夏の終わりに
夏の終わりに
01
「……怠い」
 茹だるような暑さだ。熱中症寸前もいいところくらいには茹だっている。
 空調機なんてご大層な代物が狭い六畳間にあるはずもなく。
 私はただ部屋にくぐもる焦熱に半裸を晒し、その暑さに喘ぐことしかできない。
 そんな傍目に見て決して気分の良くないであろう私の傍らに、じっとりと胡乱そうな瞳をした小さな影が一つ。
「おいクルマユ。そんな暑苦しい葉っぱなんて脱ぎ捨ててお前もありのままを晒してみたらどうだ」
 私の雄弁な勧告を受けたクルマユはフンスと鼻を鳴らして黙殺した。ドブの詰まりを見るような気怠い目をしている。とはいえ、こいつの場合それがデフォルトだから、実質涼しい顔をしているということになる。事実さほどの暑さは感じていないのだろう。
 およそ人間の把捉し得る科学の範疇を超越しているポケモンとかいう生き物には猛暑ごときなんのその、なのだろう。
 真夏、その昼下がり。
 世間の学生は夏季休暇で浮かれていることと存じるが、社会人となればそんなものは有り得ない。一応私もその一員に属する人間ではあるのだが、諸々の一身上の都合により、漏れなく夏季休暇真っ最中である。
 てんですることもなく自室で惜しげもなくその下着姿を露わにし横たわっていた。
 憎き猛暑に気力体力を根こそぎ奪われ、私は人間としての尊厳を擲って、考えられる限り最も涼しい格好の一歩手前でいる。
「しかし本当に風通し悪いな」
 立ち上がり窓の外をねめつけると、すぐ近くに川と遠方に森が見える。一つ小さな綿雲が浮かんだ空はうんざりするほど蒼い。
「……たまには出掛けるか」。
 ちょっと小規模過ぎる避暑である。
 窓を開け放っても風通しの悪い自室に籠っているよりかは、外に出て日陰の中を歩いているほうが幾分かはマシなような気がした。幸いにも私は田舎めいた町に住んでいるので、都市に比べれば緑は断然多いし、心持ち清冽な川も流れている。
 私は部屋に脱ぎ捨てられていた衣服の中から、適当に一式を選んで着ると、クルマユを連れて部屋を出た。
 アパートの階段を下りると、女の子に出くわした。真夏にもかかわらず、足をすっぽり覆う長ジーンズに白い長袖のパーカーをフードまで被った、季節感のちぐはぐな出で立ちをした少女だ。年不相応な憂いを帯びた表情をして、箒で地面を掃いている。そのすぐ側ではウインディが寝そべっていた。
 彼女はこのアパートの大家の娘だ。
 アパートの向かいにある一軒家に父と二人で住んでいる。
 初めて会った際に名前を尋ねたら、「私は大家です。どうせあのロクデナシはじきにロクでもない死に方をするので、私が大家になるのは時間の問題なんです。だから私のことは大家と呼んでください」と言われた。父親が付けた自分の名前が嫌いらしい。以来、私は彼女を大家ちゃんと呼んでいる。
 大家ちゃんは私に気付くと、少し嬉しそうに笑みを浮かべて「おはようございます、お姉ちゃん」と頭を下げた。「おはよう、大家ちゃん」と私も挨拶を返した。
「クルマユもおはようございます」
 大家ちゃんが頭を撫でるとクルマユは機嫌よくフンスと鼻を鳴らした。こいつは何の反応を示すときでも鼻を鳴らす。
「お姉ちゃんがお出かけなんて珍しいですね」
「そうかもね」
「やっと働く気になりました?」
「ほっとけ」
 大家ちゃんは実に楽しそうに皮肉を飛ばす。そこに嫌味ったらしい感じはしない。それは彼女なりのコミュニケーションなんだろう。なんだかんだで私はこの子に懐かれているようだった。たまに私の部屋に遊びに来たりする。アパート住民の中で一番年が近いからかもしれない。それでも十歳前後は離れていたような気がするが。私も私で、彼女以外に親しい友人がいないものだから、何かと構ってしまうのだ。
「大家ちゃんは毎朝お仕事ご苦労さん」
 私が労うと、大家ちゃんは得意げに胸を張った。
「うちの父は仕事をしませんからね。今は窓を閉め切ったクーラーも点いてない部屋で寝ていますよ」
「それ死ぬんじゃないか?」
「死ねばいいんですよ」
 事も無げに大家ちゃんは言った。彼女は父親に対しての態度が極度に辛辣だ。
 なぜかというと、例えば、過当に布で覆い隠された身体の数少ない露出部分である右手の甲。そこにある真新しい火傷痕なんかに、その態度の理由の一端を垣間見ることができる。タバコを押し付けたような、円い火傷痕だ。
 ただ私は彼女の家庭事情について尋ねたことはないし、彼女の方からそのような話が出たこともない。だから詳しいことは何も知らない。他人が深く立ち入って良い領域ではないだろう。それについて詮索することは憚られる。
 私の視線に気が付いたのだろう。右手を後ろに隠して、そういえば、と大家ちゃんは話題を変えてきた。
「首相が変わってから半年くらい経ちますけど」
「へえ、いつの間にか変わってたんだ」
「知らなかったんですか?」
「テレビも新聞もないしね」
 そんな金はない。
 だから世間の情勢にはかなり疎い。
 しかし、そういった情報が私にとって有益かというと、そんな風には思えなかった。首相が誰に変わろうが、私の知ったことではない。間接的な影響こそあるかもしれないが、今のところ困ったことはなかった。
 そんな私を見て、大家ちゃんは勘ぐるように目を細くした。
「関係ないって思ってるようですけど」
 そして少し困ったように、悲しむように、クルマユとウインディを一瞥した。
「近い将来ポケモンの所持が違法になる、かもしれないそうです」
「は?」
 言われた言葉の真意を上手く咀嚼できず、私は聞き返した。
 ポケモンの所持が違法? 冗談にしたってたちの悪い話だ。
「なんでもポケモンを使ったテロが増えてきたとかで、その対策で所持を全面禁止しようという声が上がっているそうです。私もニュースとかはあまり観ないので最近知りました」
「……へえ、テロが増えたって話も初耳だな。一年前くらいまではそんなものはなかったと思うけど。でも、所持が違法になったとして、人の手にあるポケモンたちはどうなるんだ? 一斉に野生に返すの?」
「政府が預かるそうですが詳らかにはわからないです」
「ふーん、なんにせよ、嫌な話だね」
「そうですね、私も嫌です」
 大家ちゃんは切なそうにウインディの背中を撫でた。
「この子と離ればなれになるのは辛いです。父と家で二人きりになってしまうので」
 そう漏らす彼女の姿はひどく哀愁を誘った。
「まあまだ可能性の話ですけど」
「ふーん」
「あ、すみません、引き留めてしまって。これから出かけるのに」
「大丈夫だよ。急ぎの用ってわけじゃない」
「どこに行くんですか?」
「ただの散歩だよ。部屋が暑いから川沿いでも歩こうかなって」
「そうですか。ぜひご一緒したかったです」
「じゃあ掃除終わるの待ってるから、一緒に――」
「なにサボってるんだ?」
 大家ちゃんを散歩に誘おうとしたら、怒気を孕んだ声がした。
 見ると、いつの間にか大家ちゃんの父親、つまり大家が、家から出てきて大家ちゃんを睨んでいた。
「誰の許可で、何もしないで突っ立ってんだ?」
「あ、えっと、ごめん、なさい……」
 消え入りそうなか細い声で大家ちゃんは謝罪した。顔は俯き、肩は弱々しく震えていた。
 大家は右手の拳を握り、粗雑な足取りで大家ちゃんに向かってきた。その顔がうっすらにやついて見えた。暴力の口実を見つけた、といったふうな顔だった。
 しかしそこでやっと彼は私の存在に気付いたようだった。
 大家は慌てて拳を解くと、取り繕うように苦笑いをして頭を掻いた。
「これはお見苦しいところ見せてしまった。ごめんね、不出来な娘で」
 まるで大家ちゃんに非があるような言い方だ。
 そういえば大家父子が一緒にいるところは初めてみるが、大家ちゃんは父親の隣で完全に委縮して、しきりに「ごめんなさい」と呟いている。やはり健全な親子関係は築けていないようだった。あまりにも痛々しかった。
「うちの娘がなにか迷惑をかけたりしなかったかい?」
「いえ、むしろ私が話しかけたせいでお仕事の邪魔をしてしまったみたいで。すみません。あんまり怒ってあげないでください」
 私が軽くフォローを入れるつもりで諫めると、大家はあからさまに不機嫌そうな顔をした。しまった、逆効果だっただろうか。
「あ、そういえば」
 思い立って私はカバンから財布を取りだした。その中からお札を数枚抜き取り、大家に手渡した。
「早いですけど、今月の家賃です」
 途端に大家の顔が明るくなった。こういう暴力的で傲慢な人間は金に弱いと相場が決まっているものだ。
 大家はそそくさと金をポケットにしまうと「真面目に仕事しろよ」と大家ちゃんに言い残して家に戻っていった。何しに出てきたのだろうと思ったが、もしかしたら難癖をつけて大家ちゃんをいたぶるためだけに出て来たのかもしれない。
 私は俯いたままの大家ちゃんの頭を撫でた。
「大丈夫?」
 私が尋ねると、大家ちゃんは涙を浮かべながら抱き着いてきた。
「ありがとうございます……」
 私はされるがままに、彼女の後ろに手を回し、背中を擦ってあげた。彼女はしばらくの間ぎゅっと顔を私の服に押し付けて嗚咽を漏らした後、「臭い」と渋面を作って突き放した。
「お姉ちゃん、もしかしてこの服、洗濯してないのでは」
 訝しげな薄目で大家ちゃんは邪推した。
「……ごめん」
 謝りながら、部屋に洗濯していない衣服が散らかっているのを思い出す。
「お姉ちゃんは本当にダメな人ですね」
 大家ちゃんは嫌味ったらしくない笑顔で嫌味を宣った。どうやらいつもの調子を取り戻したようだ。しかしまた、ふうっとため息をつく。
「できればお散歩にご一緒したいのですが、あんな父なので……」
「散歩はまた今度機会があったら一緒に行こうか。あー、それと何かあったら、うちにおいでよ。それでどうにかなるかはわからないけど……」
「気にしないでください。でもまた遊びに行きたいです。お部屋のお掃除も兼ねて」
 助かるよ、と私は言った。なんだか一人暮らしの彼氏の家に行く彼女みたいだと思ったので、その旨を伝えると、大家ちゃんは真っ赤になって「もう、もう」とぺしぺし私を叩いて、それから、ふふ、と笑った。可愛い。
「それでは、また。いってらっしゃい」
「うん、じゃあね」
 大家ちゃんに手を振って、私はアパートを後にした。

 私は川沿いを上流に向かった。隣ではちょっこらちょっこらとクルマユが随伴している。
 重量を伴って身体に圧し掛かっていた熱気が、ほんのりと清涼な川風で引き剥がされていくような体感があった。とはいえ結局暑いことに変わりはなく、浅瀬を流れる落葉よりとろい歩行速度で私は進んでいた。
 このまま進むと、森が繁ったちょっとした山がある。
 森に入ると杜撰な作りの遊歩道が川から逸れて伸びている。この辺はあまり人が立ち入らないらしい。そもそも私の町に人が少ない。もっと町の中心部、駅の方まで行けば、人家や商店が並んでいたりするのだが、それは私の家から自転車をだいぶ漕がなければならない。
 いかばかりか進むと、遊歩道から外れた方向に草木を掻き分けたような痕跡があった。獣道だろうか。
「へえ。どうよ、クルマユ。少し冒険してみないか」
 数瞬の逡巡の後、私はその獣道へと足を踏み入れていた。どういうわけか無性に冒険心をくすぐられたのだ。クルマユは相変わらずフンスと鼻を鳴らしたが、何も言わず着いてきた。
 伸び繁った雑草を踏み倒しながら、辛うじて見えるくらいの地肌を辿って、奥へ奥へと進んでいった。
 どれくらい進んだだろうか。
 森の中は確かに涼しかったが、張り切って歩き続けたせいで、総合的には部屋にいる時よりも暑かった。
 それほど歩いたのだから、大分奥まで来たはずだった。側では川が流れており、滝が落ちる音も聞こえた。いつの間にか川沿いに戻ってきたようで、それもかなり上流のようだった。
 そんな普通なら人っ子一人来ないような森奥で、私は妙な建物を見つけた。
「会館?」
 場に相応しくない、コンクリート造りで白塗りの巨大な建物だ。数百人は優に収容できそうだった。
 近づいて耳を澄ますと、大勢の人の気配がした。
 何かの集会だろうか。一体何をしているのだろう? 
 好奇心と同時に僅かな恐怖心も私を襲った。こんな場所で集会をしている連中が正常な連中だとは到底思えなかったのだ。それでも、その好奇心と恐怖心を秤にかけて、結局好奇心が勝った。せっかく冒険してここまで来たのだ。何も得られないで帰るのも割に合わないだろう。
 私は音を立てないようにそっとガラス戸を開けた。
 殺風景なエントランスが広がっていて、その向こうに広大なホールがあった。私はその入口から、そっとホール内を覗いた。中は人で溢れ返っており、皆一様に前方の講壇の方を向いて何かを待っている。どうやらこれから講演が始まるようだった。
 やがて司会のような偉そうな人が講壇に立って開会の辞を述べた。それから聴衆が一斉に歌いだした。それはどこか聖歌のようで宗教染みていた。なるほど、新興宗教の集会か。それならわざわざこんな森奥で人目を憚るように催されるのも頷けた。
 歌は一しきり森の深閑を震わせ、そして止んだ。
「それでは教祖様のお話です」
 司会が言うと、場内からは拍手喝采が巻き起こった。
 司会が壇上から立ち退くと、入れ替わるようにして、如何にも聖職者のような紫のローブを纏った人物が前に立った。冴えない顔をした、ともすれば一分後には忘れてしまいそうなくらい薄い顔立ちの、四、五十代くらいの男だ。
 教祖が口を開いた。
「皆さん、本日は私めの話を聞くためにお越し頂き――」
 長い話だった。
 聴衆は半数くらいが感涙しており、もう半数くらいも聞き入っている様子であった。控えめに言ってその光景は気持ちが悪かった。
 クルマユが六度目の欠伸をする頃、終わりの見えない説法と妄信的な信者の姿に辟易した私は、最後まで聞くことなく、誰にも気付かれないように退出した。森の奥の集会所で宗教の密会。自己満足するには十分すぎるネタだった。
 会館を出ようとすると、「あれ、君は」と不意に声を掛けられた。
 その声は私が知っている声だった。振り返ると大家が驚いた表情でこちらを凝視していた。そしてそれは私も同じだった。どうしてこの人がここにいるんだ?
 勿論、彼が気まぐれで森を探検するようなアクティブな趣味でも持っていない限り、こんなところにいる理由なんて知れていた。
「まったく、娘のせいで大分遅れてしまったよ」
 要するに彼はあの気味が悪い信者たちの一人なのだろう。その一人に集会を覗き見していることが知られたかもしれない。そこまで考えが至ったら自然と足は動き出していた。
 逃走。もと来た獣道に飛び込み一心不乱に走った。川沿いの遊歩道まで走って、私はようやく止まった。息が切れて、汗水は滝のごとく流れていた。引きこもりにこの運動量は鬼だ。やっぱり部屋から出ない方が良かったな、と思った。
「帰るか、クルマユ」
 フンスという返事を受け取って、私は帰路についた。息一つ乱さないこいつが少々恨めしい。
 アパートに戻ると郵便受けに回覧板が入っていた。ざっと目を通しても重要なことは書かれていなかった。宗教勧誘のようなチラシが挟まっていたような気がしたが、私は目もくれず、隣の郵便受けに突っ込んだ。

 ところで件の集会での教祖の講演だが、つい最近その内容と似たような話を私はどこかで聞いていた。その既視感は疾走の最中にどこかに振り落としてしまったようだったが。

   *

 主君が寝静まったのを見計らって、吾輩はそそくさと寝床を抜け出した。静寂が空を支配する宵闇の刻、朧の外套を纏った月がぼうっと窓の外に霞んでいた。
 音を立てないように忍び足で窓に近づき、吾輩はそっと夜の世界に飛び出した。
 夜逃げではない。吾輩は夜になるとしばしば主君には黙って散歩に行く習慣がある。いわばライフワークであった。それに今日は友と会う約束があった。
 二階の窓から飛び下りて臀部を強かに打った後、吾輩は歩き出した。
 夜の町は昼のそれとは様相を異にする。吾輩は夜の町の方が見慣れていた。昼と同じ川沿いの小道を歩いていてもやはり夜の方が吾輩に馴染んでいる気がした。
 しばらく歩くと友は畔に生えた一本の大きな木の下で佇んでいた。
「こんばんは、待たせてしまったか」
「こんばんは、待ってはいないよ。良い夜だね」
 穏やかに微笑みながら、気取った台詞を吐くこいつこそが、吾輩の友だった。
「どうだ、そっちの調子は」
「変わりないよ。この辺りは環境もいいし住みやすい。皆元気さ。そっちこそどうだい?」
「それがなんと今日は珍しく主君が冒険をしていたよ」
「へえ!」
 友は目を丸くして笑った。
「驚いた風に言うがお前、吾輩たちが出かけるのを見ていただろう」
「ははは、バレていたか」
 そう言って、また笑った。友はよく笑う奴だ。四六時中仏頂面を構えている吾輩とは対照的である。
「でも全部は見ていないよ。森に入っていくところまでは見たけどね。てっきり自殺でもするんじゃないかと思ったよ」
「笑えないな」
「本当に。でもそうか、冒険か」
 思うところがあるのだろう。友は寸毫耽ってから、懐かしいな、としみじみ言った。同じく、と吾輩は返した。
「で、どうだった、その冒険とやらは」
「それが奇妙な連中がいたんだ」
 そして吾輩は先刻に主君と体験したことを友に話した。
「へえ、なんだか不穏な話だね」
「不穏と言えば、もう一つ思い出した。人間がポケモンを所持することが禁じられるそうだ」
「なんだって」
 友は今日初めてその笑顔を崩した。
「そんなことをしたら――」
「主君が本当に自殺しかねないな」
「笑えないよ」
「笑い話ではないから当然だろう」
 主君は脆いお人だ。主君が吾輩を唯一の心の支えにしているということはよく判っている。自惚れなどではない。吾輩がいなくなれば、壊れてしまうことは火を見るよりも明らかであった。今でこそ、主君はその法案を実感として受け取ってはいないようで平気そうな顔をしているが、そしてそれは吾輩も同じだが、法案の言い分は主君にとっては死刑宣告のようなものなのだ。
「それで、君はどうするんだい?」
 と友が問うた。
「付いていけるところまで付いていくさ。主君が逃げるというなら逃げるし、死ぬというなら吾輩も死ぬし、お偉いさんを殺せというならそれも厭わない」
「ずいぶん物騒だ」
「気が立っているからだろうか」
 不愉快な話題だ。致し方ない。
「それに別に可能性の話だ。絶対じゃない」
 それから幾らか他愛もない話をすると、我々は別れた。
 友が翼をはためかせ空に飛び去るのを見送ってから、吾輩も主君のもとに帰った。

   *

 夢を見た。

 あの頃の夢だ。夢の夢だ。
 私はかつて、ポケモントレーナーを志していた。現在はしがない引きこもりの私にも、夢を持っていた少女時代があったのだ。
 ポケモントレーナーとして家を飛び出した数年前のあの頃、私は自分に卓越した才能があると信じて疑わなかった。同期の友人たちが挫折や諦念を噛み締めていく中、私は各地のジムを順調に勝ち進んでいった。
 友人たちはそんな私を口々に褒め称えた。当時の私はそれは浮かれたものだ。
 しかし純粋な賞賛や羨望は時に暗示となり呪いとなる。私はこの時、自身の赫々を過信し、自分に比倫を絶する才能があることを妄信してしまったのだ。
 無論、私に特別な才能があったかと言ったら、決してそんなことはなかった。所詮御山の大将にすぎなかったのだ。
 七年。私が七つ目のジムを勝つために鍛錬を続けた時間だ。そしてそれだけの時間をかけてついぞ果たすことはできなかった。
 自らの限界を悟ったあの夏。聳える程に高く積み上げられた自尊心は、一度ひびが入れば後は容易に瓦解する。
 トレーナーとしての道を放棄したのが約一年前だ。
 身を潜めるようにこの町に住みついて、適当な仕事を探して、死んだように日々を見送りながら、それでもそれまで共に旅してきたパートナーたちの存在に救われながら、生きていた。
 その唯一の拠り所だった彼らもある日唐突に、ただ一匹を残して忽然と姿を消した。
 くたびれて帰宅したらやけにだだっ広くなっていた部屋の光景を、今でもたまにこんなふうに夢に見る。
 ああ、そうか。と思った。
 まあ、そうだよな。とも思った。
 こんな私に付いてきても仕方がないよな。
 たった一匹、眠たげな目をして私の帰りを待っていたクルマユを抱きしめて夜通し泣き明かした。
 翌日の仕事はすっぽかした。それ以降も家に引きこもり続けた。もう何もやる気が起きなかった。生きていくための活力を大半失った。

 その一連を私は走馬灯の如く、夢見ている。

 信じていた者たちに見限られたあの夏の日から、私の倦怠に濡れた夏は続いている。

とまと ( 2016/11/06(日) 14:26 )