ある裏山の話
私の学校の裏山は春になるとそりゃあ見事なものです。
というのも昔、この土地を治めていた殿様が桜を植えさせたらしく、毎年三月にもなると山が薄いピンク色に染まるのです。
だからこの時期になると学生も先生達もみんなお弁当を持って、競うように裏山に行きます。
桜の咲き具合が綺麗な場所をみんなして争うのです。
この為に四時限目の授業を五分早く切り上げる先生がいるくらいです。
けど、今日の先生はハズレでした。数学の先生は時間きっちりに授業を終わらせるから、今日はいい場所がとれませんでした。おまけに私のいる二年五組ときたら、学校の玄関からは学年で一番遠いのです。
案の定、山を歩いても歩いても、いいところはすでに他学年や他クラス、先生達に占拠されていました。
私は落ち着く場所を求めて、裏山を上へ上へと登っていきました。
けれども上に登っても登っても、良い場所はもう陣取られているのでした。
あまり高くはない山でしたから、結局私は一番上まで行ってしまいました。
「ここは咲きが遅いんだよなぁ」
私はぼやきました。
山の一番てっぺんのあたりは、麓とは種類が違う桜であるらしく、満開の花が咲くのがしばらく後なのです。今はようやく蕾が膨らんできた程度でした。幹が立派な桜が多いのですが当然あまり人気がなく、人の姿は疎らでした。
しかし贅沢も言っていられません。私はそこにあるうちの一本の下に座り込むと、弁当の包みを解き、蓋を開けました。
今日のお昼ご飯は稲荷寿司です。それは母にリクエストして詰めてもらったものでした。
「今日はいい天気だなぁ」
私はそう呟いて、稲荷を一つ、口に入れました。
そうして、頭上で何かが揺れたのに気がついたのは、その時でした。
稲荷を頬張りながら上を見上げると、黄色い大きな目が印象的な緑色のポケモンが桜の枝の上からこちらを見下ろしています。
それはキモリでした。初心者用ポケモンとして指定されているだけあって、我々ホウエン民にはなじみのあるポケモンです。
弁当狙いだな、と私は思いました。学校近くに住む野良ポケモン達はみんな学生の弁当を狙っているのです。スバメやオオスバメに空中から、おかずやおにぎりをとられたなんて話はよく聞きますし、私もやられたことがあります。ましてや学生達が自ら進んで裏山に入るこの時期は彼らにとっては絶好のチャンスなのです。
「悪いが食べ盛りなんでね」
私はそう言うと弁当の蓋で残り五つほど並んでいた稲荷をガードしました。
キモリは不満そうな視線を私に投げましたが、それ以上はしませんでした。てっきり技のひとつも打ってくるかと思って少々身構えたのですが、そこまでする気はないようでした。技を使って強奪するまでは飢えていないということでしょうか。
それならば場所を変える理由もあるまいと、私は蓋を少し上げて、二個目を取り出し、口に入れました。
その時、
「ふーむ、今年も駄目だのう」
不意に後ろから声が聞こえて、私は声のほうに振り向きました。
見ると、古風な衣装を纏った男が一人、一本の桜を見上げながら呟いているところでした。
変な人だなぁ、と私は怪しみました。
男の衣装ときたら、なんとか式部やなんとか小町が生きている時代の絵巻の中に描かれた貴族みたいな格好なのです。その一人称がいかにも麻呂そうな男が、地味な衣を纏った男を一人伴って、葉も花も蕾もついていない桜の木を見上げているのでした。
「もう何年になるか」と、麻呂が尋ねると「十年になります」と従者は答えました。
「仕方ない。これは切って、新たに若木を植えることにしようぞ。新しい苗木が届き次第に切るといたそう」
しばらく考えた後、麻呂は言いました。従者と思しき男も同調して頷きます。
「では、さっそく若木を手配いたそう」
「できれば新緑の国のものがよいのう。あそこの桜は咲きがいいと聞く」
そのような相談をして、彼らはその場を去っていったのでした。
後には裸の桜の木が残されました。
私はなんだかその桜の木がかわいそうになりましたが、咲かないのでは仕方ないかなとも思いました。
改めてその木を見上げましたが、葉もついていませんし、花はおろか蕾もついていません。周りの桜は満開なのに、ここの木だけ季節が冬のようなのです。この木が春を迎えることはもうないように思われました。
立派な幹なのになぁ、と私は思いました。きっと最盛期には周りにの木にまけないくらい枝にたくさんの花をつけたに違いありません。私の視線は幹と枝の間を何度も何度も往復もしました。
そして、何度目かの上下運動を終えた頃に幹の後ろで蠢く影に気がついたのでした。
「おや」
と、私は呟きました。幹の後ろから姿を現したのはジュプトルでした。
ジュプトルはキモリの進化した姿です。その両腕には長くしなやかな葉が揺れていました。
「ケー」
ジュプトルは沈黙を守る桜の木に向かって一度だけ高い声で鳴くと、ひょいひょいと跳ねながら颯爽と山を下りていきました。
森蜥蜴の姿が消えた時、いつの間にかここは夜になっていました。あれから何日かが経ったようで、月に照らされた山の中で周りの桜が散り始めていました。まるで何かを囁くように花びらが風に舞い散っていきます。穏やかな風が山全体に吹いていました。けれど老いた桜は裸の黒い幹を月夜に晒したまま、沈黙を守っているのでした。
山の麓のほうから何者かがこちらに登ってきたのが分かったのは、月が雲に隠れ、にわかに風が止んだ時でした。それは、先ほどこの場を去っていたジュプトルの駆け足とは対照的な、落ち着いた足取りでした。そうして、月が再び天上に姿を現した時、その姿が顕わになりました。
花の咲かぬ桜の木の前に現れたのは、背中に六つの果実を実らせた大きなポケモンでした。その尾はまるで化石の時代を思わせるシダのようでありました。
それはジュカインでした。キモリがジュプトルを経て、やがて到る成竜の姿でした。
「ケー」
ジュカインは低い声で桜に呼びかけました。
そうして、自らの背中に背負った種を引きはがしにかかりました。まるで瑞々しい枝を折るような、枝から果実をもぐような音がしました。密林竜は一つ、また一つ、全部で六個の果実を自らの手でもいだのでした。
もがれた果実は桜の木を囲うようにその根元に埋められました。ジュカイン自らが穴を掘り、丁寧に埋められました。
「ケー」
ジュカインは再び低い声で鳴きました。
その時急に、止んでいた風がびゅうっと強く吹きました。
嵐のように、桜の花びらが一斉に飛び散ります。花びらが顔面にいくつも吹きつけて私は思わず手で顔を覆い目をつむりました。
そして再び風が止んだ月夜の下、再び目を開いた私は、不思議な光景をまのあたりにしたのでした。
先程まで蕾のひとつもついていなかったあの裸の桜の木が、満開の花を咲かせていました。
月夜の下で、まるで花束を何本も持ったみたいに枝にたっぷりの花が咲き乱れているのです。
ついさっきまで、見えていた月が桜の花に覆い隠されているのです。
あまりに劇的な変貌を遂げたその光景が信じられず、私は目何度も瞬きをしました。
「ケー」
ジュカインが満開の桜を見上げ、鳴きました。
風が吹きます。まるで答えるように桜の枝がざわざわと鳴りました。
桜の花びらがひらりと舞って、密林竜の足下に落ちました。
それからはまるで早送りのようでした。
みるみる花が散っていき、葉桜となることなく、再び木は裸になったのでした。そうして沈黙を保ったまま、今度はもう二度と答えることがありませんでした。
瞬きをする度に時が移って、いつのかにか木は切り株となっていました。いつのまにかその隣に新たな苗木が植えられたことに私は気がつきました。
桜はいつか散るが定め。
最後に大輪の花を咲かせた後、老いたる桜はこの山を去ったのでした。
昼休みの終わりを告げるベルが聞こえて、私は薄く目を開けました。
「……あれ?」
いつの間にか木の下でうたた寝していたことに気がついて、私は間抜けな声を上げます。
キンコンとベルが鳴っています。
「やべ、戻らないと」
すぐに五時限が始まってしまいます。
私は、すっかり殻になった弁当箱に蓋を乗せると元のように包みで来るんで、校舎に向かって駆け出しました。