第二章 噛み合った歯車
八話 見透かした黒い目

 食堂に向かう途中、収容室から明るい笑い声が漏れ聞こえ、寛也は思わず足を止めた。おっかなびっくりといった気持ちで、収容室の扉へと目を向ける。楽しそうな複数人の声はやはりその中から聞こえ、どうやら寛也の幻聴ではないようだ。
 変わったな、と苦い気持ちで寛也は呟く。
 あの毒蛇が来て、ここは変わった。それも悪い方ではなく、良い方にだ。
 寛也は嬉しいような嬉しくないような、複雑な感情を抱きながら、自分と収容室を隔てる扉を眺めた。不意にそれが開く。
 見知った黒髪の少女が、にこにこと顔を崩して出てきた。わたがしのように柔らかい猫っ毛が歩くたびに揺れる。
 寛也に気づかず、そのまま立ち去ろうとした少女は、何かに気付いたように歩みを止める。
「あれ? 誰か突っ立てるなーって思ったら、時間さんじゃん!」
「やあ、結花ちゃん」
 少女もとい結花は、肩まで切りそろえられた髪を揺らして訊ねてくる。
「時間さん、こんな所で何してるのー? あ、もしかして、絹さんとお話し?」
 寛也はゆるゆると首を振って否定する。
「いや、たまたま前を通っただけ」
「ふうん、そうなんだ」
 まあ、いま絹さんいないんだよねー。結花は微笑みを崩すことなく、そう付け足す。
 寛也は逆に訊ねてみた。
「どっか移動したの?」
「まさか、時間さんじゃあるまいし」
 寛也は苦笑して続きを促した。
「それがね。なんか、下にいるんだって」
「下?」
「うん。それしか聞いてないんだけど、皆、たまに下に行くの。私はまだ駄目だって、仲間外れだよ、もう」
 少し拗ねたように結花は言う。皆とは収容室に配属されている人達のことだろうか。寛也はへえ、と相槌を打つ。
「そういえば結花ちゃん、これからどこか行くの?」
「そうそう、食堂にね、アーボのおやつを貰いに行くの」
 鼻歌でも歌い出しそうな感じで結花は答える。
「へえ、おやつねえ」
「あ、いま随分と甘やかしてるなあ、とか思ったでしょ」
「……いや、全然」
「ふぅん。まあ、でも実際に甘やかしてるんだけどね! もう皆、顔が緩みまくりだよ」
「そこは、はっきりと肯定するんだ……」
 ふふふっ、と何が楽しいのか理解できない寛也を置いて、結花は屈託なく笑う。
「時間さんはどこ行くの?」
「食堂」
「お、奇遇だねー。よし、一緒に行こっ」
「うん」
 先に歩き出した結花に続いて、寛也は足を進める。

 結花と別れて数分が経つ。
 寛也は遅めの昼食を胃に詰め込んでいると、椎名がコーヒーを片手に声をかけてきた。よそ行きの微笑みを浮かべ、志木勇希になり変わっている。
 椎名は白い半袖シャツに黒いジーンズと、シンプルな格好をしていた。対する寛也は、よれよれとした白衣に薄緑色のシャツ、長くなった前髪を赤い髪留めでぞんざいにまとめている。
 相反する二人は、数時間ぶりに顔を合わせた。
「こんにちは、時間さん。隣に座っても大丈夫ですか?」
 咀嚼していたおにぎりを無理やり飲み込むと、寛也は反対に訊ねる。
「嫌だって言ったらどうするの」
「そんな意地悪なことを言わないでくださいよ」
 つれない態度に眉ひとつ動かさず、椎名は笑みを保ったまま言った。
 寛也は朝焼けに似た赤の瞳を細めて、椎名を睨みつけるように見た。負けるものかと、椎名も応戦をする。無言で視線だけの攻防が、短い間で行われた。
 見つめ合っている二人に、食堂に訪れた団員や研究者が奇妙な視線を送る。
 大変、不本意だ。音もなく赤い眼差しを逸らし、寛也はしぶしぶ頷いた。
「どーぞ、志木さん」
「ありがとう」
 椎名は笑みを深くする。椎名が自分の前に座るのを見届け、寛也はおにぎりを食べる手を止めた。
「しびれを切らして、催促でもしにきたの?」
「滅相もない。そんなことではありませんよ」
「じゃあなに。俺に何か用?」
「用なんてないですけど」
「は?」
「知り合いがいたから声をかけた、ただそれだけですが」
 何か不都合でも。口に出さなかったが、聞こえない言葉が語尾に隠されていた。
 寛也は黙った。一息ほど黙ってはいたが、やがて口を開く。
「物好きだね、あんた。いや、物好きというか、……粘り強い?」
「私は発酵していませんからね」
 納豆のことを言っているのだろうか。寛也はこてんと首を傾げる。
「してたらもう人間じゃないんだけど」
「ですね。そういえば、時間さんと同じようなことを前にも言われました」
「ふーん」
「あんた諦めが悪いわね、って先輩に」
「そう」
「はい」
 椎名は持ってきたコーヒーに口をつける。何度か見たことのある光景に、寛也は何気なく呟いた。
「カフェイン中毒者」
 かすかな音だったが、椎名の耳に入る。椎名はむっとして言い返した。
「きみはおにぎり愛好家と言ったところでしょうか」
「別に好きで食べているわけじゃないんだけど」
「甘利さんは、好き好んで食べている、って言っていましたよ」
 あからさまに寛也は嫌そうな顔をした。
「……あいつの言ってること、大半嘘だから」
 それこそ、口からでまかせだった。
 それほど近くない距離から、二人を呼ぶ声が聞こえた。
 椎名は小さく息を吐いて笑い、後ろを振り返った。寛也もそれに合わせて、椎名の背後に視線を向ける。
「噂をすれば、ってやつですね」
「そうだね」
 甘利は親しげに喋っている二人に見つめられ、なんだなんだと好奇心を全面に出した。その手にはコーヒーカップ。椎名が飲んでいるコーヒーとは違い、それには薄っすらとミルクが漂っていた。寛也が思うに、大量の角砂糖が入っている。
「よう」
 甘利は人懐っこい笑みとともに言う。
「よう、甘利」
「こんにちは」
 二人も挨拶を返す。
「俺もいいか? 座っても」
 寛也はどーぞ、と快くまではいかないが、いつも通りに答える。椎名は無言で頷いた。
 了承を得た甘利は椎名の隣に腰を下ろした。そして細いフレームの眼鏡を押し上げて、またにやにやと口端を上げて笑った。
 興味を隠しきれていない笑顔に、寛也はうんざりとした。
「なんだよ」
「いやなに、ヒロはなかなか隅に置けない奴だなあ、と」
「うっさい」
 寛也は甘利の発言を一蹴する。
 本気で怒っている訳ではないとわかっているので、甘利のにやにやは止まらない。
 椎名に声をかけられてこの状態になったわけで、こちらが隅に置けないとか、そういう問題ではない。と一から説明するのは面倒なので、寛也は口に出さなかった。
「ていうか、甘利がこんな時間に食堂にいるなんて珍しいな」
 甘利は表情を崩すこともなく口を開いた。
「まあ、そうだな」
 いまは、昼と言うには遅すぎる時間帯だった。よって人も少ない。
 椎名がなぜ居るのか、寛也は付き合いが長いわけではないので、居ても特に奇妙には見えない。
 だが甘利がこの時間帯に食堂をうろちょろしているのは、寛也にとってすこし異質に見えた。なんせ、研究番号二のまとめ役を任されている甘利は、今頃忙しく研究室を歩き回っているはずだからだ。
 会話を耳に挟みつつ、椎名が口をつけていたコーヒーをテーブルに置いた。
「何かあったんですか?」
 いやいや特にないんだけどね、と甘利は笑う。
「大したことじゃないんだ。上沼研究科長に呼ばれて、その帰りに息抜きしようかなーって立ち寄っただけ」
「ああ、成る程。おつかれ」
 寛也は食べかけのおにぎりに手をつけ始める。
「にしても、聞いてくれよぉ。ほんと、面倒なことになった」
「なにが?」
 寛也に問いかけられた甘利は、面白くなさそうにコーヒーをスプーンでかき混ぜる。黒い液体が濃い茶色に変わっていく。
「それがさあ、七月の終わりに此処の頭首さまが視察に来るんだって。それが面倒臭いのなんの。なんか来る前に、番号二の成果をある程度見せろって言われるし」
 甘利は重たい言葉を吐き出す。
「ほんと、無茶だって」
「それ、最悪だな。どうする気なんだよ」
「もう皆で徹夜祭りしかないな。何とかしないと、俺の首が飛んじゃうし。それに、あれ、あの黒いギフト。あれの中身が変なのになったら怖いし」
「……あぁ。ま、大丈夫だろ」
 聞きに徹していた椎名が不思議そうに、とあるワードを繰り返した。
「……黒いギフト?」
 寛也と甘利はお互いに目を合わせ、納得をした。
 どうやら椎名は、連れ去られた子ども達を脅すために送られる、黒いギフトの存在を知らないらしかった。
 おい、どうする。説明するのか。
 関係ない話だろ。
 二人の視線での短い会議が終わる。甘利が笑って言った。
「ああ、こっちの話。気にしないで」
「そうですか……。けれども、頭首さまが訪れるとは。厄介ですね」
「だろー?」
 甘利は肩を落とし、雨雲でも背負っているのかと思うほど憂鬱な顔をした。

 七月の下旬に差し掛かった頃だった。その日は、青空が目一杯広がる快晴だった。日差しを遮る雲は出歩くのをやめて、暖かいを通り越して暑い日光が、我が物顔で地上に降り注いでいた。
 椎名にまだ結論が伝えられていない寛也は、頭の隅にそのことを追いやり、吸い込まれそうなほど青い空を見上げて、危なげに廊下を歩いていた。不意に視線が前方へと向かう。
 日のように燃えた瞳が、伸びた背中を映した。
 昼食を食べに行く途中、収容室の前で絹が猫背を正し、ぴんと立っているのを寛也は見かけた。いい天気が顔を出しているのに、その一帯はなにか嫌なものが支配していた。
 つい足を止める。寛也は顔に出そうになる不愉快さを飲み込んだ。
 がらがらと運ばれていく、積み上がった不透明な箱が遠めながら見えた。どうやら絹は、遠ざかっていく大量のそれを見送っているようだった。
 絹に声をかけるか、かけまいか悩んでいると、地を踏みしめて歩く音が聞こえた。寛也は首だけで振り返る。研究所の最高責任者である、上沼が歩いてきていた。
 足元から電流が走り抜ける。
 上沼は、不自然に固まった寛也に一瞥を向け、背を向けている絹に向かっていた。
 上沼に気付いたのか、絹は小さく会釈をした。二人はぼそぼそと言葉を交わす。寛也は廊下に縫い留められてしまったのか、足を動かすことができなかった。
 二人の会話が終わる。上沼は大量の箱を追いかけるようにその場を立ち去り、収容室に戻ろうとした絹は寛也に目をとめ、にっこりと微笑みらしきものを浮かべると、部屋に戻っていった。
 廊下は静かになった。笑い声なんて元からなかったようだ。やけに静かだった。
 また元に戻っただけ、それだけだ。目の奥がちりちりと痛む。足を縫い留めてくる糸を切って、寛也はやっと歩き出した。
 角を曲がろうとして、寛也はぎょっと目を見張った。壁にもたれて立っている椎名が、完然に影に馴染んでいた。
 椎名は横目で寛也の姿を認めた。まるで何もかもを見通しているように感じる黒い瞳に、寛也は心が渦巻くような嫌な気分になった。
「なに」
 短く問いかける。
「ちょっとお話をしませんか」
 涼しげな顔をして椎名は持ちかけてきた。

 夜空がコガネシティにある、ひっそりとした公園を包む。こじんまりとした公園には、ぞうさん滑り台と、砂場、ブランコしか収まっていない。そんな公園の周りに広がる住宅は、どれもこれもカーテンが閉められ、暖かな光が外に透けていた。
 ぎこぎこと軋むブランコに座り、寛也は独り寂しく揺れていた。
 彼は暗い中、電灯に照らされた公園の入り口に目を凝らして、椎名を待っていた。彼女は飲み物を買ってくると言ったきり、なかなか帰ってこない。
 暑い、溶けてしまいそうだ。寛也は汗を拭い思う。ぱたぱたと持っていた鍔付きの帽子で顔を扇ぐが、ぬるい風しか当たらない。茹でタコならぬ、茹で人間でも作ろうとしているかのような空気だ。
 ふいに明かりの下で人影が伸びた。暑さでだるそうな顔をしている寛也に、戻ってきた椎名が苦笑してペットボトルを投げる。寛也は慌てて腕を伸ばし、飲み物を受け止めた。
 ひんやりとしたそれを改めてみる。なぜだか炭酸水。
「サイダー?」
「何でもいいって、きみ言っただろ?」
 研究所外ということもあって、椎名はのびのびとした口調になっている。
「まあ、そうだけど」
「あまり好きじゃなかったか」
 かすかに椎名は表情を暗くした。寛也はそれを認め狼狽える。
「あ、いや、そういう訳じゃない。ありがと、椎名さん。サイダーなんて久しぶり」
「そうか」
 寛也の返答を聞きつつ、お茶の方が良かったかと頭に入れて、椎名は相槌を打った。
 椎名がブランコに腰をかけるのを見届けると、寛也はペットボトルのキャップを外した。外した直後、景気のよい音がした。透明な液体が泡立つ様子を、興味深そうに見る寛也の横で、椎名はぐいっとサイダーを仰ぐ。それはもう美味しそうに喉を鳴らして飲んだ。
 眩しそうに寛也はその様子を見る。
 三分の一までサイダーが減った所で椎名は飲むのをやめた。その意気のいい飲みようからして、ここを指定してきた割に、椎名も暑さに耐えかねているようだった。
 寛也は口の中で弾ける炭酸を楽しみながら、ちょびちょびと飲み始めた。ついでに話し始めもする。
「それで、お話ってなに」
「きみの答えを聞かせてもらおうと思って」
「……ああ」
 寛也はそうだろうなと思ってはいた。だが、違うのではなかろうかと現実逃避をしていたのに、見事に打ち砕かれてしまった。粉々である。
 寛也はサイダーに口をつけて、考えを巡らす。
 椎名に今を変えるため過去に戻らないかと提案され、思いのほか長い時間が流れた。もともと過去を変えようと嬉々として動いていたのに、同じ年を堂々巡りしていると知ってからは、心の底に苦いものがふり積もっている。そんな気がした。
 寛也は考える。結局、自分はどうしたいのだろうかと。好きでもない組織に組み込まれたままがいいのか、それとも。
 手の内の炭酸が弾けて、宙へと溶けていく。
 未だに答えは出ない。とりあえず書きとめていた思いを連ねてみる。
「……俺はあの人に生きてほしかった。だから時を巻き戻して、ここにそんな、思い描いた未来を作ろうとした」
「ああ」
「でも、違った。あの人はあなたで。あなたが過去に戻り、俺は後悔してやり直して……。戻すきっかけはあなた、それでもあなたは今ここに居る。ということは、……ということは」
 ふいに、寛也は口を閉じた。台座に座り、ゆらゆらと揺れていた椎名は、ゆるやかに止まっていった言葉に、隣へと視線を向ける。
「どうしたの、時間さん」
「おかしい」
「おかしい?」
 硬くなった寛也の声に、椎名は同じことを呟き返す。彼女が揺れるたびに、台座を繋ぐ対の鉄鎖がぎいぎいと音を鳴らす。
「だって、最初からあなたがいるなんて、そんなのありえないはず。なら、なんで? なんで、あなたを起点にし始めた? どうして、繰り返すようなことが?」
「……要するに、本来は違う理由で戻していたのに、気付いたら目的が入れ替わってました、と?」
「いったい、どこで……」
 砂利に視線を下ろし、寛也は一人で勝手に模索を始める。項垂れてブランコに座り、紅の瞳を伏せて考えに耽る姿は、辺りが暗いことも相まって不気味だ。
 椎名は夜空を見上げた。地を蹴って、ブランコを漕ぐ。
「まあ、始まりなんて、どうでもいいじゃないか。どうせ考えたって答えはでない。もうわかりっこないんだから」
「……それは、そうだけど」
「それより、今のことを考えようじゃないか」
「今のこと?」
「ああ、その決めてほしいんだ、きみに。戻すか、それとも戻さないかを」
「いま」
「そう、今。もう時間がない」
 椎名は漕ぐのをやめて、暑い空気によって炭酸が抜けてきたサイダーを、喉に流していく。
 寛也も自身が持っているサイダーに目を向けた。ずっと手に持っていたことにより、すでにぬるくなっているだろう、とぼんやり目星をつける。
 椎名はちらりと隣を窺うと、口を開いた。
「たまには長々と考えないで、好きなように決めたらいいんじゃないか? 駄目だったら駄目だったで、その時に考えればいいと私は思う」
「……戻したくないって言ったら?」
「それはもう、君が了承してくれるまで嫌というほど説得をするな。こちらは切実に困っているんで」
「それ強制じゃん」
 椎名の軽口に、寛也は笑みを見せた。椎名もまた笑みを浮かべて、調子づいたのか楽しげに口を挟む。
「まあな。始まりがすり替っていたとしたら、今だって替っていて違うものなんだろう? なら、今を作りあげる過去だって、変えることができる。そう思うと、なんだか楽な気持ちで考えられないか?」
 寛也は、強気に言い放った椎名をまじまじと見直した。
 椎名はにやりと笑った。いまにも良からぬことをしでかしそうな、意地の悪い笑みを浮かべている。けれど、これまでに見てきたどの表情よりも生き生きとしていた。
 ああ。堪らず寛也は懐かしさにため息を吐いた。椎名は訳もわからず気抜けした表情を見せる。わざとらしくもう一度ため息をつくと、今度はあからさまに眉を寄せた。
 不服そうに椎名が訊ねる。
「なんだ」
「いや。別に」
 寛也の生温かい瞳に晒され、椎名は居心地が悪そうに身じろぎをした。
「……いいよ」
「ん?」
 一瞬なにを言われたのか認識できず、椎名は問い返す。
 寛也はとくに気に留めたようすもなく、だからね、と言い直した。
「いいよ。その話乗った」
 事もなげに寛也は言う。今度は椎名がまじまじと寛也を見返す番だった。


■筆者メッセージ
(2015.5.30)
次回、三章に突入します。
おなつお ( 2015/05/30(土) 15:27 )