序章
あまねく生物は同種、食糧、捕食者のサイクルの中で生かされている。
どこかが欠ければどこかが機能しなくなる。この世の生物の力量は平等じゃないから、消えてしまう種も当然ある。
人間だってそうだ。僕らも動物だ。しかも他の種より歯が鋭いわけでも足が速いわけでも体格が優れているわけでもない。なのに何千年と生き残っているんだ。
ひょっとしたら人間って、この星の最後の動物なのかもしれない。だって、炎を吐いたり水を湧き上がらせたり電気を発したり、不思議な超能力を持っていたりもする彼らは、皆『モンスター』なんだから。
そんな人間が他の動物のように、超神的な力を持つ彼らに淘汰されずに生き残れた理由は、こんなの当たり前のことだけど、頭が良かったからに他ならない。そして彼らも、知能は他の動物より遥かに抜きん出ていた。一方だけ弁が立っても、もう一方が国の言葉も知らない外国人だったらまるで意味がないのと同じで、異種である人の言葉を理解できる『モンスター』たちが、幾つかのレパートリーに分けたコミュニケーション方法しか取れない動物たちと交流を図るのは土台無理だったんだ。彼らとレベルが釣り合ったのは人間だけだった。
二つの種族が取った術は互いの生息区域を狭めるでもなく、縄張りを奪い合い争うわけでもなく、「共生」だった。
ポケモンはその神のような力を人のために奮い、人はポケモンに住みやすい環境を提供した。
片利や寄生による比重の偏りがなければ争いは生まれない。人間は今までもこれからも、ポケモンを頼り、ポケモンと共に生きていく。
それ自体を否定しようだなんて思っていない。モンスターボールというポケモンを意のままに操ることができる媒介すら登場したんだから、ポケモンと人間の関係はもはや不滅のものだろう。
なら、この少々反骨的な言い回しで何を批判したいのかって?
唐突だけど、ヨワシっていうポケモンがいるじゃないか。主にアローラ地方に生息するそのポケモンは、魚群を成して生活するらしい。集団で常に同じ向きへ同じ速度で、一糸乱れぬ隊形で海を泳ぐ。
群れに決められた規律があるわけではなく、どれか一体が右を向けば、隣の一体も右へその隣も右へ、といったように、集団に行動が伝染していく。特に僕が興味を持ったのは、群れの端の一体が暗い場所に入って速度を落とすと、他のヨワシもゆっくりと泳ぐようになるという習性だ。
じゃあ例えば、光も闇も、そもそも他の個体の動きの変化にすら気付けないヨワシは、どうなるんだろうか。
群れには入れないだろう。ヨワシは群れた姿で強さを発揮できるポケモンだ。一体だけのヨワシは、自然のサイクルの中で自然に消えていく。きっとヨワシが人間だったら、というか、僕がヨワシだったらこう思う。「最初から大きな姿で生まれたかった」ってね。
最初から外れることのない、心臓を身体から引っペがすことができないのと同じように、生きていけなくなるくらいの環境が丁度良いんだ。できなければ、なれなければ死んでしまう、そのくらいの──。
結局何が言いたいのかって言うと、僕はこの世界に、異端なものを弾き出して殺してしまうほどの厳しさを渇望していた。世界が僕に施した中途半端な優しさは、いともあっさりと断ち切られるものだったと、分かってしまったから。
要するにこれは、ポケモンと助け合わなければ生きられ"ないこともない"人間社会で、"ないこともない"なんて甘い文言に縋って見事に切り捨てられた人間の、どうしようもない負け惜しみだよ。