一章 少女とムウマ
2 朝
 朝が営みを取り戻す。どこか遠くの方、高く上がる生き物たちの騒めきの音が私にそのことを告げる。目を開けると、私が眠りに落ちる前まで黒に呑まれていた天井は緩やかに可視化されている。朝が可視化されている。
 私は固めのベッドから身体を起こして大きく伸びをした。
「おはよう」
 と私ではない誰かが言った。
 そのことに私は驚く。独りきりで暮らしていたはずの私の家で、私に朝の挨拶を寄越してくれるような存在はいない。
 寝起きで霧がかかったかのように思考が霞んで上手く定まらない。反射だけで声の方を向くと、そこには小さな塊が浮遊していた。
 ようやく私はすべてを思い出す。昨晩出会った小さな歌姫の存在をようやく認識する。その一連がよみがえるのに些細な時間がかかり、それから、
「おはよう」
 と遅れて返した。ムウマが微笑む。
 それから、窓の外の太陽の高さを見て、ほぼいつも通りの時間に起きていることを確認する。空はよく晴れていた。絶好の外出日和だ。
 私は立ち上がって再び伸びをする。
「よく寝れた?」
 私は言った。
 ムウマは首を振る。
「わたしは寝てないよ」
「一睡も?」
「うん。少し眠い」
 ムウマは大きく口を開けて欠伸をした。親と離ればなれになってしまった不安で、眠れなかったのだろうか。
「そろそろ寝るよ」
「今から?」
 ムウマは頷いた。
「わたしはいつも朝に寝るよ」
 元来ムウマという生き物は夜行性であるらしく、朝から夕方までは眠って、日没に差し掛かると活動を始める。それはムウマが霊的特質を持つ生物であることを考慮すれば、たしかに腑に落ちる生態だ。物の怪の類には明るく陽気な太陽の下よりも、妖しく濡れて光る朧月夜が良く似合う。古今東西の怪談の多くは夕暮れから丑の刻の話が語られるし、吸血鬼だって日の光に当たれば命を落とす。
 日の光に晒されたところでムウマが命を落とすようなことはないだろうけど、大筋は同じようなものなのだろう。
「私が寝ている間、退屈だったでしょう?」
 私は尋ねた。この家に時計は置いていないから、正確に私が何時間眠っていたのかは定かではないけれど、決して短い時間ではなかったはずだ。少なくとも、一人で時間を無為に持て余すくらいには。
「うん、ちょっとだけ退屈だった」
「何もすることがなかったんじゃないかしら」
 こんな何もない場所なんかでは。私としてはその殺風景さが気に入っているのだけれど、殺風景ゆえに娯楽などには程遠い。客観的に見ればつまらない空間だろう。
「何もないことはなかったよ」
「あら、そう? 何をしていたの?」
「えっと、その……」
 ムウマはおどおどと口ごもった。目が泳いでいる。
「どうしたの?」
「どうしても気になって、勝手に本に触っちゃったんだ。本当は触っていいかどうか聞こうと思ったんだけど、寝ているところを起こすのも悪いかなって思って……。ごめんなさい」
 まるで大人に叱られて言い訳をしている子供のようにたどたどしく、ムウマは言った。
 私は笑う。
「なんだ、そんなこと。全然気にしなくていいのよ。勝手に触ってもらって構わないわ」
 この家で唯一時間を潰せるものといえば本くらいだろう。手が伸びるのは無理もない話だ。
 ムウマは安心したように息を吐いた。
「よかった」
「でも黙っていればわからなかったのに」
 と私は言う。
 本が弄られたかどうかなんて注意深く観察したところで、推理小説の探偵でもなんでもない私にはわかりっこないのだ。わざわざ正直に聞かれてもいないことを自白する必要なんてない。幼さゆえの純粋さだろうかとも思ったけれど、多くの子供は自らの過失はひた隠しにしたがるものだ。
「隠し事をするのはあまり良くないと思う」
 とムウマは言う。彼女には幼さとは違う、もっと誠実な純粋さがある。
「それに、もしばれたら怒られるから」
「そんなに怒りっぽく見えるかしら、私」
「あ、ごめんなさい……」
「だから怒ってないわよ」
 できるだけムウマを安心させられるよう、私は日向の草原を思い浮かべながら笑って言った。
「おねえさんはあまり怒らないんだね」
「どうかしら、私が特別気の長い方というわけではないと思うけれど」
 そもそも、こんな暮らしの最中にあっては、定期的に憤慨できるような相手すらもいないのだ。今の私は怒りというものに対して大きなブランクがある。自分の沸点がどのくらいなのかについて、私は考えてみる。それを推測することは容易ではないけれど、この礼儀正しそうなムウマが私を怒らせるところは想像できなかった。
「もっと安気にしていていいのよ。第一に、この場所は私の所有物というわけではないから、ここであなたが何をしたところで私が怒るのは筋違いなんだから」
「じゃあこの場所は誰の物なの?」
「私も知らないわ」
「勝手に使ったら怒られないかな」
「どうでしょうね。ここに住み始めて何回か季節が巡ったけれど、持ち主を名乗る人には一度も会ったことは無いし。私がここに住み始めた頃なんかはは酷い荒れようで、かなり長い間誰にも使われずに放置されていたような有様だったもの。まるで世界に忘れられてしまった場所に時間だけが住み着いていたみたいに」
「でも忘れられているってことは思い出されることもあるってことだよ」
「そうね」
 私は頷く。
「そういうこともあるかもしれないわね。忘れることもあれば、思い出すこともある、当然の現象ね。でも可能性の話をしていてもきりがないでしょう? 今持ち主はこの場所のことを忘れていて、私たちと時間だけがこの場所のことを知っている。だからその間私たちがこの場所をどんな風に使っても咎める者は誰もいない。それじゃあ不満かしら」
 ムウマは、うーん、と頭を捻ってから、
「よくわからない」
 と言った。
「すごく眠いんだ。上手くものを考えられない。眠ってもいいかな」
「ええ、自由にしていいのよ」
「わかった」
 ムウマはゆっくりと机に近づくと、その下に潜り込んだ。
「そんなところでいいの?」
「うん、ここがいい。そっちは太陽の光が当たって眩しいから、眠れない」
「そう。じゃあ気のすむまで眠るといいわ」
「うん、たぶん夕方くらいまで眠ると思う。おやすみなさい」
「おやすみなさい」
 そう言い合うと、ムウマは机の下で目を閉じた。
 私は机上の本に手を置く。やはりそれは、誰かが弄ったかどうかなんてことは分からないように、ただ静かに鎮座している。新しく折り目がついたり、どこかのページが破られているなどということは決してない。
「読むことはできた?」
 冗談半分で私が尋ねるころには、ムウマはすでに安らかに寝息をたてていた。
 まあ、読めたわけがないだろう。
 本を読むことはできず、他にすることもなく、この子は何を思って夜を明かしたのだろう。親とも離ればなれになり、見知らぬ屋舎の中、独りぼっちで彼女は何を思ったのだろう。
 夕方くらいまで眠ると彼女は言った。彼女の親を探しに行きたかったけれど、夕方過ぎともなれば森は暗く、夜行性生物ではない私が探索をするには危険がつきまとう。昨晩だって、危うく森をさまよい続けるところなるかもしれなかったのだから、もう一度夜の森に繰り出す蛮勇はもはや私にはない。
 ムウマが眠っている間に私だけで探しに行くというのも考えた。ムウマの親はムウマ、あるいはその系譜であるムウマージであろうから、それらを探せばいい。しかし、幼いムウマ一匹を残してこの場所を離れることは、少々気が引けた。
 詮方がない。どうしたものだろう。
 ――そんなことを言って、ただ彼女がいなくなることが嫌なだけなのではないか。
 誰かがそう囁いた。
 ――本当は彼女の親が見つかることを危惧しているのではないか。久方ぶりに孤独から解放されて、そして再び孤独に戻るのが嫌なだけなのだろう。
 その声を私は思考の外に追いやる。
 何はともあれ、ムウマ次第だ。彼女が起きてから、どうするかを一緒に考えればいい。
 私は音を立てぬようそっと本を持ち上げ、階段を上る。
 棚の倒れ込んでいた本を直し、手持ちの一冊を然るべき位置に戻す。つっかえることもなく、本は吸い込まれるように棚に収まり、本棚は一日ぶりに完全さを取り戻した。その様を一寸ばかり眺めてから、隣にあった別の本を慎重に抜き取る。周りの本が倒れることはなかった。そのことに満足してから、私は階段を下り、ソファに腰かけて本の表紙をめくった。
 時間を潰すことのできる娯楽がある。それはきっと人生でもっとも重要なことだ。娯楽享楽のない人生ほど、無意味で価値のないものなんてない。だから私は本を読む。
 そうして何時間かが経った。
 太陽は絶えず動き続け、やがて例の時間が訪れる。
 日の光が差し込まなくなり、廃屋はほんのりと影に染まる。私は読んでいた本に栞を挟んで顔を上げる。
 普段なら、日の当たる広場に場所を移して読書する時間だ。しかし、今日はムウマがいる。堅いうえに薄汚れた床板の上で寝苦しそうなものだが、ムウマはそんなことに構うことはなく、時計のように一定のリズムで寝息を刻んでいる。いまだ起きる気配はない。
 決して本を読むことができないような暗さではないけれど、なんとなく中断したものを再開させる気になれず、私はソファにより深くもたれかかり、彼女の寝息を聞いていた。
 昨晩寝るのが遅かったからだろう。寝息のリズムに誘われるようにして、やがて私は眠ってしまった。

とまと ( 2017/05/28(日) 22:20 )