第02話 バトルしようぜ
「よし!シンセイ君!」
「はい?」
次の瞬間見開かれた黒い瞳は、研究所の照明の光も手伝ってきらきらと輝いていた。不敵に豪快な勢いに呑まれてついつい敬語が飛び出す。
「君は十四歳だね!?」
「はい」
「免許を持ってるね!?」
「はい……」
「もうそのロコンは君のポケモンだね!」
「は、はい」
「私も君もポケモントレーナーになったね!」
「は……」
矢継ぎ早に繰り出される質問に何とか合いの手を入れるが、とうとう最後の質問には舌が追いつききれなかった。質問の答えを聞くより先に、ヨウリが質問の着地点を言っていたからだ。
「バトルしようぜ!」
バトル。一般的にポケモンというジャンルにおいて有名な競技と言えば、バトルである。その程度の範囲の常識ならば流石のシンセイもそれとなく知っている。ポケモンとポケモンを戦わせる、技とかタイプとか、そういうのが大事なアレだ。
けれど、肉体同士の喧嘩というのは一瞬の駆け引きとかが重要なのではないだろうか。ポケモン歴十分足らずの"ど"のつく素人である自分が、果たして形にできるものなのだろうか。
青空の中の雲程度だった不安は、次々と種を集めてやがて暗雲として脳内を覆い尽くした。
碌な指示も出せずにおたおたとしている自分、モンジャラのあの長い蔓で何度も張られ打たれ嬲られ、救いを求めるようにこちらを見つめるロコン。その円な瞳は苦痛に歪み、我が身可愛さに助けを求めている人を見捨てるような罪悪感が胸を這い回る。ヨウリはあまりに情けない自分の姿に拍子抜けし、あの黒い大きな瞳を呆れに歪ませ、見下すようにロコンと四つの目で自分を責めてくる……。
「やだ」
「えぇー!?ここは『はい』の流れだろお!?」
顔全体で残念さを表現するヨウリの顔は、益々目の前で餌を取られたポケモンのようで、本人はコミカルな感情のつもりだろうが、こちらには冗談じゃなく悲しげに映った。「仕方ないだろ」と自分に自分で言い訳したくなってしまう。
「あのさヨウリ。よく考えてみなよ、ポケモン歴、分単位。過去ポケモン科目、赤点スレスレ。こんなペーペーとやっても何にも楽しくないよ。絶対盛り上がらない。ていうかロコンを甚振るだけの虐待バトルとか僕やだ無理」
「そうは言ってもさあ、旅に出たら絶対バトルはするんだよ?この町の外もポケモンの生息区域だし。野生ポケモンはロコンが倒れても攻撃は止めないし、その次に狙われるのはシンセイ君だよ。実際死傷事件毎年何百件って出てるんだから」
ぐ、と言葉に詰まる。確かにそうだ。野生のポケモンに負けましたなんて言っても手を緩めてくれる筈がない。自信がないので棄権しますなどとは通じないのだ。
考えの甘さが恥ずかしい。今ここで経験を積むことは、ロコンにも自分にも重要な経験値になると、ヨウリは暗にそう言っているのだ。
「それに、私そこまで容赦なく見える?世の中の素行も分からないトレーナーとバトルするより、少なくともちょっとは気心知れてる私の方が安全だと思うよ」
危なそうになったらやめるから、お願い。ヨウリはこちらを伺うように見つめてくる。照明の光と分かっているのに、黒目がうるうると潤んでいるように見えてしまう。
本来、ヨウリは怒ってもいい筈だ。思えば自分だけではない、ヨウリも今日初めてポケモンを貰い、初めて自分のポケモンでバトルをする。自身にも、そしてシンセイの為にもなるポケモンバトルを提案したというのに、世間知らずな頭からの否定で拒まれたのだから。それなのに、あくまで下手に出てくれている。
ヨウリには気付かされてばかりだ。
「……うん、ごめんヨウリ。僕の方こそ、バトルしてください」
すると、漸くご褒美にありつけたように、その瞳が花開くかの如くパアッと光った。
「やったあ!」
思えば自分はこの数時間の間に、彼女の無意識の度量の広さに何度も助けられている。
「それじゃあ二人には、このポケモン図鑑も渡しておこう」
成り行きを静かに見守っていたラクスイ博士は、再び机の上から二つの機械を手にしてきた。
手渡されたそれは薄いノート型の赤いボディで、開くと両面に二枚の黒い画面がついている。
「これはカメラに捉えたポケモンを自動で解析し、検索データからそのポケモンの種族名、タイプ、個体の性別、特性、技まで表示してくれる、正に旅をするトレーナーの必需品とも言える代物なんだ。試しに自分のポケモンを写してごらん」
スリープモードの図鑑を起動させ、外側のレンズをロコンに翳してみる。すると、無機質な涼やかさを持った女性の声を模した機械音が、流暢に語り出す。
『ロコン きつねポケモン。 ほのおのたまをあやつる。 せいちょうするとろくほんののしっぽはさきがわかれてさらにふえる』
片側の画面には青い粒子の背景を背後にロコンの映像が映し出され、もう片方には一般的な身長や体重、特性、幾つかの説明文が表示されている。更にタップするとシンセイのロコンの性別、特性、覚えている技が画面に映った。
「なになに……ひのこ、しっぽをふる、でんこうせっか、つぶらな、ひとみ……?」
合間に挟まれた難解な言葉に困惑する。尻尾を振って相手を見つめてる時間があったら、その間に倒されてしまうんじゃないだろうか。
「裏庭のバトルフィールドを使っていいよ」という博士の言葉に甘えて、今シンセイとヨウリの二人は、コンクリートテープで長方形に区切られた地面、その線の一歩後ろに立っていた。中央の分割線を隔てて、彼らを守るようにお互いのポケモンが構えの姿勢を取り睨み合う。
「いくよ、シンセイ君!」
「う……うん!」
あの後更に詳しい説明を読んだところしっぽをふるは相手の防御力を、つぶらなひとみは攻撃力を下げる効果のある技らしい。けれど一体どういう原理で、どういった使いどころがあるのかまでは図鑑は教えてくれなかった。
不安要素の重みに目を落とすと、ロコンがこちらを振り向き、小さく鳴きながら頷いた。信じろと言ってくれているのか、どうやら彼女──♀であることが図鑑で判明した──は気合十分のようだ。
気持ちに応えないと。前を向き、しっかとヨウリを見据える。好戦的に笑んだ彼女の一言で、戦いの火蓋は切って落とされた。
「バトル、スタート!」
相手のモンジャラはその身体から両手のように二本の蔓を出して、肩慣らしするかのように素早く何度か地面に叩きつけた。
「行くぜぇモンジャラ!まずはつるのムチ!ロコンを捕まえて!」
モンジャラの蔓が空中をうねりながら瞬く間に迫ってくる。あまりの速さに状況に頭が追い付かず、脳から降りる言葉を待つ口が虚しくぱくつく。
「え、えっと……え、あ、ロコン──」
緊張で覚えた技名が吹っ飛んでしまった。ロコンの目前で大口を開けるかのように二つの蔓が左右に大きく開いた後に範囲を縮め、空っぽの頭でもうダメだと誰かが情けなく喚いた。
「ごめ……」
目の前で、青い蔓が残像を残して交差した。思わず反射的に目を瞑る。しかし、次に見た景色に赤毛は映っていなかった。
空を掻いた蔓、その上、上空を、靱やかな赤い身体が舞っていた。
青空に吹かれた紅葉のようなその高々とした姿に、シンセイどころか、ヨウリすらも暫し呆気に取られる。
前足から崩れることなく着地したロコンは、モンジャラに対して挑発的に鼻を鳴らした。
「……やるじゃん?一杯食わされちったねモンジャラ!連続でつるのムチ!」
モンジャラは唸りながら身体を揺らし、更に蔓を湧き上がらせた。見渡す限り四方八方から伸ばされる蔓に取り囲まれながらも、しかしロコンは冷静だった。
襲いくる蔓を走りながら次から次へと躱し、避けたその先で待ち構えていた蔓が勢いよく凪げば身を低くし、頭上から伸びる蔓を小回りを利かせてジグザグに走り攪乱し、捕まる気配もない。
「シンセイ君!」
その動きに唖然として傍観していたシンセイは、ヨウリの声に鞭で打たれた気持ちだった。
「ロ、ロコン!えーっと、ひのこ!」
慌てて指示を叫ぶ。だがロコンは躱すだけで依然アクションを起こす気配はない。
「あれ……聞こえてない?」
「その距離からひのこ、届くと思うー?」
ロコンは蔓をやっつけるだけで精一杯で、それを伸ばすモンジャラ本体に近づけずにいる。二匹の立ち位置はバトル前とさほど変化しておらず、その距離はあまりにも遠い。
「あ、えっと、じゃあ……で、でんこう、せっか!」
漸く指示を得たロコンは正しく水を得たコイキングだった。小さく愛らしい後ろ足はケンタロスのように荒々しく土を蹴り、そのスピードに取り残された姿が赤い矢となってロコンの背を追う。モンジャラの幾本もの蔓も、虚像は取り押さえられない。
モンジャラがその影に虚しく蔓を叩きつけた瞬間、目の前で鋭い瞳が彼を覗き込んでいた。
刹那、その身体は蔓もろとも宙に跳ね飛び、フィールドに突き転ばされる。
「モンジャラ!」
「よし今度こそ……ひのこだ!」
身体を方向転換しスピードを殺しながら、ロコンはその口から光の粒のように一つ一つが燃え上がった、火の欠片の灼熱の風を息吹のように蔦葛の身体へと吐き出した。
モンジャラは一つ悲鳴を上げて慌てて飛び退く。草の燃える煙たい匂いが微かにフィールドに漂っている。火は植物を燃やせる。過去に液晶越しの黒板に記されたタイプ相性の記憶が引き出された。
「き、効いてる!ロコンもう一度──」
「させないよ、つるのムチ!」
追い討ちをかけるようにロコンは息を吸い込む。しかし既に体外に装備されているモンジャラの蔓は起動が早く、『貯め』の動作の隙を突いて後ろ足を掬った。
四肢のバランスを崩されたロコンはよろめき、咳き込むような発された小さな炎は空に散る。
「掴んで!」
フラつく身体は撓る花浅葱の触手で動きを制約され、宙高く持ち上げらてしまった。
「ナイスモンジャラ!そのままからみつく!」
揺らめく炎のようにモンジャラの無数の蔓が伸び上がり、ロコンの身体を這い回り縛り上げていく。ギシギシと身体を締め付け軋む蔓に、ロコンは鼻から洩らすか細い声で呻いた。
「ロコン、ロコン!?ど、え、どうしよ、ロコ……」
もはやその赤茶色の身体を巻軸にされ、もう一体のモンジャラのようにされてしまった彼女から唯一見える、力無く垂れ下がった六本の尾が胸を締め付け、シンセイを責め立てる。
「ひ、ひのこ!」
苦し紛れの攻撃命令は、確かに暗い蔦玉の内部から一瞬橙赤の光を漏らしたが、数本の蔓が主の元へ逃げ帰って来たに過ぎず、球体の形は崩れない。
やがて蔓の一つ一つが不規則に蠢きだす。中の力を、抵抗しているロコンを押さえつけようとしているのだ。溺れ藻掻くような動きに焦りは増す。
「力、蔓の力を緩めないと……。力、力を弱める…………」
「どうするシンセイ君?こうさ……」
そのとき、蔓の牙城の頂上から、火山が噴火するかのように火が噴き出した。驚きと痛みで緩められた蠕動する蔓の間から、水面に浮上のように勢い良くロコンが顔を突き出す。
「ロコン!」
モンジャラは代替の触手をうねり上らせる。しかし、その凛々しく吊りあがった瞳は頭上を見上げて大きく丸くなった。
哀れっぽく喉の奥で声を震わせ、心做しか潤んだ大きな瞳でロコンはモンジャラを見下ろしていた。四本の脚は服従するかのように一切の力を放棄し、蔓から伝わるのは儚い和毛の感触と、その重みだけ。
モンジャラはまるで被食者を甚振っているような気持ちになった。か弱く幼いその姿は庇護の対象であると錯覚した。途端、その蔓の判断の原点すら忘れ、早急にこの憐れな生き物を解放してやらなければという衝動に駆られ、張り詰めた蔓の眷属たちの力を弱めた。
「え?モンジャラ?」
──途端、ロコンの姿が消えた。束の間の困惑は白い空白期間としてモンジャラの思考を奪い、赤い狐が蠕動する蔓の上を伝い目掛けて来ていることに気付いたのは主人の指示の数秒後だった。
「振り落として!」
酸素を肺一杯に取り込み、吐き出さんとする口内が炎で燃え盛っているのが良く見えた。
炎心の光をチラチラと光らせ、火の粉の集合体は風のようにモンジャラの眼前を覆い、埋め尽くした。
「モンジャラ!」
全身の力を失ったモンジャラは仰向けに倒れ、丸い瞳をコミカルに渦巻かせている。地面に頭を垂れた蔓たちを収める余力も無いらしい。
「たはー!負けたあー!」
ごめんねモンジャラ。お疲れ様。ヨウリは少々苦い煙を発している相棒を何度か撫でてからモンスターボールを取り出し、ボタンから赤い光線を放つ。
光線はモンジャラを包み込み、赤い粒子に変化した身体はボールへと吸い込まれた。
「勝った……?」
その光景を唖然として見届けたシンセイは、足元に拙い足取りで戻ってきた勝者によってやっと事実を飲み込めた。
「す、すごい……。凄いよロコン!」
勝ってしまった。ロコンが、自分のポケモンが立っている。抱き上げて、乱れた毛並みを撫で付けてやるとロコンは腕に身体を埋めて目を閉じた。くたびれているこの小さな獣は、人間より圧倒的に優れた能力で闘ってきたのだと思うと、胸が熱くなった。
「やー、負けちった。やるなあシンセイ君」
駆け寄ってきたヨウリは言葉の端から悔しさを滲ませながらも、ロコンもお疲れ様と腕の中のシンセイのパートナーの頭も撫でた。
「いや、僕じゃなくて……ロコンのお陰だよ」
「ああ、そうそう!なんでモンジャラが力を緩めたのか気になってたんだ。この子何したんだろ……?」
そう、あの時。ロコンが顔を出した瞬間にモンジャラに訪れた異常は、確かに不可解だった。だが、シンセイは既にその答えに行き着いていた。図鑑のデータに首を傾げたあの時から。
「あれは多分、ロコンの『つぶらなひとみ』っていう技だよ。可愛く見詰めて相手の攻撃力を下げる効果があるんだって」
「ほへー……。ナルホド」
「それと、ロコンは自分より強い相手に襲われたときに、傷付いたフリをして逃げることがあるって、図鑑に書いてあったよ」
ヨウリは感心の声を上げた。「凄いねシンセイ君。もうロコンの物知りになっちゃったじゃん!」
そう言われてシンセイはハッとした。確かに、過去の自分ならポケモンの情報は右から左へが常だった。机上の対戦知識は見に入った試しがないのに、ロコンの行動を見て技に気付き、更に考察して習性の知識まで思い起こしていた。
今のバトルと、義務教育期の授業の異なる点は──。
「実技……」
実際に、覚えたことを実践していたのだ。
ポケモンそのものは疎か、テレビでも本でもポケモンに触れ合うことのない家庭では、覚えた事が頭を再び過ぎることなんて滅多になかった。
だが今は違う、覚えなければ、自分のポケモンが傷付くのだ。覚えた事は総て活かす。活かさなければ、勝てない。
「僕が活かせてたわけじゃあないけど……」
「?シンセイ君?」
「ううん、何でもない」
「そう?じゃあ研究所に戻ろう!博士、モンジャラ回復してくれるかなー?」
モンスターボールを片手に走って行くヨウリを目で追いながら、シンセイは疲れたであろう平時より未だに熱い身体を動かさないようにゆっくりと歩いていく。
「ありがとう。ロコン。お疲れ様」
言いそびれた労いの言葉に答えるように、六つの尾がゆるりとシンセイの腕を撫でた。