遅れてきた青年
第九話「くらい ろうか」
ぽけもんは しずかにこたえた
おまえが つるぎをふるい なかまを きずつけるなら
わたしたちは つめときばで おまえのなかまを きずつけよう
ゆるせよ わたしのなかまたちを まもるために だいじなことだ

「トバリの しんわ」より





●第九話「くらい ろうか」





 ――ガブリエルを使ってみませんか。
 あの時、青年はそう提案してきた。
 その提案には大きく二つの思惑があったようだ。ひとつめは来たるべきバトルへの準備のため、そしてもうひとつは彼のいらぬおせっかいのため。
 提案を受けたノガミにはいろいろ思うところがあったが、それが訓練のメニューならば、と承諾する。
 青年が目の前にいたこともあったろうが、自分の主人でもないのに「彼女」はよく言うことを聞いてくれた。
 それは、ガバイトの力を大きく超えたものだ。比較にならない。ああ、ガブリアスとはこういうものか、と彼は実感する。この強さに憧れて自分はフカマルを探し出し、捕らえて、育て始めたのだ。
 だが、同時に少し惨めにもなった。知るべきではなかったかもしれない、と思った。きっとこの先、自分がこの力を手にすることはないのだから。
 諦めろ。いつかなんて期待なんかしていても傷つくだけだ。


 暗い廊下で青い炎が燃え上がっている。
 見間違いでないのなら、この冷たく燃える炎は鬼火だ。
 ゴーストポケモンや、一部の炎ポケモンが得意とする炎の技。
 彼のギャロップ……か? 一瞬ノガミはそんなことを考えたが、すぐに否定された。青年のポケモンはシロナとのバトルで、皆戦闘不能のはずなのだ。
「ノガミさん、ポケモンの皮を被った人間の話を知っていますか?」
 と、青年が問うた。

『もりのなかで くらす ポケモンが いた』
 青年の頭の中で何者かの声が再生された。
 彼は回想する。暗い廊下の先での出来事を。今ならばはっきりと思い出せる。
『もりのなかで ポケモンは かわをぬぎ ひとにもどっては ねむり また ポケモンの かわをまとい むらに やってくるのだった』
 廊下の先にいたものが語ったのは、シンオウの昔話の一節だった。

「彼は、森の中で皮を脱いでは人間に戻り、村を訪れるときは、ポケモンの皮をまとってやってきた。一体どちらが本当の彼なのでしょう? 誰も人間である彼を知らない。もしかしたら、彼だって自分が本当にポケモンだと思っているのかもしれない」

『今からお前は、その逆をやる』と、声の主は言った。

「だから、俺はこう考えたのです。昔は人もポケモンも同じものだったのなら、ポケモンにも人間にもなれるのではないかと」
 鬼火が燃え上がる。青年の周りにいくつも灯って、数を増やしていく。

『だからイメージするがいい。お前は誰だ? 何者になりたい? どうありたい?』
 深遠の者の問いに青年は答えた。

「俺はアオバだ」
 鬼火が揺らめく。影が躍りだす。ノガミのボールにかける手が震えているのは恐怖からなのか。無知からなのか。うまく掴むことができない。
「俺はポケモントレーナーの、ミモリアオバだ」
「コクヨウッ!」
 ノガミの声が暗い廊下に響き渡った。腰のボールが赤い光を放って、ガバイトが現れる。
 彼は何が起こっているのかはわからなった。だが、ここは通さないと思った。規則に準じるのが自身の仕事だからだ。
「けれど、必要ならばイメージしよう。俺はポケモンだ。技だって使える。あなたのガバイトと一戦交えて勝ってみせる。やらなくちゃならないことが残っているんだ」
 ガバイトが青年に向かって飛び掛った。
 もはや彼は青年を人間としては見ていなかった。目の前にいるのは一匹のポケモンだ。
「ドラゴンクローッ!」
 硬質化させたヒレを、青年に向かって振り下ろす。
 青い炎が廊下に影を映し出す。竜の爪を太い腕のシルエットが受け止めていた。目の前でそれをやっているのは人間の姿をしているというのに。その影の名をノガミは知らなかったが、ゴーストポケモンの一種、サマヨールによく似ていたと思う。

 ぽけもんは しずかにこたえた
 おまえが つるぎをふるい なかまを きずつけるなら
 わたしたちは つめときばで おまえのなかまを きずつけよう

 ゆるせよ わたしのなかまたちを まもるために だいじなことだ

「俺は負けない。ネガティブなイメージしか抱けないあなた達に、俺は決して負けない」
「黙れ! お前に何がわかる! 私達の欲しいものすべて持っているお前なんかに!」
 ガバイトとノガミの叫びが闇に木霊した。
 次の瞬間、数を増やした鬼火が一気に膨れて、溢れ出した。
 青が迸る。輝く鬼火が廊下を侵食していく。眩しい。眩しくて、目が眩む。
 ノガミは思う。
 ああ、僕はどうして、操り人が竜を駆るのを遠目に見るだけで、満足できなかったのだろう、と。欲しがりさえしなければ、こんな思いをくすぶらせずに済んだのに。
 そうさ、いつかなんて期待なんかしているから傷つくんだ。僕はもう、夢は見ないと決めたんだ――
 影が躍る。青い炎がすべてを焼き尽くしていく。


「シロナさん、決勝進出おめでとうございます!」
「一言コメントをお願いできますか!?」
 報道陣がシロナの周りに詰め掛けた。だが、彼女は適当にそれをやりすごすと、押しかける人の波をなんとか押し分けて、ドダイトスを回収し、逃げるように去っていった。まったく、せっかく念願叶ってアオバに勝ったというのに、自分のポケモンをねぎらうヒマもありはしない、と彼女は思った。
 彼女は、スタジアムと廊下との間にある扉をしっかりと閉めると、廊下を渡って控え室へと向かう。
 昨日のことが気になっていた。思えば、つい頭に血が上ってずいぶんひどいことを言ってしまった気がする。早く控え室に戻ろう。そして彼に会おう。
 彼が自分をどう思っているかは知らない。けれどずっと心に決めていたことがある。
 伝えるんだ。彼に。
 彼女は階段を駆け下りて、廊下を走っていく。
 そんな彼女が、廊下に倒れたノガミとガバイトを見つけるのにそう時間はかからなかった。
「ノガミさん!?」
 駆け寄ったって声をかける彼女に、ノガミが弱々しく目を開ける。
「ちょっと、何があったのよ」と、問う彼女に、
「ハハ、情けないな、トレーナーにも勝てないなんて」
 そうノガミは言った。
「なに? 何を言っているのよ」
 彼女はわけがわからなさそうに尋ねる。ノガミは一瞬、言ってもいいものかどうか悩んだが、
「アオバさんにやられたんですよ」
と答えた。そして、こう続けた。
「笑ってくれていいんですよ。僕達はこんなにも弱い。アオバさん本人にすら勝てなかった」

 それからノガミはシロナに語った。ことの顛末を。
 だが、荒唐無稽というかとても信じられるものではなかった。
 この人は彼が嫌いなあまり、とうとう気がおかしくなってしまって、変な作り話をはじめたのではないかと、そう彼女は思った。
「あなたは、鬼火に焼かれたっていうけれど、あなたもガバイトも火傷ひとつ負っていないわ」
 そう、彼女は指摘する。
 すると、ノガミはそんなはずはないと自分の身体とポケモンを見る。火傷はおろか、衣服さえ焦げてはいない。それでは廊下は? 彼はあたりを見回す。だが焼け焦げた後などどこにもありはしなかった。
「焦げていない……じゃあ、あれはなんだったんだ」
「ノガミさん、いい加減にしてよ。アオバはどこ?」
 いらいらした様子でシロナが言う。
「アオバさんの居場所……」
 ノガミははっと思い返した。そうだ、自分は知っているではないか。「本当の」ミモリアオバの居場所を……。
「シロナさん、ついてきてください」
 と、ノガミは言った。
 今自分は、とても残酷なことをしようとしている。こんなに彼のことを思っている彼女に、重い事実を伝えねばならない。


 受話器を持つシロナの頭の中は、真っ白になった。
 電話の受話器を下ろして彼女は呆然とする。受話器を持つ手がカチャカチャと震えていた。
 この人達は何を言っているのだろう? そんなことを自分に信じろというのか。
 だが、ノガミから教えられた電話番号、彼の言うままに電話をかけて、知った真実はノガミと同じものだった。
「まったく、ノガミさんも手の込んだいたずらするのね? これは何? 決勝進出のドッキリか何か?」
「シロナさん……」
 ノガミは悲しそうに、首を振る。
「だって、いたじゃない。アオバずっといたじゃない。じゃあ、私達と一緒に過ごしていたのは誰だったのよ」
「僕だって、悪い冗談だと思いたいですよ。でもあれはアオバさんじゃないんだ」
「だって、アオバずっと記憶喪失で、やっと記憶が戻って、それで」
「それこそが、別人の証だったんじゃないですか? あなたからアオバさんの情報を聞き出すのが目的だとしたら?」
 ノガミがたたみかけるように言った。それを聞いているのか聞いていないのかシロナはしばらく黙っていたが、やがて呟くように
「本当……今回の大会はおかしいわね。来てみれば倒すべき相手が記憶喪失、勝ってみれば彼は死んでいた? 本物じゃない? 本当にどうなっているのかしら」
 と、言った。それは呆れたようにも、涙声のようにも聞こえた。
「シロナさん、残念ですが彼はもう…………」
「もうよして! 冗談は、記憶喪失だけで十分なのよ」
「シロナさん」
「……私、行ってくる」
「行く? どこに?」
「アオバのところよ。きっとまだ遠くには行ってないわ」
「シロナさん!」
「だって、あれがアオバじゃないなら誰だって言うの!」
「現実を見てください。アオバさんは二週間前に亡くなったんだ」
「私は、まだ信じちゃいないわ」
「シロナさん!」
「私が信じなかったら誰が彼を信じるの!」
「信じるだけじゃどうにもならないことがあります」
「どうして! どうしてあなたはそう信じられないのよ! トレーナー業に挫折するはずだわ! そんなんだからバトルに勝てないのよ!」
「……! 言っていいことと、悪いことがあります!」
 ノガミがカッとなって叫んだ。話したのか、あの人は!
「そこにいるガバイトの進化だってそう。あなたが信じなくて誰が信じるっていうの?」
 シロナが指差す。彼の隣できょとんとしている黒色のガバイトを。
「それとこれとは関係ない!」
「関係あるわよ!」
「ありませんよ! あなたはどうして、そうムチャクチャな論理を展開するんだ! 受付の時もそうだった」
「ムチャクチャで悪かったわね。あいにくそういう性分なのよ!」
 シロナは叫んだ。止めるノガミに目もくれず、スタジアムの外へと飛び出した。
 探さなくては。彼を探さなくては。だって、まだ彼に言っていない。――伝えていない。

 スタジアムの外は相変わらずにぎやかだった。商売どきとばかりに屋台に照明が灯りはじめる。昨晩、青年と歩いたその道を彼女は彷徨っていた。
 何も考えずに飛び出してきてしまったが、どこを探したらいいのだろう?
 もうすぐ日が落ちる。焦りばかりが、募っていく。
 シロナの頭の中では、二つの意見が対立していた。
 ――あれはアオバさんじゃないだ。
 ノガミの言葉が、シロナの頭に響く。彼女はその言葉を必死で振り払った。
 だって、みんな青年の言うことを聞いていたではないか。ガブちゃんも、ラミエルもゼルエルだって、と思い直す。彼らが自分の主人以外の言うことを聞くとは思えなかった。
 けれど、大会初日のあのとき、手持ちの波導ポケモンは青年の気配を感じることができなかった。最初は人が多すぎるからだと思っていた。でも、それは青年が別人ならすべて説明がつく……。
 議論は終わらない。行ったり来たり同じ道筋を繰り返す。
 それでも彼女は走った。
 今を逃してしまったらもう二度と会えない――――そんな気がしたからだ。
 それにだ、本当に今までの青年が偽者だとすれば、彼から彼の持ち逃げしたポケモンを取り戻さなければならないではないか。結局、躊躇している暇などないのだ。
 彼は、ミモリアオバはどこに居る?


「お前は行かないのか、ノガミ」
 カワハラの声が聞こえた。いつの間にか、ノガミの後ろに立っていた。
「いらっしゃったんですか」
 ノガミが機嫌悪そうに言った。
「お前さんと可愛い子ちゃんが連れ立って歩いていくのが見えて、な。こっそりついてって断片的にだが、話は聞かせてもらった。にわかには信じがたい内容だが」
「私だって信じたくないですよ」
「そうだな。唯一確かなのは、手続き上のこととはいえ、協会管轄下のポケモンが持ち去られたって事だけだ」
「……痛いところをついてきますね」
「だから、取り戻しにいかないのかと聞いている」
「…………無理ですよ」
 シロナの出て行った方向を見つめながらノガミは言った。
「僕は、シロナさんみたいにまっすぐじゃない。あんなに信じることはできないし、強くない。行ったところで返り討ちです」
「問題発言だな。お前の一番嫌いな職務怠慢だぞ、それ」
「僕は想像できないのです。僕達が勝つところも。コクヨウの進化も。結局のところ、あのアオバさんが何者なのか僕にはわかりません。けれど言っていることは的を得ていた。頭にくるくらいに。ネガティブなイメージしか抱けない僕達は、決して彼に勝つことはできない」
「お前は、それでいいのか」
「どうにもできないことが、あります」
「ノガミ、」
「なんです」
「見るんだ、お前のポケモンを。そして想像しろ」
「は?」
 カワハラの突然の提案に彼は驚いた。どうして僕の周りの人たちは、むちゃくちゃで、ぽんぽんと思いついたことを口にして、僕を振り回すのだろう。
「いいから見ろ!」
「わかりましたよ」
 ノガミは渋々と、自分のガバイトに、コクヨウに視線を投げる。コクヨウがきょとんとして首をかしげた。
「そいつをよーく見て、想像する。こいつの未来を。まず全体的に図体がでかくなる。背が伸びて、ヒレが伸びて、ついでに顔つきがますます凶悪になる」
「…………」
 カワハラの珍妙な言い回しに少々呆れながらも、ノガミはコクヨウを見た。変わらない。トレーナーを引退すると言ったときと同じ姿だ。が……

 青い炎が、灯った。
 眼前に映るその光景が信じられずに彼は瞬きをする。
 だが炎は消えるどころか、いくつにも増えて、ガバイトを照らしている。
そうして、それがガバイトの身体に次々に吸収されていった。
 青が迸る。青い光がみるみる竜の身体を成長させていく。はじめに背が伸びる。ヒレが伸びる。最後に尾が伸びて――このシルエットを彼は知っていた。
 眩しい。眩しくて、目が眩む。
 これはあの時の続きなのだろうか。青色の炎に網膜を焼かれて自分の目はどうかしてしまったのだろうか。幻視の中で、青年の言葉が思い出される。

 ――ゴーストが使う技は精神的に来るものなんじゃないでしょうか。ダメージを受けた相手がダメージを受けたと思うから、ダメージを受ける。
 ――たとえば、幻覚。見えている本人には、たしかに見えているんです。
 ――もしかしたら、祖母の見たそれは彼女のゲンガーが見せた幻か何かだったのかもしれない。でも祖母はそれを本気にした。

 ポケモントレーナーを引退したあの日、もう夢は見ないと決めた。想像しないと決めた。
 それからほどなくしてポケモン協会に入った。安定した生活、悪くはなかった。旅をしていたころほどではないけれど、週末にだって仕事から戻った後だって、ポケモン達をかまってやることはできる。
 それなのに、どうして僕はこんな気持ちになるのだろう?
 なんだか胸の中がかゆいようで、けれどそれをどうにもできなくて。
 毎年開催されるリーグ、敗れていくもの、勝ち上がっていくもの。僕はそのどちらにもいない。ただ平静を装って静観しているだけ。
 消したつもりでいた。けれど、消えてはいなかった。

「何か見えたのか?」と、カワハラが尋ねてくる。
「炎が……」
「え?」
 ここにいたんだ。ずっと、ずっとくすぶり続けていたんだ。
「ノガミ、お前、なんで泣いているんだ」
「なんでもありません。ただ、眩しくて」
 ずっと歩いていた暗い廊下、炎を灯したなら扉はすぐそこに見えたのに。
 今までごめんよ。
 もう見ないふりはしないから。


 夕闇の下、彼女はぜえぜえと息を切らしていた。
 足を止め、懸命に息を整えながらあたりを見回す。
 もうじき暗くなってしまう。シロナは顔を上げ、空を見る。夕日が西の空に沈みかけ、あたりが闇に浸かり始めていた。
 どこに、どこにいるのだろう。
 ふとそこで、あるものが彼女の目に留まる。
「……あそこ、だ」
 夕日の逆光でシルエットになる風景の一角に、光が廻る場所を見つけ、彼女は確信した。
 鉄骨でくみ上げられた巨大な影がある。
 それは静かに音を立てながら、ゆっくりゆっくり回っていた。

No.017 ( 2012/01/23(月) 18:50 )