三話 早めに片付く依頼
寛也は先が見えない廊下に立ち、落ち着きを払って辺りを見回した。
外が暗いため真っ黒になった窓が寛也を目で追う。等間隔で設置された電灯に照らされ、寛也は慎重に歩を進めた。時差歩みを止めて、自分以外の誰かが発する足音を聞き逃さないように耳を澄ます。蝉たちが騒がしくお喋りをしているのが耳に入る。
警備をしている人に見つかるわけにはいかない。速めの拍動に胸を打たれながら、寛也は大丈夫そうだと判断して歩き始めた。
それを何回か繰り返し廊下を進んでいると、無事に用事のある実験体収容室に着いた。
鍵が開いていることを知っていた寛也は、自分を見ている人がいないか確認してからドアノブを回した。素早く明かりの点いていない室内に侵入する。ひとまずの安堵が口から出た。この部屋特有の上から押しつぶしてくる圧は、暗闇に溶け込み跡形もない。
ポケットに常時しているペンライトを使って、デスクに置かれているぬいぐるみの中から、丸い耳をもつ、狐がふっくらしたような顔をしたぬいぐるみを探す。
目当てのぬいぐるみシリーズを見つけたが、ケーシィ君三号がいないことに気付いた寛也は、困ったように瞬きをした。誰かが外に出かけているのか。珍しくもない出来事に納得して、少し古ぼけたケーシィ君二号のジッパーを開けた。
仕込まれたスイッチを押す。
視界が圧力を受けたようにぐにゃりと歪んだ。見ていた色が重なり合い、自分の目がおかしくなってしまったのではないか、という錯覚が寛也の頭をよぎる。
そんなわけもなく足は地に着いた感触を平然と伝えた。
アスファルトに反射した熱気を味わい、寛也はだるそうに畳んでおいたバッグをポケットから取り出して、強引にむぎゅっとケーシィ君二号を詰め込む。
男が可愛らしいぬいぐるみを持ち歩くということに、甘利は大して気にも留めていなかったようだが、人の視線が集まるのは遠慮したいと寛也は思った。
布製のバッグを肩にかけて、夜明のカフェへと寛也は足を進める。暑い。寛也は額についた汗を拭う。研究所内ではクーラーが効いていたので、温度のことを気にしなくてよかったのだが、いざ外の世界に出ると、暑い。
前に来たときとは違って会話もなく歩く道は、光がまばたきをするので目に刺激が強かった。アスファルトと目を合わせ、暗がりが近づいてくるのを寛也は感じる。
寛也は立ち止まり顔を上げると、クローズの文字が前にぶら下がっていた。扉に鍵がかかっているかを確かめてみる。思ったとおり店は開いていた。
寛也は扉を開けた。暑い空気に背中を押されて、冷気がただよう店に入る。
「いらっしゃっ、い」
「どーも」
なぜか吃った夜明に、何気なく寛也は視線を送り返答した。
カウンター席にいる、ベルトを腰に巻いた人間に似た生き物が、にこにこと笑って寛也を見ている。夜明にゴーちゃんと呼ばれている、筋骨隆々なゴーリキーだ。
夜明はなにごともなかったように笑んだ。驚いているのをまるごと隠そうとしているかのような微笑み。寛也は珍しい出来事に思わず理由を訊ねた。
「どうかしたんですか」
「いや、大丈夫。まあ、座りなよ」
さらりと夜明は質問をかわす。
席から立ったゴーちゃんが、寛也のために椅子を後ろに下げた。寛也はお礼を言って、下げられた席に座る。主人のにやにやした笑みとは違って、ゴーちゃんはおおらかな微笑みを浮かべ、座っていた席に戻ることなく、立って注文を待った。
カフェを手伝う職業柄なのか、はたまた主人に似たのだろうか、この店のポケモンは笑っていることが多い。
ゴーちゃんの主人である夜明は、鬱陶しそうに片目を隠してくる前髪を耳にかけ訊ねた。
「ご注文は?」
「情報」
寛也は簡潔に答えた。
「へえ、珍しい」
夜明がぱちぱちと瞬きをして寛也を見た。
「まあ飲み物なしで話を聞くのもなんだし、紅茶でも沸かそうか。熱いのでもいい?」
「問題ないです」
「よし、じゃあゴーちゃん、お願いするね」
夜明に呼ばれたゴーちゃんがカウンター内に入る。こぽこぽと水が沸騰する音を聞きながら、寛也は夜明に話を切り出した。
「突然でなんですが、ある人の情報が欲しいんです」
「ふうん、誰の?」
寛也は自分の立場が悟られないように、頭を巡らせて言葉を選ぶ。
「……夜明さん、アンファンという組織があるのを知っていますか」
「うん。小耳に挟んだことがあるよ。ここ数年、急成長しているらしいよねぇ」
「……そうみたいですね。そのアンファンの研究所に、最近人が導入されたみたいで、その中にいる志木勇希という女性を調べて欲しいんです」
志木勇希という名を聞いて夜明の動きが一度止まった。
「え、志木勇希?」
「ん?」
てっきり夜明が、いいよ〜とあっさり了承すると思っていた寛也は、驚きが返ってくるとは思わず、これまた一文字で聞き返した。
夜明はなんでもないと苦笑して返す。
「いやね、同じような依頼をさっき受けたもんだから驚いちゃって」
自分以外にも志木勇希を調べている人がいるのか?
嫌な予感がした寛也は強い口調で夜明に問いただした。
「同じような依頼? どういったものですか?」
夜明は自分に向けられた、炎が入れられた瞳をまじまじと見返した。
二つのカップを持ったゴーちゃんが、二人の間に入るみたいに寛也と夜明の前にカップを置いた。夜明がありがとう、と返し、寛也は小さく会釈をした。
仕事がなくなったゴーちゃんは、カウンター内の椅子に座って、二人の会話に耳をかたむける。仕切りなおした夜明が答えた。
「ごめんね、時間くん。そういう事は口がさけても言えないんだ」
まあ、そうだろうな。寛也は思った。
「……いえ、こちらこそ無茶を言ってすみません」
「うん、悪いね。それで、僕はその子のなにを調べればいいの?」
「そうですね、家族構成と関係、ってとこでしょうか」
「それはまた、不思議なことを知りたがるねぇ」
「いろいろと事情があるんですよ」
「ふうん、まあいいや。ちょっと待っててね。メモるから」
夜明がごそごそとカウンター内を動きまわっている間、寛也はゴーちゃんの手によって注がれた紅茶をいただくことにした。カップの下にあるソーサーに、さりげなく添えられた一口クッキーと紅茶がよく合っていて、ほんわかとした感情が浮き上がってくる。
寛也は紅茶を注いでくれた喫茶店のウエーターに視線を向けた。力仕事も繊細な仕事もこなせるゴーちゃん。恐るべしゴーちゃん。寛也の視線に気づいたのか、ゴーちゃんはにっこりと笑みを返した。
メモ用紙を見つけて、丁寧な字で寛也に頼まれたことを記した夜明は、ペンを卓上に置いた。
「書けた。ちなみに時間くんは何日くらい待てそうなの」
「明日まで」
「無理。無茶振り。僕はどれだけの速さで情報を収集しなければいけないの」
「明後日」
「なんで、そうなるの。どんだけ速く知りたいの」
「これだけですけど」
「よし、わかった!」
夜明がぱちんと手を叩いて言う。
「……なにがです?」
寛也は胡散臭げに、良いことを思いついてにこにこしている夜明を見上げた。
「もう僕が決めてあげる」
「えー」
寛也は不平を述べる。その様子を無視して夜明が言った。
「明々後日! これでどう?」
「えー……、っと」
不平を漏らしそうになった寛也は慌てて訂正をする。
「じゃないや。意外と早いですね。もっと時間をかけてくるかと思った」
「まあ、ちょうど暇だったし。割と速く片付けられる依頼だからね」
「そうですか……。夜明さん、ありがとうございます。お願いしますね」
「うん。そういえば料金のことなんだけど」
人知れず覚悟を決めた寛也はこわごわとしながら夜明に訊く。
「あの、八万以内に収まりそうですか? いま、手持ちがそれぐらいしかなくて……」
食事などをするために毎月アンファンで配られるお金。もしもの場合に備えて蓄えていた寛也はポケットに突っ込んでいた、色あせた小さな青い財布を取り出した。
「料金はいいよ」
夜明は器用に片方の目を瞑って、ウインクをした。
「へ?」
「最近大量のお土産をいただいたから、大丈夫。足りなかったら甘利が来たときにでも、根こそぎ持っていくからいいよ」
夜明の顔をぼんやりと見ていた寛也は、視線を外し荒い手付きで頭を掻いた。
「俺としてはありがたいですけど、それでいいのかどうか」
「いいんだよ。あいつには貸しがあるし、そろそろ払って貰わなきゃいけないからねぇ。どうせ、二倍三倍の額になってたって気付かないでしょ」
「そうですかねえ」
「大丈夫、大丈夫。ちょこっと調べるくらいだったら、あいつの手を煩わせることはないから。たぶんだけど」
寛也は頭を巡らせて考えをまとめたあと、夜明のお言葉に甘えることにした。
「それじゃあ、よろしくお願いします」
夜明はにへらと笑って、りょーかいと答えた。