第三十六話 最小限の被害
「いらっしゃいませ〜!」
店員の明るい声が聞こえる。木を基調にしたシックな雰囲気の内装とは逆に、このカフェの中は非常に賑やかだった。賑やかさの主体となっている声のトーンからして、人間界で言う高校生くらいの女子達が客層の大半を占めているようだ。
いわゆる、ガールを対象にした洒落てるカフェなのだ。男子は、かなり少ない。
だから、俺は今、すごく浮いている。
しかし、そんなことを気にしてる場合ではない。今日、ショッピングを断ってまでこのカフェに来たのは理由がある。
俺は久しぶりに、一人になりたかったのだ。一人になって、これまでの状況を整理したかった。
ということで、まずはここまでの大まかな流れをたどってみよう。
今、俺は滝壺の洞窟イベントを消化して、時の歯車と遠征のフラグは建てた。このままいけば、次はリンゴの森の負けイベントに突入することになる。
…負けイベントか。あのイベントは結構重かったりするからな。隣でメアリーに落ち込まれたとして、うまくフォローできるだろうか。ちょっと不安だな。
まあ、大まかな流れは至ってゲームと同じである。細かなズレはもはや気にすると霧がないことに気づいたので最近は無視するようにした。そうするととっても気が楽になった。特にイブゼルだって、なんやかんやでそこまでストーリーに食い込んできそうではないし。
だがしかし、やはり看過できない大きなズレもある。まず、時空の叫びが使えないこと。これには驚いた。このゲームの主人公のアイデンティティであるからだ。けど、それ自体はそこまで重要なことではなかった。なぜなら、俺はゲーム上の展開なら時空の叫びを使わずとも、すでに知っているからである。
…問題は、時空の叫びを使えないということ、それが起きた原因だ。なぜこんなズレが生じたのか。まだ何もおおそれた間違いを俺はしてないはずなのに。…今のところは情報不足で原因は分からないが。
そしてもうひとつ。あのチコリータの存在だ。
最初に会ったのはトレジャータウンだった。あのとき、チコリータ、いやチコはメアリーと友達発言をしたのである。それなのに、メアリーはまったくチコのことを覚えてすらいなかった。…これの意味が分からない。昔の友達を欠片も覚えてないということは、彼女達は、だいぶ昔に会っているということになる。チコは、メアリーとどこで会ったのか。そしてなぜ、メアリーはチコのことを覚えていないのか。
理由はよく分からないが、あのチコリータは何か重要なズレであるような気がするのだ。
まあ、今のところは何も起きてないから良いんだけど。…警戒に越したことはない。
そこまで考えて、俺は頭をふった。机に置いてあったオレンの実ジュースを、手に持ってぐい、と飲み干した。
…なんで、こんなことばかり考えてしまうんだ。チコリータ、いやチコは普通に俺達の仲間じゃないか。疑うなんて…最低だ。
…やっぱり、記憶をなくした方が良かったな。
俺は、大きなため息をついた。
記憶をなくしていれば、俺はこの世界を無邪気に楽しめたんだろうなぁ。この性格ゆえ、昔はそうでなかったのかもしれないが、どうしても細かいことに不安を感じてしまう。
俺はカップに手をやって持ち上げて、もう一度ジュースを、飲もうとした。が、さっき飲み干したので、もう中身はなかった。
…ちょっとだけ小腹がすいたな。何か食べようか。俺はテーブルに用意されたメニュー表を広げた。字は全くもって読めないが、隣に絵が添えてあるからなんとなくメニューは分かる。…オレンの実のソテーっぽいなにかと、アップルパイ、クラボパイ、モモンパイ……いや、パイばっかじゃないか。
しかし、モモンパイには何か惹かれるものがある。頼んでみようかな。今何時か分からないけど多分まだ集合までには時間があるだろうし。それに、これは勘だが、多分メアリー達も時間をあまり気にしてないだろう。
よし、頼もう。俺は、テーブルの呼び鈴を鳴らした。かわいいエプロンに身を包んだうさぎのポケモン、ミミロルが小走りでやって来た。
「どうしましたか?」
「えっと…。この、モモンパイってのをひとつ」
「モモンパイ……あ、この、桃色天使の甘いソナタですね」
その名前、名付けたやつはバカなのか。
若干引いた俺に、「かしこまいりました!」とミミロルは笑顔で頭を下げ、メモをとってまた小走りでテーブルを去っていった。忙しいな。そういえば、このカフェさらに混んできた気がしなくもない。たかをくくっていたが、実は結構お昼時なのかもしれない。
とりあえず、詳しいことはまた食べてから考えよう。これ以上考えると、頭がいたくなりそうだ。
「…食い過ぎた」
すっからかんになった財布の中を睨みながら、俺は嘆くようにそうこぼした。モモンパイが運ばれてきた後、そしてそれを口にした後、言い知れない幸福感が俺を包んだのである。
今でも口のなかに、そのほのかな甘さ、衝撃が残っている。柔らかいモモンの癒しが、パイの形で口の中に伝わり、広がった。
旨かった。噛み締めたくなるくらいに。
そこからだった。俺は次々とモモンパイを頼みまくってしまった。それだけではない。オレンパイや、オボンパイ、ありとあらゆるパイを頼みまくった。これらがまたまた超旨い。もう、手が止まらなかった。
もう昼過ぎだと気づいたのは、満足して、一息ついてからだった。そして、焦って、カウンターに急ぎ、会計を済ませようとして、また驚いたのだ。その、驚愕の値段に。
…というわけで今に至る。なんにも入ってない財布は、もう変わることはない。俺はそう諦めて、ため息つきながらバッグにしまった。人間時代、食い意地だけは張っていた。ピカチュウになってから、朝ごはんは軽く済ませ、昼飯はダンジョンで粗食、立派な食事と言えばギルドの夕食だけ…という生活を続けていく中で、すっかりピカチュウの少食に慣れてきたと思っていた。
…が、蓋を開けてしまうとこれである。あれだけあった財布を一瞬で空にするくらい食ったが、正直なところ、まだまだ食べられる。…金銭的には食べられないが。
ていうか、そんなことを考えている場合じゃない。急がねば。もう二匹とも、とっくに広場で待ってるはずだ。昼になって、いっそう溢れかえるポケモンの波を掻き分けて、俺は広場へと急いだ。
…のだが、いざ広場についてみると、二匹の姿はどこにも見えない。どういうことだ?俺は空を見上げた。太陽はとっくに真上を通りすぎている。すでに昼になっているはずで、もっと言えばもう、昼過ぎくらいなのだ。つまり、集合時間はとっくに過ぎているのである。
…もしかして、俺が遅すぎて帰ったのか?
いやいやいや。気の強そうなチコならやりかねないが、優しいメアリーはそんなことしないはずだ。…となると、あまりにショッピングに夢中すぎて、まだ帰ってきていないっていう確率の方が高いな。
仕方ないなぁ。ま、ショッピングを楽しんでくれるのは大いに結構ではあるが、さすがにこれ以上遅れるとペラオが黙ってはいないだろう。ここは、唯一の男子同行者であるこの俺が、二匹を連れて帰る責任がある。
…っていった感じで、俺はできるだけ自分の都合のいい方に思考を誘導し、状況を解釈した。結果、俺はメアリー達が向かっていったインテリア街に向かうことにしたのだった。
インテリア街を歩いていくにつれて、俺は妙にポケモン達が騒がしいのに気づいた。何か祭りでもやっているのだろうか。それにしては、ポケモン達の表情に笑顔が見えない。やっぱり、厄介事か。二匹が巻き込まれてなければいいが。そう思いながら、俺は少し歩みを早める。
歩くにつれ、だんだん騒ぎの声は大きくなっていった。ちょっと、ポケモンの群れが落ち着いてきたところで、俺はジャンプしてひょこっと顔を出してみた。すると、騒ぎの中心にいるらしき四匹のポケモンの姿がちらっと見えた。案の定、メアリーとチコは、そこにいた。
「おーーーい!!メアリー!チコー!」
ポケモン達の群れから飛び出して、俺は二匹に声をかけた。二匹の前に立ち塞がっていた紫色の大きなポケモン、スカタンクの体の後ろから、ひょこっとメアリーが、顔を出した。
「シンくん!」
メアリーはちょっとだけ不安を帯びた声で答えた。
「シン?」と、スカタンクがボソッとこぼし、こちらを振り返る。スカタンクと対峙していたらしきチコも、つられて顔を出した。よく見たら、ドガースとズバットのやつもいる。俺のことを見て衝撃を受けたのか、口を大きく開いてる。
そうか、もうこのイベントが起きるときだったな。俺は心の中で頷いた。ドガースとズバット、そしてスカタンク。彼らは後々のイベントに絡んでくる面倒くさいやつらである。最初は海岸にて、ドガースとズバットだけだったのでまだ楽だったが、スカタンクが加わってから厄介になってくる。これから起こるリンゴの森イベントでも…。いや、とりあえず今はこの状況を何とかするか。
「どうしたんだ?こんなところで」
大体分かるが、あえて聞いてみる。メアリーが答えようとしたが、それを遮るようにスカタンクが前に出てきて、言った。
「お前がシンか」
スカタンクは若干笑いを含んだ表情で俺の顔をじろりと見た。ちょっと気持ち悪いが、気にしない風に答える。
「そうだけど…俺を知っているのか?」
俺は首をこてんと曲げて、とぼけて見せた。やりすぎだったかもしれない。ピクッとスカタンクの前髪がうずいたような気もしたが、それ以上にスカタンクは笑みを深めて、
「俺の弟分達がずいぶん世話になったらしいじゃねぇか」
「弟…分?」
「「俺達のことだぜ!」」
俺が再びとぼけると、ドガースとズバットが勢いよく返事した。…名前については、ほんとに忘れたな。というか、聞いたこともないし。
「あー、あの時の」
俺は今気づいた風に相づちを打った。ドガースとズバットがいろいろわめいている気がするが気にしない。俺の注意は今、スカタンクのみに向けられていた。
…できるだけ、穏便にこの場をいなしたかった。この調子だと、恐らくスカタンクは俺とメアリーに弟分の仕返しとして攻撃してくるだろう。当然、そんなことをされては困る。こいつと戦う場は、ここではないのだ。
「弟分がなめられたとあっちゃあ、兄貴は黙ってられねぇよなぁ?」
スカタンクはぐいっと俺に顔を近づけて、その目で威圧をかけてくる。「し、シンくん…」とメアリーが小さな声で呟いたのが聞こえた。とんでもない迫力。しかし、これに負けて後ずさるわけにはいかない。
「まあ確かに、あのときはお互い色々あったな」
まずは肯定してみせる。スカタンクの表情は変わらない。俺はその淀んだ目をしっかり見据えつつ続けた。
「だが、今。あんたたちは、俺達に構ってる暇があるのか?」
「あ?」
スカタンクがさらに顔を近づけた。その距離、まさにゼロ距離。…畜生。臭い。それも、とんでもないほどに。だが、顔を歪めてはならない。あくまで、澄ました顔をしてみせるんだ。
「…気に入らねぇな。お前」
「……よく言われる」
スカタンクの睨む目付きが鋭くなる。対し俺は穏やかに睨み返す。
その状態のまま、沈黙が続いた。メアリーも、チコも、さっきまでうるさかったドガースとズバットも、音一つたてなかった。ざわざわとした町の雑踏だけが聞こえてきて、かえってその沈黙を際立たせていた。
しかし、その沈黙は突然破られた。
「うっ…!」
突然、腹に重い衝撃を感じる。腹のそこから何かがこみ上げ、思わず腹と口を手で押さえる。
腹を攻撃されたのだ、と気づくのに、数秒かかった。
後ずさりし、そのまま前のめりに倒れこむ。思った以上に、一撃が重かった。腹の痛みに内心悶えながら、俺はスカタンクをきっと睨み付ける。
スカタンクは、そんな俺の「無様」な様子を大笑いした。
「確かに、てめぇらクズに構ってる暇はねぇな。ほら、いくぞお前ら」
「へい!兄貴!」
「ははっ!いい気味だぜ」
さっきまで後ろでモゾモゾしてたドガースとズバットも、倒れる俺を見て、威張り散らし、満足そうにスカタンクの後を追っていく。俺は目でやつらを追ったが、その姿はポケモン達の群れに紛れて消えていった。
「シンくん!」
腹を押さえながら、よろよろと立ち上がる。メアリーが近づいてきて、俺を気遣った。
「大丈夫だ」
俺はメアリーにそう言った。メアリーの心配そうな表情は消えないが、少し笑って見せると、メアリーはほっと一息をついた。
俺のことを気にしながらも、メアリーはスカタンク達が消えていった方角を睨み、恨めしそうに言った。
「ほんと、ひどい逆恨みだよね…!もともと襲ってきたのは、あいつらなのに…!」
カッとなるメアリーに、俺は諭すように言った。
「怒るだけ時間の無駄だよ。相手しないのが、一番いい」
「…でも!シンくんだけが一方的に殴られて…!」
「俺だけならまだ大丈夫さ。殴られるだけで、面倒事が済んだんだし」
「だけど…」
メアリーは目を伏せ、悔しそうに下唇を噛む。これ以上何か声をかけても、メアリーは悔しくなるだけだろうか。
メアリーの様子に、どうすればいいのか分からなくなっていたところ、チコも俺のもとへ寄ってきた。
「…悪かったわね。あたしが意地張ったせいで、シンくんに迷惑かけたわ」
「チコが謝ることでもないさ。悪いのはあいつらなんだから。それに、もう終わったことだろ?」
謝るチコに、俺は膝の汚れをぱっぱ、取り払いながら答えた。
メアリーは、下を向いて黙りこくってしまった。チコも、俺から目をそらしている。
いつも明るい二匹が喋らないでいると、こうも静かになるものなのか。周りの雑踏が、さっきとはまた別の感じで耳に響く。どことなく気まずい感じがした。
「というか、ほら!もうあれだ、お昼過ぎだぞ?急がねぇと、ペラオに怒鳴られるし、早くギルドに帰らないか?」
「…それもそうだね」
「ええ、行きましょ」
元気よく声をかけたが、答える返事はすっかり気力が抜けている。そこまでショックだったのか。それとも他に原因があるのだろうか。二匹の暗いムードをなんとか切り替えさせたいが、それといった妙案も浮かばない。なので俺は、くるっと二匹に背を向けて、彼女達を引っ張るつもりで、一人で前をすたすたと歩くのだった。