三話 追う者か追われる者か
森の奥にある開けた空間に、その祠はあった。
長い間、森に籍を置いている祠は、老朽化して少しひび割れた様子がみられたが、丁寧に汚れが拭きとられ、所々修復したような跡が残っていた。
京子はその祠の台座に、籠の中に入れていた果物類をそなえると、背後に立っている寛也へ振り向いた。
ランプの光がぶわりと寛也を照らし、シーと戯れていた寛也は、顔を上げて姉を見上げた。
「おわったの?」
「ええ、帰ろっか」
「うん」
寛也の肩に乗っかっているシーが、ふわりと黄色い嘴を開けて、のんきに欠伸をする。
唐突に、森の敷地内から重なり合った羽音が響いた。
驚いた二人と一匹が、同時に木々の隙間から空を見上げると、少数の群れをつくった鳥の黒い影が、上空に飛び立っていくのが見えた。
びっくりした。
寛也は、お守りがぶら下がった胸元に手を当てて、速くなった呼吸を整えた。小心者な心臓は、深呼吸をしてもなお、ばくばくと音を立てている。
シーもぶるりと身震いをして、羽毛を逆立てる。
「まただ」
ぽつりと、寛也は言葉を零した。
夜空を見上げていた京子は、寛也に目を向けた。
「またって?」
「姉ちゃんを呼びに行ったときも、こんなことがあったんだ。急に森のみんなが飛びたつの。そのときは……」
寛也は昼過ぎの光景を思い出そうとして、むむっと難しい顔をした。
何気ない日常での異質な部分は、頭の片隅に記憶としてちゃんと留まっていたらしい。すぐに引っ張り出すことができた。
「……そのときは。そう、誰かが、ともかく人がいたんだ」
「人?」
こてん、と首を傾げた京子が、自身の記憶を探るように黙ったあと、硬い声を出した。
「……嫌な予感がするわね。早く戻りましょう」
「うん、ぼくもそんな気がする」
京子に手を引かれ、寛也は祠をあとにした。
紺色のロングスカートを跳ねさせ、足早に歩いていく京子に、歩幅の違いを感じさせられながらも、寛也も遅れないように必死に足を動かす。
二人が歩を進めるたびに茂みが揺れて、葉擦れの音が辺りに散っていくが、夜の森はひどく音がなかった。
きゅるるる!!
シーが、唐突に警告を発した。
京子は慌てて足を止める。急に止まった京子の背中に、寛也は顔をぶつけてしまい、痛む鼻を片手で押さえた。
「……どうしたの? シー」
痛みに顔をしかめつつも、寛也は肩にいるシーに訊ねると、前方で何かが空を切る音が聞こえた。それは、弓なりに曲がった何枚もの葉だった。その葉は、立派に育った樹木の太い幹を掠め、深い傷を刻み込んでいった。
はっぱカッターだ。シーの警告を聞かずに、あのまま歩いていたら、高速で飛んでくる葉にからだを八つ裂きにされていただろう。
思わぬ脅威に、寛也は声を凍らせた。
「……っ」
京子は出かかった悲鳴を噛み殺して、葉が放たれた先にランプを向ける。
その先には、一人の女が立っていた。隣には、大輪の赤花を咲かせた生きものもいる。
つるりとした青い肌に、紅玉でもはめ込んでいるような瞳。草と毒を合わせ持つポケモン、ラフレシアだ。
寛也は、図書室にある図鑑でしか目にしたことのない生き物に、一瞬恐怖を忘れて見入った。だが、京子が自身をかばうように前に出たのに気付き、はっと女に意識を戻す。
「こんばんは、お嬢さんがた」
そう赤い唇の端を釣り上げて、溶けたチョコレートのような甘い声を出したのは、三十代ぐらいに見える、森に訪れるには少し佳美なスーツを着こなした女だった。
警戒した猫のように、己の動向を窺う二人と一匹に、あら、と女は少し落胆したような素振りを見せる。
「挨拶ぐらいしてくれてもいいじゃない」
しばしの沈黙の後、京子が訊ねた。
「なぜ私たちに攻撃を?」
女が嬉しそうに、綺麗に笑った。
「当てる気はなかったわ、本当よ。ただ、貴女たちを引き止めたかったの」
女はタイトスカートから覗く足を、ゆったりと動かし、二人に近付いた。
ぐるぐると、言い寄れない恐怖を感じ、寛也は京子のシャツの袖を引っ張る。京子は女の動きに注意を払いつつ、その歩みに合わせて一歩一歩、寛也と共に後ろに下がった。
「どうして?」
「仕事よ」
「私たちを傷つけるのが、あなたの仕事だって言うの?」
「いいえ、捕まえるのが私達の仕事よ。なるべく抵抗しないでくれると、私的には助かるのだけれども……」
「そんなわけないでしょ」
「あら」
残念。そう一欠片も思っていない声で女は言うと、余裕そうな表情を崩さずに続けた。
「平和的な解決は無理なそうね。フレア、拘束して。つるのムチ」
フレアと呼ばれたラフレシアが、つるりとした光沢のある蔓を幾つも伸ばしてきた。
「寛也、逃げるわよッ!」
咄嗟に京子が、持っていたランプを地面に叩きつけた。
息をしなくなったように、ふっと周りを温めていた明かりが消え、二人の姿を追っ手から隠す。辺りを包む闇が濃くなったが、それでも蔓は逃げる背中を的確に追った。
寛也と京子は、しつこい追跡から逃れるために、必死に獣道を駆けた。
しかし、成長により、蔓は驚異的な速さで伸びる。五分も満たないうちに、寛也の後ろを走っていた京子の足首をたやすく捕まえた。
短い悲鳴をあげて倒れこんだ京子に、寛也はすぐさま振り返って手を伸ばす。
「姉ちゃんッ!」
「……っ。いいからッ、逃げて!」
京子が発した鋭い声に、寛也は一度怯んだものの、その場に踏みとどまった。
「でも……!」
「いいから逃げなさい、寛也ッ!」
今にも、足に絡みついた蔓を引きちぎりそうな気迫で叫ぶ姉に、寛也は目元が熱くなり顔を歪める。
「……待っててっ、人を呼んでくるから!」
京子は、その言葉に薄く笑みをのせた。
寛也はやり切れなさに唇を強く噛むと、京子に背を向け、柔らかい地面を靴底で力いっぱい蹴った。寛也の肩に乗っていたシーが、白い翼を大きく広げて飛び立つ。木々の間をするりと先行する小さな体が、寛也を安全な場所へと導いていく。
寛也は息を切らしつつも走った。
鼻が利く猟犬みたいに、迫ってきていた蔓の音は途絶えており、それがかえって不気味だった。月のない暗闇を、シーの白い体が切り裂いていく。
「ぅ、わッ!」
それは唐突だった。
冷たい湿り気を帯びた土から蔓が伸び出てきたのだ。それに両足を捕らえられた寛也は、ずるりと地面に足を滑らせ、盛大に転んだ。顎の裏を、ちょうど居座っていた根っこで擦り、じわりとした痛みが走る。
きゅるるる!
シーが一際大きな鳴き声を浮かべ、くるりと旋回をすると、寛也を抑え込もうとする蔓の群れに飛び込んでいった。鋭く切り込んだ翼が、蔓を三、四本切断する。しかし、痛みを感じていないように、限界まで成長した蔓は、もがく寛也を封じ込めると、一斉にシーに向かった。
「シー、よけて!」
寛也の声に応え、シーは電光石火で迫りくる蔓をいなす。
白い閃光の後ろを、束になった蔓が追跡していたが、ふとバラバラに分かれ、二手に分かれた。一方は、網状に変化して行く手を塞いでくるので、シーはそれを突き破り上空に上がろうとする。だが、間髪入れずにもう一方が覆い被さってきた。
巧みな誘導で、低空飛行を余儀なくされたシーは、鳴き声をあげた。
寛也は徐々に暗闇に慣れてきた目を、きょろきょろと動かして、戦況を見る。そこで、地面が少し盛り上がっていることに気付き、声を飛ばした。
「下にいる!」
寛也が飛ばした注意に、シーが再度上空に逃げようと翼を翻した。しかし、一歩早く、地面から這い出てきた蔓が、シーを飲み込む。猛烈な蔓の勢いに巻き込まれた白い体は、無残に空中に羽を撒き散らした。
寛也はそれを視認し、呆然と真っ赤な瞳を見開く。
「シー……?」
潮が引くように消えていった蔓のあとには、土で体を汚した海猫が落ちていた。
寛也の視界はぐらぐらと波打っていた。
目頭が熱くなり、溢れそうになった嗚咽を、喉元で強く抑え込む。かっと沸点をこえて、今にも噴き出しそうな感情を、きつく、きつく閉じ込める。
けれど、寛也は耐えきれずに吠えた。
「……ああっ! もうッ、はなしてよ! はなしてくれよ! 放せよッ!」
喚いても、暴れても、蔓はうんともすんとも動かない。無闇に体を動かしたために、ひどい疲労を覚えた寛也は、ぱたりと体を投げ出した。地面に片頬をつけ、大地に身をゆだねていた寛也は、先程よりも落ち着いた気持ちで思考を巡らせた。
シー、と相棒の名を呼ぶ。ぐったりとした海猫は、ぴくりと小さく体を震わせた。意識はまだ残っているらしい。黒曜石のような瞳が、わずかに覗き、また閉じた。
寛也は、ともかくシーをモンスターボールに戻そうと、身をよじってポケットに手を入れた。指先に当たったボールを、何とかしてつまみあげ、ポケットから弾き出す。
ぽてんとボールが地面に落ちた。落下した衝撃でスイッチが押され、赤い光がシーを包み、脅威のない内部へと連れ去る。
寛也は、ひとまずの安堵により細い息を吐き出した。
「ごめんよ、シー。少しの間、そこでがまんしててね」
腰元に落ちているボールが、どんな反応を示したのか、寛也には見えなかった。
泥のような疲労感が、寛也を襲う。
寛也は意識を繋ぎとめていたが、揺れる思考に耐えきれず、瞼を落とした。森は異様なほど静かだった。皆、何かの異常を感じ、口を閉ざしているようだ。
枝を踏む音が、唐突に耳に入った。沈んでいた意識が覚醒する。寛也は身を固くし、薄っすらと鮮血のような目を開いた。
夜に溶けるように黒い影が立っていた。影は気やすく、寛也の元にしゃがみ込むと、呆れたように目を細めた。
「あなた達は本当に不用心だな」
「あっ……、おねえさん」
ほうけている寛也を置いて、さくさくと蔓が解かれていく。
自由の身になった寛也は上体を起こすと、はっとして地面に落ちているモンスタボールを拾った。少女はそれを覗き込み、ポーチから傷薬を取り出した。
「治してくれるの?」
「当たり前だ」
ボールから出されたシーは、少女の膝に乗せられると、傷口に薬を吹きかけられた。ほうっと、硬い表情が和らいでいく。
簡易的な治療を施しながら、気休め程度だ、と少女は言い、続けた。
「あとは、センターで治療してもらいなさい」
寛也は神妙に頷き、シーをまたボールの中に戻した。
少女が持つ、落ち着いた雰囲気にのまれていた寛也だが、自分が置かれている状況を思い出し、さっと血の気が引いた。
「ねえ、おねえさんっ、姉ちゃんを」
「見た。大丈夫だ、彼女は無事だ」
「え」
「女性に追われていただろう。ちゃんと保護をした」
「保護……?」
「ああ、足を挫いているみたいだったから、フワライドに乗って先に帰ってもらった。あなたを探すって言って、なかなか言うことを聞いてもらえなかったがな」
「じゃあ、あの女のひとは……」
「捕縛して、置いてきた。眠らせたから、逃げることもないだろう」
まるで休日の予定を話すように、少女はあっけらかんと述べる。寛也は淡々と言われたことを、混乱しかけている脳で反芻し処理をすると、不安げに少女を見上げた。
「……おねえさん、何者なの?」
少女は、赤い双眸に動じた様子もなく、胸ポケットから黒革の手帳を取り出して、開いてみせた。
「椎名。警察関係者だ」
寛也は手帳に視線を移す。添付された写真にいる仄暗い目をした少女と、寛也は目を合わした。それから、改めて椎名と名乗った少女と視線を合わす。
瞳の中には、深い海がどこまでも続いていた。
「おねえさん……、ううん、シイナさん、ぼくらを助けてくれてありがとう」
椎名は僅かの間、瞼を伏せた。薄く膜を張っていた冷氷が、ゆっくりと溶けているように見えた。
「……どういたしまして、時間さん」
やや眉を下げて、椎名は口元に笑みを浮かべた。
「さて、時間さん」
「え、はい」
聞きなれない呼び名に、地面にぺたんと座っていた寛也は、少し背筋を伸ばした。それに、椎名は気にしたふうもなく、寛也を立ち上がらせると、警戒した表情で続けた。
「私は、まだしなければいけないことがある。あなたは、ヨノワールと共に森を抜けるんだ。いいか?」
「ヨノワール?」
「ああ。出てきてくれ」
きょろりと赤い火の玉が、椎名の右隣に現れた。
寛也は違和感を感じ、目を凝らす。よく見れば、それは火の玉ではなく、一つの目だった。灰色に、ほんのわずかに黄緑色を垂らしたような肌を持つポケモンは、厳粛とした雰囲気で椎名の横に浮かんでいた。
隻眼が寛也を見下ろす。まるで体の内側を覗き込むような、寛也を捉えているようで捉えていないような視線は、少し居心地が悪かった。
寛也は言いよどむ。
「でも、シイナさん」
「時間さん、心配しなくていい。こいつの実力は折り紙つきだ。あなたのことを守ってくれる」
「だけど……」
ぱきりと枝が折れる音がした。椎名の表情が一気に険しくなる。
寛也は、椎名に右肩を掴まれ、一緒に地面に伏せた。何かが飛来する断続的な物音と共に、近くに生えていた樹木の幹が、円状に大きくえぐれる。
「えっ、なにいま……むぐっ」
寛也の口を塞いだ椎名が、静かに口元に人差し指を当てた。寛也は、激しい動悸を抑えつつ、頷いてみせる。そっと椎名の手が離れた。
椎名が、ヨノワールにアイコンタクトを送る。ヨノワールはつと一つ目を動かし、二人の前に立った。
それほど遠くない位置から連射音がした。
ヨノワールが身構え、すっと右手の握り拳を前方に向ける。瞬間、短い稲妻が走った。飛んできた弾が、その雷撃により弾け飛ぶ。暗い視界の中で、細かい火花が散った。
椎名がぽつりと呟く。
「隠密に処理するのは無理か。……撒くのも、そろそろ限界のようだな」
「……シイナさん?」
寛也の困惑した声には答えず、椎名はヨノワールに声をかけた。
「ヨノワール、ここはもういい。時間さんを連れて逃げてくれ」
「良い提案ね。私も貴女とお話しがしたかったもの」
まっすぐに伸びた女の声と共に、タネマシンガンが放たれる。
ヨノワールは豪速で飛んできた種子を、手刀に炎をまとわせて、薙ぐように叩き切った。踊るように、火の粉が舞う。
急に辺りが明るくなった。白い光を操るキレイハナと共に現れたのは、四十台前半に見える女だった。黒のパンツスーツを着こなした女は、椎名を見とめると、紅をのせた美しい唇を綻ばせた。
「見つけたわよ、椎名」