5話 噂話にアンテナを張れ
はあぁ、と大きくため息。日が沈みつつある空を見上げて、僕はただただ、焦りを感じていた。
「ソルト様。そろそろ城へ戻りましょう」
トトが僕に声をかける。そう言う彼の手には、リンゴの入った小さめの木箱。肩に掛けてたカバンには幾つかの文書。察した方もいるだろうけど、彼は少し、城下町に用事があって来ていた。具体的には、書類を渡したり、受け取ったり、買い出ししたり。簡単に言うと、雑用を色々と。
今日は、僕もそれに着いてきた。理由は…この雪原に関する情報を集めるため、だ。
…実は、僕はそもそも、この雪原のポケモンじゃない。詳しい経緯は省略するけど、僕は元々、雪原の外からやってきたんだ。だから、このホワイト雪原に長く住んでいないと分からないような、そんな情報を期待した訳なんだけど。
…まあ、ここはシャイニ王国。外界と隔てられた、断絶した世界。ホワイト雪原についてよく知らない者が大体で、有力な情報はなし。
彼らにとって、この国の外について知る必要なんてない。当然だ。訪れたところで何もなく、生存の厳しいあの雪原なんて、知らなくていい。ずっとこの狭い世界で、穏やかに暮らせるのだから。
そのせいで、僕は困り果ててしまった。
国内で調べてみても何も得られないなら、外へ行けば良い、だって?そうだろうね。実際、『声』も外に出て情報を探すように言っていたらしいし。
一度だけ、そのことを女王様に相談したことはある。…いや、『声』に託されたあれこれについては伏せたけど。流石に、あんなことを唐突に言われても混乱するだろうし。
その時の女王様の反応は…とても慌てていたね。そして驚いてもいた。「こおりタイプでも気を失うような吹雪の起こる環境に、自ら行く必要はないじゃない」と、言われて反対されてしまった。
…実際に、あの日の吹雪は異常なものだったと思う。それはひとまず置いておくとしても、このままじゃ、『声』曰く、『黒の夜』とやらで大変なことが起こる…みたいだ。やたら慌てた様子で、『黒の夜』がやばい!みたいなことを警告してたっぽいから、ひとまず『黒の夜』は災いを指している、と仮定してる。この国だけじゃなく、ホワイト雪原全体の危機。なら、知らないフリは出来ない。この国の方々から、少しでも情報を集めたいところ。
シュガーはあの日以来、『声』を受信していないらしいし、このままでは手詰まりだ。
帰路に着きながら、今日も、何も分からないまま過ぎ去る一日に苛立ちながら、僕は自室へと歩いて行くのだった。
◆
シュガーは最近、悩んでいる。
マレットと比べると圧倒的に鈍感な私でもわかる。王女は、親友は、なんかめちゃくちゃ悩んでいる。自分からは話そうとしないから、その理由は検討もつかないけど。
時期的には…そうね、ソルトとかいうグレイシアがこの国にやって来てから…かしら?もしかして、彼が原因なのかもしれない。だとしたら、具体的には、何故?
…と、いう具合に、本ポケには訊ねないくせにアレコレ思案しがちなのが私…ユリナ・ミルキルエの、幼い頃からの癖だった。
詳しく知りたい、気になる事柄があるのに、それについて少し冷めた視点で見てる自分も共存しているようで、私に伝えてこないなら、わざわざ知る意味なんてないのだろう。なんて、聞きだすことにブレーキをかける。でも気になるから推測する。矛盾した2つの考えが堂々巡りをする…ま、よくあるわよね、そういうこと。
さてさて。そんなこんなでグルグルと考え事をしつつも、私は焼きたてのクッキーをバスケットに詰めて、シュガーの部屋へ向かう。
その途中で、口うるさいことで有名なニャルマーとすれ違った。彼、神経質なのか、やたら細かいことまで気にして話しかけてくるから、一部の子たちからは良く思われてないのよね。私はこう見えて結構、周りからの信頼を勝ち取っているからか、特に何も言われなかったけど。王女の側近だもの、よっぽど信頼されてなきゃ、この座には座れないわよ?
シュガーの部屋は、この廊下をしばらく進んで…あら?
ちょうど向こうから、眠そうな顔で歩いてくるリーフィアが一匹。左耳に添えられた耳飾りが、彼女がこの国の王族であることを主張している。
そう、今まさに、私が会いに行こうとしていたシュガー・シャイニその人…否、そのポケモンだった。
「あら、シュガー。どこへ行くのかしら。ちょうど、貴女の部屋に向かうところだったのだけど」
「あ、ユリナ。ごめんなさい、間が悪かったわね。私、図書館に行こうと思ったのだけど…いいわ、一緒に部屋に戻りましょう。ちょっと甘いものを食べたかったもの」
そう言い終えると、今度は二匹で歩き出す。雑談を交えながら、クッキーの香ばしい匂いを感じながら。
シュガーの部屋は、王宮の四階の、中心部に近く、王族と、その側近など、ごく一部のポケモンしか立ち入ることを許されないエリアにある。王宮の一階は結構賑やかだけど、ここはとても静かで、落ち着かない。
ふと、廊下の左側の、磨かれた窓ガラスへ目をやる。王宮の真正面、しかも四階であるここは、遮蔽物が無く、国を一望できる。
青く澄んだ空。それを囲むような、分厚い雲が雪原を覆う。この国の周囲だけが、雲一つない。資料でしか知らないけど、この光景、台風の目ってやつと似てるのかしら?
ぼんやりと考えていると、いつの間にかシュガーに置いていかれてしまったらしい。少し離れたところでこちらを振り向いて不思議そうな顔をしているリーフィアが見えた。
…爽やかな青空の下、今日も穏やかに時が流れていく。
◆
「ところで最近、何か悩み事あるわよね?私だって気づくわよ?今日もよく眠れてないのか、眠たげだし」
部屋にユリナを招き、テーブルのセッティングを終えて席に着き、白い湯気の上がる紅茶に手を伸ばし…唐突に投げかけられたクエスチョンが、私の一連の動作にストップをかけた。
まるで蛇睨みで石にされたかの様に、ぎこちない動きで目の前のマホイップを見る。
彼女は、私のことをじーっと見つめている。ボンヤリしてたら、橙の瞳に吸い込まれてしまいそうな錯覚に陥る。ユリナさーん、マホイップは『くろいまなざし』は覚えませんよ?
「言い逃れはさせる気ないわよ。言いづらいかもだけど、キチンと話してもらうわ」
「うわ、目が本気ね。…うん、まあ、はい」
目を泳がせ、歯切れの悪い言の葉を並べる。…まさか、『声』やら『黒の夜』やら、ソルトがそれらについて調査してるけど成果ゼロとか、とてもじゃないけど話せない。
…別に、ユリナのことを信頼してない、って訳じゃないのだけど。信じてもらえないだろうし、とかそういうことよりも。
まず、この問題は、むやみに広めちゃいけない。絶対、混乱を招くし。…それに、私たちで抱えるべき内容なのだと、何となく感じるのだ。
そんな思案と不安などつゆ知らず、ユリナはぐいと顔を近づけてくる。反射的に、徐々に顔を離していく私。側から見れば滑稽な光景ね。
ぐーっと身を乗り出しつつあったユリナは、いきなりスッと座り直す。近寄ってきていた顔が遠ざかっていくと共に、マホイップ特有の甘い匂いも薄らぐ。
座ってブローチの位置を右手で直しながら、彼女は何か納得したような顔を浮かべる。少しだけ、からかうような、楽しげな笑顔も混ざっているような…。
「…ふーん、そこまで隠そうとしなくたって良いと思うわよ?そこまで下手な隠し方じゃ、簡単に分かっちゃうし。…ズバリ、シュガーは今、ソルトに恋しているのね?」
「…え」
衝撃で硬直した私と、探偵の真似事か、左手の人差し指を私に向けてドヤ顔する親友。固まって、「他ポケを指差すのはあまり良くない」と注意すらできない私の目の前を、放置された紅茶の白い湯気が昇っていった。
「……な、何言ってるの?」
「動揺してるわね、シュガー。でももう少し上手に取り繕いなさいよ?」
そう言われたって、唐突にこんなこと言われたら、誰だってこうなるよね。
驚く私を置き去りにしながら、ユリナが話し始める。最近、様子が変だと思ったのよねー、とか、恋の相談なんて身近な私にも言えないわよねー、とか。…いやいや、誤解だよ!
「いや、本当にそういうのじゃ無いから。ほんとーに!」
「あらあら?…まあ、そこまで言うなら、とりあえず広めるのはやめておこうかしら」
「本当!噂になったらヤバいから!」
私の必死さが伝わったのか、この話はひとまず、隠し通してくれるようだ。…え?その言い方だと、最初は広める気満々だったの?
そもそも彼女の誤解でしかないし、ソルトにも迷惑かけるから、広めようとしないで欲しいんだけど…。と言っても、あんまり意味ないだろうなぁ。
ため息を吐く私を見て、ユリナは急に真面目な顔になって言った。
「…でも実際問題、そろそろ番を決めないといけないんじゃない?現国王がご健在な間に子育てしとかないとだし。結婚相手、真面目に考えなくちゃ」
「う、それは…」
痛いところを突かれて、言葉が詰まる。誤魔化すように、ティーカップに手を伸ばして紅茶を口に含む。上品な良い匂いが鼻を通り抜けていく。
ゴクリ、と茶を飲み込んで、またため息。
そう。私はもう15歳。そろそろ配偶者を決めるべき年頃だ。一般的な結婚年齢より大分早いけど…これに関しては仕方ない。
私の父…つまり、現国王であるレム・シャイニは、生まれつき、非常に虚弱な体質だった。あと何年生きられるか分からない、そんな状態。
彼が亡くなったら、私が王位を継ぐ。そして、後継者も必要になる。女王としての責務を全うしながら後継者を育てるなんて器用な真似は普通は無理だから、早く婿を取れ。そういった旨の話は、色んなポケモンたちに言われている。
「…そうは言ってもさ。まだ15なのよ。流石に早いし、お父様みたいに、運命の相手に会えていないし」
「あ、リリー様とは恋愛婚だったのよね。当時、とても批判されたようだけど」
「ええ。私、まだ恋をしたことないのに結婚しろとか、その手の話題は嫌なのよ」
そうぼやきながら、窓の外をぼんやり眺める。
頭では分かってる。これがただの我儘だと。でも少女として、これだけは譲れないのだ。
本日3回目のため息を吐いて、私はクッキーへ手を伸ばした。
◆
「クシュン!」
「こおりタイプってくしゃみするんだー!」
「あ、もしかして誰かがソルトのことウワサしてるんじゃない?」
「そりゃー、国外から来たポケモンだもの、ウワサにならないわけないわよ!」
ムズムズする鼻を軽く擦りながら、僕は楽しげな少年少女を見る。彼ら3匹組は僕より一回りも、二回りも小さな子供だ。正直、聞き込みするならもっと相手を選ぶべきだとは思う。
…でも、本当に情報が無いのだ。こんな幼い子供たちから、大した情報を得られるとは思えないけど。
でも、子供たちの間では噂とかはあっという間に広がるものだし、案外良い情報が手に入るのでは?と言われれば否定出来ない訳だし。ということで、早速尋ねよう。
「…ねぇ、みんな。僕は今、この雪原について調べているんだ。どんな些細なことでもいい。ここ最近、異変を感じたり、妙な噂を聞いたりしたことは無いかな。…例えば、恐ろしい災いが、何処からかやって来る、とか」
素直そうなポケモンたちの顔を見、そう語りかける。
しばらく、不思議そうにしていた彼らだったが、やや間を置いてから、誰かが「あっ」と呟いた。
「ロミアねー、その質問ねー、前にもされたよー」
「…え、そうなのか、詳しく!」
まさか、僕以外にも『黒の夜』や、ホワイト雪原の謎を探っているポケモンがいるのか?
ロミアと名乗った少女は、マリルという種族。真ん丸な青い耳と尻尾を揺らし、短すぎる手を口元に当て、話し始めた。
「んっとねー、前にね、チェレッタおねーさんがね、転んじゃったロミアを助けてくれてねー。お礼したかったけど要らないよって言われて、どうしてもって言ったら、その質問されたのー」
「チェレッタさん、か…」
チェレッタ・ヨズイラ。種族はマスカーニャで、旅芸人をしてる放浪者。そして、何故か『黒の夜』について調べている…?
大人気旅芸人の話題で盛り上がりつつある子供たちをよそに、僕は一匹、考え始めた。
今、チェレッタさんは旅芸人として大成功を収めている。わざわざこの件について首を突っ込む必要はあるのか。いや、雪原の存亡とかに関わりそうだし、この雪原のポケモン全員に関係のあることだけどさ。
それよりも、この件について、どうやって知ったのか。これが分からない。
この国のポケモンたちは基本的に、国外への興味が薄いのか、考えることを放棄しているのか、『黒の夜』どころか、ホワイト雪原に詳しい者も全然いない。だからチェレッタさんがどうやって知ったのかがよく分からない。
…そして、彼女も『黒の夜』に抗うために動いているのだとしたら。僕らに協力してくれるかもしれない。
「ありがとう。ロミアと、えっと…」
「あ、あたしはルミカ・アトラムよ」
「ぼくはケレン・トルマです!」
「そっか、ありがとう。皆、協力してくれて」
魔女帽子をかぶったような、桃と水のパステルカラーのポケモン、テブリムのルミカと、双葉の生えた、背に褐色の甲羅を背負った亀のようなポケモン、ナエトルのケレン。子供たちはブンブンと手を振って、僕を見送った。
そして3匹と別れて、僕はチェレッタさんを探し始めた。
◆
「なるほど。それで私のところへいらっしゃったと。わざわざ、ご苦労様ですね」
そう呟くのは、薄緑の体を持ち、黒い仮面を付けたポケモン。マスカーニャのチェレッタだ。
彼女はこの人気のない空き地にポツンと佇む木の下で、手品の道具の手入れをしていたようだ。
「この国、否、この雪原を脅かす災厄について知ってるなら、何か情報を提示して欲しいんです。どんな些細なことでも」
「そうは言っても…何故貴方がそれを調べているのです?そもそも、どうやって知ったのか…」
「それは…。いや、チェレッタさん、あなたもどうやってそのことを知ったのですか?」
シュガーの見た不思議な夢?の話を広めることは出来ないから、質問に質問を返す。露骨な話題逸らしだけど…
「そうですねぇ。少しばかり、長くなりますが…」
そう言って、口元に手を添えながらポツポツと話し始めるチェレッタさん。意外とアッサリ事情を教えてくれそうで若干拍子抜けしつつ、僕は黙って話を聞いていた。
「まず、何から説明しましょうか。…ああ、そうだ。ソルト君、この国の騎士団が普段、何をしているのか。ご存知で?」
「え?…たしか、治安維持のための巡回、ですよね」
「その通り。彼らはこの国の治安維持…内乱を防ぐ、犯罪を減らすために必要不可欠な存在。でも、それだけが彼らの仕事ではありません」
「他に、何か役割が?」
「ええ。実は、騎士団の中でも特に手練れの者のみに知らされていることですが…彼ら、雪原の調査も行っているのですよ」
「!!」
思わぬ新情報に、言葉が詰まる。
この国のポケモンたちは雪原には一切の興味を示していなかった気がするけど…まさか、騎士団員の、極一部だけが雪原の調査を行っていたのか。それも、おそらく秘密裏に。
「でも、何故そんな情報を…」
「いえ、私の父親が騎士団をやっていたのですが、かなりの重鎮でして。先代国王陛下に、雪原調査の遠征メンバーとして抜擢されたのですよ。それで、私も知ってる訳です」
「な、なるほど…」
「さてさて、彼らが何の為に雪原を調査しているのか、気になりますよね?…その詳しい理由は、残念ながら知らされておりません。ですが、ある時、父はこう呟いていました」
言葉を切り、間を置くマジシャン。
真紅の瞳がきらり、不思議な色を反射させて。
「W早く雪原を離れなければ、我々には時間が無い。いずれ来る物、『黒の夜』に備えなくてはW__と」
「いずれ来る物…時間は無い…?」
「はい。災いの存在を仄めかされては、首をツッコミたくなってしまうもの。私も、『黒の夜』について調べ回っていたのです」
ええ、ええ、と大きく頷き、チェレッタさんは肯定する。それを見て、僕は情報を整理してみる。
おそらく…災いが、『黒の夜』が、訪れると知っているのだろう。騎士団、そして…王族は。
だとしたら、シュガーが『黒の夜』に詳しくないのが気になるな…。現国王が、敢えて情報を与えてないのか?だとしたら、何故?自分の代で、問題を解決しようとしているのか…?
そして、それに備えるための遠征?…備えるって、具体的にどうする気なんだろう。そもそも、『黒の夜』は何なのか、突き止められていないのに。災害の内容も知らずに対策なんて出来ない。
これらの情報からして、国王…レムさんは、間違いなく、何か知っていそうだ。
「満足のいく内容でしたか?」
「はい。ありがとうございます。おかげで、やるべき事が見えました」
「そうですか。それは何よりです!…で、貴方はどうして、『黒の夜』について調査を?」
ぎくり、と効果音をつけて、体がぎくしゃくとした動作をする。自分は話したので、次はそちらですよ?と言いたげな視線を投げかけられ、そっと目線を地へ向ける。
「…すみません。それは、お教え出来ません」
「……そうですか。残念ですが、仕方ありませんね」
そう言って、チェレッタさんは目を伏せる。僕はじっと、次の言葉を待つ。
…ところが、それは身構えていた自分がバカバカしく思えるような、思いがけないセリフで。
「ならば、無理に聞き出したりは致しません。私に聞きたいことは以上でしょうか?」
「は、はい」
「それでは、さようなら。また何処かで」
言い終えるや、彼女はフッと、姿を消した。あまりに一瞬の出来事で、目をパチパチさせて驚く僕。これ、手品なのか?
まるで魔法のように去った旅芸人の影と残り香が風に攫われる様子を幻視しながら、僕はその場を後にした。
◆
ソルトが城に戻って来たのは、意外と早かった。
いつもは日が沈むギリギリに門を潜っている気がするけど、今回はまだ太陽の高い時間に、私を探して図書館へ来たのだ。何か手掛かりを得られたのか、心なしか彼の表情は明るい。
そんな彼に対して、私はどうだろう。いつも通りの顔を作れているのかな。
「シュガー…さん、情報を得られたのですが…」
「あ、ここでは話しにくいわよね。…ちょっと移動しましょう」
いつもより少しポケモンが多くいた図書館から、そそくさと離れ、話し合う場所を探しに行く。
とは言え、この城で秘密を話せる場所というと…。
「……」
自室に行くのが良いのだろうけど。でも、同じ年ごろの男の子と、一緒に?
(いや、気にしない方が良いわよシュガー。そう、ユリナが変なことを言ってきたからって意識しすぎないのよシュガー)
言い聞かせるように念じて、早足で廊下を進む。紅の絨毯が音を吸ってくれるのが、妙に有り難く感じる。
しばらくして、無事にマイルームに到着。運良く誰ともすれ違わずたどり着けた!良かったー!
心の中では安堵と緊張がごちゃ混ぜだけど努めて冷静に、ソルトに入るよう促す。
「…ほんと、誰にも会わなくて良かった」
「何か言った?」
私は何でもないと誤魔化して、ソルトに本題を語ってもらう。
「…これは、チェレッタさんから聞いた話なんだけど…」
そう前置きされてから、彼が語った内容に、私は困惑した。
騎士団の精鋭が雪原の調査を?『黒の夜』へ対策をしようとしているかも知れない?お父様が、『黒の夜』を…自分の代で、解決しようと、している…?
ソルト自身の推測も交えてあるけれど、それらは非常に的を射ていると思う。だからこそ、私は困惑している。
…お父様は、何故このことを隠しているの?
「だから僕は、直接、国王陛下に話をしたいと思う」
「え…」
「そもそもこれは、個人が動いてどうにかなる規模ではないと思う。国の統治者と連携する必要があるし、シュガーの聞いた『声』についても分かるかも知れないから、僕は話をしたいんだ」
そうだ。これは私たちの手には負えない。お父様に、知ってることを話してもらわないと…。
理解できる。正しい理論。だというのに、どうして…
こんなにも胸騒ぎがするの…?
◆
月明かりがこの部屋を覗き始めて、何時間が経っただろう?
濃い闇の立ち込める部屋の窓から、ぼうっと夜空を見上げる。今日も、まだあのひとは。
…ガチャリ
「…お帰りなさい、レム」
「…まだ起きていたのか」
呆れたような、困ったような声。聞きたかったひとの声をようやく聞けて、それだけで嬉しくて頬が綻ぶ。
ゆっくりと、彼がこちらへ歩み寄る。ボサボサとした長い毛並みに隠されがちで表情は読み取れないけど、そんな姿の彼を知る者は、私の他にほとんどいないだろう。
ぱさり。ぼーっとしていた私の肩に、ふわっと毛布が掛かる。その柔らかさを認識して、遅れて耳が、言の葉を拾う。
「…早く寝た方が良い。身体に障るだろう」
あらあら。とりあえず、貴方には言われたくないわ。
まるで貴方の側に引っ付いてる世話焼きなファルセットみたい、と思って、やっぱり頬がゆるゆるになる。
「レムが早く職務を切り上げてくれれば良いじゃない。貴方の顔を見てからじゃなきゃ寝ないわよ」
「私が絶対にそうしないのは分かっているだろう…ゴホッ。リリー、君は意地を張るのをやめた方が良い」
ため息吐きながら、ごもっともすぎる発言。でもね、それ貴方にもそっくりそのままお返ししたい。
暗いから分かりにくいけど、彼の顔色はかなり悪い。目の下の隈だって濃くなってるし、なんというか、生気が薄いというか。絵に描いたような不健康フェイスだ。
「…持病、悪化するわよ」
「ゴホッ…いや、どちらにせよ、長くはない命だ。ケホッ、ゴホッ。あの子に負担を、コホッ、かける訳、には…」
言いながらも、酷くなっていく咳に顔を顰める彼。発作が起きているんだ、苦しいだろうな…。
側で寄り添って、背をそっとさするしか出来ない自分の不甲斐なさに歯がみしながら、祈る。
最悪の災厄よ、目覚めないで。無意味で、無駄とは分かっているけれど。終わりを早めないで、と。