七話 持ちかけられた話
いつも遊んでいる森が、いまは少し怖い。
茂みに隠れて、息を潜める。頭の上では夜空が展開していて、辺りは真っ暗だ。ぼくの隣で同じようにしゃがみ込んで、身を隠しているおねえさんは、葉っぱの隙間から周りを窺っている。
ねえ、小さな声でおねえさんに声をかける。
「……おねえさん、だれ?」
おねえさんは答えない。ねえ、おそるおそるもう一度声をかけると、静かに、って硬い声で注意された。ぼくは黙る。
がさがさと葉がこすれる音がした。おねえさんは真剣な顔をして、前を見つめている。
ぽつり、と白い灯が見えた。
あいつだ。あいつが来た。
恐怖が足元から駆け上ってくる。いますぐにこの場を離れたい気持ちを押しとどめて、おねえさんと一緒に様子を窺う。
灯が明確な意思をもって、こっちに向かってくる。張りつめた空気のなか、おねえさんは動かない。だからぼくも動かない、とてもこわいけど。
白い灯がぼくらを飲み込もうと大きくなっていく。ぼくは両手で口を覆った。空気に潰されて、知らず知らずに叫び散らしそうでこわかった。
こっちに来るな、こっちに来るな、来るな、来るな、来るな。
願望を呪詛みたいに胸のうちで呟く。
そんなとき、白い灯が揺れた。まるで、何かに気をとられたみたいに。こっちに向かってきていた葉音が遠ざかる。灯が勢力を失ったみたいに小さくなっていった。
それが完全に見えなくなって、おねえさんは安堵したように息を吐いた。
「……行ったか」
「……行ったみたい」
おねえさんがぼくを見た。暗いので、青い瞳は黒みたいに濃い色をしてる。
「きみはこの近くの子か?」
ぼくは素直に頷いた。おねえさんが眉間にしわをよせる。
「なぜ、こんな所に」
それは、おねえさんにも言えることだったけど、ぼくは今日起こったことを、おねえさんに短く伝えた。祭りに姉ちゃんと来たこと、その時に姉ちゃんとはぐれてしまったこと、知らない人たちにここまで連れてこられたこと。
おねえさんは黙ってぼくの話を聞いていた。
「そうか……、じゃあ、ええっと……、きみのお姉さんを……」
なんとなくおねえさんが、ぼくを何て呼ぼうか迷った気がしたので、ぼくは時間寛也、と名乗った。それを聞いたおねえさんは、少し驚いたような顔をした気がした。暗くて表情がわかりづらい。
ふ、っと笑うように息を吐き出し、おねえさんは、私はシイナだ、と名乗った。シイナ。上の名前だろうか、それとも下の名前かな? ぼくは曖昧に頷く。
「じゃあ寛也くんのお姉さんのもとに戻ろう。まずは森から出ないといけないな……、道わかるか?」
この森はぼくの遊び場。町に戻るまでの道はわからなくはない、けど。
「う、うん。でも、あの人が……」
白い灯が脳裏をちらつく。
なんだ、そんなこと、とおねえさんはにやりと笑う。
「任せろ。これでも私はひとの安全を守るのが仕事でな」
よくわからなかったけど、力強いシイナさんの声に、ぼくは嬉しくなって頷いた。
店内に静寂が立ち込める。
寛也は黙っていた。黙ってはいたが、頭の中ではさまざまな言葉が行き交っていた。
夜明が調べてくれた情報、椎名岬に姉はいない、ということは彼に衝撃を与えた。それではあまりにも辻褄が合わないし、それではあまりにも辻褄があってしまうからだ。
二つの相反する考えに挟まれて、寛也は黙々とクッキーを口に放り込んでいった。
彼にそのクッキーを提供したこの店の主人は、アイスコーヒーを椎名に渡すとウエーターとともに奥に引っ込んでいった。空気を読んだのか、不穏さを感じ取ったのか、寛也には見当がつかなかったが、正直なところ椎名と二人っきりにされるのは都合が悪い。
「おい」
落ち着いた声が寛也を呼んだ。椎名はもう志木勇希という人物を演じるのをやめたらしい。潔いさっぱりとした態度に彼女らしさが垣間見える。
「なに」
「どうやって、あそこから出られたんだ?」
寛也は意図的に見ないようにしていた椎名に視線を移すと、好奇の目が自分に向けられていることに気が付いた。
年相応の若者らしい好奇心が、澄んだ青い瞳に浮かんでいる。
「聞いてどうするの」
「気になっただけだ」
クッキーに伸ばしていた寛也の手が、誰も座っていない横の椅子に向かう。
「ふーん。……これ使った」
寛也は隣に置いていたバッグを椎名に差し出した。椎名はバッグに入っているケーシィのぬいぐるみを見て奇妙な顔をした。手作り感がたっぷりなぬいぐるみ、これをどう使えば研究所から外に出られるのか。
答えになっていない、と椎名の顔にうっすら書いてあるのを認め、寛也は補足した。
「ただのぬいぐるみじゃない。その中には小型の機械が入っているんだ。移転装置ってやつ。起動させると、テレポートと同じことができる」
椎名は興味深げに、ぬいぐるみの黄色い腹部分を軽く押してみた。するとごつごつとした固い感触が手に当たる。裏返したぬいぐるみに付けられたチャックを開け、中を覗いた椎名は感心したように小さく息を溢した。
と、ここまでは彼女なりの前置きで。椎名は本題に手をつける。
「きみはなぜ私を調べたんだ?」
直球な質問がミットに突っ込む。急な話の転換に、寛也は気管にクッキーを入れそうになり、苦しそうに咳き込んだ。
どう繕えば彼女は納得するのだろうか。思考が忙しく動き回り、寛也は知らず知らずに焦りを募らせる。そんな彼の横で、椎名が平然とアイスコーヒーを啜った。
咳が落ち着いてきたところで寛也は答えた。
「えっ、まあ、その……、何となく?」
「そんな訳ないだろう」
ですよねー。彼女の言い分に激しく同意しつつ、寛也はなおも足掻いて考えてみる。
寛也が話しだすのを、椎名は根気強く待った。
店内に静寂が戻る。考えて考えて、頭をひねってみても、一向に妙案は出てこなかった。すでに諦めの境地に入ったのか、頭がうまい言い訳をひねり出してくれない。まいったと両手をあげたい気持ちに寛也は駆られた。
「……何だっていいじゃん」
ぽつりと零した言葉は捻くれていた。
「よくないだろ」
冷静に突っ込まれる。
ため息が意図せず零れた。
もうどうにでもなれ。自暴自棄になりながら、寛也はとぼとぼと言葉を口にした。
「椎名さんが、あの人に似ていたから気になったんだ」
「あの人?」
「そう、俺が十歳のときに会った、あの人」
椎名は眉を寄せて、寛也の話に耳を傾ける。
「……その日は祭りがあってさ、俺、姉ちゃんと逸れちゃって、知らないおじさんが一緒に探すって言ってくれて……。その時ほんと困っててさ、なんの疑いもなくおじさんについて行ったら、まあ、案の定連れ去られそうになってね。で、助けようとしてくれたのが、あの人だったわけ」
無茶しちゃってさ。非難めいたものを寛也は付け加える。
そうか、と椎名は相槌をうち、ほんの僅か口を閉じて出てきた言葉は疑問だった。
「そんなに似ているのか? 私とその人」
「もう本人かと信じちゃうほど似てるね。まあ数年前のことだから年齢的に無理があるし、俺の記憶違いだと思うけど」
そうじゃないと困る。寛也は声なき愚痴を吐いた。
でも、まさかと考えると頭が痛い。事態が考えたくもない、悪い方向に転がっているような気がして。いや、もう実際に転がっているかもしれない。
もう何度目だろう、流れていた会話がやむ。
椎名が海のように深い色をした目を細め、口を開いた。
「こんな時に言うのもなんだが、良かったら私に付き合ってくれないか」
「……付き合う? どこかに買い物でも行くの?」
「そうじゃない。アンファンを潰す手伝いをしてほしい。かわりに私は、きみが会いたがっている人を探す。どうだ? 悪い条件ではないだろう」
上から助干されるような物言いは、面白くなくて寛也は不快な表情をした。
「それは警察として、あなたの所属している組織は裏でこそこそと何かを悪いことをしているので、それを検挙するために捜査に協力しろ、ってこと?」
「いや、すまない。言い方が悪かった。これは個人的な話だ。私は、切実にきみの助けを欲している」
「それはまた何で」
テンポよく続いていた会話に、一拍すき間が空いた。
「早く、この仕事を終わらせたいだけなんだ。どうも相手さんの尻尾がなかなか掴めなくてね。まだまだ時間がかかりそうなんだ。でも、私としては、この間にも手をつけていない仕事が溜まりに溜まっているから、早く終止符をうちたい。潜入やら何やらに食われている、この時間がおしい。だから一刻も早く片付けてしまおうと思ってな」
言いたいことを言葉にできたのか、長々と語った椎名は憑き物が落ちたような、すっきりとした顔をして、どこか満足げだ。
なんだかなあ。寛也は困惑と呆れを表面に出した。
「それはまあ……、極端なことを考えたね」
彼の声には呆れが溶け込んでいる。
恥ずかしそうに椎名が口角を上げた。自覚はあるらしい。
「……そのクッキー、一つ頂いても?」
寛也の手元にある、プレーンのクッキーを横目に椎名は問う。
「ああ、いいよ。好きなだけどーぞ」
寛也は、椎名が食べやすいように皿を移動させる。
ありがとう。短く礼を言い、椎名は皿からクッキーをひとつ取り出した。
「それで、協力の件は」
「んー。あの人を探すかわりに、組織を解体する手伝いを、か。だけど、なあ……。そもそも、あの人はもういないし」
「いない?」
寛也は卓上に視線を下ろした。
「そう、死んじゃったの」
椎名は相槌をうたなかった。
空気が凍ったのを寛也は肌で感じた。エアコンの効きすぎだろうか、夏真っ盛りだと言うのにどことなく寒い、と場違いなことを考える。
自分で作った沈黙に耐え切れず寛也は言った。
「……急に黙るのやめて」
すまない。
ばつが悪そうに椎名はのそりと返し、言った。
「……一つ聞きたいのだが、私は苦しまずに死んだのか」
寛也はぎょっとして、椎名を見た。
「生きてんじゃん」
「今はな。だが、死ぬんだろう? いや、死ぬかもしれないといった所か」
「……なに言ってんの?」
問いかけの語尾が意図せずに震えた。どうにも雲行きが怪しい。
椎名は明日の天気模様を話すように、あっけらかんとした態度で言った。
「見たんだよ、ニュース」
「ニュース?」
「ああ。夜中に私はニュースを見ていたんだ。今日は猛暑だったとか、コガネの大通りで交通事故があったとか、ウバメの森付近で死体が遺棄されていたとか。本当に奇妙なことだが。トレーナーカードに付いていたものだろうか、小さなその写真を見たときに、すぐにわかったよ。あれは、私だって。直感だった。だけど、そうなるだろうと感じたんだ」
まあ、実際にそうなるかはわからないが。椎名は無機質に呟く。
寛也は唾を飲み込み、手で喉元を抑える。背けていた現実を見るのは、ひどく喉が渇く。意味のない問いかけが、するりと口から抜け出した。
「……なにが言いたいの」
「まあ、私が知っているのは、何かが起こって、もしくは何かに巻き込まれて、私は過去に飛ぶということ。それと、前の私と会っていたきみが、こそこそと地下で機械をいじっていることだけだ」
あの機械、あれは何なんだろうな。椎名はぽつりと零す。
「まさか、あれが過去へたどり着くための切符だったりしてな」
椎名の的を射た物言いに、寛也は目を伏せた。覇気のない瞳は、鈍い赤を揺らめかせる。無言は肯定を示した。
からん、とバランスを崩した氷が、コーヒーのなくなった硝子コップの中で身じろぎをした。
椎名が口を開ける。
「それで、な。きみにとっては最悪な状態だが、私にとっては好都合な状況なんだ。もう一回、もう一度だけやり直せるなら、やり直さないか? あの場には、アンファンの頭首も出向いていた。うまくいけばアンファンを解体できるし、きみや他の子供たちも閉じ込められることなく普通の生活が送れる」
それまで黙っていた寛也が、間髪入れずに答えた。
「いやだ」
じろりと赤い瞳に睨まれ、椎名は微かにたじろぐ。
「なぜ」
頭が急激に熱せられるような感覚に襲われ、寛也は堰を切ったように話し出した。
「なんでって嫌なものは嫌なんだよ。絹さんが、前に言ってた。もし全てを戻せても同じ経路を辿ったら意味がないって。あの部屋の扉をあなたは見た? あんなに劣化の激しい扉、見たことがないよ。歯車が部屋ごと戻ってきていたのだとしたら、確実に二、三回は繰り返していることになる。もしかしたら、それ以上かもしれない」
寛也の喋る勢いが弱まってくる。
「……そんなのなら、戻さないほうがいい。戻しても意味がないのなら、戻った方が逆効果なら、そんなのやらない方がましだ」
それが紛れもない寛也の本心だった。
連れ去られてから数年の間、過去に戻るための手段を探していたのは、寛也を助けようとしてくれた人がまた生きられるように思ってのことだった。だが、良かれと思ってやっていたことが、逆に悪い方へと向かうきっかけを作っているのだったとしたら、その連鎖を断ち切らなければならない。
椎名はどうも彼が乗り気でないことを悟る。
だが、それで食い下がるほど、彼女の決心は曖昧なものではなかった。
「本当にいいのか? 目に余る行動が多くなったので国際警察が徐々に行動を移しているが、さっきも言ったとおり、きみたちが解放されるのはまだまだ先になりそうだ。そんな中アンファンはより一層実験やら研究やらに力を入れ始めている。何もしなければ、得たものより失うものの方が多いだろう」
例えば、そうだな。椎名は少し考えるふりをする。
「この頃、新たな仲間が増えて収容室の雰囲気が随分と変わった、と聞くが」
さっきまで何もなかったように静かだった左腕が、焼けるようにちりちりと痛み出した。椎名が言いたいことを察し、寛也は低い声で答える。
「……説得のし方が卑怯だ」
「乗り気になったか?」
「全然」
応答に大袈裟なほど深いため息をつかれた。
ため息を吐きたいのはこっちの方だ。寛也はぶつくさと思う。
椎名は性懲りもなく続けた。
「いいか、時間さん。どうやら少し勘違いをしているようだが、きみが救いたいのは前に過去へ飛んだ私であって、今きみの隣で話している私ではないんだ。私はきみを助けようとした覚えはないし、死んだ覚えもない。気にかけてくれるのは嬉しいが、私までもが同じことになるとは限らないだろう?」
「それこそ繰り返さないとは断言できないだろ」
「なら、繰り返さないように努力をすればいいじゃないか」
「は?」
「当事者のきみがいるんだ。思い出せる限りの可能性を潰すことができる。別に私は自ら蟻地獄に嵌まりたい訳ではない。むしろその逆なんだよ」
鈍い頭痛が寛也を揺さぶる。
寛也は痛みに頭を悩ませながら、鋭い視線を隣に投げるも、椎名は臆することなく受け止めてきた。
寛也は少し考え、躊躇いを見せたあとに答えた。
「……少し考えさせて」
「わかった。成るべく早く結論を出してくれ」
拒否をされると思われたが、寛也の考えに反して椎名は軽く頷いた。
寛也が帰って行った。丁度いいタイミングで店の奥から出てきた夜明は、いつも通り店の主人として、空になったコップや皿を片付けていた。彼のお手伝いをしてくれるゴーリキーことゴーちゃんは奥で休んでいる。
「はい、どーぞ」
いつも通り掴み所のない笑みを浮かべて、追加のアイスコーヒーを差し出してくる夜明を椎名は睨んだ。心当たりが有り余るほどあるので、夜明は素直に謝る。
「ごめんね。でも、二人で話せるようにしたし、そろそろ許してよ」
ぼそりと椎名が呟く。
「敵は身内にいる、とはこの事だな」
「それ、ことわざ?」
「いや、違う」
「そう」
「まあ、確かにこの場を貸してくれたのは助かった。ありがとう、夜明。不本意だが、これでちゃらだ」
「やった」
形のよい笑顔を夜明が見せた。心なしか、ほっと胸をなで下ろしている。
洗い物を終え、夜明はカウンター内の椅子に座り、尖った石を丁寧に拭きだした。濃い青緑の色をした石は、降り注ぐあたたかい照明の光を、ごつごつとした硬い表面で受け止めて反射している。
綺麗な石を我が子のように大事に扱う夜明を、椎名は不思議そうに眺めた。
「なにそれ」
「うちで取り扱っている商品。たまに磨くんだ。磨き忘れたら、色が濁って見た目が悪くなるからね」
ふむ、なんと呼ばれている石だったか。椎名は気分転換に記憶を探る。
「ああ、月の石か」
「そうそれー。確かピッピとかプリンとかを進化させるために使う石だね」
「買い手でも見つかった?」
「うん。明日受け取りに来るって」
「ふうん」
だけどね。夜明は珍しく困ったような、曖昧な笑みを見せて言った。
「なんか、あんまり渡したくないんだよねぇ」
「は? 売り手として、あるまじき事を言ってるぞ」
「んー、なんて言えばいいのかな。変な予感がするというか、しないというか……」
「煮え切らんな」
「うーん、まあ気のせいだと思うけど」
首をひねる夜明をよそに、椎名は椅子から立ち上がり、灰色に染まった双眸の的になった。カウンターに石を置き、夜明もさりげなく立ち上がる。
「帰る?」
「ああ。今日は考えたいことがあるから、早めに戻る」
「そう。まあ、何があったのかは知らないけど、そんなに思い詰めないようにねぇ」
「……どうも」
椎名は背を向けて店の外に出て行く。
夜明はにこやかに手を振り、椎名の髪が夜に溶けるさまを見届けた。