3 文盲なる童女と冒険譚
眠りは浅かったようだ。前方に漂うほんの微かな気配で私は目を覚ました。ソファで普段とは違う体位で眠ったせいだろう。上半身のあちらこちらが軋むように軽く痛んだ。
気配の正体は言うまでもなくムウマだった。私よりも早くに起きていたらしい。ムウマは机の上に置いた本の表紙をくわえ、たどたどしくめくった。ムウマにとって本は大きく興味がそそられるものであるらしい。あるいは興味を持つべきものが本以外に存在しないとも言える。
私は目を開けただけで、動かず静かにムウマの挙動を見守っていた。
ムウマは表紙をめくった一ページ目をじっと見つめている。そして何かに気付いたかのように、「あっ」と声を上げると、本を閉じた。ムウマは表紙を眺めそれから再び最初のページをめくった。しばらくそうして表紙と一ページを見比べてから、
「やっぱり」
と呟いた。
「外側とこのページは文字が同じだ」
ムウマは嬉しそうに笑う。
私は思わず吹き出した。なるほど、文字が読めなくても読めないなりに楽しみ方があるのだなと感心する反面、ムウマのやっていることは傍から見れば滑稽なものだった。
私の笑い声に不意を突かれて、ムウマは驚いて目をぱちくりとさせるものだから、その仕草で私はまたひとしきり笑った。
「おはよう」
私は言う。
「おはよう」
ムウマもそう返してから、
「なんで笑ってるの?」
胡乱そうに尋ねた。
「ごめんなさいね、大したことじゃないの」
面と向かって相手の滑稽さについて言及するほど慮外な人格を私は持ち合わせてはいない。
「本を読んでいたのね」
「というよりは、これから読もうとしていたところ」
ムウマは不機嫌そうに言った。幼い彼女といえども、自分が笑われていたという程度のことは推し量れるのだろう。適当に話を逸らす必要がありそうだ。
「気に入ってくれたようで嬉しいわ。あなたがそれを読むなら、私はもう一冊別のを持ってこようかしら」
私は立ちあがり、階段に向かう。
「あ、待って」
ムウマは机の上の本を示すように一瞥して言う。
「この本って昨晩のものとは違うものだよね?」
「そうね」
「昨日と同じものが欲しいな」
「あの本がお気に入りかしら?」
「お気に入りというか、まだ全然読めてないのにお預けにされちゃうのはなんか嫌だなって。物語の内容も途中まであらましを聞いただけだし、釈然としないというか、もやもやするっていうか」
まあ、文字は分からないんだけど、とムウマは小さく付け足した。
「そうね。中途半端な物語ほど気になるものはないものね」
本に記された物語には必ず終わりがある。最後のページがその物語の世界の終焉として明確に存在する。それが私が本を愛する一因でもあるから、物語の結末を知ることができずにたまらなくもどかしくなる気持ちはよくわかる。
屋根裏へ行き、昨日読んでいた冒険小説を取ってくる。
「はい、どうぞ」
私はその本を机の上に置いた。
「ありがとう」
とムウマは言った。
置かれた本の表紙を先ほどと同じようにいじらしく口でくわえてめくる。それはなんとも微笑ましい光景だ。本に次ぐ第二の娯楽としてムウマの鑑賞というのもいいかもしれない。
ムウマが童顔に似つかわしくないしかめ面でページとにらめっこをしている様子を眺める。穴が開くほど読み込んだところで字が読めるようにはならないだろうに、彼女は不乱に解読しようとする。その姿にまた笑いそうになったとき、ムウマと目が合った。
「なに見てるの」
「いいえ、別に」
私は取り繕うように目を逸らし、窓の外に視線を移す。東側に取り付けられている窓だ。
風景は清楚な紅に燃えていて、しかし黄昏のほんの一部分を切り取っただけの窓からは全てを紅く染める太陽は見えない。この家に優しい光を落としてはくれない。
ムウマが読んでいない方の本を手に取って、私は窓際のベッドに場所を変える。太陽が直接光を届けてくれなくとも、風景から漏れた紅のおかげで仄かな明るみはある。心許ないながらも、本を読めるだけの外光だ。
私も本を開き、文字の羅列を目で追い始める。五分ほど読み進めていたが、どうにも読書に集中できないでいた。
視界の隅にちらつくのはムウマのしかめ面である。文字との睨み合いに勝利すれば読めるようになるのだろうか。そんなわけはない。
ついに諦めたように元の童顔に直ったムウマの表情には哀感が滲んでいた。土台勝てる戦いではなかったのだ。試みるだけ烏滸の沙汰だろう。
助けを乞うようにムウマがこちらを見る。
こうやって過剰に他者の庇護欲求を刺激することは童子の特権であり、同時に生存戦略でもあるのだろう。事実、この局面においてその戦略は十二分に功を成している。
私は仕方がないというふうに笑う。
私は立ち上がりムウマが読んでいた本を掴んで、もう一度ベッドの上に腰を下ろす。
「おいで」
膝を叩き、ムウマを招く。
ムウマは嬉しそうに私の膝上に落ち着いた。そこに重みはほとんど感じなかった。代わりに感じた温かさは半霊体質といえども確然たる生命であることを物語っている。こんな風に温もりを抱きかかえ、至近距離でその温度に触れたのは、果たしていつ以来なのだろう。もはや思い出すことができないほど、昔のようにすら感じてしまう。過当な孤独は時間をも容易く狂わせるのだ。
「教えてくれるの?」
サーカスでも始まるかのような軽い興奮を募らせながら、ムウマは言う。
「文字を教えるのは流石に難しいわね」
「そうなの?」
「一朝一夕で身に付くようなものではないし、むしろ年単位をかけて習得するようなものだもの」
それに私は誰かに物を教えられるような明哲な人間ではない。
「じゃあ、何をするの?」
「私が読むのよ」
「おねえさんが読むの?」
ムウマは怪訝そうに首を捻る。
「それじゃあ、わたしはおねえさんが読んでいるのを黙って見ているの?」
「勘違いしているようだけれど読むと言っても黙って読むわけじゃないわ。声に出して読むのよ。ちゃんとあなたにも聞こえるようにね」
私は本を読み上げる。一字一句抑揚をつけて、他者に聞かせることを自分なりに凡慮ながらも追求しているつもりになって、ムウマの母親かあるいは姉になったような心持ちになりながら、物語を代読する。
ムウマはそれを心底楽しそうに聞く。おそらく聞きなじみのない言葉が再三再四出てくるであろうけれど、そんなものに構ってなどいない。一切口を挟まずに、ただ物語に身を委ねている。
今この瞬間、私はいわばストーリーテラーのようなもので、そんな私の語りに耳を澄ますムウマは物語の主人公と同じ世界を旅している。まだまだ旅は始まったばかりだ。これから途方もない困難に幾度もぶつかってしまうことを、主人公もムウマも知らない。今まさに彼らは大いなる旅路の劈頭を踏みしめている。起承転結で言うなら起の中のさらにその序幕が丁度下ろされるところだ。
だが――
「今日はここまでね」
私は本を閉じる。
「なんで?」
不服そうにムウマは言う。
気持ちはわかる。やはり、物語が結末を迎える前に途切れてしまうのは歯痒くて仕方がないものなのだ。できることなら、夜を徹してでも最後まで読み聞かせてあげたい。しかしそうもいかない事情というものがある。
「昨晩のことでわかったと思うけど、私はあなたと違って目が良くないのよ」
既に家は暗闇の支配下に置かれつつある。この空間で細かい字を読み上げることはできない。夜は人が営む時間ではないのだ。
「だから、今日はもうおしまい。ごめんなさいね」
続きはまた明日。そう言おうとして口をつぐむ。
今、ごく自然な感情として、明日ムウマに読み聞かせをする腹積もりでいた。それはつまり、明日もムウマが親元に帰らないということを意味する。
そうだ、読み聞かせなんかするよりも先に彼女に聞くべきことがあったはずだ。なに目を逸らしているのだろう。
「ねえ」
「なに、おねえさん?」
こんな廃屋は幼い純粋さを持つ童子のいるべき場所ではない。彼女が収容されるにはあまりにも狭すぎる世界だ。彼女はできるだけ早くこの場所出ていき、あるべき場所に帰らなくてはならない。彼女もそれを望んでいるはずだ。
そこまで考えた私に、ふと一つの疑問が過ぎった。
そういえばムウマはこの場所に来てから、一度も「帰りたい」といった旨の発言をしていないどころか、自分の親に関する言及すらしていない。親から離れてしまって一日経つが、彼女の口から寂寥の言葉が発せられるのを見ていないのだ。憂う様子を見せるどころか、本に興味を示したり、むしろ悠々としているようにすら見える。とても森で迷子になり独りぼっちで泣いていた子供のそれとは思えないのだ。やせ我慢や空元気だろうか? いや、そうは見えない。
「どうしたの、おねえさん?」
「いえ、その、そろそろお母さんやお父さんのところへ帰った方が良いんじゃないかと思ったのだけれど……」
「帰る?」
「ええ、だってあなたは迷子だったのでしょう? 親御さんはとても心配しているでしょうし、あなただって早く親御さんのところに帰りたいんじゃないかって」
私は言った。
ムウマは私の顔をじっと見る。ムウマの口は一文字に結ばれていて、その無表情からは何を考えているのか推し量ることはできない。この子でもこんな顔をするのだな。なんだかとても、不釣り合いだ。
「わたしは……。わたしはね」
ムウマは少し言い淀んだ。
「わたしは帰らないよ」
その言葉は闇に包まれた狭すぎる世界に、残光のように後を引いて消えなかった。