第零夜 新しい始まり
ぐらぐらと揺れる視界。眼を瞑ろうと違和感は自分を解放しようとせず、脳を無理矢理ぐるぐるに、出鱈目にかき混ぜられるような気持ち悪さが襲いかかってくる。黒一色の世界を見てる筈なのに、極彩色が強烈に眼を突き刺す。静まり返った世界なのに、聴覚は雷の駆ける音を拾う。
矛盾。非合理。不都合。そんな違和感が絶え間なく押し寄せる。海の波は寄せては返し、去っていくものだが、コレにはそんな風な優しさはカケラもありはしない。全身が押し潰されるような、無防備なまま深海に突き落とされて圧力に屈するような痛みが思考を妨げ続ける。
駄目だ。あの記憶を呼び起こして、意識を繋ぎ止める鎖に必死に掴まって、考え続けろ。焦がせ、その身を、あの憎悪で。黒く燃え上がる激情に縋って、いなくては…
☆
巨大なオクタンが空に向かって、思い切りオクタンほうを放ったような、ザ・黒!といった感じの夜空。たっぷりの墨汁に、キラキラ煌めく光の粉をまぶしたように、星々が輝いている。
その下で安物の蝋燭を携えた頼りないランプをお供に歩く、奇妙なポケモンが一匹。淡い色合いの毛並みがランプから漏れる弱々しい光に照らされている。桃色の尖った耳とクリーム色の毛皮の、猫っぽい姿のポケモンだ。首元には小さな巾着袋を下げている。
ここはとある海岸。お砂糖のようなきめ細やかな砂に足を取られないようにしつつ、そのポケモンは行く。…夜の散歩だろうか。
たった一匹で、しっぽを右、左、また右にとゆーらゆら揺らしながら、楽しげに歩く。だが何故、こんな真っ暗な、月の無い夜に外を出歩いているのだろう?
軽い足取りで進むポケモンの道には、ふふふーん、と、とうとう鼻歌すら混ざりだす。ピンと引いた糸みたいな静寂を打ち破る、場違い感ある気の抜けた声を聞く者は、他にいなかった。
「…ふふふーん、ふーん♪」
やたら機嫌の良い声が、夜の砂浜を賑やかにする。ざざざー、ざざざーっと耳に届く波の音の心地よさに気を取られたのか、少しリズムの崩れた鼻歌が、強めの風に攫われていく。
見れば、砂浜に落ちている物が妙に多い。大半は朽ちた流木や、カラカラに乾きかけた海藻、丸っこい石など、ありふれた物でしかないが。たまに、色褪せてズタズタになった、元スカーフや帽子らしき布の残骸を見かけては、これの持ち主の安否を心配するように、そのポケモンは立ち止まるのだった。
「…んん?」
ただ、それらよりもっと、興味を惹かれる何かを見つけたらしい。
ランプを片手に歩くポケモンは、ふと、ある一点に釘付けになったように、じっと何かを見つめて、動きを止める。凝視して、二度三度瞬きして、それでもそこにあることを確認して…。そして、何かへと駆け寄る。
運良く白い砂に足を取られず、無事近づくと、そのポケモンは、その何かに向かって呼びかけた。
「きみ、きみ!起きなよ、何があったの!?」
ゆっさゆっさと、何か…否、ポケモンを揺らし、叫ぶ。反射的にランプを投げ出していることに気づく者は、残念ながらこの場にはいない。
長い間、夜風に晒されていたのだろうか。そのポケモンの身体は冷たく、生気を感じ難い。サッと、顔から血の気が引きそうになりながら、めげずに呼びかける。
「きみ!目を覚まして!こんなところで倒れてないでよ!」
「…う…うぅ」
桃色のポケモンの声が届いたのか、倒れていたポケモンは、ゆっくりと目を開けて、呻き声を漏らす。苦しげではあるが意識はあるようで、ホッと胸を撫で下ろすポケモンに、質問が投げかけられる。
「ここ、は…お前は、誰、だ…?」
「ここ?トレジャータウンの近くの海岸だけど…」
「トレジャー、タウン…?」
こくりと頷くポケモンと、首を傾げるポケモン。
ランプの放つ光が、倒れていたポケモンの姿を鮮明なものにするが、身体中がかなりボロボロである。黒く、影を思わせる体に刻まれた痛々しい傷から何となく目を逸らして、桃色のポケモンが尋ね返す。
「ええと…トレジャータウン、知らない?プクリンの親方のギルドがあって、探検隊の出入りが多くて結構活気ある町なんだけど…」
「…分からない」
「そっかぁ。私、エネコのトキ。きみはなんて名前?どこか遠くから来たの?」
エネコの少女、トキはさらに尋ねる。目の前のポケモンに対する好奇心が溢れ、特徴的なしっぽが揺れる。
しばしの沈黙。返答を待つ少女は、ランプについた砂をささっと払い、相手を再び見つめる。
そして、好奇心満々の少女に対して申し訳なさげに、そのポケモンが言った。
「…分から、ない。俺は、何者なのか。何処から来て、何をしていたのか。何も」
「へ?」
蒼い瞳を伏せて、困ったように呟く。彼の言葉を聞いた途端、トキも間抜けな声を出して驚いた。
「記憶喪失ってやつ?」
「おそらく…」
記憶喪失。物語の中でしか聞いたことのない現象を目の前に突きつけられて、トキは困惑する。ごく普通のポケモンに、それはちょっと衝撃的過ぎたらしい。が、困惑しているのは本ポケも同じことである。
少女は考える。こんなにボロボロなポケモンを放って帰って良いものか、と。確かに怪しさこそあるが、何もしないというのも彼女の良心が痛むらしい。何も覚えていないなら困ることも多い筈だし、そんな相手を見放すことは出来ない。真面目で優しい少女は、そうシンプルな答えを出した。
「ええーと、それだとこれから、どうするの?何処か泊まるアテとか、ある…?」
「…いや。知り合いもいなければ、土地勘もないからな…」
「じゃあ、さ。私の家に来ない?」
黒いポケモンはトキの提案を受けて、マメパトが豆鉄砲を食らったように、虚を突かれたように面食らう。
そしておそるおそる、呟くように、「…良いのか?」と聞き返す。
勿論と言わんばかりに頷くトキを見て、少しだけ迷ったような、困ったような、微妙な笑みを浮かべる黒。彼としてもこの提案は願ってもないだろう。下手すれば行き倒れまっしぐらなのだから。
「それはありがたいな。…よろしく頼む、トキ」
「うん、よろしく…あ、名前」
自分の名前すら覚えていない、という彼。トキは、これは意外と不便だぞ、と心の中で舌打ちする。
「…別に、好きな風に呼んで良いが…」
「えー。私が名前つける感じかぁ。責任重大」
あくまで、彼が本来の記憶を取り戻し、名前が判明するまでの仮の名だが、名前というのは大切なものだ。勝手にプレッシャーを感じるトキと、そのことに気づかない名無し。
「と言っても…種族名もわっかんないよね…」
自身の種族名をもじって名付ける、というのはよくあることである。…が、彼自身が知らない上に、トキにとっても初めて見るポケモン。種族名どころかタイプすら分からないのである。
「…ミヤ」
「ミヤ?」
「そう。闇みたいだなって、思ったから」
彼は、影の化身と言われても納得なほど、真っ黒な姿だ。そこからとった名前らしい。
ミヤ。随分と可愛らしい響きの名だと、名無し改めミヤは思う。自分には似つかわしくないように思える。
ともあれ、彼は今日この時からミヤなのだ。
「納得してもらえて何より!…じゃ、家まで案内するよ!」
そう言ってトキはミヤを連れて歩き出す。こうして月無き夜道を歩くポケモンの姿は、二つになった。
☆
「あれ?」
ふと、トキが足を止めて、何かを集中して見る。後ろを歩いていたミヤも、彼女の真似してそちらを見る。
視線の先には、青くて丸くて可愛らしい、ペンギンみたいなポケモンが一匹。洞窟の入り口から奥を覗いていた。砂浜に口を開いた洞窟の内部は、この闇夜においてより一層、濃い黒が満ちている。
「おおーい!スカイ、何してんのー!」
「うっっわトキ!今オイラ忙し…後ろの奴、誰だよ?」
彼は可愛い見た目とは裏腹に、何とも生意気そうな口調で対応。しかし振り向き、知り合いの背後に佇む何かに対して、非常に警戒した。
彼の反応に少し残念そうなミヤを半ば置いてけぼりにしつつも、トキは青いポケモンを紹介する。
「ミヤ、こいつはポッチャマのスカイ。私の友達なの」
「オイラはスカイライナン・ルー・ヴォーウだっつってんだろ!」
「長いんだってば。あ、こっちはミヤ。さっき浜辺で倒れてたから連れて来たけど、記憶喪失らしいよ」
紹介に不満があったのか、ギャンギャン叫ぶポッチャマのスカイ。プライドが高そうである。
「…って、記憶無いの?オマエ。…ちょっと怪しくない?」
「こんな夜に不思議のダンジョンの入り口にいるひとに言われたくないよねー」
「はー?オイラは正義オブ正義を執行しようとしてんだけど!?」
「…一体、何を?」
ミヤがようやく口を開いてそう質問すると、待ってましたと言わんばかりに、ノリノリで答えるスカイ。それをジト目__いや、エネコは糸目がデフォルトだが、ものの例えである__で見るトキ。
「オイラ、今日の夕方にお尋ね者のケー&トーがこの洞窟入ってくとこ、見たんだよ!流石に人目のある時だとダンジョン入るなーって止められちまうけど、この時間なら誰にもバレないから、今突撃して、お縄にしてやろうって訳だよ!」
誇らしげなスカイ。どうやら彼は、お尋ね者に正義の鉄槌を下すべく、ここにいたらしい。…結局今この瞬間までここで立ち止まっているあたり、完全に覚悟を決めた訳では無さそうだが。
「何それ面白そー!私たちも連れてって!」
「ええー。でもオイラがリーダーだぞ?」
「良いよ!私も探検したいもん!大人たち、みーんな、不思議のダンジョンには入るなって言うけど、知ったこっちゃないよ」
ワクワクという単語を顔に浮かべて、トキはスカイに詰め寄る。スカイは意外にも彼女のことは拒絶せず、受け入れる方針。
「…私”たち”…?」
「え?ミヤも来るよね?」
ミヤがトキの言葉に感じた引っかかりを口に出すと、くるり、と少女は黒を見やる。勿論行くよね?行く以外の選択肢無いよね?と言いたげな視線に上手く反論出来るほど、ミヤは言葉巧みではないようだ。
「大人たちが禁止してるなら、不思議のダンジョン?に入るのは、危険じゃないか?」
「良いでしょ、別に!冒険心は忘れちゃダメだもん」
「頭が固いだけなんだよ、大人たちは。平気だって!」
どうにか、やんわりと宥めようとするミヤの言葉など聞く耳持たず。二匹はすっかり行く気満々であり、いくらブレーキをかけようとしても無駄であろう。
ミヤはチラッと洞窟の入り口を見る。飲み込まれてしまいそうなくらい、暗い暗い孔。…けれど自分は、それより深い闇を知っているような。
ミヤは、はあぁとため息を吐き、根負けしてスカイたちについて行くことに決めた。というか放っておくのも怖い気がした。目を離すのは非推奨だ。
不思議のダンジョン。それはただの迷宮ではない。それでも今宵、足を踏み入れる者が三匹。
じとりと、湿った空気に纏わりつかれ、彼らは『かいがんのどうくつ』に挑戦するのだった。