにある?不利にしか働かないと思うが……」
一瞬脳裏をかすめた考えを、チコは首を横に振って否定した。その様子を見て安堵と同時に疑問が再浮上する。つまりは、彼女のあいまいな回答に立ち戻っただけで、俺とピカチュウが接触することの利点は思いつかない。
「勘違いしないでほしいんだけど、あなたが会うのはあのピカチュウではなくてメアリーよ」
「それは分かっている。……問題なのは、メアリーと俺の関係を奴に悟られることだろう?」
霧の湖に行く遠征、そこでメアリーとタッグを組むのはおそらくあのピカチュウだろう。メアリーと会えば当然、奴にも気づかれる。
だが、チコは鋭い光の差した瞳を揺らすことなく言ってのけた。
「……大丈夫。そのためにあたしがいるのだから」
***
体中に張り付くような熱気と湿気に煩わされながら、あの日の会話を思い出していた。
___あと一歩。あと一歩だった。
あと一歩で、彼女と、メアリーと話すことができたというのに。ピカチュウに阻止されてしまった。奴は俺たちの計画に気づいていたのか。それともたまたまあの瞬間に追いついただけなのか。そもそも、あの場で俺は「逃げ」を選ぶべきだったのか。ピカチュウの隣にいたポケモン、おそらくはブイゼル、あのポケモンが敵だったとしても、チコと組めば力づくであの場は制圧できたのではないだろうか。……いや、それをしたところで何の意味が……。……結局、考えるだけ無駄か。
「ブルゥアッッ!!!」
「!!」
視界の端の殺気。とっさに体を右によじり、腕を回転の勢いそのままに差し出す。土を巻き上げ風をうならせる薄紫の砲弾が、すぐ目の前に来ていた。その顔面に右腕を当てて押し、反作用で錐もみのように回転を加速させる。突進の勢いは止まらない。直後に聞こえてくる衝撃音。振り返ってみればそこには、岩の破片をあちこちに散らばらせながら目を回すグランブルがいた。
その様子からして動き出す気配はない。ふ、と一息つくと同時に周囲を見渡す。視界の範囲にポケモンはいないが気配はある。しかし、こちらの動きを警戒しているのかいっこうに姿は見せてこない。あのグランブルだけが早とちりしたということになる。
不思議のダンジョンの影響で気が狂ってしまったポケモンは、こちらを見るなり攻撃してくるものがほとんどだ。縄張り意識が異常に高くなった結果目に見えるポケモンがすべて敵に見えるから、などと言われているが所詮は推測どまりである。ただ、生物としての本能があのポケモン達にも残っているとすれば、あの潜伏行動の理由はおそらく_____
「……誰か…俺やチコ達以外にここに来ている奴がいるな…」
そうつぶやいた言葉の先に考えが至る。
べっとりと額に流れる大量の汗をぬぐう。もう一度辺りを見回せば、岩から噴き出す蒸気、その警戒の眼差しが肌を刺した。
***
最初に異変に気付いたのはメアリーだった。
ガルーラ像のスポットを離れて頂上を目指し始めてから、一時間は経っただろうか。べたつく湿気やごつごつとした上にヤケに熱い足場、あちらこちらに広がる水路に邪魔されつつも、俺たちは順調に上へと登りつつあった。途中までは二人でもなんとかやってこれたので、四人揃えば道中のポケモン達に手こずることはない。それは進む前から思っていたことではあったが、探索が順調な理由はそこではなかった。
____奥地へ進んでから、今までほとんど戦闘を経験していないのだ。
周りにポケモン達がいないわけではない。気配はあちらこちらにあるし、視線も感じる。そしてその視線が別に好意的なわけでもない。純然たる敵意だ。
しかし、そこまでなのである。
警戒こそしていても飛び掛かってくるようなポケモンはごくわずか。だからほとんど戦わずにここまでやってきたのだ。既に階段らしきものも六つ登っている。俺の記憶が正しければ、あと一階層ほどで頂上に着くだろう。目指すべき遠征のゴールまでこのまま辿り着く。
しかし、「運がいい」と現状を手放しに喜べない理由があった。俺たちよりも先に奥地へ進んだと思われるポケモンの存在があったからだ。イブゼルに何もさせずに逃げ切るあのスピード。種族こそ分からないがおそらく戦えば相当手ごわい相手となるだろう。そんなポケモンが先にここを通っている。そして今、狂ったポケモン達がこちらに襲い掛かることなく様子をうかがっている。二つの状況から合わせて考えれば………
「あのポケモンが……ここで暴れた後ってこと…なのか?」
「……そんな乱暴そうなポケモンには見えなかったけど…」
「出くわして早々逃げ出すような奴だしな。腰抜けには違いねぇ」
もちろん推測の域を出ない話ではある。あのポケモンはそもそも俺たちの敵ではない可能性すらある。しかしあの時の逃走は、開けた場所で四人まとめて相手にするのを避ける狙いがあったからだと考えることもできるのだ。あのポケモンの素性が割れていない以上、ひとまずは敵と仮定して警戒するに越したことはない。俺たちの考えは自然とその方向にまとまっていた。
狂ったポケモン以外を警戒するにあたり、最も注意すべきは奇襲だった。あのスピードで不意打ちを仕掛けられれば、何もできずに全滅する可能性すら否めない。そこで、視界ではカバーできない範囲の警戒をメアリーが担うことになった。長い耳を使った索敵は、ツノ山の活躍以降十分な信頼性があったからだ。ただ、彼女にはひとつだけ懸念があった。
「濃霧の森じゃ全然聞こえなくて……」
森の中に入ってから、彼女の耳はひどく調子が悪いようだった。霧の範囲外のポケモンを索敵することはおろか、近くではぐれた俺たちを探し当てることすらままならなかった。俺たちと同じで見えてる範囲の音しか拾うことができなかったらしい。
「あの霧はどうも、自然由来のものじゃあなさそうだしな……」
濃霧の森の異常なほどに深い霧は、実際のところは霧の湖にたどり着かせないための仕掛けであった。つまり、誰か別のポケモンの手がかかった霧であり普通の霧とは性質が違う。視覚はおろか、五感すべての間隔を邪魔するような霧であってもおかしくはない。
「でも、霧が晴れてからは大丈夫なんでしょ?」
「……まあ、そうなんだけど」
「じゃあ大丈夫よ」
自信なさげなメアリーをチコが励ます。確定的な根拠などない「大丈夫」だが、メアリーは目を閉じて頷いた。
「……分かった。頑張る」
それから、彼女が異変に眉をひそめたのは今が初めてだった。
「メアリー、どうしたの?」
隣にいる彼女の様子に気づいたチコが足を止める。それを見て、俺とイブゼルも立ち止まった。
「……上のほう…多分頂上で…誰かが戦ってる…」
***
いやな予感が、ほぼ的中したと思っていい。
静かすぎる頂上。
その奥、熱水の洞窟の外からは青白い光が漏れていた。停滞していた湿気が、光とともに流れてくる風によって取り払われていく。ひやりと少し冷たい風。出てみれば辺りはすっかり夜になっていた。
青と黒が混ざったような濁った夜空。その向こう側で輝いている月も、その手前で瞬いていたはずの小さな星たちも、しんとして何もない。それでも、あの死んだ空と同じであらずにいられたのは。まだ真の暗闇にまでその夜空が堕ちていないのは。
暗い夜空の中心で、青白いともしびが一つだけ輝いていたからだ。
神秘的で暖かな光が命を刻んでいたからだ。
そして、この世界の核ともいえるその光は、今、背後から一匹のポケモンを照らしていた。
黄銅色の頭と額にある赤い宝石。二本伸びた灰色の尻尾の先がギザギザと三つに分かれている。全体に暗く影が落ちていて細部まではよく見えないが、俺の認識が正しければおそらくあのポケモンは……ユクシーだろう。
柔らかなあの光の作る影は光の印象とは相違って冷たく暗いものだった。その影の下にユクシーはいた。
_____こと切れたように。
__落とした影の背後に立つそいつは____凛々しい顔を異に歪め、
「やぁっと、ここまで来たというわけ……かなぁ?」
凶笑を、光と影に割り込ませていた。