三話 荒ぶる毒獣と隠し玉
「甘利さん。どうして、私が騒ぎを起こした張本人だと知っているんですか?」
その言葉とともに、室内の温度が軽く二、三度ほど下がったように、寛也は感じた。絹に問われた張本人に目を向けると、人も食わぬような顔をして、きょとんと惚けている。
「え。俺を叩き起こしにきた、アンファンの連中から普通に聞かされたぜ? ここに絹がいるから部屋に戻らせろ、って」
「私はここに来る間、出会った団員には連絡を取られる前に、ことごとく眠ってもらいました。念には念をと、通信手段も使えないようにしましたが、どこで私がそのような事をしたという情報が漏れたのでしょう?」
「いや……、俺に聞かれても……。誰かに後をつけられてたんじゃないか? 地下室からここに来る間、絶対に見られていないとは言えないだろ?」
「いえ、後をつけられてはいませんよ。地下から管理棟まで移動するのに、これを使いましたから」
絹は、ただのがらくたとなった移転装置を指し示した。
甘利が悲しそうに、ぬいぐるみの切れ目から見える、破壊された機器を見た。
「おいおい、ケーシィ君二号を壊すなよ。これ、結構大変なんだぞ、直すの」
甘利は生気のないため息を吐くと、言った。
「……まあいい。ほら、お前ら早く部屋に戻れ。今日はもうさっさと寝ろ。明日、絹は俺と研究科長のとこに謝りに行くぞ。いいな?」
「甘利さん」
「どうした。明日じゃなくて今日行きたいのか? 絹」
「見ていましたね?」
絹は確信を持った様子で、そう甘利に尋ねた。
甘利は、なぜそんなことを訊くのだろうかと、心底不思議そうに絹を見た。
若干不機嫌そうに、眉間にしわを寄せているのは、眠気が襲ってきているからだろうかと、寛也はぼんやり思った。
甘利がぶっきらぼうに訊ねる。
「見ていた。なにを?」
「そんなの決まっているじゃないですか。私たちをですよ。ここの扉、建て付けが良すぎて、どう気をつけていても、勢いよく閉まるから音が出るんですよ。貴方が現れたとき、扉の閉まる音は聞こえませんでした。私が来る前から、貴方はここに居ましたね? 貴方は此処のモニターで見ていたから、私が起こしたことを知っていた。違いますか」
むすっと膨れていた甘利は、表情を一変させて、困ったように笑った。
仕掛けたいたずらが親に見つかってしまったような、罰の悪そうな顔だった。眉を下げた甘利は、絹からそっと視線を逸らした。
「もし、仮にもそうだったとして、それがどうしたと言うんだ? 俺はお前らをまとめる役を担っている。そういう事をしていたとしても、おかしくはないだろうに」
「そうです。問題はそこではありません。私が実験体を逃すために研究所の機能をストップさせる、それを目撃していたのにも関わらず、なぜ貴方は止めに入らなかったのかが、私は気になるんです」
「いいや、俺はちゃんと上沼研究科長に報告したさ。そりゃあ、あれだろ。お前が妙なもんの力を借りて、アンファンの連中をばったばったと倒したからな。ほんと、今日は予想外なことばかりで困るな……、そう言えばもういいぞ。点けてくれ」
突然、部屋の明かりが点いた。
眩い光が絹と寛也の視界を真っ白に染めた。耳から聞こえるのは、室内に備えつけられた機械が起動する音。静まっていた研究所が息を吹き返していく。
目が明るさに慣れてきた寛也は、薄く目を開けて咄嗟に手首の腕時計を見た。
十一時四十七分。残り十分弱。
あと十分で歯車が起動するんだ。寛也は高揚により乱れた呼吸を、二人に気付かれないように注意を払って整えた。
状況を確認しようと、寛也は辺りに目を走らせる。
甘利は先ほどと同じ場所に変わらず立っており、寛也と目が合うとにやりと笑った。ちょいちょいと手を動かし、寛也に部屋の隅に行くよう指示する。
絹と甘利の攻防戦で、完全に蚊帳の外だった寛也は、素直に従うことにした。どうやら甘利は、寛也がこの部屋に来たということを、とくに疑問視していないらしい。
甘利と絹が対面する。
絹はまだ眩しいのか、目を細めて甘利の行動に注意を払っていた。
しゅるりと何かが床を這いずる音が。気絶していたはずのアーボが、のんびりと体をうねらせて、甘利に向かっていく。
甘利はそれに気付いているはずなのに、平然とした顔で立っている。アーボはついに足元まで来ると、そのまま甘利の足に絡みついて、どんどんと上へと登っていった。
絹が怪訝そうに、その様子を黙って見つめる。
甘利はにんまりと、絹に見せつけるように意地悪く笑い、首元まで上ってきたアーボの頭を優しく撫でた。嬉しそうにアーボは額をぐりぐりと、手の平に押し付けている。
「……随分と気を許していますね」
「ああ、こいつとはもう長い付き合いだからな。と言っても、会って六年も経ってはいないんだけど」
「あの人から貰ったんですか」
「絹のお察しの通り」
「なぜ収容室に」
「一から十まで説明しないと駄目か? あ、いや別に面倒なわけじゃないんだが。心残りがないようにしておかないといけないよな。まあ、ただの監視にってことだが」
「なぜ今頃急にそんなことを?」
「それは言えないんだ。なんてな。何でだろうなぁ、詳しいことを聞かされなかったから、俺にもよくわからないけど、何か意図があるんじゃないか? だから、こいつは別に実験なんかされていないし、いたって健康体。さっきまで気を失っていたけどな」
甘利がにっと、清々しいほどいい笑顔を絹に向けた。
ふうっと絹は、安堵をのせて息を吐いた。肩の荷が下りたようなため息に、一瞬甘利が惚けたような顔を見せる。
「よかった。それを聞いて安心しました」
そう言い、へにゃりと力なく微笑んだ絹を見て、甘利はあからさまに浮かべていた笑みを引きつらせた。
「お前。ほんと、いい性格してるよな」
「いい性格? どこがですか?」
「あー……、もういい。気にしないでくれ。この話は終わり! ほら絹、お前に協力している実験体がいるのはわかっているんだ。さあ、出してくれ」
「いやです。私は、私に力を貸してくれた彼らを、元の住処に返す義務があります」
「へえ、それはまた頑張るね」
皮肉げな物言いとは裏腹に、やけに苦々しい顔をした甘利が寛也をちらりと見る。
二人の会話に置いてけぼりにされていた寛也は、まさか自分に目を向けられるとは思わず、まじまじと甘利を見返した。
しかし甘利はすぐに目を離して、絹に向けて言葉を続けた。
「そこをなんとか諦めてくれないか。そろそろ明日になってしまいそうだし、夜更かしは健康に悪いからな」
絹は焦げ茶色の瞳に鋭い光を灯し、ぎろりと甘利を睨んだ。
「しつこいです! 今週、まともに寝てないのはお互いさまです。強行突破しますよ、ニドキング!」
絹が天井に向かってモンスターボールを投げた。赤と白のボールが空中で口を開き、中から閃光が走る。
紫色の毒々しい巨体をもつニドキングが光とともに姿を現した。彼が床を踏みしめたことにより、かすかに床が波打つ。黒い瞳はまっすぐに甘利を見据えており、ニドキングは敵意を剥き出しに大きく吠えた。
咄嗟に耳を塞いだ甘利は、真正面に現れたニドキングに苦い顔をした。アーボはニドキングの鋭い視線も物ともせず、赤い舌をベロリと出した。
寛也はぴったりと背中を壁につけて、事態を見守る。ここで寛也は、甘利が自分を壁際に避けるよう指示した意図に気付き、少なからず胸の内で感謝をした。
そんな人知れず寛也に感謝されている甘利は、だらだらと冷や汗を流しだした。
「あー、ちょっと落ち着け、絹、な? まさか建物を破壊して逃げる気じゃないだろう? 流石に俺もそれは色々と庇えきれないぞ?」
「別に庇ってもらわなくて結構です! ニドキング、壁に向かって毒づき!」
指示を受けたニドキングは拳を作り、寛也が立っていない方の壁に走りだした。ニドキングが走ることによって、床が定期的に揺れる。そのまま怪しげな紫色の光を放つ拳を、ニドキングが壁に叩き込んだ。
ニドキングの拳を中心に、蜘蛛の巣のようなひび割れが出現する。衝撃波は寛也の前髪をかすかに浮かし、甘利の黒髪をぼさぼさにした。
「わお。……俺の手に負えねえわこれ」
乱れた髪を直そうとはせず、ぽつりと甘利が呟く。首に巻きついているアーボは、感情の見えない瞳でニドキングを見ていた。
二発目が壁に叩きこまれた。壁が悲痛な叫び声を上げ、割れ目がどんどんと広がる。ぶわりと浮いた黄金色の髪を、寛也はほとんど無意識で撫で付けた。
容赦なく三発目の拳が、紫の光を味方につけ、振り上げられる。
はたと、ニドキングの動きが止まった。
急激に部屋の温度が下がったように感じて、寛也は身を震わせた。
「ニドキング…?」
絹は困惑を滲ませて、ニドキングに声をかけた。
操り糸が切れたようにニドキングは動かない。絹はまた口を開いたが、そこから言葉が出ることはなく、行き場をなくした声無き音は息になって溶けた。
無音がその場を支配する。
徐々に部屋が凍りついていく。足元から静々と冷気が上ってきているような。
「右だニドキング!」
絹の言葉とほぼ同時に振り抜かれた拳は、物陰から踊り出た影を掠った。隠れていた小柄な影は一瞬よろめき、ニドキングの攻撃範囲内から軽やかに離れる。
絹はじとりと甘利を見やった。
「足を凍らせましたね」
甘利は飄々と肩を竦めてみせた。
「俺じゃない」
二人の密かな攻防をよそに、寛也は抜け目なくニドキングを伺う影をよく見た。
長い鉤爪に、警戒心を剥き出しにした鋭い目、全体的に黒っぽく片耳が鮮やかな赤をまとっている。
「なら他に誰がいるのですか」
「それは……」
甘利が答えるよりも速く、第三者の声が答えた。
「ニューラ、冷凍パンチだ」
甘利の声を遮った男の指示に、寛也ははっと顔を上げて、声の主を見た。
その横で、ニューラは空気の抵抗を受けていないみたいに、ニドキングの無防備な背中へと飛びかかる。
しかし冷めた拳が当たる前に、ニドキングが身をよじって毒針を放った。
ニューラは空中で器用に己に向かってくる毒針をさけ、一旦床に足を落ち着けると、自分を睨んでくるニドキングから距離をとった。目標を失った毒針は深々と壁に刺さる。
両者は睨み合い、相手の出方を伺った。
気怠そうな顔をした男が、甘利の背後から姿を現した。
男は無造作に右腕を上げると、甘利の後頭部を軽く殴った。急に後ろから襲われた甘利は、いてっ、と小さく漏らし、心底納得のいかない顔で男を見上げた。
「なんだよ急に」
「なーにが、俺に任せとけだ。全然説得できてねえじゃねえか。しかも何ぼーっと見てんだよ。止めろよ、あの荒ぶってる絹をよ」
「いや、俺とアーボには限度というもんがあってな」
「要するに、無理ってことか」
「いやあ、そういう訳じゃないけど、まあ後はよろしく頼んだ」
「ふざけんな」
コミカルに繰り広げられるやり取りには似合わない、固まった表情で絹はぽつりと言葉を零した。
「梶木さん……」
呼びかけられた男は、融通の利かない後輩に、仕方がなさそうに口を歪ませて笑って見せた。
「絹。お前、ほんと馬鹿だよなぁ」
ニューラが音もなく氷床を滑るように、なめらかな動きでニドキングに接近する。
「……馬鹿で結構です。いつまでもここに居るなんて、そんなの真っ平なんですよ!」
ニドキングが床に毒づきを放った。拳が当てられた地点を中心に、床がひび割れていく。
「接近しろ、冷凍パンチだ」
ニューラは目の前の割れ目が床を崩すまえに高く跳躍した。そのまま体を捻り、頭上がおろそかになっているニドキングに、渾身の冷凍パンチを入れる。
「上です!」
だがニドキングの方が速く動いた。
ニドキングはニューラを見向きもせず、空中に背中の棘を放った。放たれた毒針は、攻撃を仕掛けにきたニューラの行動を鈍らせる。
絹の大声が部屋に響いた。
「今だ、叩きつけろ!」
一瞬固まったニューラの頭を、ニドキングは掴むと、容赦なく床に叩きつけた。
今まで無口だったニューラはむきゅ、っとくぐもった声を出し、薄く氷の膜が敷かれた床に伸びた。ニドキングが手を離しても、ニューラは動こうとしない。
「まさか……」
ニューラが戦闘不能になったことが、信じられないといった様子で梶木が呟いた。余裕のある笑みを見せていた顔が、驚きに染まっている。
その横で、逆に甘利が感心したように、
「即席のチームワークにしては上出来だな」
と言い、絹に軽やかな拍手を送った。
そのわざとらしい態度に、寛也は不審げに甘利を見る。
すると、氷が剥がれる音がしたのち、ニドキングが垂直に宙に浮かんだ。きょとんと幼い顔を見せるニドキングを尻目に、何か見えない力が彼の腹部を襲ったらしく、ニドキングはかっと目を見開き、体を強張らせると、全身の力を抜いて動かなくなった。
拍手が止む。
見えない力で宙吊りになっていたニドキングが丁寧に降ろされた。
「よし、まずは一匹片付けた」
甘利が疲れとともに、ふうと息を吐く。
急に起こった逆転劇だった。
「なっ、このっ……!」
事態を把握したのか、ぼんやりとした顔から一転、絹は目を覚ました。
すぐさま次の一手を投げたが、床に落ちたモンスターボールからは何も現れない。
いや、出てくることができないのだろうと、寛也は心中で呟いた。甘利の手元に居るのはアーボだけではなく、念動力が使える生き物がいるのだと。