そして出立
ふいに頬をかすめた僅かに冷えた感触に、キュウコンに寄りかかった亘は眠ったまま顔を顰めている。そのまだ子供らしい表情を捉えたエリシェはアルリテラを呼び寄せてそばに座らせ、つい先程まで自分たちの旅への同行に強く期待していた少年の頭を再び撫でた。繊細な指で睫毛を触り、頬に触れて、いちいち反応を変えてくる表情に鈴の転がるような笑い声を立てる。それなのにアルリテラが俺のキュウコンに乗るなと乱暴に髪を掴んだので、そのままの声で牽制し、しずかにするようもとめた。調子に乗った彼は今度はエリシェの方に指を伸ばし、やさしく細い首にそれをすべらせた。くすぐったいと身をよじる姿に満足したのか、拒否のことばを完全に無視して今度は服の中に手を差し入れて背筋をなじる。いやだ、とエリシェはか細く言ったが、それは彼が自分をどのような心持ちをしているか理解せずにそのようなことをしているからであって、完全に拒絶しているわけではない。ふたりはずっといっしょにいすぎたのだと、諦めさえ生じている。
むかしの話だ。氷の注がれ満たされた寒い海の中を、ふたり寄り添い合うように彷徨っていた。取り巻くものは宇宙の闇のように深くくろぐろとして、冷たい温度は幼い柔肌を切るほどに鋭かった。行く手には道など無い。果てのない暗がりの中を、手をつなぎ、励まし合いながら進み続けた。どこに行こうとしていたのかなんて分からなかった。歩き続けていた理由も。ただ幼心に、このまま進んでいけば、どこかしらに辿り着けると信じていたのかもしれない。手を伸ばせば指先から闇に呑まれ、その輪郭を見失ってしまう。だから繋いだ手はずっと離さないと約束した。あるとき彼は、違う世界で違う景色を見ていても、心はずっと一緒だと言って笑った。またあるときは、おまえさえいてくれれば他に何も要らぬと言って抱き合った。それでも、迷い子たちに道は見えない。このままではずっと、ふたり迷ったままだ。だから力を得ようと決めた。力を得て、強く生きていこうと。
「アル、ポケモンたちにごはんをあげなくちゃいけない」
そう呟いて男の手を振り払い、戸棚からポケモンフーズを出してきて与えた。亘の体重を預かって苦しそうにする、しかしまんざらでもなさそうなキュウコン、ピジョット、マッスグマ、それからエリシェのマリルリとバタフリーに、アルリテラはそれぞれ手にのせて口まで運んでやっている。そういえばこいつに食事をやっていないな、と視線をはずさぬまま言った。「麻婆豆腐でもつくってやろうか、こいつのためではないぞおまえの手を煩わせぬためだ」えらそうだ。
「だめだよアル。食材を買いに行こうにも、きれいな君は目立つから」
「そういうおまえこそかわいいではないか。かわいいは罪だと誰かが言っていたぞ。厳罰を与える」
「ぼくはどんな罰を与えられるのかな」
「その身を捧げよ、罪人」
「もとよりぼくは君のものだよ、我が友よ」
「遷世って、どんなところなの?」
翌日、亘たち三人は山麓から起点があるという横浜市までおりていくバスに乗っていた。悪属性のポケットモンスター、縮めてポケモンを討伐しに行く前にまずは遷世の王様に会いに行くというから雰囲気だけでも掴んでおきたいという考えからの質問だったので、難しい顔をして首を傾げたふたりの様子に更に疑問符が増える。本気で悩んでいる姿はなんだかおかしい気もするが、説明しにくいということはなんとなくわかった。
遷世について、なにもしらないわけではない。かの世界は南大陸と北大陸、それから数個の島々と広い海によって形成されており、そのまわりは虚無に取り巻かれているという。イメージ的には地図が平面上に広がっていて、その紙ぺらの端から宇宙が始まっているような。地球のように丸いのではないらしく、現世の宇宙のほしぼしが遷世の島に当たるというのだから、随分と規模が小さいことがわかる。北大陸と南大陸はそれぞれ独自の発展を遂げており、交流が始まったのはわずか一世紀まえ。北には人間が、南にはポケモンが多く分布しているが、人間のポケモンへ抱く考え方はどちらも同じ、共生に徹している。ふたりは南出身で、ポケモンを戦わせたり手伝わせたりする文化は、主に彼らの大陸で普及したものであるらしい。「王様は北の城に住んでいるゆえ、むこうの起点からかなり動くぞ。はたして体力がなさそうなお前について行けるか」と馬鹿にされたので、どんなたいへんな航海でもきっと乗り越えると決めた。
「うーん、どうだろう。現世のあーるぴーじーげーむみたいな世界観なのかな」
「行けばわかるぞ、行けば」
ふたりのあいまいな答えに、亘は再び目を輝かせた。そうだ、行けばわかる。
やがてバスは赤レンガ倉庫とやらに止まり、明らかに面倒くさそうな顔をしたアルが金の延べ棒を運転手に投げて三人は降りた。そこでふたりは周りの様々な思惑にまみれた視線など気にせずに、金色の毛並みに赤い鶏冠のようなものをなびかせた鳥と、蝶を数百倍大きくしたような生き物をボールから出し、それぞれの背にまたがった状態で亘を手招いた。鳥の方に歩いていくと、数秒後亘は屋根のうえで、まだ見ぬ異世界に不安を抱きつつも、期待をさらに大きくしながら現世の空を見上げていた。