第03話 可能性
埋め込まれた球体は黒い地面の淵を這う青色光の光に見上げられるようにして照らし出され、紅色に影を差した姿はどこかシステマチックに怪しげだ。
プラスチックより上品な艶めきをした黒い盤上に、半球形の形に陥没した穴が六つ空いた一見たこ焼き器のようなその機械は、無機物である二つのモンスターボールの半身を咥えこんで薄青い輝きを透明なカバーの外へと漏らしている。
初めてのバトルを終えた二人を出迎えたラクスイ博士は、差し出されたモンスターボールの中で力無く項垂れたモンジャラと、シンセイの腕の中のロコンを見比べて、「おお、勝ったのかい」とごく自然な声音でシンセイに言葉を送った。
まるで勝機があることを見込んでいたかのような反応に、シンセイは勝利の余韻を再三噛み締めるでもなく、内心首を傾げたが、博士は本意を悟らせる前にヨウリに回復装置を使う許可を与えて姿を消してしまった。
そして現在も心は首を傾いだまま、ついでに嫌な汗までかいている。
耳をなぞる粒子のような微量の機械音を表現するように、窓から射し込んだ正午の日差しにチラチラと反射する無数の埃をただ見詰めながら、その実心境は穏やかな昼下がりとは程遠い。
そもそも、閑静なこの空間自体がおかしいのだ──。
ポケモンの回復機械の横に配置された、草臥れて年季の入ったソファに腰掛けて、隣の同席者を横目でそっと見遣る。
あの賑々しさを何処に置いてきたのかと問い詰めたくなる。彼女、ヨウリはシンセイの手本となった宙空の埃を眺める作業に未だ徹したままだった。
退屈さをしのいでいるのか、自分では注視することの出来ない何かが気になるのか、それとも、見えてはいけない"ナニカ"を凝視しているのか。
真意の読めない万人に懐っこい瞳に湧いていた、白い光の水溜まりは、吹くように小さなため息とともにふいに伏せられた睫毛が生んだ影に飲み込まれ消えた。
「ヨウリ?」
黒い目に初めて見えた寒色の感情に、思わず声をかける。
「んー?」
一つ瞬きをして光を生んだ瞳は、何事もなかったかのようにこちらを向いた。
「どーしたんだい?」
「や、なんか元気なさそうだった、から……」
しどろもどろと話す少年は、抱いていた感情を何とかして伝えようとしているのか、両手を何かを形作るようにもぞもぞと動かしている。そのクセ、表情は他人の内情に足を踏み入れたことが極刑に値するとでも思っているのか、眉を下げ口を戦慄かせ今にも謝りそう。
ニュートラルで臆病、まるで小さな野生の生き物な彼が、僅かでも自ら触れてきてくれたことが、少し嬉しい。
「はあーあ。私これでもテストの仮想バトルはいつも好成績だったのになあ。ヒヨっ子中のヒヨっ子のシンセイ君に負けちゃって、ちょっと自信なくすなあ、落ち込んじゃうなー」
「えっ!?それは、えっと、う、ごめん……?」
肩を竦めてもごもごと下手に出てくるシンセイの、言われたことを鵜呑みにする対人関係に対する幼さが、滑稽で可笑しくて。
「なはは!ジョーダンジョーダン!勝たれた相手に何言ったって負け惜しみだよ。そんなんカッコ悪いじゃん!」
丸まった背中を数度叩くと「痛い、痛い」と情けない声がするが、背中から腹へと抜けていく手の平の音に紛れて聞こえないふりをする。
「……強くなりすぎても、良いことないしなぁ」
右耳の方から高く一定のビープ音が鳴り、ポケモンの体力が回復したことを知らせた。カバーを開け、機能を終了させた機器上から二つのモンスターボールを取り出す。
「はい、シンセイ君」
「あ、ありがとう。……ヨウリ、さっき何か言った?」
スイッチを切り、プログラムが待機モードになったことを確認してから背中に投げかけられた質問に振り向く。
「うん。結局、負け惜しみ言っちゃったよ」
「?」
過去の旧知を懐かしむような穏やかな響きの声は、深い穴の中から反響したようにどこか暗かった。覗き込めば、もう少し隠された片鱗が見える気がする。底に沈んだ重いものが──。
「回復は終わったかい?」
しかし研究者らしく思慮の深みのある声が聞こえ、穴はすっかりと閉ざされてしまった。その上から緑が茂り、彼女の爽快に自由に平原を伝わるような音吐が舞い戻る。
過去の血濡れの戦地が、長い年月を経て変化した花畑のようだ。無意識に自戒した。触れてはいけないのだと身体のどこかが囁いた。
「ヨウリはもう明日には立つんだろう。準備は?」
その言葉でシンセイは、この研究所にやって来た最後の本題を思い出した。この事態の発端となった出来事。母の頼み事。
「ほとんど完璧。そうだ博士、キズぐすりある?」
明日には旅人になる少女は、広い世界を歩む冒険を夢想し期待に声を弾ませている。まだ、最初の問いに答えられてもいない自分と、同年齢で身長もさほど変わらない彼女との間には大きな距離が開いている気がした。
「ああ。でもちょっと待ってくれ」
シンセイ君。と博士が名前を呼ぶ。もう分かっている。選択の時間が来たのだ。
「どうだった?ポケモンを手に入れて、バトルをして」
この人はつくづく優しい。直球に答えを求めず、言い訳の選択肢を与えてくれている。
「可能性を、与えられました」
右手の中のモンスターボール。試合中に握り締め続け汗で汚れていた小さな球体は、塩気だけ残してすっかり乾ききっている。
「今まで僕は、一つの道しか見えていなかった。ポケモンを理解することが出来なくて、だから避けるための術を考えていました。……本当は、二つの選択肢があることは分かっていたけれど、一度進んだ道を戻るのが怖かった」
博士に質問をしたあのときより、ずっと頭が整然としている。導き出されている結論に向かって進む舌が、こんなに滑らかなんて。
「でも、ヨウリが引っ張ってくれて、博士がチャンスを与えてくれて、もう一つの選択肢に出会うことができた。そしたら、単純かも知れないけれど、もっと出来るんじゃないか、やれるんじゃないか、って、思ったんです」
手の平の中の円やかな感触を、取りこぼさないように固く握った。
「僕も旅に出ます、博士。自分が感じた可能性を、試して見極めてからでも、選択は遅くはないですよね」
博士は目尻に喜色を浮かばせて頷いた。
「勿論だよ。きっと、君のお母さんも喜ぶ」
「ただいま」と、玄関で慣習づいた言葉を口にすると、母が待ちかねていたようにリビングから姿を見せた。普段は部屋のどこかから声が届くだけなのに、突然の待遇に少したじろぐ。目線が手にしている紅白のボールに向けられて、隙間から零れたような声が聞こえた。
「母さん、僕旅に出るよ」
久しぶりに真っ直ぐ見た母の顔は、数週間で急に老け込んだわけでもやつれたわけでもなく至って健康的で、それにどこか安心した。
そこからの母の行動は異常に手際が良かった。ネットの福引きで当てたという、クローゼットに永らく幽閉されていた深く暗い赤色、アガットの色をした麻生地のリュックを引っ張り出し、そこに数日分の着替えや寝巻き、地図やら方位磁針やらを詰め込んだ。昔自身も周囲に倣って旅をしていたという母のお古として残っていた、持ち運び用の軽い食器や調理用具まで持ち出された。
「ちょっと早いけど晩ご飯にしましょうか」と、午後五時から夕食の用意まで始められた。冷蔵庫の中から取り出されたのは既に白い衣を身につけたコロッケだった。
程よくこんがりと揚がった黄色い衣に黒いソースを染み込ませ、割り開くと暗色に侵されていないマッシュされた白い芋たちが湯気を上げる。口に含むと香ばしい皮と柔らかな舌触りのポテトが混ざり合い、ピリリとしたソースが味を引き締める。
テレビの前にどんと置かれたファミリーサイズのマホガニーのテーブル。いつもの様に、母と向かい合って番組に耳を傾けながら食事をする。
唯一異なるのは、シンセイの足元で赤いきつねポケモンがボウルに鼻先を突っ込んでいることだ。
ポケモン用の栄養食であるポケモンフーズは無かったので、母が賽の目に切ったリンゴを後臼歯ですり潰し瞬く間に飲み込んでいく。小刻みに揺れる小さな頭部が愛らしい。
「可愛い子貰わったねえ」
その様子を覗き込んで、しみじみと母が呟く。
この数時間でもはや耳にタコができるくらい聞いた台詞に、シンセイは画面越しのアナウンサーのにこやかな表情を無感情に見詰め続けた。
「ショウカ地方全体が当分の間は穏やかな気温、晴れマークが続き、いよいよ春も本番を迎えそうです」
「やっぱり晴れてる日に行きたいよなあ」
当分は晴れ模様だから安心だ。母が回すチャンネルはいつも同じなので、もう一家にはお馴染みの女性アナウンサー。ややつり目がちな下にちょこんとある泣きぼくろが愛嬌を出している。
「明日行けばいいじゃない」
一瞬、アナウンサーの泣きぼくろが消えた。
勿論アナウンサーの顔から染色組織が消滅したのではなく、シンセイの意識がその小さな一点から逸れたせいである。
「え、冗談だよね」
「アンタって、昔から時間があればある程考え過ぎてお腹痛くなる子だったし、余計なこと考え出す前に出ちゃった方がいいんじゃない?うん、そうね。口に出したら尚更その方がいいと思ってきた。よし、明日出発しなさい」
「これが最後の晩餐になるってことじゃん!」
「そうねえ。味わって食べなさいよ」
「で、でも、何の下調べもしないで心構えもないまま行って変なところに行ったりポケモンに襲われたり……」
「ほら始まった」
これ以上は母の言葉の通り弁護という心配語りをしてしまうだけだ。諦めてコロッケを口に含む。
「そんな先々のこと考えなくても、何とかなるわよ。あたしなんていざ旅に出たは良いものの、ポケモンバトル弱すぎてどっ……このポケモンジム行っても勝てなくて、ずっとジムで清掃員のバイトしてたんだから」
「それ、ホント?」
きっと自分なら早々に才覚の無さに幻滅している。
時々、己のような自己肯定意識の擦り切れた人間の母が、なぜこんなにも雑草のような逞しい生命力、コンクリートを突き抜けてでも根を張るような根性を持ち合わせているのかと不思議に思う。
「当たり前でしょ。そこであの──」
ふいに、その口が固まった。母は徐にコロッケを口に詰め込み、咀嚼し、飲み込む頃には話は新しくなっていた。
シンセイとしても、自身の知らない『母』ではなかった頃の母の話というのは、新鮮さと同時に気不味さを含むものだったので、母が嚥下した言葉の続きには触れなかった。
「初めてのバトルで勝てたんだったら、自信持ちなさいよ。あたしの子供にしては上出来じゃない」
「う、うーん……」
今日は兎に角目まぐるしい一日だ。自分で思い返してみても、目が回る。朝から見ず知らずの女の子に拉致されて、ポケモンを貰って、バトルして、家に帰った途端明日旅に出ろと言われて……。
「あ」
そういえばヨウリは明日、旅に出ると言っていた。
若干男勝りな口調の混じった、ポケモンのように邪気の無い目をした少女を思い浮かべる。
自信に満ち溢れた彼女の隣に立つと、勝手気ままに引き回されはするがその手が何だか心強く感じるのだ。
──いや、そんな約束とかしたワケじゃないし、偶然時間が合うとかは多分ないけど。
けれど、その無きに等しい確率の10%を引けば。
──隣町に着く間だけでも一緒に行動できれば、色々とヨウリから学べて、旅にも慣れやすいんじゃ……。
これは断じて異性への下心とか、そういうのではなく。そもそもさしものヨウリも数時間ならともかく一日二日も男と行動を共にするのは気味が悪いだろう。そうだ、10%に遭遇出来てもそこからの分岐点も考えると確率は5%程度。そんなに入れ込んで考えることじゃない。頭の中でもまだ導き出されていない回答を、先回りして牽制した。
いつの間にか液晶画面の中は長閑な天気予報から様相を変え、張り詰めた表情を取り繕いながらも二律背反の冷めた声音で、機械的に畏まった文字を並べ立てている。
「昨日未明、ミョウモシティのエダツ証券会社付近の路地から、何者かによって刃物で刺されたと思われる、男性の遺体が発見されました。被害者の名前は……」
どうやら母の中では、明日の出立は決定事項だったらしい。
今日は早く寝なさいと二階の自室にロコン共々追い立てられたシンセイは、風呂上がりの半乾きの身体を掛け布団の中に潜り込ませた。
「ロコンは……どうしよう。ボールに仕舞わなくていいのかな」
ベッドの下からこちらを見上げているロコンは、シンセイの目が己に注がれていると気づくと軽々とベッドに飛び乗り、柔らかな肉球から伝わる重みに羽毛布団が沈んだ。
暫く淡い緑色をしたカバーの上を探索した彼女は、やがて枕に近い場所を尾を追いかけるようにくるくると踏み固め、陥没したそこに身体を当て嵌めるようにして丸くなった。
「寝惚けて燃やさないかな……。大丈夫かな」
ボヤから家屋全焼と脳内で誰かがみっともないほどがなっているが、その正体を杞憂と決めつけて黙らせる。
柔らかな体毛を纏わせた身体を縮めて、大きな目を瞑って眠りにつこうとしているパートナーをボールに戻せる程自分は非情ではないし、まだロコンと慣れ親しんだ間柄ではない。
「おやすみ、ロコン」
部屋全体を輝かせていた白い蛍光灯を消すと、薄暗い部屋に夜の光が姿を見せる。ベッド脇の窓からは円に近い形をした月が覗き込んでいる。
もう当分の間この部屋で過ごすことは無いのだと思うと、ここ数週間無力感と倦怠感に苛まれ、窓を開ける気にもならず埃臭い空気を吸っていた空間でもどこか寂寥とした感情になる。
もし、この旅立ちが間違っていたら、自分は再びここに帰ってくる。
どちらを歩んでも誤謬だったとしたら、どうなってしまうのだろう。
ザアッと、暗雲から垂直の雨が降り出す。
阻まれた道を引き返して、この道にやって来た。けれど、もしどちらにも可能性など無かったら?自分は、どうなってしまうんだ。周囲の人はどう思う?母さんは、博士は、ヨウリは──。
生暖かく湿った感触が、感覚が麻痺していた頬に触れた。
「あ……」
団栗のように艶やかな瞳の中に、怯えきった目をした自分が映り込んでいる。その相貌が溶けるようにゆっくりと崩れていき、下がった眉が安堵の色を示した。
そうだ。不安なのは自分だけではない。博士の言葉が蘇る。
『見極める期間だったんだよ』
見極めたその先には、例え選んだ道が誤りであっても、次の道が開く筈だ。
怖がっていてはどこへも行けない。触れなければ、触れないし、解らない。
六つの尾を振り子のように連なって揺らすロコン。自分に対して心を開こうと、理解しようとしてくれている。
抱き締めた身体は、陽だまりが消えれば未だ肌寒い春先の夜の気温に触れていても、湯水に浸かったように暖かった。
「ありがとう、ロコン」
夜九時からの報道番組。夕方と同じチャンネルだが、日常に密接した天気予報などのコーナーが無い所為か、何だか雑多で不思議めいている気がする。
家事も入浴も済ませた空白の時間は、叙情的な気分を吐き出すのに丁度良いと言えた。
年代の流れを感じさせないよう木材のシンプルなものを選んだ写真立てだったが、年を重ねたその縁はやや炭化したように黒ずみ始めていた。もう二度と動くことのない、深い海の底のような紫の瞳。
「あなた。シンセイがね、旅に出るんですよ。あの子凄いのよ、ポケモンなんて何にも興味無かったのに、今日初めてバトルして、勝っちゃったんだって」
量の多い癖のある髪質も、茶を焦がしたような色も、彼にはまるで似つかない。けれど、紫のあの瞳。海の底、世界の果てを見たようなその色の目で、時たま彼に驚く程酷似して見える。
「あなたが生きてたら、何て言うかしら。きっと──」
白いパーカーのチャックを上げ、履きなれたスニーカーに足を通して数度鳴らした。詰め込まれた持ち物の異なる材質がぶつかり合い賑やかな音を立てるアガットのリュックを背負って、最後に寝癖のように爆発した焦茶の髪を押さえつけようとし、止めた。十四年の歳月で無駄な足掻きだということは重々理解している。
「こりゃまた地味ーな服にしたわねえ」
上から下まで眺め回した母は、髪型はイカしてるけどね。と、自分の強情な癖のある長髪を一つに纏めた尾を触りながら評価した。
「うぐ……。動きやすい方がいいじゃん」
寧ろ髪は兄や父のような懐柔しやすいものが良かった。
「はい餞別。時計くらい上等なの持ってきなさい」
手渡されたのは、母の手の中で寄る辺を失い一本の革として垂れた剥き身の腕時計だった。
鉄の色に近いが深い緑の色が伺える革製のベルトは、白い盤の中に黒の繊細な意匠の込められた模様と小さな数字、華奢な針が並べられている時計の周囲まで包囲する太めのもので、銀のバックルや同色の革上のデザインは高級感を有しながらも重苦しさを感じさせない、子供目から見ても上等な物であると分かる。
「それ、父さんが昔使ってたやつよ」
「いいの?」
「この前箪笥の掃除してたら出てきたから。そんな高そうなの、黴やら何やらに食わせるのは勿体ないしね」
幼い目に映っていた父の姿を思い起こすが、よく繋いでくれた腕は疎か、そもそも身体に装飾品を付けているところを見たことがない。つまりこれは母が『母』でなく、父が『父』でなかった頃の品だ。
今の年齢差よりも自分に近い歳をした父が、身につけていたのだろうか。
ベルトを巻いて留め具を通すと、少年の細い腕に巻き付き支えを持った腕時計はやたらと誇らしげだった。端的に言うと、どこか不格好で。
「時計に『巻かれてる』わねえ」
「…………」
これが親子の繋がりと言うものか、ほぼ同時に同じ言葉が浮かぶ。
時計の本分はデザインではなく、時間を確認するものだからと自分に言い聞かせ、シンセイは無言でパーカーの袖の下に右手首を隠した。
「ま、その時計が似合うくらいになって帰ってきなさい」
締め括るような言葉に、旅立ちのときを自覚する。自然と別離の空気が流れ、会話は途切れる寸前の糸のように不安定に揺れていた。
「……気をつけてね」
「うん」
繋がっていた繊維の最後の一本が、切れる。
「じゃあ、行ってきます」
慣習づいた言葉。日常の中で幾度も着てきた服装。けれど背には大きなリュック。足元には、旅の相棒。
何気なく上げた手の平は暫時の別れを表したと分かったから、シンセイは振り返らなかった。
ドアノブを回し繋がった外の世界は淡い青の空が広がり、溜め息のように柔らかく温かい風が踏み出した彼の髪を撫でる。
陽に照らされた草木の息吹の匂いを吸い込み、吐くと同時に扉を閉めた。
「こんちわ!」
目にしたのは快活に細められた目、日差しのように白い歯。花にそよぐ風というより、草原を駆け抜ける光風のような声。
10%のレアドロップは平然と自宅の前の壁に寄りかかっていた。
「え!?な、何で?」
「え?九時はおはようだって?」
自分でも希少だという自覚くらいはあるだろうに、ヨウリはドッキリが成功した悪童のように口角を上げて悪戯っぽく足を揺らめかせる。
「昨日の夜にねえ、博士に電話あったんだよね。シンセイ君のお母さんから。それで、だったら丁度いいなーって」
何が丁度いいのだ。異性に対しての過度な期待というのは余りに惨めな気分になる。心の中で歓喜する可能性の塊を全力で否定しながら、「丁度いい?」と安全牌のオウム返しをする。
「シンセイ君、一緒に行こうよ。一緒にショウカ地方を旅しよう!」
5%が自ら引いてくれた低確率に、シンセイの懸念していた無意識の邪な感情は吹っ飛んだ。代わりに湧き出したのは、広い世界に歩き出すその瞬間の高揚感と、そこに共に歩み出せる喜び。
人は思いもしない喜事は、疑わなければならない弱い生き物で。
「ほ、本当にいいの?」
「だぁから、そこは『うん』の流れだろー?」
どうしよう、本当にただ嬉しい。
これからは彼女といつでも話せて、笑い合える。
そうか。僕の感じるこれは、ヨウリの明るさに、人懐っこい話し言葉に、弾ませてくれる会話に、惹かれていたんだ。
僕は、ヨウリと友だちになりたかったんだ。
「うん!」