第三章 そして七月は終わる
二話 度重なる質問の嵐

 最初に、その異変に気付いたのは椎名だった。
 のんきに、段ボール箱に全体重を預けて、長い足を組んでいた彼女は、ふと足元から上ってくる微かな振動に気付き、腰を浮かした。
 中腰で動きをとめた椎名を、寛也は不思議そうに見上げる。
「なにし、てっ……」
 寛也の問いかけが中途半端に途切れた。
 唐突に、床が揺れたのだ。
 大きな揺れではないが、重ねていた段ボールの山が、均整のとれていた形を崩す。いつ箱が落ちてきてもおかしくはない状況に、寛也はひやひやとしながら辺りを窺った。
 揺れは思いのほか早くおさまった。
 寛也は鼓動の速さを抑えようと、静かに何度か息を吐く。
「大丈夫か?」
「うん。……いまの、なに?」
「さあ。なんだろうな」
 椎名は落ち着いた手つきで携帯電話を取り出した。状況を調べようと液晶に目を移す。だが、電波は届いていない。さりげなく画面から目を離した椎名は、何事もなかったように携帯をポケットに落とした。
「地震かな……」
「ふむ」
 腰を曲げて立っていた椎名が背筋を伸ばすと、ゆるい返答をして天井を見上げた。実際には天井に取り付けられている電球を見た。白い発光を受け、彼女の深海を思わせる瞳がきらきらと光る。
「まさか」
 寛也も嫌な予感を胸中に沈めながら、電球を見上げた。
 ぱちり、と小さな息の音とともに、部屋を暗闇が埋めた。真っ暗のなか、女にしては低い椎名の声が、寛也に話しかける。
「そのまさかだな。停電か」
「なにそれ、予知?」
「そんな能力、身につけた覚えはないんだが」
「そう。……ま、予備電源に切り替わるはずだから、ちょっと待とうか」
「わかった」
 椎名が黙ったことにより、会話は途切れた。
 二人は口をつぐみ、また電球が頭上を元気に照らしてくれるのを待つ。歯車がひっそりと、己に取り付けられた小さなランプの光を弱めていった。
「……まだか?」
 最初にしびれを切らしたのは椎名だった。
 寛也は不可解な状況に頭をひねり、答える。
「変だな」
「何が」
「この状況が」
「それはわかってる」
「なんで切り替わらないんだろう?」
「私が聞きたい」
「んー……。まあ、いいか。俺、ちょっと見に行ってくる」
 淡い黄色の光が一筋伸びて、寛也の顔に直撃した。照らされた寛也は、猫のように赤い目を細め、懐中電灯を持った椎名を見る。
「眩しい」
「知ってる。どこに行く気だ、この暗い中」
「管理棟。あそこ、ブレーカーがあるから、ちょっと様子見てくる。このままじゃ、埒があかないし。歯車もエネルギーなしでは動けないからね」
「なら、私も行こう」
「いや、椎名さんはここで待機してて」
「なんで」
「時間が迫ってきてるでしょ」
 椎名はちらりと腕時計に視線をはわせた。快くとはいかないが、納得はしたらしい。渋々といった表情で頷く。
 懐中電灯を寛也に渡し、椎名は言った。
「……わかった。いってらっしゃい、時間さん」
「うん。なんか、送り出す方が見送られるって変なかんじだけど。まあ、行ってくるわ。じゃあ、またあとで」
「ああ、また」
 錆びた扉を引きずる、滑りのよくない音とともに、部屋に暗がりが戻ってくる。
 寛也の足音が遠のいて消えた。椎名は難しい顔を崩さず、さっきまで座っていた段ボール箱に腰を下ろし、すんと鼻をすすった。

 寛也は暗い廊下を歩いていた。
 時々遠くの方で大勢の人が走る音や、行動を指示する大きな声が廊下に響き、その度に寛也は懐中電灯の光を弱めて息を潜めた。
 どうやら、何かが起こっているらしい。それを一切把握できていないことが、寛也にとっては少し気がかりだった。
 寛也は管理棟に足を踏み入れる。
 明かりを頼りに歩いていると、廊下の角を曲がろうとしたところで、人の足が見え、ぎょっとして立ち止まった。恐る恐る角を覗くと、団の制服を身につけた男が仰向けに倒れている。
 見たところ、大きな怪我は見当たらない。というか、怪我をしているようには見えなかった。
 寛也は男の横に膝をついて、呼吸の有無を確認した。口元に手をかざすと、規則的な息が当たった。
 どうしたものか、と寛也は八の字に眉をよせ、困りはてた。放って先に進むか。それとも助け起こすべきだろうか。
 考える寛也の耳に、小さないびきが聞こえた。
 真顔になった寛也はさっさと立ち上がると、ジーンズに付いた埃を払い、その場を後にした。どうやらあの団員は、呑気に廊下の端で睡眠をとっていたらしい。なぜ、あんな場所で寝ていたのか、さだかな理由はわからないが、どうせ大した理由ではないだろう。
 そう寛也は決めつけて、ずんずんと足を進める。
 目的地である中央管理室に近付けば近づくほど、その奇妙な睡眠中の団員と、寛也は遭遇することになった。そのたびに、ぎょっと足を止め、いちいち呼吸の有無を確認する。
 たまにトランシーバーが団員の近くに落ちていた。現在研究所で起こっていることの手がかりが聞こえてくるかもしれない、と寛也はそれを拾いあげたりしたが、何か大きな生き物に踏みつけられたみたいに、ぺしゃんこになっていて使い物にならなかった。
 一体なんだというのか。進むたびに、寛也は首をひねるばかりである。
 寛也は立ち止まった。
 赤い瞳を細めて、中央管理室と書かれたプレートに目を向けた。
 耳を澄まし、中からは物音が聞こえないのを確認してから、寛也はドアノブを捻った。部屋に体をすべり込ませる。ぱたんと乾いた扉の閉まる音が耳に入った。
 左右に機械が入り組む、狭い通路を通り、部屋の奥へと寛也は明かりを頼りに歩いた。
 足音しか聞こえない静かな空間に、ごつりと鈍い音が響いた。すぐあとを、硬い物体が踏み潰されたような、ぐしゃりとした破壊音が続く。
 一気に緊張が走り、寛也は体を強張らせた。
 明かりを弱め、息を潜める。部屋の奥を目指し、ゆっくりと歩みを進めていると、通路の終わり、開けた空間が数歩さきに見えた。鼓動が速まっていくのを感じる。
 通路から赤い光線が弾けたのを見た。寛也はぱっと通路の端に身を隠し、奥の広まった空間を覗き込んだ。
 薄暗い視界で、項垂れた男が片手に何かを持って、立っているのが見える。寛也に背を向けて立っている男は、シャツの裾を律儀にズボンに入れていた。アンファンの団員ではないことが、その簡素な服装でわかる。
 男が、寛也に気付いた様子はない。後ろ姿からは、呆然とした虚無感がいやにも伝わってくる。
 何をしているのだろうか。不安にかられながらも、寛也の疑問は大きく膨れる。同時にここまで来るのに、どれほど時間を経過したのか気になった。
 意を決すると、寛也はそろりと腕を伸ばし、男の背中を照らした。己を照らす存在に気が付いたのか、男はゆらりと気だるげな動作で振り向いた。
 こげ茶色の髪を後ろに束ね、同色の瞳を嵌めている男は、その顔に恐ろしいほどの無を浮かべていた。
 寛也は目を見開き、顔を雪のように白く染めた。
 絹だ。なんどきも微笑みを絶やさなかった絹が無表情で立っていた。
 絹の足元には、紫の体に黄色を差しているアーボが、全身の筋肉を緩めて床に伸びていた。そのアーボの横に、ケーシィ君と名付けられた移転装置の残骸が、破れたぬいぐるみから顔を出している。
 言い表せられない、そこはかとない恐怖が足元から上ってくる。
 意味のわからない状況に容量オーバーして、寛也は考えることを放棄した。絹は、固まった寛也に目を留めて、淡く微笑んだ。
「ああ、時間さん。こんな夜更けに、まさかこの場所で会えるとは。どうしたのですか?」
 そして何気ないふうに、話しかけてくる。
 どういうことなんだ。寛也はくらりと眩暈がした。

 規則的に並べられたモニターの数々と、見たことのない機械を背に絹が立っている。それを照らしながら、寛也は苦い顔をした。
「……なにしてんの、こんな所で」
「さあ。何をしていると思いますか?」
「少なくとも、落ちたブレーカーを戻しにきた、っていうふうには見えないね」
 寛也の返答を聞き、絹はため息混じりの笑みを零した。
「私にとっては、時間さんがここに居ることも奇妙なものに見えるのですが、……そうですね。いまは、誰かに聞かれることもありませんし、答え合わせでもしましょうか」
 平時のときよりも、幾分か速い口調で絹が言葉を紡ぐ。寛也は眉を寄せて、不機嫌そうに言った。
「何の答えを合わせるのか、よくわからないんだけど」
「そう解答を焦らないでくださいよ。順を追って説明しますから」
 と、言ったもののどこから話せばよいのやら。
 そう呟いた絹は困ったように眉を下げ、懐中電灯を持った寛也を眩しそうに見た。寛也はとっさに明かりを床に下げた。伸びているアーボの影が、くっきりと床を塗りつぶした。
「……アーボ、大丈夫なの」
 とくに外傷は見当たらないが、うんともすんとも言わずに倒れていると、ちゃんと呼吸をしているのかと心配になる。
 絹はちらりと視線を下に向けた。
「ああ……、大丈夫ですよ。気絶しているだけです」
「そう。まさかとは思うけど、その子は収容室に居た不眠のアーボじゃないよね。だって、あの子は連れて」
「私にも、よくわからないんです」
 寛也の声を遮って、絹は言った。
「よくわからない?」
「はい。彼が運ばれた日、私も、収容室のメンバーも彼がまた戻ってくるのを最後まで待っていました。実験に耐え切ったものが、収容室に戻ってくるということは、よくありましたから」
「だけど、アーボは戻らなかった、と」
 絹は苦々しい笑みを浮かべ、息苦しそうに言った。
「そう……、なのに、彼はここに居た。私がこの部屋に来たとき、彼はまるでここを守るように、誰かが入って来られないように敵意を向けてきました。なぜかはわかりません。どうして彼がここにいるのか、……よくわかりません」
 寛也は黙って、気絶しているアーボを見下ろした。
「……それで、絹さんは何の目的でここに来たの」
「聞きます?」
「時間があまりないから手短にね」
「それもそうですね」
 ぼんやりと返答し、絹は宙空に視線を泳がせた。言葉を探すように、口元が小さく動く。心ここにあらず、といったふうに遊泳していた視線は、急に切れ味をまして寛也を見やった。
 びくりと小さく震えた寛也をよそに、絹は言葉を組み立てる。
 まあ、疲れたんですよね。てっとり早く言えば。
 絹は最初にそう零し続けた。
「私は、あそこが嫌いでした。始終、部屋の空気が重く体にのしかかってきて、あのまま、あそこに居たら押し潰されてしまうような、そんな気がした。それにあそこは、何もかもを消毒して殺しそうな、いやな匂いがするでしょう? 自分の部屋に戻って一息ついても、なんだか、染み込んでいるんです。あの生死の境目を示す匂いが。そう思うと、白い自分の部屋が、重苦しい病室に見えてくるんです」
 いつもより速い口調で、脱線しそうな勢いの言葉の羅列を述べた口が動きをとめた。絹は自分を落ち着かせるように深呼吸をしてから、思いを噛み砕くように続けた。
「その……、まあ、なんと言いますか。要するに、私はあの部屋が苦手でした。そして、あの部屋を作った組織も嫌いでした。だから、壊すことにしたのです。あの部屋を形作る、収容室に閉じ込められた、地下に隠された実験体たちを逃すことにしたのです」
「……成功したの、それ」
「今日はアンファンの頭首水無月が、この研究所に来ましたよね。おかげで、警備の大半が彼女の方に回り、いつもより手薄になっているんですよ。そこで私は檻を開けて、彼らを外に逃しました。まあ、とある二匹には今でも協力してもらっていますが。……この部屋に来たのも、そのためです。彼らを確実に逃すために、一度研究所の機能をストップさせたかった」
「じゃあ、停電して予備電源に切り替わらないのも、ここの団員が慌ただしくしていることも、原因は絹さんってこと?」
「そうなりますね」
 騒動を起こした張本人の絹は、平然と肯定した。ずっと胸のうちに燻っていたものを吐き出したからか、晴れやかな顔をしていた。
 だからといって、研究所の機能が停止したままでは、歯車を起動させるのに支障をきたす。
 寛也は無駄だと思いつつも、絹に訊ねた。
「目的を達成したのなら、もう予備電源に切り替えていい?」
「たとえ、時間さんからのお願いだとしても難しいですね」
 案の定、つれない答えが返ってきた。
「でもさ……」
「駄目です。これで、私の話は終わりです。次は時間さんの番ですよ? 見た所丸腰のようですが、それで私の油断を突くつもりですか? 貴方もあの人に言われて、私を止めに来たのですか?」
「……はい?」
 心底訳がわからないと言いたげな、怪訝そうな寛也の顔を見て、的が外れたのか、絹は考えこむように口を噤んだ。
「はいはい、そこまでにしておけよ。いま何時だと思ってるんだ? 十二時近いんだぞ? 寝ろよ」
 静まった部屋に、二人にとって聞き慣れた声が響いた。
 寛也は驚いて後ろを振り返り、懐中電灯の光を走らせた。絹も寛也の背後に鋭い眼差しを向ける。
 細い通路を背に、二人に声をかけた甘利が、光の眩しさに眉をひそめて立っていた。直接照らされているため、眼鏡が光を反射して真っ白になっている。
 寛也はそっと光を下げた。
 足音も立てず入ってきた侵入者に、絹は警戒を強める。
「甘利さん、ノックぐらいして下さい」
「よう、二人共。って、そっち? 絹、そっちに突っ込んじゃうの?」
「てか、どうやって入ってきたの?」
「おっ、いい質問だなヒロ。絹とは大違いだぜ!」
「何か言いましたか?」
「あ、いや、ごめん」
「どうした甘利。なんかテンション高いよ」
「……おいおい。いやほんと誰のせいだよ! お前らだよ? お前らのせいで、夜中に叩き起こされたからだよ? 深夜テンションってやつだよ! ……ねえ、なにしてんの? こんな真夜中に、お前らここで何をしてるの? 絹が余計なことをするから、研究所内が慌ただしいし。俺を寝させない気なの? そうなの?」
 相当切羽詰まっているのか、甘利は後半の台詞を真顔で言い切った。
 寛也はその様子を見て、自ずと力を入れていた肩を落とし、気の抜けた言葉を吐いた。
「まあ、甘利ちょっと落ち着けよ」
「時間さん、待ってください」
 絹に言葉を遮られ、寛也は不思議そうに絹へと顔を向けた。
「甘利さん。どうして、私が騒ぎを起こした張本人だと知っているんですか?」



おなつお ( 2015/09/12(土) 21:47 )