第19話 闘魂、注入
空は、カラッと晴れている。
セキナは呟いた。
「暑い……」
砂嵐が吹き荒れる。
セキナは呻いた。
「かゆい……」
彼女の目から、涙が一滴。
セキナは、ついに爆発した。
「目が痛いっ!!」 だだっ広い砂地に、声がこだました。
返事はない。
(……まあ、そうだよね)
セキナは、乾いた溜息を吐いた。
ミヤコシティでタウンマップを見たとき、その存在を知り愕然とした場所がある。
5番道路。
道路と名はついているが、実際は、先程出発したヒタキ村から、次のジムがあるセキレイシティにまで及ぶ、広大な砂漠である。……いや、セキレイシティは、その砂漠地帯の上に作られた屋内都市なので、本当はもっと面積があるのだろう。
"砂嵐"を使えるポケモンが大量発生してできたというが、なぜそんなことが起きたのかということは、まだわかっていない。
そのような場所に、何の備えもせず向かったセキナは、露出の多い服装のせいで、吹き寄せた砂粒が肌に当たったり、目に入ったりして、それがこの様である。
しかし、セキナには、砂粒の猛攻よりもどうにかしたいことがあった。
(ディアンシー、出て来ないなぁ……)
初めてここを知った時、萎えかけた自分の背中を押してくれた存在。いつもなら、弱音を吐く度にたしなめてくれるあの声が、隣にいない。
セキナがいくら「ボールの外に出るな」と言い聞かせても、外界への好奇心から飛び出していったくせに。色々なものに負けそうになった時、すかさず叱咤激励してくれたくせに。
そんな彼女が、昨夜からずっと、モンスターボールから出て来ない。ディアンシーは岩タイプだから、砂嵐はへっちゃらであるのにもかかわらずに、だ。
理由は、わかりきっていた。
(きっと、それだけ辛かったんだよね)
セキナは、右の頬を覆い隠す包帯に、そっと触れる。ジュネの手厚い治療のおかげで、血はすぐに引いた。しかし、包帯の端に膿が滲んでいるし、傷口も痛みもまだ消えていない。
だが、だからこそ、セキナは弱音を吐かない。今、弱音を吐いてしまったら、支えを失って壊れてしまう――そんな直感がしたのだ。
幸か不幸か、トレーナーとは1度も遭遇していない、どころか、人影すら見当たらない。
(勝負を吹っかけられないからいいと思ってたけど……)
なぜか、今、猛烈に戦いたい気分だった。野生のポケモンとではなく、トレーナーと。
もちろん、彼女の視界に人影が入ることはない。
しかし、同じ頃、別の足音が、この乾いた地を歩んでいた。
砂にまみれ、すっかりくたびれた白い道着と黒い帯。足は、ボロボロの草履。セキナも大概だが、この男もなかなかの異装である。
さらに、彼の左目は、無造作に巻かれた包帯で隠されていた。
それでも、セキナとは違い、襲い来る砂嵐をものともせず、一歩一歩しっかりと砂を踏みしめる。
聞こえるのは、吹き荒ぶ砂の音、ポケモン達の営みの音、そして、自らの足音だけ。俗世から隔離されたような静寂。彼がこの砂漠を訪れたのも、それを求めてのことだった……のだが、
(……何か、いる……)
生物の気配がした。
野生のポケモンは、周囲の自然に溶け込むように生活する。そのため、感覚が鈍った「人間」という種族には、すぐ近くに来られるまでポケモンの接近に気づけない。
だから、静寂を引き裂くような違和感を伴うこの気配は、人間のものだと断定できた。
(今時、わざわざこんな所に来る物好きが、俺以外にもいたとはな)
男は、呆れと同時に感嘆する。
この砂漠は、はっきり言って最悪の環境だ。ほとんど常に砂嵐が吹き荒れているし、全く人の手が入っておらず、打ち棄てられている。おかげで、人間はもちろん、ポケモンの体力消耗も早い。そのうえ、消耗を強いられるのに、最も近い集落にはポケモンセンターがない。
だから、全ジム制覇、及びポケモンリーグ挑戦を目指すトレーナーも、遠回りしてまでここを避ける。その傾向が強まるほど、ポケモン達は警戒を緩めていった。
つまり、この砂漠は、見かけより危険ではない。
此度の訪問者は、真実を知る賢者か、無知無謀な愚者か――少し興味が湧いた。
そう、少しだけ。ほんの少しだけだったのだ。
心なしか、顔が下を向いていた。砂が目に入るから、無意識に体がそうしたのかもしれない。いずれにせよ、こんな砂嵐では、前も下も茶色でしかないのだが。
そこへ、セキナのものとは別の、砂を踏みしめた音。
それは、どうにもおぼつかない足取りのセキナと比べて、より確かなもので――ふっと、セキナは前を向いた。
そこに、人がいた。
セキナは、怪訝そうに見つめ、
「……なんでこの人、片目隠してるの!?」
胸中に留めておくつもりの言葉が、口を突いて出た。
「……ん?」
セキナの前に現れたその男は、呆けたように反応する。
「あっ、その……目、怪我してるのかなー? ……って。はい、すみません……」セキナは、慌てて何度も頭を下げた。「そうだよ! 私だって包帯してるじゃん、他人のこと言えないってば!!」
「いや、いいんだ。怪我というよりは病気の類いだが……まあ、当たらずとも遠からず、だからな」隻眼の男は淡々と答え、「そっちこそ、そんな怪我でよくここまで来たな」
セキナの左頬を指差す。
「しかも、その格好……何をどう考えたら、その
下着姿にで砂漠に行こうと思いつく!?」
「下着じゃありません! ロンパースっていうんです!!」
「男からしたら同じようなモンだけしからん! せめて何か羽織れ!!」
「全然同じじゃないもん! 下着っていうのは、もっと、こう……
胸の部分が分厚い!」
「お前、まさか……
ノーブラ、だと……!?」
「なんでわかった変態!?」
かなり理不尽な経緯で、セキナは隻眼の男に殴りかかる。思いっきり、グーで。
しかし、間一髪、彼はセキナの拳を片手で受け止めた。
「!?」
セキナは瞠目した。故郷でダゲキと鍛え合ったこの拳を、片手で止められたのだ。
一方、男の額にも冷や汗が一筋。自分より30cmは背が低い少女のものとは思えない一撃に、内心ひやひやしていた。
互いの力を思い知った2人の、畏敬の視線が会う。
((こやつ、できる――!!))
両目と片目が語っていた。
堪忍したようにセキナが拳を収め、男も手を引いて、一息。
「勝負だ! なんかここで終わらせたら、負けた気がするっ!!」
「奇遇だな、俺も同じことを考えていたところだ!」
闘士同士、波長が合ったのだろうか? セキナは男を指差しがなり立て、男も同じくらいの威勢で挑戦に応じた。
「私はセキナ! あんたは!?」
「ヤシチだ! いざ尋常に勝負!!」
こんな勢いだけで勝負にもつれ込むほどに、セキナは、いつの間にか、いつもの元気を取り戻していた。
セキナ1人が元気になったところで、最大の懸案事項が解決したわけではないが。
『No.308 瞑想ポケモン チャーレム
瞑想することで体のエネルギーが高まり、第6感が鋭くなる。野山と一体になって気配を消す』
ヤシチが繰り出したのは、細見の、人型に近いポケモン・チャーレム。背丈はセキナと同じくらいだが、その気迫は大型のポケモンに引けをとらない。
「この子……なんか、すごく強そう……!」
ダゲキと生身で渡り合うセキナが、戦う前から気圧されるほどだ。
「だろうな。『強そう』ではなく、実際強いから」ヤシチの言葉は、堂々たる自信に満ちている。「俺の手持ちでも、頭ひとつ抜きん出た強者だ。……退くなら、今のうちだぞ?」
「ふん、そんなので怖じ気づくほど、私は子供じゃありませんよーっだ!
いくよ、ヌメラ! あのすかした眼帯に一泡吹かせてやろうじゃないのっ!!」
セキナにも、抜け落ちかけていた闘士が蘇る。
そして、ヌメラはというと……いまいち、元気が良いとは言い難い。
それもそのはず、ヌメラは、ぬめぬめの粘膜で身を守る種族だ。故に、感想した環境を苦手としている――ちょうど、今いる砂漠のような。
それでも無表情なのは、強がっているのか、単にいつも通りなだけか。体が僅かにふらついている。 セキナには、不調の理由がわからない。けれど、トレーナーとして、
「大丈夫、ヌメラ? 戦える?」
一声かけてやった。
上の空だったヌメラは、その声を受けて目をぱちくりとさせ、主人の方を振り返る。そして、少し重く、ゆったりと首を縦に振った。
「わかった! それじゃあ、ちゃっちゃと終わらせて休んじゃおっか!
"竜の息吹"!!」
「そう急かなくとも、こちらからすぐに終わらせてやる! "バレットパンチ"!!」
ヌメラの、技名通りのブレス攻撃を、チャーレムは難なくかわして、前進する。低威力ながら"電光石火"などと同等のスピードを誇る"バレットパンチ"――まさに、弾丸のようなパンチが、ヌメラを撃ち抜いた。
常に目が点のヌメラが、見開けない目を見開いた。
「!?」
それは、セキナも同様。
ヌメラの体に、銃創のような傷ができていた。さすがに、体を貫かれたわけではないが、ちょうどチャーレムの握り拳サイズの凹みがある。
つまり、パンチやキックをぬめりと受け流せるはずの粘膜が、少し速いだけのパンチ一発に破られていた。……いや、あのパンチ一発が、ヌメラの粘膜をものともしていなかったと表すべきだろう。
(私の知ってる"バレットパンチ"はこんなに強くないよ!? ……たぶん)
少し旅をしたからといって、ポケモンに関する知識が飛躍的に増えるということはない。セキナにもそれはわかっているし、まだ誤った知識を正しきれていないのかもしれない。だが、「こんなに強い技を忘れるはずがない」という感情的な前提が、彼女を戦慄させた。
「ほう、耐えたか。この一撃で済むと思っていたが……」
対するヤシチは悠々としていながらも、感嘆の声をぽつりと漏らした。
「いや、一撃で済むとか……私のヌメラをどんだけナメてたのよ!? 今すぐ耳たぶチョップしてやりたいんだけど、駄目!?」
聞き捨てならない、と食ってかかるセキナの声は震えている。強がってはみたが、感じていた。当たり所が少しでもズレていれば、ヤシチの言うこと通り、一撃で済んでいただろう、と。
怖れを隠しきれず、それでも屈しない少女へ、ヤシチは敬意を込めて、
「ナメてなどいないさ。ただ、俺は、俺とチャーレムの腕に自信がありすぎる。軽く慢心しているのかもしれないがな」
告げる言葉に、強者の風格があった。……蛇足だが、一応、ついさっき「ロンパースは下着なのか」という題でセキナと口論を繰り広げていた男と同一人物である。
「……あ、でも、耳たぶチョップは勘弁してくれ。今度こそ、無事じゃ済まない気がする」
やはり、結局、根っこはこんな感じらしいようだが。
(うわぁ……どっちかというと、私の方がナメてたやつだ)
砂漠の暑さのせいではない、冷たい汗がセキナの頬を伝った。それを拭う代わりに、両頬を叩き気合を入れる。
「よし、決めた! あんたは絶対倒す!!」
諦めたら、そこで終わり。ならば、傷だらけになってでも、全力で戦い抜く――彼女の手持ちの中で、最も凛然とした姫の言葉を想起しながら。
「なるほど、では、改めて受けて立とうか。……が、その前に、ヌメラが倒れるということを忘れるなよ?」
しかし、威勢を張ったところで、ヌメラの戦闘不能は免れられなかった。
チャーレムが拳を振りかざすまでもなく、ヌメラが、緊張の糸がプツンと切れたようにうなだれたる。目は、点から「×」になっていた。
「嘘……さっきまで、なんとか持ち堪えてたのに……!?」
セキナには、何が起きたのかわからなかった。ヌメラは"バレットパンチ"以外の攻撃を食らってないし、何の状態異常にもかかっていないはずだ。だが、実際、ヌメラはもう瀕死状態である。
「そうか。お前は、まだ気づいていなかったのか」
「『気づいていなかった』って……何に!?」
訳知り顔のヤシチに向かって、セキナは思わず声を荒げた。元々「なんかここで終わらせたら、負けた気がする」という衝動で売ったバトルなのに、再び1本取られて、どうにも面白くない。
「ポケモンにダメージを与えるのは、ポケモンだけではないことだ。今一度、空を見てみろ」
荒むセキナを気にすることなく、ヤシチはあくまでも冷静だ。反面、声には、教え諭すような、ほんの少し優しい響きがあった。
(「空」……?)
セキナは、ぽかんとしつつ、言われた通りにする。
太陽が、これでもかというくらい照っている。とはいえ、その光線は直接地上に射し込むことなく、宙を覆う砂煙にある程度シャットアウトされていた。
(……ん? 砂……)
そして、セキナは初めて理解した。
「そうだ、砂嵐!」
ヌメラが倒れた理由。それは、砂嵐という悪天候によるダメージだったのだ。
そういえば、ヌメラをゲットした日も、大雨の影響で"泡"の威力が上がり、苦戦を強いられていたではないか。
「そっかぁ。どおりで……」
セキナは、自嘲の微苦笑を浮かべる。「自分は駄目なトレーナーだ」と。
「教えてくれてありがとうございます。それじゃあ、いくよ! モココっ!!」
だが、駄目なトレーナーなのは今更のこと。だから、新しい知識を得られた嬉しさが、自虐心に勝る。微苦笑は、すぐに溌剌とした笑顔に変わった。
モンスターボールから出てきたモココは、綿毛の周りにどっと湧いた汗を勢い良く払い、チャーレムの顔を見上げ、見据えた。
「ふむ、いい顔だ」
そして、ヤシチの何気ない一言で、すぐ表情を綻ばせた。今まで、必死に鋭い相貌を作っても「かわいい」と言われてきたが、頭の「かわ」がなくなった途端、最高の褒め言葉になるものだ。
「次はそちらからどうぞ、ヤシチさん?」
セキナは、挑発的に言葉をかける。裏があるということを隠す気は、微塵もなさそうだ。
「ふふっ、何を企んでいる?」
問うヤシチも、どこか楽しげだ。
「そんなの、攻めてくれれば、教えるよっ!」
「……面白い。その挑発に乗ってやるのもやぶさかではないな」
チャーレム、惑わされるな。お前は、いつものように、全力でぶつかっていけばいい」
言い聞かせる主人に、チャーレムは躊躇いなく頷いた。
「よし、そうだ。それでは行くぞ! "思念の頭突き"!!」
無心を命じられたチャーレムに、一切の迷いはない。研ぎ澄まされた意識を、倒すべき相手に集中させて、突進する。
(一か八かだけど……ごめん、モココ! ちょっとだけ、私に付き合って!)
チャーレムを引きつけている間、セキナはメリープの足元を注視していた。
粘液の沼。倒されたヌメラが遺してくれたもの。
鍛え上げられたチャーレムには、あまり効き目が見えない。だが、1度ヌメラに接触した以上、少しは動きが鈍っているはずだ。
でなければ、"思念の頭突き"を引きつけることなど、できなかっただろう。今度は、近づいてくるチャーレムに視線を向けて、
「今だっ、モココ! あのぬめぬめに"電磁波"!!」
タイミングの手応えは、ある。あとは、ヌメラの粘液が電気を通してくれれば――
(きっと、いける……! ヌメラを捕まえる時だって、麻痺させてから捕まえたんだもん!!)
そうして、自信は確信へと変わった。
モココの足元に広がる沼が、微弱な電流を帯びていく。モココを囲むように、前から後ろへと。
チャーレムが電気の沼にうっかり足を踏み入れたのは、それから1秒経ったか否かという、タッチの差。その細い体躯に僅かな電流が立ち上り、行く手を阻まれた。
「!? チャーレム、一旦退け!!」
惜しくも、チャーレムの動きが止まったのは一瞬だけ。トレーナーの指示を受け後退する際にも、全く隙を見せなかった。
攻撃できなかったモココは、少しだけしょんぼりしている。
「ありがとう、モココ。元々、あそこにハメるだけのつもりだったし、これ以上やろうとしてくれてたなんて、嬉しいな」
けれど、それを見兼ねたセキナの言葉で、すぐに立ち直った。彼女は、お世辞を言えるようなデリカシーを持ち合わせていないし、常日頃正直だから。
「見事だ。初手をヌメラにしたのも、最初からこれをするためだったからか?」
軽く拍手をするヤシチの顔は、笑っていた。この強者には「少し面白くなってきた」程度の策だったのだろう。
「いやぁ、なんか、モココを出した時、ぴこーんってひらめいちゃって」
「それで……実行した、と?」
「はい! 結構モロヘイヤの剣だったけど、上手くいきました!」
「……素直に賞賛したいところだが、それを言うなら『諸刃の剣』だからな。なんだ、そのスープに入れると美味しそうな剣は?」
口では冗談めかすヤシチだが、「素直に賞賛したい」というのは紛れもない本音だ。
あの短時間で発想し、決断・実行する大胆さ。そして、モココも、チャーレムがギリギリまで接近しようと、セキナの指示を待っていたこと。そこから伺い知れる、ポケモンとトレーナーとの強固な信頼関係は、もはや新人トレーナーのそれではない。
とはいえ……目先の目的しか考えられず、せっかくの奇策に溺れてしまうところは、新人らしい。
「では……上から攻められたら、どう対処する?」
ヤシチは、そんな新人トレーナーへ、少し意地悪に問うた。
「えっ……?」
答えに詰まるセキナ。しかし、対戦相手の力量に合わせて手加減するようなヤシチではない。
「答えは、今ここで示してみろ。チャーレム、"飛び膝蹴り"だ!」
チャーレムが、体の痺れを振り切ってジャンプした。細く、人間の子供と同程度の身長しかない体が、強靭な脚力で高く高く跳び上がる。そして、落下の瞬間、膝蹴りの体勢をとった。
「モココ、かわし……あっ!」
セキナは、ようやく気づく。モココを囲うぬめぬめのせいで、こちらが身動きをとれなくなっていたことに。これでは、せっかく相手を鈍らせたというのに、避けられる技も避けられない。
つまり、自分で自分を詰ませていた。
そして、気づいた時には、もう――モココに、落下の勢いを伴った膝蹴りが直撃していた。
「ごめん、モココ! 大丈夫!? ……じゃないよね。本当に、ごめんね……」
セキナは、無意識のうちに、モココへと駆け寄った。帯電した沼のせいで、すぐ隣には行けないけれど、あと1歩踏み込めば感電してしまうところまで近づいている。
倒れ込んだモココは、四つん這いになっても再び起き上がろうとして……手足が体を支えられず、再び腹を地面につける。
「あー、何というか……我ながら大人げがなかった。失敬」
「ヤシチさんは謝らなくていいって。これは、私がミスったから……
よく頑張ったね、モココ。ゆっくり休んでね」
モココをボールに戻し、「次のポケモン」のボールを掴みかけ、セキナははっとした。
(そうだった。ディアンシーは――)
今日から、1度も顔を出していない。ポケモンは、ボールの中にいるのが普通だが、ディアンシーは何度制しようと、ボールから飛び出して外界を見ようとする。そんな彼女が、だ。
セキナは、1度掴んだモンスターボールから、そっと手を離した。
「えへへ、私の負けです」
ディアンシーのため。そうわかっているのに、手から力が抜けない。握った拳を開けない。片腕の震えが止まらない。
目の前の少女が嘘を吐いていることは、ヤシチにも簡単にわかった。
笑っているようで、泣いている。悲しいようで、悔しいようで。
作戦すら顔に出して隠さないような彼女のことだから、きっと今も、感情を隠しているのだろう。
けれど、嘘を暴くことは、果たして正しいことなのだろうか?
「嘘吐きは泥棒の始まり」とはいうが、そんなものは、他人が純粋で無知なままであることを望んだ人々が用いる迷信だ。世の中には、他人を傷つけないための「優しい嘘」もある。
そのことを、ヤシチは誰よりも知っていた。
なぜなら――
彼は、徐ろに左目の眼帯を解いた。
難しい表情を作る瞳の、その片方に宿るのは、ジョウト地方のとあるジムリーダーが持つという能力・千里眼……の、出来損ない。
出来損ないだから、遠くのことはわからない。「視る」ことができるのは、文字通り「目の前」にある真実だけ。
そんな出来損ないでも、今まさに目の前にいる少女を、元の笑顔に戻せるのなら。
「……もう1匹、いるんじゃないのか?」
そうして、知り得た真実を告げる。
セキナが、我に返ったように、目を見開いた。やはり、顔は馬鹿正直だ。
「駄目! それだけは、絶対駄目!!」
口まで素直になってくる。涙は堪えているが、声は既に泣いていた。
「この子は、たぶん、すごく傷ついているから……! 体は大丈夫、だけど……心が……」すべてを見透かされているなどと知る由もないないセキナは、必死に言葉をつなぎ合わせていく。「だから、やめて! 私の負けでいいから……!!」
ぽつり、と、乾ききった砂上に、雫が落ちた。
「『私の負けでいい』、か……」
ヤシチは、こんな意地の悪いやり方しか思いつけない自身を惜しみながら、それでも問いかける。
「……だとよ。
それでいいのか、ディアンシー?」
憂鬱に身を任せていたディアンシーに、それは確かに届いた。
(セキナが……「負けでいい」……?)
半日以上、ずっと抜け殻のように過ごしていたディアンシーは、今日初めて、何かを考えた。
再起動したばかりの思考回路は、「なぜ、この聞き慣れない声が自分の名を呼んでいるのか」ということなど、気に留めなかった。
(セキナが、負ける……? 私がいる、のに……?)
紅い目を、ゆっくりと開く。
(私が、「それでいいのか」……って……!?)
全身に、力が漲る。
(そんなこと、聞くまでもないじゃない……!)
その力で、ずっと閉じ籠っていた殻をこじ開けた。
「嫌に決まっているでしょうが、馬鹿!!」
いつも通りの凛とした瞳が、体が、輝きで叫ぶ。
「ディアンシー……!?」
セキナが、ディアンシーに向けた目は、涙が溜まっていた。
「私はもう大丈夫。だから……もう、泣かないで」
ディアンシーは、小さな掌でセキナの涙をそっと拭いてやる。
「本当に? 無理しないでね」
しゃくり上げながら聞き直してくるセキナへ、
「本当。私、嘘は大嫌いだもの」
ディアンシーは、強く答えた。全く、これでは、どちらが主人なのかわからないではないか。
ディアンシーとしては、そんな関係も嫌ではないが。
「でもね、セキナ。セキナが泣いていると、私だって、泣きたくなるから。だから……ね? セキナも笑っていて」
「うん……そうだよね。私も、ディアンシーには泣かないでほしいから、そうする!」
有言実行と言わんばかりに、セキナはきゅっと目を細め、笑顔を作った。堪えていた涙がぽとぽとと出しきられ、いつものセキナの顔になる。
それを見て、ディアンシーも微笑み返して、
「さてと……それで? あなたかしら? セキナを泣かせた奴は?」
すぐに、セキナを泣かせたと思われる相手――ヤシチに向き直った。
さっきから、乗らざるをえない挑発をしてきたのが、気に入らない。セキナをあやしていた時も、なぜかすべてを知っているような微笑を浮かべていたのが、妙に癪に障る。他にも、そのくたびれた道着は衛生的に受けつけないし、やたら尊大な話し方は、無性に腹が立ってくる。
理不尽なのはディアンシーも承知の上だが、とにかくぶちのめしたくなった。
「あんな答えのわかりきった質問、しないで。たとえセキナに止められたとしても、私は、セキナを泣かせたあんたを『セキナのポケモン』として、絶対に倒す」
だから、早々にヤシチへ、人間でいう人差し指と、宣戦布告を突きつけて、
「――いくわよ!」
開戦の烽火として、"岩落とし"を繰り出した。
「チャーレム、打ち砕け!」
ヤシチに不意を突かれた様子はなく、チャーレム目がけて落下してくる岩を砕かせた。
「しおらしく落ち込んでいたと思ったら、なんだ。むしろ、やんちゃではないか!
チャーレム、こいつは相当気が立っているようだ。怒りを増す前に倒さないと、何しでかされるかわからんぞ?」
心底楽しそうな主人を見て、チャーレムは「誰がそうさせたんだよ?」と呆れたように息を吐く。しかし、ディアンシーの方を見ると、強者を相手取る高揚を表すように身構えた。
「セキナ、何か指示ちょうだい!」
高揚しているのは、ディアンシーも同じだ。外界に出てから、これほどの強敵と戦うのは初めてなのだから。もしかすると、今まで彼女が戦った中でも最強かもしれない。
「ごめん! さっぱり思いつかない!!」
が、セキナは清々しい笑顔で、こう言ってのけたのだった。
「いや、ちょっと……!? たしかに『笑っていて』とは言ったけど……ふふっ、あははっ……!」明らかにピンチなのに、ディアンシーもなんだか笑えてくる。「じゃあ、どうするのよ? とりあえず、ぶつかってみる?」
常のごとく手にダイヤモンドの剣を造りながら、セキナに提案する。「提案」というほどの作戦は、全くないが。
「うん! 何もしないよりは、そっちがいいな!!」
こうして、1人と1匹が満面の笑みで選んだコマンドは――
「ディアンシー、
"体当たり"!」
「はああああああああああっ!!」 全身全霊の"体当たり"だった。
「いや……楽しそうだったからツッコめなかったが……さすがに"体当たり"は無謀だと思うぞ!?」
結論から言うと、文字通りの「玉砕」だった。真正面から、ディアンシーが大の苦手とする、鋼タイプの技・"バレットパンチ"を食らったのだ。ディアンシーの断末魔(?)は「ごめん鋼は無理!!」だった。
「いいじゃない、楽しかったんだから! ね、セキナ?」
「うん! ボッコボコにされたはずなのに、すごく楽しかった!!」
そういうわけで、本来はポケモンセンターに直行して回復してもらわないといけないのだが、周辺にないということで、ヤシチの厚意に甘えて手当てを受けている。
「だから、ヤシチさん! 楽しいバトルをありがとうございます!! あと、手当もっ!」
「いや、俺は何もしていないと思うのだが……?」
「こらー! 偉そうな話し方するくせに、本当のこと言った時に限って謙遜するー!
しまくってたでしょ!? ディアンシーが出てきてくれたのも、なんだかんだ言ってヤシチさんのおかげみたいなモンだし」
……と、ここに来てようやく、
「そういえば……ヤシチさん、どうして、私が3匹目――しかも、ディアンシーを持っているなんてわかったの?」
ヤシチは、答えられなかった。「実は劣化千里眼なんです」と本当のところを言ったところで「邪気眼乙」という目で見られるのが関の山だろう。だからといって、答えなければ、もっと怪しまれるのは明白だ。
「……漢のカンだ」
というわけで、物凄く苦しい嘘を吐く。
「マジ!? 漢、すごい……!」
セキナには、通じてしまったが。
「……ま、セキナは有名人だからね。どこかで、私達の情報が拡散されたみたいだし」
そこへ、さすがに騙されないだろうと読んでいたディアンシーから、予想外のフォローが入り、ヤシチは胸を撫でおろした。
「はぁ……それにしても、手も足も出なかったなぁ」セキナは敗北に打ちひしがれ、「でも、もし次戦えたら、今度こそ勝ってやるんだから!!」
それも束の間のことで、すぐにリベンジ宣言である。彼女は忙しく表情を変え、ヤシチも微笑ましさを覚えた。これほど伸びしろがあるトレーナーなら、ぜひ楽しみに再戦を待たせてもらいたいところだ。
が、
「『次』、か……」
――きっと、次に戦う時は、もう、笑い合いながら戦うことができなくなっているだろう。確信に近い予感が、ヤシチの表情に影を落とした。
「ん? どうしたの、ヤシチさん?」
「あ、いや……なんでもない」
セキナに下から顔を覗き込まれ、ヤシチは再び我に返る。
「そろそろ、ヌメラやモココも元気になってくる頃合いだが……ここから先は、大丈夫だな?」
「うんっ! ヤシチさんのおかげで、私もディアンシーも元気になれたもん!!」
「そうか……」
ヤシチは、気がついたら、この馬鹿正直な新人を気にかけていた。そんな自身が、なぜだか恥ずかしくなって、早くここを出て行きたくなる。
とりあえず、解いた眼帯を巻き直した。そして、歩きだそうとして、ふと踏み留まる。
「……久しぶりに、楽しいバトルができた気がする。ありがとう」
無意識に、セキナに顔を向け、口にした言葉。
セキナにその真意がわかるはずもなく、「はい?」と頼りない返事が返ってきた。
一方で、
「……ッ!?」
一体何を感じたのか、ディアンシーが息を呑んで、ヤシチから目を逸らす。
彼女らの反応に何を返すでもなく、ヤシチは、今度こそボロボロの草履で歩き始めた。
それから、彼の姿が見えなくなってから、ディアンシーが一言。
「人間って……片目隠すだけで、あんなに怖く見えるのね……」
その時、セキナは、
「……あっ! あの人、普通に眼帯とってた!? しかも、あんまり傷とかなさそうだったし……何あれ? 流行ってるの?」
初めて、真相に近づいた……だけだった。