五話 気に留めていない彼女
寛也は目を覚ました。カーテンの隙間から差し込む薄暗い光で、いまが朝だとぼんやり認識する。断続的な雨音が耳に入る。体を起こそうとして左腕に体重をかけると、刺すような痛みが走った。
そういえば噛まれたんだっけ。ぼやけた意識で昨日起きたことを認識し、のろのろ起き上がった寛也は、痛くない方の手で荒ぶっている金髪を適度に直した。
ベッドの端から立ち上がって、ハンガーにかけられた白衣を外す。左の裾を見るとご丁寧に裏と表に二つの穴が。
穴があいたままなのは変か。寛也は蛇に開けられた穴を縫っておこうと思い、机の引き出しから日常品を入れた小箱を取り出した。割と細かい作業は得意なほうなので、さくさくと縫い終える。
穴を塞いだ白衣をベッドに放置して、寛也はよろよろとした足取りで洗面所に向かった。鏡に映る寝癖をつけた自分と顔を合わせる。最低限の身だしなみを整え、目にかかってきた金色の髪を赤いピン留めでまとめると、白衣を着た寛也は自室から出た。
雨が降っているせいで廊下はしっとりとしている。寛也は朝食を食べに食堂へと向かった。
背後から誰かの走る音が寛也の耳に入ってきた。ぺたぺたと湿った足音が断続的に続く。
滑りやすい日に廊下を走るやつは誰だ、と疑問が浮かぶ。
振り返って後ろにいる人を確認するまえに、寛也は肩に強い衝撃を受けてつんのめった。打撃の波を受け、怪我をしている左腕がか細い悲鳴をあげる。黒髪が隣で跳ねるのを目に捉えつつ、寛也は口をつぐんで言葉が流れるのを止めた。それにしても痛い。
「なにすんだよ、甘利」
肩に腕をまわしてきた甘利は屈託無く笑った。眼鏡の奥にある黒い瞳が自然と細くなる。
「よう、ヒロ。おはよ」
「おはよう。つーか、重い。腕をのけろ」
「えー、やだー」
早朝だと言うのに、甘利はやけにテンションが高い。まるで誕生日の日に欲しかったプレゼントを貰ったかのよう、それか嫌なことを忘れようとふざけているような、どちらにしろ、寛也は気にとめず無意識に落ち着いた対応にまわった。
「どうしたんだよ。朝からうるさいぞ」
「そうか? 俺は通常運転だけど」
「なんかテンションが高い」
「いつもこのぐらいだろ」
急に心配するのが馬鹿らしくなって、ふいっと寛也はそっぽを向いた。
「……ああ、ならいいわ」
釣れない態度に甘利は慌てた。
「な、なんでそこで諦めるんだよ」
「もう気にしなくていいかなって」
「ひどい!」
そこで甘利は寛也の肩から腕を離して拘束を解いた。そうかなあ、と呟いて首を傾げている。
先を行く甘利の背中を、寛也は立ち止まって見た。絹みたいに丸まっていない背中は、自分より年上だというのに、なぜだか小さく見えた。段々と離れていく甘利に、寛也は奇怪なものを見るような目を向けて告げた。
「そっちに食堂はないよ。こっち」
甘利の歩みが止まった。
「やべっ、間違えた。てへ」
甘利が照れ笑いを浮かべて、寛也のほうに戻ってきた。
「朝早くからぼけてんじゃないよ」
「今日はヒロ、いつもより冷たいなあ」
「俺は昨日から機嫌が悪いんだよ。蛇に噛まれたりして散々だったし」
甘利は聞きなれない蛇という単語に目を丸くした。
「それは珍しい体験をしたな。大丈夫か?」
「さっきアタックされて、じんじんしてる」
「うわ、ごめん」
罰の悪そうな顔をして甘利は謝った。
「別に、そんなに痛くないからいいよ」
割と痛いけど。寛也はひそかに愚痴る。
話をしているうちに二人は食堂に着いた。メニューの前で、充電が切れた機械のように一時停止した甘利を置いて、さきに寛也は食べたいものを買いに行った。トレーを持って甘利の様子を見に行くと、まだメニューの前で深刻そうに悩んでいる。見慣れた光景だ。
「席をとっとくよ」
「んー。わかった」
一声をかけると甘利はろくに寛也のほうを見ないで返事をした。ちゃんと聞いていたのか定かではなかったが、ほっとく事にする。寛也はなるべく隅っこの席を探し、そこに座った。
今日の朝ご飯はフレンチトースト。卵が染みた食パンは茶色の焦げ目が適度にあり、香ばしい香りが食欲をくすぐった。フォークを手にとり、寛也は小さく切ったフレンチトーストを食べる。
寛也が皿の上のトーストを半分くらい食べたところで、甘利はのこのことやってきた。
どれだけ朝食を選ぶのに時間をかけてるんだよ。待ちくたびれた寛也は甘利に呆れ顔を向ける。
何やら意味深な笑みを浮かべている甘利の隣に、見覚えのある少女が見えて、寛也は目を疑った。黒髪に黒い瞳、この地方では珍しくない色だ。
それが志木勇希だと認識するのに、数秒時間を無駄にする。
殴りたいほどのいい笑顔で甘利が言った。
「ちょうど会ってな。よかったら一緒に朝食を、ってなったんだけど、ヒロいい?」
「突然すみません」
勇希は本当にすまなさそうに謝ってきた。内に光を秘めた切れ長の瞳が寛也を捉える。
違う。寛也は自分が下した思考に疑いを抱いた。なぜだか勇希という存在に違和感を拭いきれなかった。
「はあ……、どうぞ」
さりげなく勇希から目を逸らす。我ながらそっけない答え方だな、と寛也は思った。とりあえず甘利は一回痛い目を見た方がいい。ていうか、遭ってほしい。
二人が席に座るのを見て、寛也は何事もなかったように食事を続けた。おいしそうに見えていたトーストが急にふやけた固形物のように感じる。おかげさまで味がわからない。
甘利は寛也を紹介をした。
「えっと、こいつが前に話した時間寛也。ちょっと無愛想だけど、いい奴なんだ」
変な紹介をされたが、寛也は黙って受け入れる。
「え、そうなんですか。私は志木勇希って言います」
どう反応すればよいのかわからない、といった苦笑いを浮かべた顔で勇希が名乗った。寛也は胃の中に味のないトーストを詰め込んで口を開いた。
「……どーも、時間です」
勇希と消えたあの人が重なって見え、本能的にやばいと感じる。もはや作業に成り果てているトースト詰めを寛也は開始した。
「暗いぞ、ヒロ」
甘利にたしなめられるが、そんな場合じゃない。
「うるさい」
甘利は笑みを引きつらせた。困惑したように口を開閉するが、そこから言葉を出すことはなかった。勇希が恐る恐るといった様子で喋る。
「やはりお邪魔だったでしょうか」
「……ううん、ごめんな。ヒロは、ちょっと昨日から機嫌が悪いんだ」
気をとりなおした甘利はすぐさまフォローを入れる。
寛也が食事をする音だけが場を飲み込んだ。
いつもとは違う行動をする友達に、困った甘利は隣に座っている勇希へ視線を向けた。勇希も甘利と同じような笑みを浮かべているのだろう、そう察するが寛也はとにかく朝食を食べ進める。それはもう飲料水を飲むみたいに、手を休めることをせず一気飲みしていく。
礼儀なんかそっちのけだった。速くこの場を去りたい、その思いだけが寛也を動かしていた。
食べ終えた寛也はろくに合掌をせず、二人に一言だけ断りを入れたあと、逃げるようにその場を去った。置いてけぼりにされた二人は、お互いに顔を合わせ、消えた後ろ姿の痕跡を追った。
甘利はぽつりと謝った。
「なんか、すみません」
勇希は細い後ろ姿を追うのをやめて、自分の朝食に目を向け手をつけ出した。その顔には少し寂しさが滲んでいた。
「いえ、大丈夫です。気にしていません。見た目のわりには、しっかりした人のように見えましたし、本当に気分が悪かったのでしょう。私の間がいけなかったんです……」
勇希がした返答に、甘利は小首を傾けて唸った。
「んー」
「どうかしました?」
「いや、確かに機嫌が悪いというより、気分が悪そうだったなって思って」
「ふむ」
「でも、まあ。ああ見えて、良い奴なんですよ、あいつ。ちょっと意地っ張りで、照れ屋で、馬鹿みたいに深く事を考える奴なんだけど」
「ほう。……っていうか、それ、フォローになってない気が」
「いやいや、ちゃんとなってるなってる。それに事実だし。こればっかりはしょうがない」
「はあ。そういうものですか」
「そうそう」
だからさ。甘利は、もくもくと箸の手を進める勇希に、へらりと笑いかける。
「よかったら、仲良くしてくれると嬉しい」
まるで弟を気にかける兄のような困った笑みを浮かべ、甘利はそう勇希に言った。勇希は口の中にあるご飯を喉に流すと、口を開いた。
「了解です。それに怒ってませんって」
笑みとともにどこかずれた回答をされ、甘利は違う意味で苦笑した。
雨は気分を重たくさせてくる。それとも重たい気分が雨を呼び出してしまうのか。廊下を進む寛也の足取りは沈んでいた。沼地を歩くみたいに鈍い。
地下へと続く階段を下りていく。それは暗い場所へと一歩ずつ落ちているような気がして、寛也の気分をひどく憂鬱にさせた。
地下は地上より湿っていた。廊下に広がった薄い水が歩いた跡を残す。ぺちゃぺちゃと音をたてながら、寛也は歯車のある部屋まで行った。扉を開けようとすると、手にぺったりと錆びがついた。無造作にそれを払い中に入る。
歯車が部屋の主であるかのように悠然と、入ってきた寛也を迎えた。
寛也は隅に置いていた作業道具を取って、歯車の側面を見た。まだ途中ではあるが、もう少しで長方形の穴が開きそうだった。いままで努力した印である黒い線が、中途半端に長方形を描いている。始点である線と終点である線を繋げば、軽く側面を押すだけで矩形の姿をした入り口が出現する。
道具箱から鉄板を切る道具を取り出し、ゴーグルをつけた寛也は作業に取りかかった。
現実から逃げるには、なにかに意識を集中すればいい。片隅に浮かんだ罪悪感を押しのけ、寛也は見ないように思い出さないように作業へと没頭する。
隅っこに追いやられた疑問が宙を浮く。
数時間後。今日の作業を終えた寛也は自室へ帰る途中に、たまたま甘利と顔を合わせてしまった。甘利は朝起きた出来事について気にしている程を見せず、気軽に寛也を呼び止めた。
「よう」
寛也は後ろめたさで顔を逸らした。
「……よう」
「そんな、あからさまに嫌そうにするなって。調査、疲れただろ。よかったらお茶の一杯ぐらいおごるぜ」
「……いいの?」
「全然平気。この辺りに販売機はあるんだっけ?」
「あるよ。そこの角を曲がった先に」
「よし、じゃあ行こう」
静かな廊下は閑散としている。黙っていた寛也は口を開いた。
「その……今日は急に戻ってごめん」
「ああ、いや気にしてないよ。こっちこそ、ごめんな。まさか、ああなるとは予測できなかったわ。そのせいで気分を害したのだったとしたら、俺が悪い」
「……ごめん」
自分たち以外廊下に見られないせいか、甘利は声を低めることをしないで言った。
「いいって。彼女もさほどお前に不愉快な思いを抱いてはなさそうだった。だけど今度会うときは注意するんだぞ。目に見えて行動が不自然だ。それに対して気にとめていなかったようだけど、目を付けられたら後々面倒だし。人が良くても、結局は雇われた警備員だからな」
甘利から吐きだされた淡々とした言葉に、寛也は何となしにその横顔を目にした。彼は何も浮かべていなかった顔を崩して、先ほどの表情が幻のものだったように笑んだ。
「まあ、とにかく俺が言いたいことは、気をつけろってこと」
「……わかった。注意する」
甘利の忠告に寛也は頷いた。