第五十八話:感情の行方
その言葉を言われたのは、二回目だった。
小さい頃は、明るい少年だった。何にだって興味があって、楽しいことが大好きだった。毎日夕方になるまで友達と外で遊んで、帰ってきたら美味しいご飯が待っていた。家族と話しながら食べるその夕食は、とてもおいしくて、気持ちよかった。
どっちかというとドジな方で、友達や先生の前ではおどけたりする方だった。もちろんこれも、素の自分だったと思う。
怒られるのが怖かった。忘れ物をよくして、その度に母に激怒された。泣き虫な自分は、よく泣いたし、よく叫んだ。まるで、自分の心の中にある大事な宝石を、ハンマーで叩き割られるかのような喪失感を感じていた。その頃はよく分からなかったが、おそらく、自分が傷つくことに対する異様な恐怖がそこにあった。
小学校高学年にあがると、友達がだんだん悪びれるようになった。校舎の畑に落とし穴を掘り、先生を落としてやろうなどと考えるやつも出てきた。友達に計画を話されて、不覚にもワクワクした自分は、その計画に参加することになった。
昼休み、スコップを持ちよって友達と一緒にひたすら穴を掘り続けた。友達はゲラゲラ笑っていた。だが自分は、掘りはじめてすぐ、笑えなくなった。自分はひたすら考えていた。先生に見つかり、怒られる可能性についてずっと考えてい た。先生からの攻撃に恐怖した。自分の中の何かが、崩壊しそうな気がしたのだ。
だから、俺は密告した。トイレと偽り先生に会い、友達の非行を通報した。先生に激怒され、泣きわめいた友達は、自分のことを共犯だと訴えたが、先生は信じなかった。自分も、それを肯定しなかった。「無理やり協力させられていた、可哀想な被害者」になりきった。第三者達は、皆それを信じた。
中学生になると、不良が増えた。
静かで寡黙な友達が、不良に絡まれ、いじめられる姿を何度も見た。明るいが、場の空気が読めない友達も、いじめられた。
いじめられるのが、異常なほどに怖かった。自分が傷つくのが、ひどく恐ろしかった。
だから自分は、「都合のいい人」を目指した。不良とは基本関わらない。それでもなお相手側がしつこく絡んできたときには、優しく対応する。この時、決して明るい表情を見せなかった。不良が期待しているのは、彼らの威圧感に怯え、いいなりになる自分の表情である。明るい表情は、奴等の期待にはない。なので、顔をひきつらせ、困りつつも従うしかない表情をつくった。それで、彼らは満足そうだった。
ついに自分は、いじめられることなく中学生活を終えた。
それからというもの、自分は色々な人になりきった。高校の新学期には、明るく社交的な人物になりきった。クラスの支配的立場の人間が他にいれば、その人間に迎合する、ノリのいい人になりきった。
クラスや社会で成功している人の人格はとことん真似た。その人間の素振りや外見はもちろんだが、注意したのは内面だった。といっても、他人の深層心理までは分からないので、真似のしようがない。気にしたのは、行動に表面化されし思考だった。つまり、表向きの考え方だ。この考え方は、聞けば大体話してくれた。話さない人に対しては、その行動から出来る限り読み取れるよう努力した。そのかいあって、意図した場面でその人々に自由になりきることができた。
高校に入って半年も過ぎる頃には、学校で自分を低評価するものは、自分の知る限りいなかった。自分のことを、「いじり」目的でけなすものはいたが、本気で悪口を言うものはいなかった。陰口を言うものも、多分いなかった。先生に怒られることもなかった。忘却癖は治らなかったが、ものをなくしたときは、新しいのを買ったり、話をひたすらそらすことで、母の怒りをまぬがれた。進学校に入学して、気をよくした以降、今まで、母はついに、自分を怒らなかった。
周りはとうとう平穏になった。攻撃されることは、ほぼなくなった。それにも関わらず、見えざる外の脅威に対する震えは止まらなかった。いつスキを見せることもないように、自分の人格をガードした。黒いものが込み上げてくるのを恐れて、必死に思考を取り繕った。どんなときにでも何かしらになりきった。素を見せることなど一切なかった。自分の持つこの恐怖を、他人に相談することなどまずなかった。
「キャラ作り」は、ますます上手くなった。自分の意識できる範囲内では、考え方も、感情も、すっかり求めたキャラに同化させることができた。周りの人間は、自分のキャラ達を信じて疑わなかった。
そんなとき、彼女ができた。同じクラスの、明るい女の子だった。告白は相手からだった。ひょんなことから二人で夕飯を食べに行き、その帰りだった。
嬉しかったのだと思う。その時、自分はクラスの中では冷静なツッコミキャラだった。告白されたとき、静かに「ありがとう」と答えた。はしゃぎはしなかった。
放課後、一緒に帰ったりした。文化祭も一緒にまわり、デートにも何度か行った。プランは彼女が作ることも多かったが、たまには自分で行き先を提案することもあった。彼女が話し、俺が相づちを返す。役割的には、それであっているはずだった。
だが、そう長くは続かなかった。会う頻度は徐々に下がり、メールはほぼなくなった。その状況に、自分から何か行動しようとは思わなかった。キャラとして、その行動が正解には思えなかったからだ。
だから彼女から、別れを告げられたときは驚いた。「自分」らしくなく、質問までした。何故か、と。自分のこの性格は間違ってなかったはずだ、これは口には出さなかったが、そう確信していた。
今でも覚えてる。彼女は、泣いていなかった。むしろ冷静で、自分の方が焦っていたくらいだった。何故だ、と聞く自分に対し、彼女は小さくこう言った。
「あたし、シンくんが何考えてるのか、全然分からないの」
はっとさせられた。
自分は、一体何を考えているのか。……意識できるその感情は、別れたくないと思う今の自分は、「キャラ」だ。素ではない。いつかからなりきってきた、冷静なツッコミキャラ。
待てよ。「素の自分」ってなんだ?いつ、素になった?いつ、素の自分で考えた?そんな記憶、とうにない。
内面まで「キャラ」になりきった自分は、すでに「素」の自分の位置に成り代わっていた。だからといって、その「キャラ」が「素の自分」である訳ではない。対等な他の「キャラ」も、「素」の自分の位置に成り代わっているからだ。
そこで俺は、思考を停止した。
今まで演じてきた「キャラ」達も、跡形もなく消えていった。
つまり、その言葉は、今まで守ってきた「自分」を、破壊する言葉だった。
そこから彼女と何を話したのか、よく覚えていない。それどころか、それからポケモンになってこの世界に来るまでの間、ほとんど固まった記憶はない。
学校には恐らく行っていた。友達とも話していた。だが、どう話していたのか、その時何を思っていたのか、全く記憶にない。
ずっと無の中にいるようで。自分かどうかも分からない何かが、その中を漂っているような感覚。
気がつけば、俺はピカチュウになっていた。
ポケダン空が好きだった。小さい頃は、何度もやった。記憶喪失の主人公と、そのパートナー。二人を支える、優しいギルドの仲間達。冒険をして、いろんな苦悩に出会って、それでもまだ立ち向かう。そんなストーリーが好きだった。ある一部を除き、出てくるキャラ全てがいいやつで、攻撃されても、すぐに誰かが癒してくれる。そんな世界が、好きだった。
だから、この世界に来たとき、守りたいと思った。シナリオを、世界観を、そのままにしておきたいと思った。もちろん、シナリオ通りに進まなければ、自分が危険な目に遭うからでもあった。しかし今、思い返してみれば、前者の理由が大きかったように思える。
シナリオを、保護するためにはどうすればいいか。自分がすべきことは、「主人公」になりきることだった。
記憶喪失で、何をすればいいか分からなかった時に出会ったパートナーと、共に歩んでいくキャラクター、それが主人公だった。臆病なパートナーを引っ張り、いつもパートナーの味方をする、それが主人公だった。
無と化していた自分の心は、「主人公」というキャラを支えとした。思考まで「主人公」のものになりきり、自分を保とうとした。この人格こそが「シン」である、と設定しようとしたのだ。何もない自分にとって、これは簡単なことのように思えた。「主人公」として、何でもやれるような気がした。
だが、そうはならなかった。スリープと戦ったとき、「主人公」らしからぬ自分が、顔を出した。痛みに悶え、恐怖し、このままじっとしていた方が傷つかないと考えた。それは、「勇気ある主人公」の人格ではなかった。
その事には一切蓋をして、俺はシナリオを進めた。だが、シナリオに外れたことが何度も起こり、焦った。シナリオが、壊されるような気がした。
リンゴの森のイベントは、当然負けようと思った。それがシナリオだからだ。そもそも勝てるわけもないのだが、万が一に備え、手を抜くつもりだった。だから、チコがリーフストームを撃ったとき、俺は戸惑った。勝てるかもしれない、と思った。そしてそれはダメなのだ、と俺は思ったのだ。いや、葛藤していたのかもしれない。少なくともあの時、俺は「わざと」電撃を緩めた。
敗北を知ったとき、それは正しい選択だと思っていた。内心ほっとした。だが、その安寧はすぐに壊れた。
「あたしには、シンくんが何考えてるのか……分かんないよ」
その言葉は、二回目だった。
俺は答えられなかった。答えようとはした。だが、なにも出てこなかった。今の自分には、「主人公」しかないはずだった。だから、「主人公」の「シン」として答えようと思った。その時、数多くの矛盾に気づいてしまったのだ。
そもそも、「主人公」なら、わざと負けたりなんてしない。
一体誰だ?負けようと考えたのは。「主人公」である自分ではなかったのか。それともなんだ?既に別のキャラが内在しているのか。そんなわけない。あれから、自分はずっと「主人公」になりきっていた。無からポケダンの世界に来て、ずっと。他のキャラが内在する余地などない。だがしかし、「主人公」らしからぬ思考が何度かあった。その思考をしたのは誰だ?分からない。…全く答えが出てこなかった。
結局、この世界に来てからも、俺は「自分」を持ってなかった。「主人公としてのシン」も、結局は互換可能なキャラのひとつで、「素の自分」ではなかった。では一体、「素の自分」とは何なのか。いやむしろ、「素の自分」などもともと存在しないのではないか。
じゃあ自分は、誰なのか。
目の前が真っ暗になって、気づけば部屋を飛び出していた。暗いギルドを進み、行く宛もなく、ここに来た。
そして今、俺の目の前には再び、メアリーがいる。
「あたし……ずっとシンくんのことを信じてなかった。あのめまいの時も、記憶喪失のことも、シンくんの言葉も、全部……」
彼女の声は、どこか遠くで聞こえてる。
「あたしは……シンくんを、信じたいの!シンくんのことをもっと知りたい。シンくんともっと話したい。シンくんと一緒に、これからもいたい!シンくんと………」
……何も思わない訳じゃない。メアリーの訴えを聞いて、心に響かない訳がない。だが、そう思う自分が、本当の自分だとも思えない。
素直にそう言うべきなのかもしれない。今までの自分の経歴をすべて晒し、何者かも分からない「これ」を示すべきかもしれない。
だが、示してどうなる。それ自体、「自分」である保証はないのに。
「………あたし、シンくんと離れたくない…。お願い……これからも一緒に………」
メアリーは顔を伏せている。泣いている。
……申し訳ないと思う。一緒にいてあげたいと思う。重い、と思う。…決めきれない、と思う。……それどころじゃない、と思う。どれが本当の感情なのか。そもそも、本当の感情はあるのか。
もう、考えるのは疲れた。
「……俺もだよ、メアリー。俺は、メアリーがいたから今ここにいてられるんだ。離れるなんて、ありえない」
メアリーにとっての「シン」であれば、それでいいじゃないか。
「…悪かった。あの時、怖くなったんだ。失敗の可能性を考えて、動けなくなったんだ。……俺のせいだ。……でも俺は、本気だった。こんなこと言っても、信じてもらえないのは当たり前だ。でも……どうか、聞いてほしい」
言葉は勝手についてきた。自分の中で、確かにそう思い、そう発言しているのが分かる。
「シン」は優しくメアリーに語りかけ、彼女の頭を撫でる。暖かい彼女の頭は、とても気持ちよくて、撫でてるこっちが、柔らかな衣に包まれているような気がした。心地がよかった。
「本当に…ごめん。メアリーに本音を言われたとき、黙って逃げてごめん。…もうしない。ちゃんと話す。……俺も、メアリーと一緒にいたいから」
「…うん、…うん。……あたしも……」
メアリーは、うなずいた。泣きながら、顔をあげてこっちを見た。
どきり、とした。涙によって濡れ、毛が、不規則に垂れていたが、彼女は笑っていた。
その笑みは、とても美しかった。
頼む。そんな顔で見ないでくれ。
俺は「シン」だ。「主人公」なんだ。優しく、パートナーであるメアリーを受け入れ、支えるキャラクターなのだ。なのに何故だ。この気持ちはなんなんだ。誰なのかも分からないのに、「そいつ」は俺をひどく責め立てる。
俺は、もう一度メアリーを撫でた。すがるように、彼女を撫でた。彼女はさらにはにかんで、涙まみれの美しい顔をほころばせる。
そうだ、彼女と一緒に歩んでいけばいい。彼女と共に冒険をし、彼女と共に苦難を乗り越え、彼女と共に笑えばいい。なぜなら俺は、シンなのだから。
俺は微笑んだ。暖かい気持ちが込み上げてきた。あぁ、それでいい。……それがいい。
だから、また俺は嘘をつくのか。