第五十六話:決意
「…………そんなに泣かれちゃったら、あたし、何も言えないじゃない…」
「……うぐっ…。…ひぐっ……。うぅ…。ご、ごめぇん……」
気がついたら、涙が止まらなくなっていた。
歪んだ視界の中のチコは、気のせいか、怖い目じゃなくなっていた。
頭の中がごちゃごちゃしてて、何を言えばいいか分からない。それなのに、なぜか気持ちは収まらなくて。次から次へと出てくる感情が、言葉としてかたちになることもなく、ただただ涙になって流れてく。
すると、不意に頭に柔らかい感触を感じた。ぐにゃぐにゃに歪んだチコが、優しく笑っていた。
頭にのっていたのは、チコの蔓だった。
「……そんなに泣くのなら、もう答え、決まってるじゃない」
チコの言葉が、溶け入るように聞こえてくる。混乱した頭では、それがどういう意味なのか、理解できない。
さっきみたく、恐ろしい言葉なのかもしれない。あたしは目を伏せて、頬を伝っていく涙を見つめた。
でも、チコの声は暖かだった。
「別れたくないんでしょ?……シンくんと」
「……え?」
思わず顔をあげた。チコと目が合う。チコは少し目をそらしたけど、もう一度、あたしの方を見て、はっきりと言った。
「……どうなの?」
「……う…」
重みのこもったその声に、あたしはたじろいだ。このまま目を伏せていたくなる。
……でも、駄目だ。
「……あたしは、」
答えなんて、決まってる。
「……シンくんと、……別れたく………ない」
嗚咽を抑えながら、チコを見つめて。まっすぐ、そう伝えた。声は震えていたかもしれない。呂律が回ってないかもしれない。でも、出来る限りはっきりと、自分の気持ちを伝えた。
「…………」
チコは、口を半開きにさせて、目を少し見開いた。それから、ゆっくりと口を動かす。
「……なら、すること決まってんでしょ?さっさと仲直りしてきなさい」
「え?」
気がつくと、その顔はいつもの勝ち気なチコだった。
「『え?』ってなによ。……何?シンくんと仲直りしたくないの?」
「そ、そんなことないよ!…仲直りしたい!」
「じゃあしなさいよ。いくらシンくんが優しいからって、グズグズしてると愛想つかされちゃうかもしれないわよ?」
「いや、…うん。…そうなんだけどね……」
「……じゃあ何よ」
「……だってチコ、さっきまでシンくんと別れろって言ってたし……」
今じゃまるっきりさっきと逆の立場だ。あたしは、戸惑いを隠せなかった。
チコはなんとなしにこう返した。
「あれ、冗談よ」
「え?」
涙と熱が、急に引いていく気がした。
「あぁでも言わないと、あんた、喧嘩をうやむやにしそうな気がしたから」
「そ、それは……そうだけど……」
体の力が抜ける。騙されたのか、あたしは。ていうか、他人を信じれないとか言っておきながら、チコのことはころっと信じちゃって。……なんというか。
「あたし……なんのために……泣いたんだろ」
「さぁ?」
「あのさぁ……」
抵抗の意思を表すかのように、重い顔を上げてチコをにらむ。けれど意味がなさそうだから、がくん、と肩と共に下ろした。思わずため息が漏れる。だけど、ついさっきよりは何倍もましだ。
「そもそもね」
チコが話を切り出した。あたしは顔を上げてチコを見る。
「そんなとこでいじいじしてる暇があるなら、シンくん探して謝ってこいって話なのよ」
「…………でもさ」
「なによ?」
つんけんとした返事。けれど、聞き返したその声色は、セリフとは裏腹に優しく聞こえた。チコなら……もしかしたら…。あたしは、ごくりと唾を飲み込んだ。
「……あたし、よく分からなかったの。今まで、ずっと。シンくんのことは、大切なパートナーだと思ってるし、離れたくないよ。でも、時々わからなくなるの、シンくんは何を考えているのだろうって。変な感じがするの。」
一言一言、こぼすようにあたしは言った。チコは黙って、こっちを見ている。
あたしは続けた。
「……それで、ドクローズにやられたとき、思ったの。シンくんが、本気を出してなかったんじゃないかって」
「……」
「……そんなわけない、そう思いたかった。だから最初は、ゆっくり話すつもりだったの。自分の思い過ごしだってことを、確認するために。でも、話し出すと止まらなかった。沸き上がる感情を、抑えきれなかった。気がついたら、全部言っちゃってた。シンくんへの不満、全部。………だから……」
「自分が何を言い出すか分からないから、話すのは怖い……と」
「………まぁ…うん」
首をかしげ、チコは細目であたしを見た。のびをするように、蔓で首もとをさわりながら吐息を漏らす。
「それくらいでビビってんじゃないわよ」
「え?」
チコの語気が、強まった。
「じゃあずっと、うわべだけのおしゃべりで済ますつもりなの?それじゃああんた達、進歩しないままよ」
「そ、そんな……」
「『そんな』…じゃないわよ。ていうかね、あんた、シンくんに対して思ってることは不満だけなの?違うでしょ。シンくんを信じたい。シンくんと離れたくない。シンくんを大切に思ってるその気持ちの方が強いんじゃないの?だからさっきから、めそめそ泣いてるんでしょ?違うの?」
「違わない…」
「じゃあやること決まってんでしょって。不満も全部、ぶちまけちゃいなさい。それでいて、話せばいいのよ。あんたの、シンくんに対するほんとの気持ちを」
怒濤に捲し立てたチコは、それから、ひとつ息をついてゆっくりと、腰を下ろした。
目の高さが一緒になる。
「……シンくんが何を考えているのか、その答えは、彼とちゃんと話してみないと分からないわ」
シンくんは、何を考えているのだろう。…話してみないと分からない。……当たり前だ。テレパシーが使えるわけでもないのだから。
怖かった。シンくんのことを知りたいくせに、それと同時に知るのが怖かった。だから話せなかった。
でも。
チコの言うとおりだ。
話さないとダメだ。
このままじゃダメだ。
シンくんを信じたい。今はどうしてもできないけれど、信じたい。
だから。
「……話す。あたし話すよ、シンくんと。思ってること、全部言う。それで、……シンくんに、ちゃんと……謝る」
視界がはっきりしてきた。
チコはまた、緩く笑っている。
涙はもう、流れてなかった。