少年の帰郷(1)
1.
波の音が聞こえた。
星砂で覆われた白い砂浜に寄せては返す波の音が。
ああ、これは故郷の音なのだ、と彼は思った。
少年の頃暮らしていたあの小さな島の。
その周りを囲むのは晴れ渡る青い空と揺らめく碧い海ばかり。
空は何者にも占領されておらず、海からの水蒸気を吸い上げてもくもくと成長した雲を背にキャモメたちがミャアミャアと鳴き交わしながら宙を滑っていった。
照りつける射すような日差しに目を細めながら海を見る。水平線の先に陸は見えなかった。遮るものがない。本当にここには空と海しかない。ごくたまに、青と碧の境目から船がやってくることがあるが、それくらいのものだ。
海面に視線を移す。波の音と鳥の歌に耳を傾けながら、今日の波は穏やかだと彼は思った。
ふと、海の底から大きな影が現れた。それはゆっくりと浮き上がって、海面に姿を現すと彼の風景に新たな音を加えた。
音と共に吹き上げられたのはしょっぱい水だった。
それは空中でキラキラと輝やくと、やがて海へと還っていった――
プルル……プルル……と、着信を知らせる電子音が響いた。ベンチで昼寝をしていた彼の、シワの入ったスボンのポケットの中からだ。
耳に届いたその音と衣服から太ももに伝わる振動に促されて、彼はけだるそうに起き上がるとポケットに手を入れる。機械的な感触を探り当てると引っ張り出し、チカチカと点滅で催促する電話をなだめるように通話ボタンを押した。
「……もしもし。ツグミです」
眠気を残した声で彼は答える。
「ああ、トシハル君かね」
電話ごしに聞こえたのは聞き慣れた上司の声。ディスプレイに映されていた着信元は彼の勤める事務所からだった。
「昼休みならまだ終わっていないはずですが」
自由時間を邪魔されるのは嫌いだったから、そう主張する。
「そんなことはわかっているよ」
そんな答えを想定していたかのように上司は言った。
「それなら何のご用でしょうか」
急な用件でも出来たのだろうか? 心当たりを想像しながらトシハルは尋ねる。
「それがな、さっき君のお母さんから会社のほうに連絡があって」
「……え、母からですか?」
彼は少し呆けた声を上げた。てっきりいつもかけてくる取引先だと思っていたのに意外な人物が浮上したものだ。
実家と不仲……というわけではない。けれどずっと連絡などしていなかった。
「なんでも急ぎの用らしいから、至急折り返して欲しいとのことだ」
「急ぎの用……」
「いや、僕もね、総務から聞いただけだから」
「はぁ……」
「とにかく、早いとこ連絡してあげなさいよ」
「はい」
「それと」
「それと?」
「君、ご両親に携帯の番号くらい教えておいたほうがいいんじゃないかね。会社用とはいえ、緊急のこともあるだろうし」
いろいろと想像をめぐらせるトシハルに彼の上司は助言する。コンテストの観戦が趣味だという上司は良くも悪くもお節介な男だった。通常、社用携帯というものの使用にはいろいろな制約があるものだが、彼らにそれを支給した会社組織はそれらの私的利用に比較的寛容であったのだ。
「え……ええ。そうしたいのは山々なのですが」
そんな上司の気質と社内事情を十分に理解した上で、トシハルは答える。
「何か問題あるのかい」と、上司が尋ね、それに答える形で彼は続けた。
「はい、僕の実家なんですけれど、あいにく圏外なものでして」
皮肉交じりに答えた。
トシハルの故郷、それはホウエン最大の都市のはるか沖合い、遠い南の海の果てにある。同じホウエン民でもその存在を知る者は非常に少ない。もちろんそんな場所だから携帯の電波など届くはずもなかった。携帯というものが世の中に普及して久しい。それなのに未だにである。
いや、本当は嘘なのだとトシハルは内心に呟いた。圏外。その一言で何も考えずに聞いているとうっかり騙される。現に上司は騙された。だからメカに疎い彼の両親への説明もそれで一発だった。たしかに携帯同士ならそういうことになる。が、母親が使ったのは固定電話のはずだ。圏外とはいえ、固定電話が圏内携帯にかけることは造作もない。つまり、嘘だ。本当を混ぜて作った、嘘だった。
トシハルは携帯の電源ボタンを押して電話を切り、元の場所に仕舞い込むと、腰掛けている公園のベンチから空を見上げた。
ホウエン地方最大の都市、ミナモシティ。
空には何本もの巨大なビルが伸びて、高さを競い、彼を見下ろしている。電柱を機軸にした電線がまるで空を切り分けるように何本も張り巡らされていた。トシハルは思う。都会の空は狭い空だと。まだ止まぬ晩夏の蝉の合唱に混じって、道路を走る自動車の走行音が交差する。あのころとは違う空、そのころとは違う周囲の音。これが今彼の生きる場所だった。
とりあえずは携帯で無い電話を会社からかけよう。と、彼は思った。離島の固定電話が圏内携帯にかけることが出来るように、その逆も造作なかったし、母との仲が険悪なわけでもなかった。だが、彼は故郷の島と自分との間に一定の距離を置くこと、それを心掛けてきた。それに則るとするならば、母にかけるのは固定電話からでなくてはならない。おそらくメカに疎い母に「履歴」という概念は無いだろうが、そうしなくてはなるまい。
彼はベンチから腰を上げると、勤務先のオフィスが入っているビルジャングルに向かって歩き出した。
――もしもし、母さん? 僕だけど。
線が通った電話の、その受話器の向こうから彼は久々に母の声を聞いた。
――トシハル? ああ、よかった! アパートの管理人さんに電話したけどいないって言うし、会社のほうにかけちゃったの。ごめんね、忙しかったかしら。元気にしてる?
大丈夫だ。元気にしている。そんなことを答えた。受話器の向こうから母の声が近況を伺う質問という形で耳に入った。仕事は大変ではないか、部屋は散らかっていないか。そんな質問だ。その声は何か重要なことを切り出すタイミングを伺っているようでもあった。
トシハルはちらりと会社の時計に目をやった。長い針がもう少し回ったらてっぺんを指しそうな角度だった。
――それで? 急用があるって聞いたんだけど。
――ええ、それがね………
そう言って母親は本題を切り出した。
その話は長いようにも思えたし、短いようにも思えた。
「…………、……」
二言三言返事をした後に、訪れたのはしばしの沈黙だった。状況を整理しかね、彼は無言になった。昔からそうなのだ。相手の言っていることが理解できないと無言になってしまう。何と返して良いかわからなくて、言葉が出てこないから、無言になってしまうのだ。
――…………トシハル? トシハル聞こえているの。
母の声が聞こえて、聞こえている、と彼は答えた。
それはあまりにも唐突だったから。うまく咀嚼ができなかった。
「いつ……?」
――……昨日よ。突然でね。
「……予定は?」
――まだちゃんと決まっていないけれど、三、四日後になるだろうって話だわ。人手もいるっていうし、かといってそう何日もそのままにしておくわけにもいかないしね。だから、残念だけれど……
そんな内容を母と何度か繰り返した。そのうちに聞いているのが困難になった。頭がぐらんぐらんと軽く揺れている感じだった。
けれど一度入った言葉は、彼の頭の中でぐるぐるぐるぐると回って、せきたてる。どうするんだ。結論をだせ、と。
ああ、いけない、冷静になれ。内容を整理しなくては。そう思ってブレーキをかける。けれど大した効き目は無かったようだった。何個かの選択肢を考えた。けれど、行き着く先は結局同じだった。
――…………だからね、トシハルには船が出次第でいいから帰って来て欲しいの。お母さんもお父さんも……ううん、みんなあなたを待ってるから。
最後に彼の母はそう言って電話を切った。
どれくらい話を聞いていたのかはわからない。ただ、彼が受話器を置いたその時には、もう周りの会社員達が午後の仕事にかかっていて、せっせとキーボードを叩いたり、電話をかけたりしているところだった。
あれ、そういえば結局何て答えたんだっけ。とトシハルは自問する。頭は混乱したままだった。
うん、わかった……必ず行く。
とりあえずそのように答えた気がする。
波の音が聞こえた。
星砂で覆われた白い砂浜に寄せては返す波の音が。
電話越しからちっともそれは聞こえなかった。それなのに。
否、聞こえたのではない、再生されたのだ。彼の記憶が響かせたのだ。鼓膜に染み付いたその音を頭はしっかり覚えているのだから。
その音がまるで何かを訴えかけるかのようにトシハルの中に響き渡って消えなかった。
ひさしぶりにかけた実家への電話、ひさしぶりに聞いた母の声。
故郷を出てから十年以上の歳月が流れていた。
「ミナモ港までお願いします」
改札から飛び出したトシハルがバックミラーに映る運転手の顔にそう告げると、モンスターボール型のランプを点灯させた黒いタクシーが大都会の道路を滑るように走り出した。
彼が電話を切って、すぐに行ったことはパソコンの電源を落とすこと、そして上司の説得だった。彼が願い出たのは早退と相当数に溜まっていた有給の消化だった。幸い繁忙期ではなかったこともあって、コンテスト好きの上司はそれを了承してくれた。
まぁ、ポケモンリーグ開催の時なんかみんなサイユウやらバトルカフェに行っちまって、一週間は会社が空になるからな。その点お前はポケモンには興味ないみたいで大助かりだ。他のやつらの隙間をよく埋めてくれているし、助かってる。よくわからんが行ってこいよ――彼の要領を得ない説明を理解したのかしないのか、とにかくそう言って、送り出してくれた。
ミナモ美術館前、ミナモ美術大学前、ミナモ市役所前――トシハルを乗せたタクシーは様々な交差点を通り過ぎて、しばらくの間海沿いの道を走っていたが、やがて船着場前に止まってドアを開いた。
「ありがとう」
トシハルは運転手にいくらかの料金を支払うとタクシーから飛び出した。
とにかく船に乗らなくてはならない。そのことで頭がいっぱいだった。
フゲイ島。
それが彼の故郷である島の名だ。ミナモからの距離はおおよそ700キロメートル。
まずはミナモ港からロケットの島、トクサネ行きの船に乗る。海路を南下してトクサネの北に着いたなら、路線バスに乗って南下。ロケットの発射場を横目に見ながら南の突端を目指す。南端の小さな港に行き着いたなら、そこからはまた海路である。
この港からは主に南南西の方角にあるサイユウ行きの船が出ているが、ごく少数、南南東行きの船が混じることがある。
フゲイ島行き。
これこそがトシハルの乗るべき船だった。
幸いにも毎年サイユウで開催されるポケモンホウエンリーグのおかげで、このルートでは情報網が整備されていた。サイユウ行きと言えばホウエン北部のカナズミシティからの空路というメジャーな方法がある。だが、ホウエン南部の住民にとっては少々面倒なルートだった。だから南部のシティやタウンの人々はもっぱら船の旅を楽しんだのだ。だから、何日の何時にミナモ港を出れば、何時のバスに乗れ、トクサネの南端で何時の船に乗れるのか。それはミナモ港で調べてもらうことが出来るようになっていた。フゲイ島は相当にマイナーな行き先であるにもかかわらず、リーグの為に整備された海路検索システムの恩恵に預かっていた。
便利な時代になったものだ。
お陰でそれがトシハルに非情な現実を突きつけるのには時間がかからなかった。
「フゲイ島行きの便は十二日後でございます」
笑顔でパソコンのキーをたたくオペレーターの一言にトシハルはさっそく撃沈した。
行き当たりばったりにも程があった。
馬鹿かトシハル、お前の実家は携帯も届かないほど過疎で、マイナーな所なんだぞと、彼は今更ながらに思う。
思い出した。実家への定期便は二週間に一度しかないのだ、ということを。
ミナモシティはホウエン屈指の大都会だ。すぐにつかまるタクシー、五分に一度は来る電車、そういう感覚こそが当たり前で、十年という歳月が彼の認識を鈍らせていた。
母が言っていたことを思い出す。
船が出次第すぐに帰って来て欲しい、とはすなわちそういう意味だった。
けれど……とトシハルの胸に去来するものがあった。
「……急用なんです。どこかアテはないでしょうか」
期待などしていない。だが、言うだけは言ってみようと思って彼は言葉を口にした。
「そう言われましても……」
と、オペレーターは冴えない返事をする。
「そう、ですよね……」
どうしよう、せっかく休みまでとってきたのに。早くも手詰まりか。
帰らなくてはいけない。帰らなくてはいけないのに。早くしないと、でないと……。
トシハルの中で気持ちばかりが焦ってぐるぐると頭の中を駆けずりまわっていた。
「もしかして、あそこの島の方ですか」
オペレーターは世話話のつもりなのかそんな疑問をぶつけてくる。
「……そうですけど」
「へええ、その割にはオシャレですねぇ」
「は、はぁ。まあ、こっちにきて長いですから……」
おいおい一体どういうイメージでうちの島を見てるんだよ……とトシハルは内心に突っ込んだ。同時にその一言は彼の中に妙な引っ掛かりを残した。
もしかすると、ショックだったのかもしれない、と彼は思う。たとえ離れても島民であるという意識が彼の中にあったのかもしれなかった。同時に馬鹿らしいと思った。どの口を開いて自分が島民だと主張するのか、と。
「まぁもはや元島民と言ったほうが適切かもしれませんけど」
トシハルは歯切れ悪く返事をする。
「それで、本当に何か方法は無いでしょうか。多少料金割り増しになっても構わないです。どうしても二、三日中に島に行きたくて……」
そうして彼はオペレーター嬢を前に粘り続けた。しかし、無いものは無かった。ここで一人オペレーター嬢を困らせたところで増便が出るはずも無かった。
「おい、にいちゃん、あんまりうちのコを困らせないでもらえないかね」
とうとう別の部屋からオペレーター嬢の上司らしき男が出てきて、いさめられてしまった。いかにも船乗りといった風貌の恰幅のいい男だった。
「で? その元島民のにいちゃんが一体何しに帰るんだ」
オペレーター嬢が去って、今度はその上司との面接状態になった。
接客用カウンターを挟んで、細椅子に腰を下ろした男が二人、向かい合っていた。
船が出ないのに理由を聞いても仕方ないだろう、とトシハルは思ったのだが、なぜだか男は聞いてくるのだった。
「何しに帰ると聞いてるんだ」
「いや、それはその……」
「はっきりせんかい!」
トシハルが返事に詰まると、男が喝を入れてくる。何の圧迫面接だろうと彼は思った。
船のチケットを取りに来ただけで妙な展開になってしまったものだ。
「……大事な用があるんです。うまく言えないけど、大事な用なんです。今すぐに向かいたいんです!」
まただ、と彼は思った。思考が言葉という媒体になる前にぐるりと方向転換して、結論にストップをかける。具体的な事象を音にすることを拒否した。頭が、口がそれを拒んでいた。
言わない。言ってはいけない。まだ、言ってはいけない。
「お願いします……十二日後じゃ間に合わなくなるんです。お願いします!」
まだ言葉にしては、いけない。
「僕は……」
……確かめなくちゃ、いけない。
そう言い掛けて出掛かった言葉を飲み込んだ。
「…………」
男は神妙な顔をし、トシハルの顔を見た。
目と目があった。ほんの少しの沈黙が続いた。
「……そうかい」
と、男は言って、胸元のポケットに刺さった携帯を取った。結局、内容はわからず仕舞いだった。だが、目の前にいるひょろっとした男の中で何かが切迫していることは感じ取ったようだった。
「あー、もしもし、ゲンゴロウさん? 忙しいところ悪いねー。あのね、今こっちにクジラ島に行きたいっていうおにいちゃんが来てるんだけどね……」
などと話し始めた。
「うん、うん、わかった。じゃあ待ってる。悪いねェ。ああ、そういえばトクサネは最近どうよ。うん、また今度ロケット見に行くからさ、そんとき飲もうよ」
「あの、」
「ちょっと知り合いのツテでだな、トクサネの港から出る漁船で、あっち方面まで行く船がないか探して貰ってる。ただし、これで見つからなかったら船は諦めるんだな」
「……! あ、ありがとうございます!!」
トシハルは男に深々と頭を下げた。
確かめる。
そうだ、とトシハルは思った。それが今言葉に出来る精一杯だった。
確かめる。そうとも、僕は確かめに行く。その為に島に行くのだ。
――そうだ、トシハル。お前は確かめなければならないんだ。
いつのまにか自分にそう言い聞かせていた。