死ぬまであなたの歌がききたい - 一章 少女とムウマ
1 深き森のローレライ
 分厚い本を抱えたまま、一歩を踏み出す。
 傷んだ木製の階段を下りると、ぎぃぎぃと軋んだ音をたてた。改めて聞くと、ここに住み始めた頃と比べて、いくらか大きく響いて聞こえるような気がして、私は立ち止った。
 廃墟をいくら綺麗に掃いて磨いて掃除したところで、老朽化ばかりは素人の手にはどうすることもできない。私の知らないところで静かにこの廃屋を蝕んでいく。この廃屋はあとどのくらい建物としての体裁を保っていられるだろうか。あちこちにガタが来ているのがわかる。普通ならとっくの昔に建て替えるか引っ越すかするべきレベルだ。今のところはまだ崩れ落ちる気配はなさそうだけれど、一般的に住む場所として適切でないのはたしかだろう。
 まあ、一度住居としての役目を終えた建物に図々しくも越してきたのは私の方である。廃屋からしてみればいい迷惑だろう。朽ち果てて住むに堪えない姿になろうが、彼は既に隠居してしまっているのだから、とやかく言う権利は私にはない。むしろ住まわせてくれていることに感謝するべきだろう。
 私は再び階段を下り始める。
 ――ぎぃぎぃ。
 不安を煽るような、退去を促すような、そんな音。歓迎はされていないのだろうな、とつくづく思う。
 しかししばらくは――少なくともこの小屋が崩壊するまでは、私にはここを立ち退くつもりはない。
 この朽ちかけた小屋を、私はそれなりに気に入っている。新築の一軒家と並べられても、私はこのオンボロ小屋を選り好んで住まうだろう。真新しいものよりも廃れたものの方が安心できる。私は終わりが見えないものより終わったものや終わっていくものが好きなのだ。
 だからこの小屋は私の好みを的確に打ち抜いている。
 でも歓迎されていないのだから、つまり私の片思いというわけだ。なんとも切ないものである。
 一階に下り、私は扉をくぐる。。
 家を出ると、視界を覆いつくす万緑の森が悠然と広がっていた。街からは遠く離れた深い森の中にこの廃屋はひっそりと佇んでいる。もし街まで行くのなら、私の足で歩いて数時間はかかる、それくらいには離れている。
 いったいどのようなもの好きがこんな不便な場所に家を建て暮らしていたのか。はじめの頃は疑問に思ったりもしたけれど、そんな物好きがいたおかげで私はそこそこ快適に暮らせているので、細かいことはいつしか考えなくなった。
 空を見上げると木々の隙間からうっすらと太陽が見える。真南をズレて、少しずつ西へ傾いていく最中だけれど、沈むまでにはまだ猶予がある。
 私は門をくぐり、森の中へと踏み出していく。家のすぐそばを流れる川瀬に並ぶ石を伝って、向こう岸へ渡る。
 毎日この時間になると向かう場所がある。
 森は閑静で生き物の気配すらほとんど感じない。何も住んでいない、なんてことはないだろうけれど、私の前に姿を見せることはあまりない。殺風景な林冠を慣れた足取りで進んでいく。そして、
「着いた」
 そこは木々のない開けた場所だ。遮るもの少ないから、太陽の光が程よく差し込んで森の中でも明るい。
 私の家は立地条件の関係で始終薄暗いのだけれど、この時間帯になってくると特にそれが顕著だ。読書をするにはやや環境が悪い。だから毎日昼過ぎになるとこの場所を訪れて、日が沈むまで読書をすることにしている。
 珍しいことに、どうやら今日は私のほかに先客がいるようだ。
 陽当たりが良いからだろう。その空間の真ん中でエネコが身体を丸め、日向ぼっこをしていた。
 心地よい午後の休息のひとときを邪魔をしてしまわないよう、なるべく静かに歩いて、少し離れたところに腰を下ろした。ところがエネコはこっちの気配を敏感に感じ取ったらしい。おもむろに起き上がると、興味深げに私の方を眺めてきた。一瞬だけ私たちの目が合う。ビクッ、とエネコの身体が震える。
「こんにちは、いい天気ね」
 努めて穏やかに、優しい口調で私は挨拶をした。しかしそれはあまり効果がなかったらしい。エネコは怯えた表情を浮かべると、こちらに背を向けて一目散に走り去ってしまった。
 まあ、そうでしょうね。
 諦念混じりに独り言ちた。こうなることはわかっていた。
 どうやら私はポケモンに嫌われてしまっているらしい。彼らは私と顔を合わせるとことごとく逃げ出すか、威嚇してくるか、少なくとも友好的な態度を見せてくれることはない。このあたりに移り住んで間もない頃は、家の周りにもポケモンたちが暮らしていたのだが、私を避けるように段々とその数を減らしていった。今では彼らの姿を目にすることは滅多にない。できることなら仲良くしたいのに、皆いなくなってしまう。そのことにどうしようもなく物寂しさを覚える。
 これもまた片思い。やはり切ないものだ。
 私は持っていた本を開いた。
 それはどこか遠い海の向こうで書かれた冒険小説だ。もう何回読んだかも知れない本だった。これから起こる事件もその真相も主人公が繰り広げる絶体絶命の戦いの行く末も、私はすべて知っている。
 それでもなお私がこの本を読むことに、別段深い意味があるわけではない。この本になにか思い入れがあるわけではないし、取り立ててストーリーが好きというわけでもなかった。話はもっと単純で、他に読む本がなかったというだけだ。いや、読む本自体は家にたくさんあるのだが、バランス良く読もうとすると、自然と次に読む本が絞られていくのだ。巡り巡って今日はこの本の順番だった。
 この場所は、さながら町はずれの図書館のように静謐で、本を読むにはおあつらえ向きとも言える。そよぐ風すら空間の一部のようで、その自然との一体感のようなものに浸りながら、私はページをめくる。私の人生における唯一の至福のひと時とも言える時間をめいいっぱい堪能する。
 そんな私のひと時に異質が流れてきたのは、太陽が沈みかけて暗くなり、もうそろそろ帰ろうか、そう考えていたときだった。
 声が聞こえてきた。
 それは歌だった。と思う。
 いや、確かに旋律の体裁を成していたから、間違いなく歌ではあったはずだ。
 ただその歌声はどこか悲痛に満ちた叫喚のようにも聞こえたのだ。絶望し苦痛に歪んだ、暗澹たる絶叫のような。そんなものがその旋律の根底に潜んでいるような。
 じゃあその歌が聞くに堪えないものであったかというと、決してそんなことはなかった。むしろ逆で、悲愴の色が濃く混ざっていながらも、その歌声は恍惚とするほどに甘美で、まるで温水で満たされた夢の中を揺蕩うような、そんな錯覚すら覚えてしまう。心を奪われるような、さらに言うなら魂を奪われるような、そんな感覚。絶対的な中毒性を孕んだ、聞くことを強制されてしまうような、そんな歌声。
 それはこの静かな森において、あからさまに異端だった。
 我を忘れて聞き入っていた私が正気に戻ったのは、本を落としてその角が丁度太腿に当たり痛みを感じた時だった。
 私は空を見上げた。日はどんどん木々の向こうに見えなくなっていく。まだ明るさは残っているけれど、じきに暗くなるだろう。今からさらに森の奥に入っていくのはあまり好ましいことではないけれど……。
 歌はそう遠くはないところから聞こえてくる。
 太腿をさすりながら立ち上がる。これほどの歌声を奏でているのが何者であるのか、並々ならぬ興味があった。探しに行く価値はあるはずだ。
 もうほとんど闇に包まれかけている森の中を、私は歌声の響く方角へ歩き出した。
 それから随分時間がたったような気がする。
 それほど離れていないと思っていたけれど、案外遠くから聞こえてきていたらしい。日は完全に沈み、自分がどこを歩いているのかさえ分からなくなってきた。引き返そうと何度も考えたけれど、足は自然と声のする方へ吸い込まれるように動いた。その間歌声が鳴り止むことはなく、それは絶えず森の暗闇を揺らしていた。
 私はいつか本で読んだ人魚の伝説を思い出す。人魚は海に住み、魔性の歌声で航海者たちを惑わし、その船を難破させ沈めてしまうというものだ。今の私の境遇とそれはよく似ているように思えた。
 唐突に月明かりが眼を刺し、私は立ち止る。
 目の前には川が流れていた。川岸に遮蔽物は少なく、空を仰ぐことができた。真上に見えるまるい月は程好く輝いて、川面をちらちらと照らしていた。。
 歌はもうすぐそばから聞こえている。
 私は目を凝らした。
 川から大きく突き出た岩の上に、月光をいっぱいに受けて映える小さな影が見えた。魔性の歌声は確かにその口から生まれていた。その姿は人魚ではない。けれど人間でもない、異形であった。歌の主は一匹の幼いムウマの童女だった。ムウマの童女が月光を受けて美しく輝きながら、すがるように歌い狂っている。
 その光景はスポットライトに当てられた舞台役者のようで、とてもドラマティックだった。
 私はその光景にしばし見惚れた。舞台が終わるまでずっと見惚れていた。
「素敵な歌ね」
 歌が止んだタイミングで私は言った。
 ムウマが振り返り、私たちは目が合う。
 彼女の顔を目の当たりにして、私は息を飲む。彼女の目尻からは細く涙が伝っていて、夜空から落とされた星のように宵闇に溶けて消えそうなほど淡く光っていた。
「あなた、泣いてるの?」
 しかし、その問いにムウマは答えなかった。
「だれ……ですか?」
 恐る恐るといったふうに、ムウマは控えめに口を開いた。その表情は警戒と恐怖を足して二つに割ったような表情だった。私はいつも怖がられる。ポケモンは皆私を受け入れてはくれない。でも、相手が誰であれ、こんな夜に知らない者から話しかけられるのは怖いものなのかもしれない。
「驚かせてしまったのならごめんなさい」
 と私は謝罪する。
 そして続ける。
「たまたまあなたの歌が聞こえて、あまりにも素敵な歌声だから、誰が歌っているのか気になって立ち寄ったの」
 言ってから、なんとなくこれは答えとして適切ではないような気がした。私が何者であるかを表せてはいない。
「だから……そう、ただの通りすがりよ」
 どうにか当てはまりそうな言葉を見つけて、私は付け足した。
 通りすがり、とムウマは反復する。
「通りすがりの……あなたはもしかして人間さん?」
「そう、人間よ」
「でも優しそうに見える」
 思いがけない評価に、私は少々面食らった。ほとんどのポケモンは頭ごなしに私のことを恐れるから、こんな風にプラスの印象を抱かれることは、まずない。
「そんなふうに見えるかしら」
「うん、人間なのに優しそう」
「人間“なのに”」
 その含みのある言い方がひっかかって、私は尋ねる。
「あなたの中では、人間は優しいものではないの?」
「ひどい人間が多いって聞いたよ」
 それから一呼吸おいて、ムウマが尋ねた
「おねえさんは優しい人間?」
 その台詞に私は思わず笑ってしまう。
「私が『そうです。私は優しい人間です』って言ったら、あなたは信じるの?」
 自分のことを優しいなんて言う人間は信用ならないなんて、きっと世界で幾億と使い回されてきたロジックだろう。だからムウマの疑問はいかにも子供らしい質問で、ちょっとおかしかった。
「たしかに、なんだか嘘っぽいかも」
 ムウマは納得したように言った。
「だから自分のことを優しいって言わないおねえさんは、やっぱり悪い人間じゃないと思う」
「そうかしら」
 単純だなと思う。単純なことは悪いことじゃない。子供はすべからくそうあるべきだろう。単純でいられるのは子供のうちだけなのだし、大抵の場合、子供は純朴であることを期待される。
 ムウマから発せられていた警戒心が少しだけ和らいだ。
「ちなみに、ひどい人間が多いっていうのは誰から聞いたの?」
「おかあさんが言ってた」
 そう言ってから、ムウマはハッと顔を上げた。
「おかあさん。おかあさんはどこ……?」
 きょろきょろと不安げで怯えたような表情で、ムウマは辺りを見回し始めた。『おかあさん』とやらを探しているのだろう。しかし、そこには何もいない。
 私は尋ねた。
「お母さんと一緒にいたの?」
 ムウマは一度何か答えようとして、すぐに口をつぐみ、一瞬考えるような素振りを見せた。それから、
「うん」
 と、自信がなさそうに短く答えた。
「でも、あなたは今、お母さんとはぐれている」
「うん」
「じゃあ、あなたは迷子なのね」
 ムウマはまた少し考えてから、答えた。
「そうかもしれない」
 ひどく曖昧な答えだ。親とはぐれてしまったのは間違いなさそうだけど、それを迷子とは呼べない可能性が彼女の中にはあるらしい。
 それがいったいどういう状況なのか私にはわからなかった。だから別の質問をしてみる。
「あなたはどうして、ここで歌っていたの?」
 するとムウマは「歌?」と首を傾げた。
「私は歌っていたの?」
 とムウマは逆に質問を返してきた。
 その質問の意味がわからず、私も同じように首を傾げた。たしかに私には彼女が歌っているように見えたし、聞こえた。百人に聞けば百人とも、あれは歌だった、と答えるだろう。
「じゃあ、あなたはここで何をしていたの?」
「ここで?」
 ムウマは左を見て、右を見て、月を見上げて、一しきり唸って悩んでいた。その挙動は初めて外の世界に触れた子供のように拙い。
「もしかしたら、私は歌っていたのかもしれない。うん、歌っていた」
 と、これもまた曖昧に呟いた。
 自分が歌っていたことを思い出した。というよりは、自分が歌っていたことを知らず、今初めてそのことを自覚したかのようなニュアンスだった。
「素敵な歌声だった」
「そう? かあさんはあたしが歌うといつも嫌がるけど」
 とムウマは言った。
 それからムウマはこちらに向き直って尋ねてきた。
「ここはどこ?」
 その質問に私は言葉を詰まらせる。ここがどこであるのか、それは暗闇の森の中を音だけを頼りにさまよい歩いてきた私にも知る術がないことに気が付いたのだ。どこをどう歩いてここまで辿り着いたのか、もう覚えてはいない。
 私は首を振る。
「ごめんなさい。私もここがどこなのかわからないの」
「おねえさんも迷子なの?」
「どうでしょうね。もしかしたらそうなのかも」
 とはいえ家に帰ることはどうにかできそうだった。川なら私の家の傍にも流れているし、ここの川と家の傍の川が同じ一本の川なら、沿って歩いていけば家まで戻ることができるかもしれなかった。
 それよりもこの子だ。どうも言動に不確かなところがある。受け答えのすべてがいまいちはっきりしない。
「帰ることはできそう?」
 と私は尋ねた。
「ううん」
 とムウマは首を横に振る。
 それから。
「できれば帰りたくない」
「ん? 今何か言った?」
「ううん。なんでもないよ」
「そう」
 どうしようか、と私は悩む。このムウマの母親探しをするにしても、下手に夜の森の中をうろうろするのも危険だし、かといってこの子をここにそのまま置き去りにしてしまうのは良心が痛む。
 私が黙って考えている間、ムウマは不安げにふよふよとそこら辺を浮遊して周りの様子を観察しているようだった。
 それからムウマはゆっくりと口を開いた
「あの、あなたはこれからどうするの?」
「私は帰ろうと思う、けど」
 少し考えてから、そう答える。なんにせよ、ここにずっといるわけにもいかない。
 そして私は同じ質問を返す。
「あなたはどうするの?」
「わたしは……」
 ムウマは言葉に困っているようだった。そわそわと上目遣いにこちらをうかがっている。
 それはそうだろう。帰り方がわからないというのだから、どうしようもないはずだ。
「わからない。でも、ひとりぼっちは、いや」
 ひどく弱々しく、彼女は言った。それは幼い子供が抱くには当たり前すぎる感情だ。孤独が好きな童子なんて、なかなかいるものじゃない。
「あなたさえ良ければ、私と一緒に来ない? たぶんここで一人でいるよりかはずっとマシだと思うけれど、どうかしら」
 努めて優しく微笑んで私は言った。
 私が提案すると、ムウマの表情がぱあっと明るくなった。
 でも、とムウマが尋ねる。
「おねえさんは迷子じゃないの? 帰れるの?」
「ええ、たぶんね」
「迷子なのに?」
「もしかしたら、迷子じゃないのかもしれない」
 ムウマは不思議そうに私を見ていた。答えのないなぞなぞを考えるような顔だ。
「じゃあ行きましょうか」
 私が歩きだすと、ムウマは隣をふよふよと随伴してくる。手を伸ばさなくてもすぐに触れられるほど近くの距離をついてくる。
「おねえさん、どうして笑っているの?」
 ムウマに尋ねられて、私は自分の頬を触った。私は笑っていたのか。
 きっと嬉しいのだろう。こうやって恐れられることなく、逃げられることなく誰かが近くにいるということが、誰かと会話することが久しぶりすぎて、感情を持て余している。孤独が好きな子供はなかなかいない。私だって例に漏れず、孤独は好きではない。誰かと一緒にいれるということは嬉しいことだ。
 だから笑ってしまったのだろう。
 私はずっと一人だったから。もう、ずっと。
 川を下流に向かって進む。
 秋になってすぐの川辺は程よく爽涼で、夏の残滓をゆっくりと洗い流していく。たまに弾ける水飛沫に本が濡れてしまわないように、私は本を庇うように抱えなおした。
 ムウマはその本が気になったようで、肩越しに覗きこもうとしてきた。
「その四角い物はなに?」
「これは本というのよ」
「ほん?」
 ポケモンの界隈に本なんてものは存在しない。アンノーンなんてポケモンがいるくらいだから、識字能力を持ったポケモンがいてもおかしくはないのかもしれないけれど、活版印刷技術はさすがにないだろう。活版印刷や文字は人類が生み出した偉大な発明の一つだ。
「本っていうのはね、物語が詰まった箱みたいなものよ。この箱を開くと色々な物語を体験することができるの」
「へえ、中を見てみてもいい?」
「どうぞ」
 私はためしにページを開いてムウマの顔の前に本を差し出した。ムウマは顔をしかめる。
「全然わからない」
 そりゃそうだろう。
「変な線みたいなのがうじゃうじゃしていて、なんだか気持ち悪いし怖い」
 気持ち悪いというのは大げさな表現に聞こえるけど、未だに翻訳のされていない古代文字なんかはひどく奇怪に見えるものだし、見た者に意味のなさない線の羅列が不気味というのも頷けた。
「おねえさんはその、本ってもので物語を体験することができるの?」
「ええ」
「できるようになるには練習が必要なのかな」
「そうね。必要といえば必要ね」
 まずは言語の習得から始めないといけない。本一冊をまともに読めるレベルに達するには途方もない時間がかかるだろう。私は私が古代文字で書かれた書物を読んでいる姿を想像できない。それと同じことだ。
「その箱には、どんな物語が入っているの?」
 私は、本の概要をかいつまんで説明した。
 夜の暗闇が覆い被さり本文の文字列を読むことはかなわないが、もう何度読み返したのか見当もつかないような本だったから、記憶だけであらましをなぞることは別段難しいことではなかった。
 しばしばムウマが私の解説について質問を挟んだ。それは『本ってなに?』のような、人間にとっては常識だけど、それ以外の生命体にはてんで縁がないような概念についての疑問が大半だった。その度に私は答えてあげた。でも常識として深く根を張ってしまった概念を改めて説明することはけっして容易なことではなくて、私は度々語塞がった。
 店ってなに? タバコってなに? お金って?
 逐一そんな質問をされるから、話は一向に前に進まない。
 私が住まう小屋が見えるころには、全体の半分も話し終わっていなかった。
 目論見通りに帰還できたことに、まず安堵する。
「どうぞ上がって。あんまり綺麗なところじゃないけれど」
 綺麗なところじゃないというのは慎んだ表現だ。より正確を期すのなら、廃墟同然の古色蒼然といったところで、夜に聳えるその建物はいわくつきの物件なんかより、何倍もホラー染みて見える。客を通せるような見てくれとは言い難い。
 鈍い音を立てる扉を開いて私たちは屋内へ入る。
 電気なんてものは通っていないから、この家に明かりが灯ることはない。窓からわずかに差し込む不十分な月の光が、部屋の間取りをぼんやりと浮かび上がらせている。小屋にはこの一部屋以外に部屋はなく、廊下もない。部屋には簡素な木製のベッドに机と椅子、ところどころほつれ破けた古いソファ、それとちょっとした棚以外にはなにもない。部屋の奥の壁に沿って、手すりのない小さな階段が壁から突き出すように続いている。その階段の上には、小さな屋根裏部屋のような空間があり、いくつかの本棚とそこにしきつめられた大量の本がある。
 私は手探りで階段を上る。手すりはないけれど、ぴったり壁にくっついて上れば、脇から転落する心配はない。私は階段を上り終える。持っていた本を本棚の定位置に戻そうとしたが、当然暗くてよく見えなかった。大体の位置の見当はついて、この本が元々収納されていたはずのスペースは見つかったのだけど、周りの本が空いたスペースに倒れこんできているようだった。上手くしまい込むことができない。
「どうしたの?」
 ムウマが言う。
「本をしまいたいんだけど、視界が暗くて上手くいかないの。他の本が邪魔をしているみたいね」
「おねえさんが持っているもの以外にも本があるの?」
「ええ。ここにあるものは全部本よ」
「こんなにたくさんあるんだ」
「ここにあるもの以外にも、世界にはもっとたくさんの本があるわ」
「へえ」
 感心したように、ムウマは息を吐いた。それから興味深げに、本棚に並べられた本に視線を這わせた。
 私はしばらく本をしまおうと試みていたけれど、これ以上続けてもしょうがないから、断念する。
「ダメね。太陽が昇って明るくなってからにしよう」
 私は言う。
「明るくなれば、片づけられるの?」
 とムウマが尋ねた。
 私は頷く。
「でも別に慌ててやらなければいけないことではないし、朝を待ってから片づけることにするわ。それまでは机の上にでも置いておけばいい」
「わたし、明るくすることできるよ」
 私は驚いてムウマを見る。ムウマは、どうする? と私の判断を仰ぐようにこちらを見つめ返しながら、返事を待っている。
 そうだ。この子はポケモンなのだから、非科学的な現象だろうと、簡単に引き起こすことができる。雲のないところから雨を降らせたり、真夏の大気を一瞬で凍てつかせる、ポケモンというのはそういう人類の把捉し得る科学を凌駕した力を扱うことができる存在だ。暗い室内を光で照らすことくらいわけないだろう。
「じゃあ、お願いしてもいいかしら」
「わかった」
 頷くと、ムウマは私から少し距離をとった。
 ムウマはふっと短く息を吐きながら身体に少し力を入れる。
 色濃く闇の幕に覆われていた部屋に、揺らめく明かりが広がった。光の差さなかった空間に非科学的な色が脈絡なく顕現する。それは本棚の並びも本の配置も分明に浮かび上がらせる。ムウマと私との間に一つの小さな光の球が生まれていた。
 その光球に私は釘付けになる。その光球の正体を認知しようとする。
「あ……あ、あ……」
 足が痙攣し、血の気が引いていく。一歩、また一歩と自分の意識とは無関係に私はゆっくり不確かな足取りで後退する。深い井戸の底に落とされるような底知れない恐怖が私を侵食していく。息が止まるような錯覚に襲われる。その光球に私はただならない恐れを抱いている。
 光球はゆらゆらと不安定に浮遊しながら揺らめいている。小さな熱をまとっているその球体は火の塊だった。
「おねえさん?」
 ムウマが心配そうに近づいて私の顔を覗き込んだ。その所作に呼応して、ムウマの生み出した火球もわずかに私に迫り寄る。
 “火”が私に迫り寄る。
 限界がきた。
 私はよろめきながら走り出す。階段を駆け下りようとして一歩目で足を踏み外し、そのまま落石のように転がり落ちた。背中を強打した私は動けなくなる。それでもなお痛みよりも恐怖が私を支配している。
「だ、大丈夫?」
 叫びながらムウマが下りてくる。それに伴って火球もまた降下し私のもとに接近してくる。
「消して」
 私は絶叫する。
 その声にムウマは気圧され、ビクリと制止する。
 私はもう一度叫ぶ。
「その火を消して」
 ムウマの顔に困惑の色が浮かんだが、私のただ事じゃない様子を見て「わかった」と応える。次の瞬間、夜は再び粛然な闇を取り戻した。
「ごめんなさい。わたしなにか間違ったことしちゃったかな」
 まるで叱られている子供のように力なく委縮しながらムウマが言う。
 私は大きく息を吸って、吐いて、いくらか気持ちを落ち着ける。
「いいえ、あなたは何も悪くないわ」
 と私は言う。大丈夫、大丈夫と自分に言い聞かせながら、私はゆっくりと立ち上がる。鈍痛が全身を走ったけれど、身体は問題なく機能する。
 私は火というものにたいして、あるトラウマを抱えている。それは私の人生を大きく左右してしまった、極めて重大な要素だ。ほんの小さな火球を目にしただけでただ事でないほどに取り乱し、半狂乱になってしまうほどに、そのトラウマは私に深々と根をおろしている。それについてはとても長い経緯がある。
 私は首を振る。それは、しかしあまり思い出したいものではない。
 思い出したくもない。
 私は机に本を置き、ベッドに身を投げ出す。
 そのままぼうっと宙を眺める。その向こうにあるはずの天井は、薄い黒の幕に覆われていて、私の視線は闇に遮られてしまう。
 視線と闇との間にムウマが遠慮がちに割り込んできた。自分がどこにいるべきか決めかねているといった風で、そわついている。慣れない場所で自分の定位置がわからずにいる。
「隣においで」
 私はベッドを軽く叩いて促す。ムウマは嬉しそうに、しかしどこかよそよそしく私が示した場所に身体を落ち着けた。
 それから私たちは黙ってつくねんと虚空を見る。
 私はあてもなく考え事をした。例えばムウマのことについて考えた。
 このムウマは明日もここにいるのだろうか。たぶん朝を迎えた頃にはまだいるだろう。でもいつまでもここにいるわけではないはずだ。彼女は親元からはぐれてしまったのだから、親を見つけて帰らないといけない。彼女のいるべき場所はここではないのだから。明日の昼にでも、私たちはムウマの親を探しに行くだろう。そして彼女の親に彼女を引き渡さなくてはいけない。
 寂しいな。と思う。
 久しく誰とも会話をせず孤独に過ごしてきたから、こうやってムウマと触れ合えたことは私にとって刺激的な出来事だ。あるいは変動と言ってもいい。私の中で停滞していたものがゆっくりと動き始めたようなそんな気がした。
 この時私は、ムウマは帰るべき場所に帰って然るべきだと考えていた。それを前提にかんがえていたのだ。
 しかしその前提が成立するには、彼女に帰る場所があるという前提が必要だ。そして私はその前提を当然あるものとして決めかかっていたのだった。

とまと ( 2017/05/26(金) 22:10 )