かれにおけるその開闢
エルと呼ばれる少女が足を止めたのは、村からだいぶ離れた、山の麓のあたりであった。そこには本当に小さな規模のあばら家がちんまりと佇んでいて、前からそこを拠点としていたのだろう、慣れた動作できしむ戸をひらく。まだ興奮の収まらない亘を軽々と横抱きにして獣道を下った彼女はさほど疲弊した様子もなくそっと寝床に横たわせ、ずっと不機嫌なアルと呼ばれる青年に水を求めた。「お前がやればいいだろう」ところどころ隙間の入った木材の間から降りた光が彼の髪を青白く煌かせ、やがてもう夜なのだと知る。
「ぼくはもうこの子をはこんでくたくただから」
「さほど疲れてはなかろうに。それではおまえの馬鹿にある体力はどこへ行った」
「体力はあるけど、荷物のなかった君よりは疲れてるでしょ。ひとりでがんばったキュウコンだって水分は必要だし、ぼくもここでこれからこの子に話をするから、ね?」
「それも、そうだな」
彼がいなくなったことで小屋中をみたしていた威圧感が消え、あとはただ静けさとふたりぶんの呼吸、心臓の音が闇の妖精をたしなめる子守唄になっている。それなのに亘はなぜかひどく緊張していた。このきれいなひとたちが、あんなひどいことをする。アルと呼ばれる青年はなんとなくそういうことを躊躇わぬ雰囲気があったために納得できそうではあったが、今目の前で慈しむように亘を見る、さながら母親のようなこの女性にそんなことはできたものだろうか?ああ、そうだ僕も殺されてしまう。あの生き物を出して驚かなかったこのひとは、きっと同じような生き物を携えているのだろう。生物の中で最優と謳われる人間が、あのような生き物にいともたやすくやられてしまった。いや、人間を最優とするのは些か慢心しすぎかもしれないが、それにしてもあのような。
「たしかに、人間は生物の中で最も優れている。知能を持ち自我を持ち、理性を持ってしてこの世界を創り上げた。それは罪深い行為であっても、行為自体が創世主とも言える、人間は最優、それは間違っていない」少女は亘の心を読んだかのようにつぶやいた、
「だけどそれはこの世界での話だ」
聞き捨てならぬ、とんでもないことを。
「ぼく達のすんでいたところではその理論は間違っている。何が優れ、劣っているという概念がない。みんな平等に、それぞれの力を認めあって生きている。なにしろ、この世界ではいろいろな種類の生物がいるみたいだけど、こっちではちがうからね……人間とポケットモンスター、ただそれだけ。
ポケットモンスターっていうのは、そうだね、さっきアルが使っていた生き物がそれだよ。人間では使うことのできない能力を持ってしてその地位を確立している、異能者たち。最初は人間もそういう能力を持っていたらしいけど、やっぱりこっちの世界と同じような差別が起きてしまって、それで神様がみなから取り上げた。以来、人間は知能で、ポケットモンスターは力でお互いを支えている。ぼくたちが指示を出してポケットモンスターが戦うっていうのは主従関係のようだけどね、違うんだ、すくなくともアルもぼくも、共生しているつもり」
半ば信じられないような話を、亘は恐怖すら忘れて聞いていた。違う世界?異能者?ポケットモンスター?意味の分からない単語ばかりで彼女の真意が掴めないのだが、とつとつと吐き出される穏やかな口調のせいか、なんとなく話の整理がつくほどには頭が冷えてきた。このひとはちがう世界からやってきている、すごい力を持った生物とともに。かんたんなことだ。
「そ、それじゃ、エリ、さん……は、違うところから、きたっていう、こと」
「うん、そういうこと」
あと、呼び捨てでいいよ。ああ、まだ自己紹介もしていなかった、ぼくはエリシェ、よろしくね。小さな手を差し出してきたエリシェをじっとみつめた。やがて自分の手を重ね、亘は満足した。あたたかい。
「誰の許可を得てエリに触れている」
だからいつの間にか帰ってきていたアルと呼ばれる青年が口を開いたとき再び逃げていった体温が、なんだか惜しかった。
「ばかだねアル、ぼくは君のものじゃないんだけど」
にこにこ笑うエリシェの服の裾を亘はひしと掴んでいる。「いつからそんな変な考えを持つようになったの?」
「おまえと友という関係を結んだときからだ。俺の至高の宝を盗人にかっさわれてたまるものか」
「うん、うん、アルってそういう人だよね、話を続けよう亘」
先程までの和やかさを消し去った二人は、言葉を尽くしてすべてを亘に語った。彼らの目的、二つの世界、亘のわからないところは隅々まで解説してくれた。
ふたりが来た世界は亘たちの世界、つまり現実世界のひとびとの想像力から生まれた、遷世うつしよという場所なのだという。遷世は現実世界の裏側にぴったり張り付くように存在しているが、たまにその表裏一体のものに切れ込みが入ると、現実世界がうらがえって遷世がこちら側に現れ、行き来が自由になることがあるという。驚いたことに遷世のひとびとは現実世界というものを皆知っている。それなのに亘たちが遷世を知らなかったのはたぶんいつも裏返って切れ込みに巻き込まれるのは遷世だからだろうなあ、そのたびに大問題になるからね、とエリシェはため息を付いた。
「俺たちがこの世界に来たのはその切れ込みに関係がある。実は今年二十年ぶりに発生したそれがあまりに巨大化しすぎたせいで、悪属性のポケットモンスターたちが現世に入り込んでしまったのだ」
属性分け。ポケットモンスターという生き物たちを2つに分けるやり方の一つ。かれらにはそれぞれ善属性と悪属性が種族で決まっており、なまえのとおりの性格をもつ。
「悪属性のポケットモンスターが問題なのは、かれらが自分たちを知らない、つまり悪属性のポケットモンスターへの抵抗がない人間に入り込んで依り代にし、悪事を働き始めるからだ。遷世にて矯正することもやっているのだが、今回その効果がなかった者たちが本能的な快楽を求めてここに漏れ出してしまった。俺たちはそれを連れ戻し、またすでに入り込んだあとのそれらを依り代ごと殺すのが俺たちの役目だ。非道かもしれぬが、情に作用されてはいけないのが仕事」
「あの村は既にみんなが悪属性に浸っていた。だけどああそこは起点じゃない。だからぼくたちはこう考えた。外部から、その悪の塊を持ってきたひとがいる。都会からいろんな不良たちが来たのは覚えてるよね、あれが感染源だと推測している」
「感染するとわかったらまずは感染源を潰さなければなるまい。ゆえに閉鎖空間で感染が驚くほどに早かったお前の村を潰した、一番悪の密集度が高い、いつ遠足やらに行かれて山を降りられるかわからんからな」
「じゃあ、僕はどうして生きてるの?」
「君には、借りがあったんだ。毎回ぼくやアルがいじめられる度に手紙をくれた。心をかけてくれていた。それに……君が昔であった黄色い生き物を覚えてる?」
忘れるわけがなかった。愛くるしいつぶらな目で傷ついた亘を見上げたいきもの。今でも思い出せばちくんと胸がちぢむ。でもそれをどうして知っているの?すっかり元通りの落ち着いたこころで尋ねると、ふたりそろって安心したような表情をされた。こうしてみるとお父さんとお母さんみたいだと、とぼけたことを考えた。
「あのときおまえに話しかけたのは、俺だ」
「えっ」
「その借りの返しにと、エリが大事な退魔の晶石を使ったのだ。感謝しろ」
ああ、だからこんなにもなつかしい。今まで感じていた恐怖が消えて、初めてあらわになった感情だった。退魔の晶石、ポケットモンスター、遷世、とてつもなく意味の分からない言葉を聞いても、こんなにも現実離れしたうつくしいものを見ても、まだ不満があって、理解もできていないとしても、感動以前にそれがあった。なつかしい。なつかしくて、こんなにもうれしかった。
「亘、頼みがある」
やがて夜も絶頂にいたろうとしていた。月明かりがこんなにも明るいなんて、知らなかった。細い線が行く筋ものびて、水が流れるような自然な動きでゆるゆるとかがやいて、ふたたび亘にのびようとする細い少女の指をより神聖なものにする。とるのがこわいとおもうくらいに。
「ぼくたちといっしょに、来てほしい」
くちもとがゆるんだ。