おねえちゃんの歌
「私は帰らないよ」
ムウマはそう言った。
「帰らないって、どういうこと?」
そう聞き返しはしたものの、ムウマのその発言にそれほど驚いてはいなかった。どこかで予想していたのかもしれない。あるいは期待していたともいえる。
「おねえさんは今朝難しいことを言ったよね」
「難しいこと?」
「この場所が誰のものなのかっていう話だよ」
「ああ」
この小屋を勝手に使って怒られないかとムウマに尋ねられたことを、私は思い出す。
「おねえさんはこう言った。この場所は誰のものでもないって。私がどう使おうが咎める人はいないって」
「ええ、確かに言ったわ」
「なら、私がこの場所に留まり続けたとしても、誰が何を言うこともできないってことだよね?」
「そう……なるわね」
「それなら私はここにいるよ」
あくまで確定したことを報告するかのような、更地に石を積み上げるような淡々とした口調でムウマは宣言した。
その無機質に毅然とした瞳がなにを物語っているのか、読み解くことはかなわない。
「ここに住むの?」
「そういうことになるのかな。ここが誰のものでもないっておねえさんは言っていたけど、先客としておねえさんが住んでいたわけだから、おねえさんが迷惑だって言うなら出ていくけど」
「いえ、迷惑とかそういうんじゃないのよ。ただお母さんとか心配してるんじゃないのかなって――」
言いかけて私は口をつぐんだ。
ムウマの顔が形容しがたい感情を湛えて歪んでいる。
これ以上この話題を続けることは得策でないようだった。
誰しもが触れられることに我慢ならない秘め事を抱えている。彼女には親との間に込み入った事情があるのかもしれないし、そこを無遠慮に詮索することは躊躇われる。
家出だろうか、と私はそう邪推する。
昨晩、川の上で歌っていた彼女と出会ったとき、私が迷子か尋ねたら『そうかもしれない』とはっきりしない返答をされたことにも納得がいく。
しかし一方で、あのときムウマは狼狽した様子で母親を探していたことも思い出す。そのことに言い知れぬ違和感を覚えるも、私はすぐにそれを振り払った。
本人が言いたくないのならば、変に邪推して妙な先入観を作るような真似はするべきではないだろう。
私は意図して笑みを浮かべた。
「迷惑どころか、歓迎するわ。ずっとこの狭い家にひとりで寂しかったから話し相手ができるのなら私も嬉しいわ」
「よかった」
ムウマは言って笑った。
いつもと変わらない、あどけなさの溢れる含みのない彼女らしい笑顔だ。そう、これでいい。
ムウマがここにいることを望んでいて、私も彼女がここに留まってくれることを期待していた。だからこれでいい。
本当に?
わからない。彼女は帰るべきなのか、それともここに留まってもいいのか。彼女のことを何も知らない私には理屈で考えることができない。
ならば、感情で考えてしまってもいいじゃない。と思うことにしたのだ。
「おねえさんはまだ寝ないの?」
「そうね。そういう気分じゃないの」
日中に昼寝をしてしまったせいだろう。日が沈むと平生ならば襲ってくる睡眠欲はすっかり萎えていた。
私はベッドに横たわったまま、まぶたを開けて視線を這わす。
眠気がないとはいえ、電気も通らないこんな森奥の小屋では、満足な夜更かしもままならない。不便な人間の目を持つ私は、闇にうすぼんやりと浮かぶムウマの輪郭を辛うじて眺めていた。彼女の表情も仕草も黒幕のベールに覆われていて、見ていて楽しいものとは言えない。そのことが残念でならない。彼女の姿が見えていたのならば、この色濃い退屈に塗りつぶされた夜も相応に華やぐのではないだろうか。
「退屈ね……」
そうやって独り言ちて、窓の外の月を仰いだ。すぐに木々に隠れて見えなくなるであろう。そうすれば、ムウマの輪郭を闇と見分けることすら困難になるかもしれない。
突如一層強い孤独感が私を襲い、私はごくりと唾液を飲み込んだ。口がからからに乾いていく。かつえているような得体のしれない恐怖感が地下から手を伸ばし、私を引きずり落とすように引っ張った。私はその漆黒の手を振り切ろうと躍起になって孤独を紛らわせようとした。
今さら孤独なんて恐れるものではないだろう。だって私は今までずっと孤独だったではないか。長い長い間、ずっと。
たぶん、久しぶりに誰かと触れ合ったから、自分の感情の機微に少し敏感になっただけだ。こんな恐怖心はすぐに消えて忘れてしまえるはずだ。
「おねえさん?」
寄り添うように近づいて、私を見上げた小さな童女と目が合う。少しだけ夜に目が慣れてきていて、彼女の心配げな優しい瞳がうっすらと浮かび上がる。
私はゆっくりと手を伸ばして、その身体に恐る恐る触れてみる。彼女は不思議そうに私の一挙一動を見ていたけれど、拒もうとはしなかった。そのまま彼女の後ろまで腕を回して、壊れそうな骨董品を包むように丁寧に抱きしめた。
彼女に本を読みきかせる時に、自然と抱きかかえるような格好にはなったけれど、こんなふうに至純な抱擁はムウマにとって初めてのことなのではないかと、私は思った。なぜならムウマには手がないから。
そのことを確証づけるように、ムウマの目は戸惑いで揺らいでいた。それでもやはり、彼女は拒もうとはしない。
小さな体躯を抱き寄せると、滅法な安堵感に満たされていくのを感じた。ムウマはしばらくもぞもぞと浮き腰でいたけれど、じきに私の腕の中で居心地良さそうに落ち着いていった。
「なんかほっこりする」
ムウマは気分が良さそうに、透き通ったハミングで鼻歌を歌いだした。幻想的な旋律の粉雪がきらきらと室内に舞い散った。私は目を閉じる。無音の中で本を読むのとは一味も二味も違う、蕩けるような多幸感。抗いようのない、中毒性。
「ああ……」
感嘆の息が漏れてしまう。
心にまとわりついていた黒々とした手が、浄化されていく。孤独だとか恐怖だとかいったものは、どこか非現実的なものとして、けっして関与することのないような彼方に逃げ去ってしまった。
「この歌はね、おねえちゃんに教えてもらったんだ」
とムウマが言った。
「おねえちゃん?」
「そう」
ムウマは切なそうに目を細めた。遠くを見る目だった。
「昨日の夜歌っていた歌と同じ歌」
私が言うと、ムウマは困ったように微笑んだ。
「そう、なのかな。昨日は歌っていたときの記憶があまりはっきりしないから、よくわからない」
彼女はそう言うけれど、でもあれは、昨夜聞いたあの見事な歌声は、無意識のうちに歌っていたというには信じがたいような切実な絶唱だった。彼女が覚えていなくても、私は昨夜のあの旋律を永久に忘れることはできない。重大な記念碑として私の中にいつまでも残り続けるだろう。
月はもう部屋の中を照らしてはいなかった。ただ闇だけがそこにあった。私にはもうなにも視認することはできない。腕の中の感触だけが、私が独りではないということを沈黙のうちに伝えていた。
「私はね、おねえちゃんに教えてもらったこの歌が大好きなんだ」
「私もその歌、好きよ」
私が告げると、ムウマは嬉しそうに身体を震わせた。
「じゃあ私がこの歌を歌っていても、おねえさんは怒ったりしない?」
「しないわよ。もう、またそれ」
今朝にもあったような怒る怒らないの問答。彼女はなにをそんなに恐れるのだろう。人の顔色をうかがおうとするのは彼女の生真面目な特性からきているものだと思っていたけれど、そうではないような気もする。
「そうだよね、おねえさんはこの歌を気に入ってくれているし、怒らない」
「ええ」
「やっぱりおねえさんは優しいね」
「別に優しいから怒らないわけじゃないわよ」
「違うの。怒らないからとか、そういうんじゃなくて」
そしてムウマは言うかどうか決めかねるように口を閉じた。暗くて見えないけれど、ムウマはまた少し切なそうに目を細めて遠くを見ているのだな、と漠然とそんな予感があった。世界が一層静かに感じられて、私はただ黙ってムウマがなにかを言うことを期待した。ここで彼女が口をつぐんだままだと、もうその後は朝まで会話がなくなってしまいそうだった。夜の森の闇は沈黙を導くくらいに深い。
「おねえさんは、わたしのおねえちゃんに似ているね」
そう言ってから、ムウマは自分の発言に納得して「うん、似ている」と満足げに反芻した。
「似ているって?」
「優しいところとか。その、雰囲気っていうか、こうやって一緒にいると安心する」
ムウマは、おそらくは私に向けて、「おねえちゃん」と小さくささやいて呼びかけた。私はびくりとした。ムウマはいたずらっぽく「ふふ」と笑っている。
「ここはなぜだかすごく居心地がいいと思っていたけど」
ムウマは言う。
「きっとここは、ここは、おねえちゃんがいるから、こんなに居心地がいいんだろうね。こんなに愛しくて、もうどこにも行きたくない感じ。他に誰もいらない感じ。懐かしくて切なくて寂しくて、愛しい。おねえちゃんがいるから」
「えっ」
「ごめんね。おねえさんはおねえちゃんじゃないもんね」
「……そうね」
私たちは異形同士で、血のつながりなんてものは存在しない。それは自明の理で、だから姉妹なんてありえない。私たちは昨日の夜、初めて出会って、そしてまだ一日しか共に過ごしていない。
それなのに、彼女がもうどこにも行きたくないと言ってくれたことが、私は嬉しくて仕様がなかった。“おねえちゃん”という響きは私とムウマを結び付ける魔性の呪文めいて聞こえた。それは甘い誘惑の言葉だった。
でも、私は気ならずにはいられなかった。ムウマの言葉はしばしば謎めいていて違和感がある。家族についての話をする時、特にその違和感を強く感じる。そのことが気にかかる。
「ねえ、あなたは」
「うん?」
「あなたはお姉ちゃんが好きなのね」
私は言った。
「うん。すごく。世界で一番、誰よりも好きだよ」
ムウマはうっとりとして答えて、それでいてやはり悲しそうで、またどこか遠くの方を見ながら話しているような気色を感じた。
「そんなにおねえちゃんが好きなら」
「うん」
「やっぱりあなたは自分の家族のもとに帰るべきよ」
言いたくないのに、彼女にはできるだけ長い間この場所にいてほしいと思っているのに、彼女の言動に内包された違和感に、ある種の奇怪さを覚えるから、私は言わずにはいられなかった。
「そんなにお姉ちゃんのことが好きなら、あなたは帰るべきよ。私がいくらあなたのお姉ちゃんに似ていても、私はあなたのお姉ちゃんじゃないし、なんていうか、偽物、じゃない、そんなの。そんなに愛しい人がいるなら、こんな場所に囚われいるなんて、おかしいわよ。なんで帰りたくないのよ。お姉ちゃんに会いたいでしょう。きっとあなたのお姉ちゃんだってそう思っているわ、あなたに会いたいって思っているはずよ」
私は言った。
ムウマが私の腕の中で、悲しそうにまた、ふふ、と笑った。
「いいんだ、偽物でもいいんだよ」
とムウマは言った。
「なんで……」
「だってもう、おねえちゃんには会えないから」
「会えない?」
「おねえちゃんは、死んじゃったから。ずっと前に」
「えっ……」
闇が、深い。寂れた森の廃屋に一切の光は届かない。音も空気も匂いも、なにもかも重苦しくて、押しつぶされてしまいそうなほどに暗澹たるしめやかさだ。
息が苦しくて私は喘ぐようにゆっくり闇を吸い込んだ。
「死んじゃったの。おとうさんが死んだすぐ後に。おかあさんが――――」
言いかけて、ムウマは口をつぐむ。それ以上の子細を語ることは厭うたようだった。寸毫の空白を挟んで、ムウマは口を開く。
「だからもう帰る場所なんてないんだよ」
ふふ。ムウマは笑う。
ああ、彼女は孤独なのだ、と私はおぼろげに思った。
私と似ているようで、また違った形の孤独を彼女は抱えていたのだと、この時初めて私は気付いたのだ。
「だから私、ここにいるんだ」
「ええ」
「偽物でもなんでもよくて、愛しいおねえちゃんがいるこの場所に」
おねえちゃん。おねえちゃん。とムウマが呟いた。
「……でも私はあなたのお姉ちゃんにはなれないわ」
「そっか、そうだよね。うん、知ってるよ」
ムウマは残念そうに、ふっと息を吐いた。
それからムウマは軽やかにハミングを口ずさみ始めた。それはインスタントな鼻歌で、ともすれば無意識のうちに歌われているのかもしれない歌だった。
「ねえ、またあなたの歌を聞かせて。鼻歌じゃなくて、もっとちゃんと聞きたいわ」
「うん、いいよ。私も歌うのは好きなんだ。おかあさんは私が歌うと怒るから、ちゃんと歌うのは久しぶりだし、まだおねえちゃんほど上手には歌えないけど」
そしてムウマは歌いだした。
それは、もしかしたら孤独の歌なのかもしれない。甘美でそれでいて切ないその旋律は、私の心を、魂を、優しく掴んで離さない。今まで見てきた世界に存在したなにものよりも美しくて、愛おしい。柔らかくゆっくりと森の闇を穿いていく。
長い間行きたいと焦がれて、決して行くことのできなかった世界までいざなってくれるような歌声。
この感情はなんだろう。この愛おしい気持ちをどう表せばいいのだろう。
死ぬまであなたの歌がききたい。