第01話 はじめてのぬくもり
体内に灼熱の炎を飼っていたり、海の波を自在に操ったり、身体から生やした植物を意のままに操ったりする、不思議な不思議な生き物。モンスターボールを投げ付ければ内蔵機能が自動的に捕獲し、トレーナーには絶対服従するようになる。小さな媒体に収納してそのまま携帯できる、ポケットに入ってしまうモンスター、縮めてポケモン。
ポケモンを主軸におき、ポケモンによって発展してきたこの星において、ポケモンと協力せずに務まる職業というのは希少だ。
パン屋の奥では絶妙な火加減でブーバーが竈の相手をしているし、海の上の客船には有事の際の為の救難救助ポケモンのフローゼルや、変化しやすい海の天気を読む為のポワルンたちが乗っており、病院の待ち受け室にはロゼリアの発するダスマスク・モダンの爽やかなアロマの香りが漂う。
このように何気ない日常、身の回り、至る所で触れるポケモンを使役するための資格、『携帯獣取り扱い免許』を取得することは星全体で統一された国民義務で、子供たちは十三歳までの義務教育で基礎的な読み書き、計算、そしてポケモンに関する基礎知識を学んで、卒業証書として前記の免許証を獲得する。
パン屋には食品衛生責任者の資格が、船員には海技資格が、看護師には当然看護資格が必要だが、ブーバーの炎を扱うのにも、ポワルンの粘膜の微妙な変化を観測するのも、ロゼリアのアロマの濃度を管理するのも、『携帯獣取り扱い免許』を所持して、それからなのだ。
十三歳までの全課程を修業した子供たちは自身の進路を選択していく。
例えば、医師になりたければ専門学校を受験し、修士課程積上げ十年制の学校へと入学し、医学は勿論、有事の際に力を借りるポケモンの扱い方も学ぶ。
そうして学校で勉強を続ける子供もいるが、十年、六年制の学校でもない限り、子供たちの大半はポケモン図鑑とパートナーのポケモンを連れて数年間の旅に出る。
世界の見聞を広め、ポケモンの扱いに慣れるためという者もいれば、中には本気でポケモンバトルやポケモンコンテストで食べていこうとするギャンブラーな夢を持つ者もいる。しかも、この狭き門には毎年何百人もの人間が挑戦していて、未だ人気は衰え知らずだ。
夢を諦めて一般の会社に就職しても、ポケモンの知識は何処でも活かせる。商業にも開発業にも、ポケモンという文字は必ず存在する。
惰性で取得した携帯獣取り扱い免許であっても、誰だってある程度の知識は記憶に刻み込まれている。ここは『人間とポケモンの社会』だからだ。
では、ポケモンの知識を学ばなければこの社会で生きていくことは不可能なのか?
「生きてけないよ……」
結論から言うと、それは可能だ。
コンビニ店員などのフリーター、自営業のイラストレーターや小説家エトセトラ。どれも将来性のある安定したものとは言えないが、後者は才能さえあればという点では、常に子供の将来の夢ランキング堂々の一位のポケモンマスターと必要とされるものでは遜色ない。
そしてもう一つの選択肢は、ポケモンを介さず、人間同士のコミュニケーション、話法などが必須とされる職業。国家公務員である外交官や、将来は確約されたと言っても過言ではない選択肢の宝庫の弁護士などだ。
これらの学校も医療系と同じく十年制のものが大半で、試験の難易度は最高峰のランクに当たる。ポケモンとは隔絶された人間だけの領分、暗記と頭脳がものを言う。
ポケモントレーナーより遥かに少数の人数が猛勉強の末受験に臨み、そこから更に篩にかけられ、最終的に突き落とされた者に待っているのは浪人か、望まない職業か。
浪人後に何とか合格しても、授業に追い付いていけず退学し、それまでの学費をおじゃんにしてしまうというのもよく聞く話だ。大抵の母親は「一回で受からなければ」と我が子の逃げ道を塞いで受験を許す。
貴重なワンチャンスを逃してしまえば、もはや道は一つしかないのだ。
「郵便局……ポケモン。編集部……ポケモン。もういっそ工場とか……ここもポケモン、かあ……」
そしてここにも、ワンチャンスの篩から振り落とされた少年が一人。
「どこもかしこもポケモンポケモン……そりゃそうだよな」
日光を孕んで輝くクリーム色のカーテンと青い液晶画面の光のみが浮かび上がった薄暗い部屋に、軽やかなタイピングの合間に重ったるい声が沈んでは浮かぶ。
とうとう少年は脱力したように勉強机に頬を押し付けた。
焦茶色の髪はふわふわと勝手気ままにあらゆる方向を向いていて、密集したそれは丸い毛玉のようだ。パソコンの検索結果を上目遣いで見遣り、やはり先程と変化のない文字列に少年は煩わしげに紫色の瞳の目を眇めた。
「僕この先どうなるんだろう……」
十四歳の少年は将来を案じてこの世の終わりのように乾いて無味な声で呟く。
「シンセイー!シンセイ!降りてきなさい」
廊下を突き抜けて母親の声が階下から聞こえる。ここ数週間禄な食事も取らず部屋に引き篭っている自分に一体何の用があるのか。
「はーい……」
はなから伝えようともしない低く無気力な返事を返して、回転椅子から立ち上がると、数時間ぶりに身体を動かしたせいか視界がくわんと揺れた。三重にぼやけた視界には三個に見えるドアノブを探して暫し手をスカスカと空振り、彼はドアに凭れながらよろけるように部屋を後にした。
彼の名前はシンセイ。ここショウカ地方のコウコウタウンに住む十四歳のこの少年は、受験結果の不合格通知が来た三週間前から、未だ立ち直れていない。
「やっと降りてきたわ」
段差三段分下から母が呆れ顔で見上げてくる。彼女としても、まさか自分の息子がかくも繊細な花のように折れやすいメンタルを持っているとは予想外で、最初は労い労り気を配っていたが、半月も経てば徐々に心配よりもその自己治癒力の低さに対する呆感が勝ってきていた。
現に今も、シンセイは母に背負わせた一年間の負担をたったの一日で無駄にした罪悪感を溜め込み続け、目を合わせようともしない。
「あ、えーと、何?母さん」
「お客さんよ」
「え」とシンセイは泳がせていた目を丸く開いた。
なにせ彼はこの町の人々との関わりが希薄だった。スクールすらないコウコウタウンは義務教育は通信講座で同年代と同じ空間で過ごす機会が少なく、元来の内気さも災いして挨拶以上の言葉を交わした人が何人いるかも怪しい。
そんな自分に会いに来る人。特にこの一年は受験に向けての勉強漬けで滅多に外にも出ていなかった。存在を忘れられていても可笑しくないのに。
母の背後に目を向けると、開かれた玄関ドアから草木の仄かな青臭さとと日の暖かな香りが鼻をついた。
外界の眩しさに目を細めながら、シンセイはそこに立つ一人の少女を思わずまじまじと見つめた。
「ちわっす!」
黒く長い髪は高い位置で括られ、膨らみのあるポニーテールが風に煽られている。容姿に似合わず溌剌としたやや粗野な口調や、ニッと細められた大きな黒い瞳や白い歯から活発さが伺えた。
白い首から華奢な肩まで素肌は晒されていて、胸元にフリルの入った白いタンクトップから伸びた腕は折れそうなほど細い。デニム生地のハイウエストのスカートは身体の中心より右側で布と布を重ね合わせて形を成しているらしく、両裾の間からは黒のタイツが覗いていた。
「おーい、もしもーし君がシンセイ君だろー?」
突然の突飛な同年代女子の来訪者に望洋と立ち尽くしてしまっていたシンセイは、彼女の呼び声にはっと顔を赤くした。これじゃあまるで、この子に見蕩れていたみたいじゃないか。
「……どちら様?」
努めて冷静に聞こえるようにと落とした声音はどこかつっけんどんで、自分のコミュニケーション能力の低さを再確認させられる。
「私はヨウリ!よろしくね」
「はあ、シンセイ、です?」
自己紹介と共に差し出された右手に、それに倣って同じく右手を伸ばしてみる。
人馴れしていると分かる気安い力強さで手の平を握り込まれ、数回上下に振られ、そしてそのまま腕を強く引かれた。
「靴」
「へ?」
ヨウリが笑顔で足元を顎で示す。履けということか?
靴紐を結んだままの状態だった白いスニーカーに機械的に足を通すと、それが合図と言わんばかりに腕と言わず身体ごとヨウリに強く引っ張られる。片方の足に体重がかかりずっこけそうになって、慌ててもう片足を前に出す。けれど彼女は何処吹く風といった様子でずんずんと家を背に歩いていくので、こちらも転ばないために足を交互に出し続けるしかない。
「んじゃあおばさん、ちょこっとシンセイ君借りますねー!」
「はぁい、行ってらっしゃい」
「えっ、母さん、母さん!?僕この子知らないんだけど!?」
息子が見ず知らずの少女に拉致されているというのに、母は玄関先で呑気に手を降っている。「大丈夫大丈夫」という気の抜けた声に見送られ、シンセイは竜巻のような少女に巻き込まれ混乱の最中で家を後にした。
人も少ない小さな町だが、疎らながらも時折感じる視線がむず痒く、シンセイは自力での歩行の許可を要請した。案外あっさりとヨウリはその手を離し、二人並んで石畳の上を歩いていく。
「えっと、ヨウリちゃん、だったよね」
「ヨウリでいいよ。私たち同い年じゃん」
「そうなんだ」
いかにも初耳だ、という彼の口ぶりに、ヨウリは「こども会で一緒に班長やってたじゃーん!」とその肩を軽く叩いた。
コウコウタウンのこども会は五歳から十歳までの町の子供が加入するコミュニティだ。十歳の子供は数人のグループの班長を任される。
ヨウリとシンセイはその際にチームを組んだ二つのグループの、それぞれの班長だったので、言葉を交わしたことはある、らしいが、シンセイにはとんと記憶がない。元々興味のないものに対する関心が薄いのだ。
「それじゃあヨウリ、ちょっと聞いていいかな」
「ほいほい?」
「僕、どこに連れてかれるの?」
「ポケモン研究所!」
ポケモン研究所。確か地方でも著名なポケモン博士の研究施設だ。驚きに言葉を忘れていると、更にヨウリから爆弾から投げつけられる。
「シンセイ君は、今からポケモンを貰うんだよ!」
この衝撃をどう伝えよう。例えるなら、予告もなくいきなり「弟が産まれたからよろしくね」と言われたような、つまるところ「聞いてない」と叫びたくなるような。
「む、無理!無理無理無理ムリだよ!」
思わず逃げ出そうと身体を捻れば、再び手首を掴まれた。しかも力がかなり強いのか、振り払うことができない。
「そもそも僕の家ポケモンは母さんが……」
「おばさんからは許可貰ってるし、なんなら旅にも行ってこいって」
「母さん!?」
弟が産まれたことを知らなかったのは自分だけで、周りの家族が祝福してるような、裏切られた疎外感が上乗せされた。
喚くこちらを完全に無視して二度目のつっかけ歩きで市中、というか町中を引き回され、とうとう町の中でも一際目立つ、白い大きな建物の前に辿り着いてしまった。
「ヨウリ、本当にお願い、やめて……」
断頭台前に立つ死刑囚の気持ちで、必死に懇願する。自分の声が情けなく震えているのが分かってしまった。
ヨウリの足が止まり、こちらの顔をじっと見据えてくる。その真っ直ぐな視線から逃れるようにして目を伏せた。
「無理なんだよ。だって、僕は──」
生まれた時から目にしていたもの、テレビ、絵本、インテリア。そのどれにもポケモンの姿がないことに気付いたのは物心ついた頃だった。
ヨウリが八歳のとき早くに他界した父は、無類のポケモン嫌いだったのだ。
優しい父だった。コウコウタウンの特産品である、川の下流で採れる砂金を加工して作る装飾品で母と店を営んでいた。暇を見つけては遊んでくれて、休みの日には町の中の色々なところへ連れていってくれた。
けれど、すれ違う人の横をついて行くポケモンを目にする度に、繋がれた大きな手が強ばった。まだ幼かったシンセイが無邪気にポケモンに触れようとすれば、その目が揺れて、どこか不安気に身体全体がぎこちなかった。
理由は分からない、けれど子供心にもポケモンと遭遇する度動揺する父は尋常ではないと判断していたのか、その原因を両親に質問した記憶はない。
けれどやはり子供というのは隣の芝は青く見えるもので、周囲の子供を羨んで自分がポケモンの形を模したものや、ポケモン自体を強請ると、母や年の離れた兄は「お父さんはポケモンが好きじゃないから」とシンセイを諌めた。
歳を重ねるごとにシンセイも兄同様遠慮を覚えていき、父が亡くなる一二年ほど前からは家庭でポケモンという言葉が話題に上ることは無くなった。
ポケモンとは、自分には関係のない生き物だ。父はポケモンが嫌いなのだから。シンセイの心に刷り込まれたその言葉は呪いのように、父がいなくなった後も無意識に思考を縛り付けた。
義務教育が始まる頃には、シンセイはポケモンへの関心をすっかり無くしていた。
他の子供たちかぶりつきになるポケモンの基礎知識の教科にはまるで身が入らず、その代わりに算数や国語などは複雑になればなるほど面白く感じた。
ポケモンの知識は、計算が苦手な子供が公式を覚えられないと同じように直ぐに頭から抜けていってしまった。
進路を選ぶ年頃になれば、自分はポケモンと関わってはいけないと考えるようになった。意欲もない職業で嫌々向き合うのは、ポケモンに対しても失礼だと。それに他の成績とは対照的に、シンセイのポケモン科目の成績は下から数えた方が早かった。
兄が卒業した地方でもハイレベルな六年制学校を不合格覚悟で受験し、滑り止めに、──受かるという期待度では寧ろこちらが本命だが──もう一つの六年制学校も受けたが、どちらも家に届いたのは紙一枚が入った軽い封筒だけだった。
母一人が細々と続けている加工店の収入では、一度きりの受験の機会であるということはシンセイも理解していた。受験勉強のための高額の授業講座や、受験費、交通費、母にはこれ以上の苦労はかけられない。
「……母さんや君が言いたいことは分かるよ。ポケモンと生きていく方がこれから何倍も生きやすい。でも僕は……ポケモンのことを普通の人より全然知らない。触ったことすらないんだ」
きっとポケモンが傍にいるようになったとしても、自分は無関心を隠しきれない。知らないことを知っていかなければいけない、という観念に、用語や計算式が雑多に捩じ込まれた頭が悲鳴を上げそうだった。
関係を苦痛だと思いながら一緒にいるなんて、ポケモンに対して、酷く申し訳ないことだ。
「ごめん」
母がこの少女に自分のどこまでを洩らしていたかは定かではない。けれどヨウリの弾けるような笑顔を裏切ってしまった結果に、シンセイは罪悪感の影にじっとりと背中を被われるようだった。
恐る恐る彼女の顔を見遣ると、黒く水分の多そうな瞳は歪められても細められてもいない無感情なのにくるりと丸く、どこまでも愛想が良く見えて不思議だった。例えるなら、言葉が通じないポケモンのような。どこかで見かけたことのある黄色いポケモンを連想させた。
「ふっ……くっくふふ」
その目が俯いた顔の重力に従って垂れた前髪の中に隠れる。震えている肩に悄然としシンセイは手を所在なくわたわたと蠢かせた。すわ泣かせてしまったかと、背に今度はじっとりと汗をかく。
「あ、ほ、ほんとにごめ」
「あっはっはっは!」
ヨウリは顔をぱっと上げて、腹を抱えて笑った。持ち上がった口角から奥歯まで見える大爆笑だった。
呆然とするシンセイに、彼女は「ごめんごめん」と彼に同じ言葉を返した。
「いやー、うん、君面白いこと言うなあ」
涙が出るほど可笑しいことを言っただろうかと、目の端を拭うヨウリを見ながら次の言葉を待つしかない。
ヨウリはあっけらかんとした顔で、空のように清々しく思い切り良く言葉を放った。
「触れなきゃ触れるワケないじゃん」
触れなきゃ、触れるワケない。なぞかけのような言葉。
「意味が分からない……」
突然手が前方にピンと伸びて、シンセイは軽くよろけた。そう言えば、手を引かれたままだった。
研究所の大きな扉に足を向かわせながら、ヨウリは再び振り向いて、二っと笑う。
「まあ要するにさ、ポケモンをなめるなって話だよ!」
引っ張りこまれた研究所の中は大型の本棚が所狭しと並べ立てられ、その隙間にチカチカと点滅するランプや、重低音を唸らせる円盤付きのレーダー、大画面のモニター、更に壁際に収まりきらずに屋根のついたプランターのようなものや、白い巨大な水色の光を放つ円柱形の筐体があちらこちらに存在していた。
床を這い回るいくつものコードや管を危なげなくひょいひょいと飛び越え、ヨウリの姿はみるみる小さくなっていく。慌ててシンセイも慎重にそれらを跨ぎながら彼女に続いた。
「ラクスイ博士ー!」
高速で中央の円盤型のものが回転している機械の前で、白衣の男性がそれをじっと見守っている。男性がヨウリの声に振り向き、機械を止めると、円盤に挿入された小さなフラスコのようなものが回りながら溶けていたその姿を現した。
「おお、来たね」
シンセイは町一番の有名人であるにも拘らず、博士の姿を見たことがなかった。それはシンセイが極度のインドア派で外出の頻度が少ないことも原因しているが、それに勝ってこの博士は研究漬けで滅多に外に出ないの。それはシンセイの知るところではないが。
ラクスイ博士の短く切りそろえられた髪は濃藍の色をしていて、眼鏡の中の琥珀色の瞳が柔和に細められている。有名な博士ということでシンセイは勝手に年老いた気難しげな人というイメージを抱いていたが、顎に僅かに生えた無精髭が無ければ二十代にも見えるほどの歳若い顔をしていた。
「シンセイ君、この人がラクスイ博士」
「あ、シンセイ、です……」
辿たどしく頭を下げると、博士は一層笑顔を深めて軽くお辞儀を返した。
「初めましてシンセイ君。僕がラクスイ。この町でポケモンの進化の研究をしています。君のお母さんには以前とても助けられたよ」
なんでも、研究所に入り浸っている博士は時に日時感覚すら失うらしく、運悪くその状態に陥った期間の間に奥さんの誕生日が間近に迫っていた。直前に気付きはしたものの、プレゼントも用意していない状態で弱り果てているときに、街の中で細工専門店の母の店を見かけたのだ。そして、そのときシンセイの母がお勧めしたアクセサリーが奥さんに大変喜ばれたらしい。
「お礼を言いにこの前お店に言ったら、僕にも君たちと同い年の子供がいるものだから、話が弾んでね。そのときに君の話も聞いたんだよ、シンセイ君」
思わぬところから差し込まれた本題に驚く。博士は話を続ける。
「君のお母さんからこう言われたんだ、息子を旅に出してくれないかと。丁度今は君と同い年の子たちがポケモンを連れて旅に出る時期なんだ。君にも、僕からポケモンと図鑑を渡して、外の世界を見させてやってもらえないかと、頼まれたんだよ」
つまり、ヨウリがやって来たこともポケモンを貰うことも、すべては母の差し金だったということか。
シンセイは母の気持ちを全く知らなかった。背を押し、支えた息子に裏切られたその心情を想像して怯えるばかりで、それ以外に目を向けることなど到底できなかった。怖かったのだ、失望の色が見えてしまいそうで。
「君がこの話を断わりたいなら、僕は決して無理強いしない。旅は本人の意志が伴わないと、相当に危険なものだからね」
部屋の片隅で腐っていた自分をもう一度押し上げようとしてくれた母と、旅の可能性を教え、選択肢を用意してくれた博士。その天秤の中央には、ポケモンを理解できずに育った自身が立っている。
傍に立つヨウリは、あの感情を感じない穏やかな瞳でこちらを見つめている。ああ、やっぱりあのポケモンに似ている。なんだっけ、頬が赤い──。
「博士」
それぞれ腿の外側に置いた二つの手は、無意識に指と指を擦り合わせたり、拳を握ったりを繰り返している。
触れなきゃ触れるワケないじゃん。ヨウリの言葉が脳裏を過ぎる。
「僕は、ポケモンが何も分かりません。ポケモンは、識らなければ、愛せない生き物ですか」
モーターの微量音が耳をそよ風のようにすり抜けていく。博士は暫し沈黙して、シンセイに問いかけた。
「ポケモンが怖いかい?」
「……分かりません」
無記入提出、零点以下の回答。けれど博士は満足気に頷いた。
「ポケモンが何故人に従うと思う?……トレーナーの力に屈服し、服従したから?人間がポケモンに助けられている分、人間から利益を得るため?どれも正解だけれど、僕はそういう生きるための本能以外の何かがあると思うんだ」
徐に博士は円盤の中のフラスコを取り出し、目の前に翳した。
「例えば、進化」
硝子の中で紫色の液体が小刻みに揺れている。
「これはスボミーというポケモンがロゼリアへと進化したときに、体内の器官から抽出した毒素だ。スボミーやロゼリアの特性……その個体の持つ特殊なスキルのことなんだけど、この種族は『どくのとげ』という特性を持っていて、皮膚上から有害な毒を分泌していて触れると人間の場合は命に関わることもある。このフラスコの中の毒について説明する前に……。スボミーは所謂『なつき進化』をするポケモンでね、トレーナーへの信頼度がほぼ最高値に達したときに進化する。不思議な進化方法だろう?このなつき進化をするポケモンは群れをつくる習性を持つ種族が殆どなんだ。これについては様々な意見があるけれど、僕の説としては、一番幼い未進化の姿、動物でいうベビーフェイス、本能的に愛され、育てられる姿で相手を試しているんだと思う。敵意を向けられたり、情のない相手だったら逃げ出してしまえばいいんだよ。なにせ幼さというのは魅力の一つだからね。愛してくれる可能性のある種族、個体はいくらでもいる。現に、野生のロゼリアは世界の至る所に生息しているからね。けれど、更に興味深い発見があるんだ」
博士の言葉に熱が籠る。琥珀色の瞳は紫をその中に取り込んで煌めいていた。
「野生のスボミーが群れの中で進化した個体のロゼリアから採取した毒素は、事前に同個体から入手していた濃度と全く同じだった。しかし、トレーナーのポケモンであるスボミーが進化すると、そのロゼリアの毒素は体内では同濃度であるのに、体外に排出するときにはほぼ人体に影響のない濃度まで希釈して排出されていたんだ。僕は実験的にそのロゼリアに他のポケモンと戦わせてみた。するとその際には体内と体外の濃度はまったく同一の数値だったんだ。これはつまり、ロゼリアが身を守る本能である防衛反応を特定の人間に解除したということだよ。人間は熱いものに触れると反射で脳の指示を通さずに身体を回避させるけど、ロゼリアはそれを捨てたということだ。人間が熱いものに長時間掌を押し付けるようなものさ。これは──」
「あ、あの……つまり?」
苦手だったポケモンの授業が思い起こされて、シンセイは頭が痛くなりそうだった。いい加減やっぱり帰ろうかなと決意が揺らぎそうで、博士の長口舌を遠慮がちに遮ると、博士は「え?あああ!ごめんよ、長かったね」と申し訳なさそうに眉を下げた。
「ポケモンも、最初は人を理解なんてできていないのさ。スボミーはいつ危害を加えられるかも分からないトレーナーと一緒にいた、もし攻撃されたら毒で動けなくしてやろうとね。そしてその愛情を確かめて、ロゼリアに進化し、毒の濃度を区分する性能を身につけた。スボミーは見極める期間だったんだ」
博士はフラスコを再び円盤の穴に落とし、隣の机に置いてあった白い筒状のケースを両手で持ち上げ、シンセイとヨウリの前に運んできた。
「今まで知らなかったのなら、これから見極めればいい。大丈夫、君はきっとポケモンを好きになれる」
横長のケースの中央にあるロックを外すと、上の口がパクリと開いた。中には紅白二色の球体、モンスターボーが三つ並べられている。
「今日のために用意したポケモンたちだ。どの子か一体、受け取ってくれるかい?」
知る必要はない、この目で見てから、決めればいい。博士は自分に選ぶ時間をくれた。
ここで断わることは、用意してくれた選択肢を選ばない、落第の無記入提出だ。
……腹を括れ、シンセイ!
「はい!」
彼は噛み締めるように頷いた。
「このボールの中には、左から、くさタイプのモンジャラ、ほのおタイプのロコン、みずタイプのヒンバスが入っている。好きなポケモンを選んでくれ」
「はい!?博士、ヒンバスって言った?」
ヨウリが素っ頓狂な声で博士を糾弾する。すると博士は図星な部分にヒットしたのか、「い、いやあ……。面白い進化をする子だから……」と反論にしては自信のない弱々しい声で頭を掻いた。
「ポケモンのポの字も知らないのにヒンバスはダメだよ。自信失くすよ。トラウマになっちゃうよ」「やっぱり?」と二人でごにょごにょと言い合った後、話の意 味が分からず首を傾げていたシンセイに博士は言った。
「ごめんねシンセイ君。本当に申し訳ないんだけど、みずタイプは遠慮して貰っていいかな」
「大丈夫ですけど……」
そもそもどんなポケモンなのか姿すら知らないシンセイには、どのポケモンが良いのかも分からない。
「じゃあ、くさタイプか、ほのおタイプ?のどっちかか……」
「うん、モンジャラとロコンだね」
シンセイは迷った。出来ればあまり気の荒くない、危害が少なそうなポケモンがいいと思ったが、ほのおタイプは炎を冠するのだから当然火で攻撃するポケモンだろうと、火傷や火事という単語に危機感を覚える。かと言ってくさタイプは先ほど博士が話していたスボミーやロゼリアの毒関連のワードにゾッとした。
「あの、大人しいのはどっちですか?」
弱り果てて博士に質問すると、博士は中央のボールを指差した。
「ほのおタイプ、きつねポケモンのロコンだな。種族として頭も良いし、この子は特に賢くてね、人の指示を良く理解する」
「ほのお……」
爆発、暴発という不吉な言葉を更に捻り出そうとしてくる頭を必死に黙らせながら、シンセイは真ん中のボールに手を伸ばした。
「ロコンにするかい?」
「はい」
握ったボールの質感は滑らかで、思いの外軽かった。ひんやりとした温度が熱を持った手の平に心地好い。
「じゃあ次はヨウリ、選んでくれ」
「はい!もうさっきから決めてたんだ、モンジャラ!」
問題有りらしいヒンバスを取り残し、ヨウリは迷いなく左端のボールを手に取った。
「シンセイ君と被らなくて良かったー」
「ごめんヨウリ、先に選んじゃって……」
「ああ、気にしない気にしない!博士と約束してたんだよ、シンセイ君を最初に選ばせてあげようって」
まずは自分で選んだポケモンから気に入って欲しいという、博士とヨウリの計らいだったらしい。自分のためにそこまで打ち合わせをされていたと思うと少し気恥ずかしかった。
「うん、それじゃあ二人とも選んだわけだし……。ご対面といこうか?」
「そうですね!」
博士の言葉にヨウリが手の中のモンスターボール、紅白の黒い繋ぎ目を辿った先にある白いボタンを押すと、高い細かなコンピューターパルス波の小さな音と同時にボールが掌大に膨らんだ。
「ああしてボタンを押すことでモンスターボールのロックが解除されるんだ。やってごらん」
同じようにボタンを押すとボールが膨らみ、驚いた手が危うくボールを落としそうになった。
「せーので投げよう!行くよー……せーのっ!」
ヨウリが軽く頭上へとボールを放り投げ、力んだ手を諌めながら慌ててシンセイもボールを投げる。
放られた二つのボールは丁度同じタイミングで黒の繋ぎ目の上と下で分かれ、中から青い光が溢れ出す。地上へと落ちながら粒子は集合し形を変え、投げたボールは放たれた軌道に沿って持ち主の手の平へと帰ってきた。
そして、ヨウリの前には青色の蔦が身体全体を覆い尽くし、その隙間から黒い肌と丸い大きな目を覗かせる靴のような形の赤い足をしたポケモン、モンジャラが。
シンセイの前には赤毛の四足歩行の身体で、カールした六つの尾が特徴的なポケモン、ロコンが現れた。
「わああ……!モンジャラ、これからよろしく!」
ヨウリが両手を広げて近づくと、モンジャラは笑顔で駆け寄り、ぴょんとその腕の中に収まった。数本の蔓をヨウリの腕や頬に絡めて撫でると、彼女は「可っ愛いなあ……!」と相好を崩した。
「シンセイ君も抱っこしてあげなよ!」
「う、うん」
最後にポケモンに触れたのはいつだったか。もはや記憶にすら残っていないシンセイには、ポケモンへの接し方がまるで分からない。一先ず近寄って見ると、ロコンは大きな瞳でこちらをじっと見上げてきた。
小さな子供と触れ合うように屈んで目線を低くし、両の手を近づける。ロコンは身を引くこともなくその手を受け入れた。
赤茶の短毛は、柔らかなカーペットのような感触がした。
「お腹とお尻に手を添えて」
傍にやって来たヨウリのアドバイスに頷き、慎重に抱えた手を上に持ち上げる。前足の裏にあてがった手が先走りしすぎて柔らかな身体がぐにゃんと伸びた。慌てて立ち上がって胸に抱きとめると、前足がちょこんと胸の上に乗せられた。
手の平に伝わる熱いくらいの温度は、服越しには丁度よく、じんわりと温かさが広がって、まるで大きなカイロを抱いているようだ。
「あったかい……」
「ロコンは体内で炎を燃やしているんだよ」
上下する身体から呼吸が伝わってくる。生き物の匂いというよりは、陽だまりに照らされたものの素朴な匂いがした。
この人間にまるで及ばない小さな身体で、人間より遥かに強く、懸命に生きている。その事実に驚くと同時に、感心してしまう。
ぬいぐるみのようで下手をしたら曲がってしまいそうな頭をそっと撫でると、ロコンは目を細めて、喉の奥で唸りながらシンセイの首元に頭を擦り付けた。
ロコンも確かめているのだ。自分が信頼に足る人間か。そして自分も今、自分を確かめている。こうしてポケモンに、一つの命に触れて。
「ヨウリの言う通りだった」
ロコンに擦り寄られながら、シンセイはヨウリにその綻ばせた顔を向けた。
「知るよりも前に、触れてみなきゃ……いつまで経っても触れないや」
ヨウリは嬉しそうに歯を見せて笑った。そうだ、思い出した。
幼い頃にたまたま切り替えたチャンネルで、一瞬見た。最強のポケモントレーナーを目指す少年の相棒。
「言っただろ?ポケモンなめるなって!」
ピカチュウにどこか良く似た黒い大きな目を、彼女は嬉しそうに細めた。