二話 いちよう先輩のお話
長い間待ち望んでいた朝が来た。
寛也は眠そうな顔をして歯車の部屋に行き、開口部をあける作業を続けた。昨日は目が起きていて、寝ようにも眠れなかった。
最近こんなことばかりで気が滅入りそうだ。寛也はゴーグル越しに歯車を見上げて思う。作業の手を止めたので、金属と金属がぶつかり合ってできた火花が散るのをやめた。
速く時間が過ぎてくればいいのに。散りはじめた短い閃光が辺りを飛び交う。
朝早く起きた寛也は研究所の情報屋と言っても過言ではない甘利に、食堂で見た少女のことについて聞こうとしたのだが、運悪く会えなかったので昼食のタイミングを狙って話を得ようと思っていた。
のろのろと近づく昼に苛つきつつ、赤い目を静かに細めて寛也は火花を散らし続ける。
待ちに待った昼が来た。甘利が責任者に任されている研究番号二。それが行われている研究室に、寛也は微妙に強張った面持ちで向かった。
いつもより速く足の歩を進めていると、前方に見える研究室の入り口から、偶然にも甘利が出てくる。向かってくる寛也が視界に入ったのか、甘利が口元を緩めて、よう、と声をかけてきた。
電流が走ったようにぴりぴりしている雰囲気の寛也に、眼鏡越しでほのかに目視した甘利は不思議そうに訊ねた。
「どうした?」
「とくに。一緒に昼食を食べようかなあ、と思って」
「……え」
世にも奇妙なものと遭遇したみたいに甘利は寛也から一歩下がった。甘利の意外な反応に、寛也はきょとんとした顔になる。
「なに?」
「え、ヒロどうした? 熱でもあるのか? 大丈夫か?」
「へ? いや、大丈夫だけど」
「じゃあなんだ、あれか。寝不足か?」
「まあ、眠いっちゃあ眠いね。ていうか、なに。そっちこそどうしたんだよ」
「いや、ヒロが俺を昼食に誘うなんて珍しいなって。ついにデレ期がきたのかと」
目が据わった寛也は甘利を最後まで喋らせずに言葉をかぶせる。
「お前は、俺をなんだと思ってるんだ」
「一匹狼」
甘利は悪気もなくへらりと回答する。寛也は言い返そうと口を開閉させたが、最後は疲れたように噤んだ。
「……そんなに孤立してないし」
ぽつりと不服そうに寛也はぼやいて、甘利にさっさと背を向けると、食堂に続く道筋を辿りにかかる。拗ねた友人の後ろ姿を甘利はのんびりと歩を進めて追った。
二人は食堂に到着する。早めに来たおかげなのか、食堂にはちらほらと疎らに人がおり、まだざわざわと波を打ってはいなかった。寛也はふと足をとめて、食堂内がよく見えるように目を細め、昨日見た少女を探した。
まだ来ていないようだ。
先に歩いていった甘利が突っ立っている寛也を呼ぶ。寛也はそちらに視線を動かし、販売機の元に行くとおにぎりの詰め合わせを選んだ。ふと首を横に回すと、真面目な顔をして甘利がメニューの前で悩んでいるのが見えた。
販売機から吐き出された券と引き換えに、お茶とおにぎりを受け取り、寛也は振り返って甘利に言った。
「席、取っとく」
「よろしく」
眉をよせて考えている甘利は、寛也のほうを見ないで答えた。
寛也は昼食が入ったトレーを持って、ふむ、と思い気合いを入れて歩き出す。人の出入りがわかりやすい、食堂内が見渡しやすそうな場所を見つけて腰を下ろした。
さあ、どこからでも来い。寛也はじろりと林檎のように瑞々しい色をした瞳を走らせて、辺りに気を配りつつもおにぎりに手をつけた。
もぐもぐとおにぎりを食していると、甘利が寛也の座っている席にやって来て、もう一つある椅子を後ろに引くと座った。
その手に持っていたのは、ラーメン。クリーム色をした濃い味のスープに、ゆったりと浸かっているチャーシューやもやし、ぱっと目を引く鮮やかな緑色をした葱、とんこつラーメンだった。濃厚な匂いが漂い、寛也が我慢している食欲を惑わしてくる。
それでも寛也はおにぎりを頬張った。
「ヒロはまたおにぎりか」
また、を強調して無邪気な顔をした甘利が言った。寛也は甘利をじろっと目にした。
「いいだろ、おにぎり。毎日、中の具材が違うし」
「よくも飽きずに続けてるよな」
甘利は音をたてて麺をすする。
「そういや、いつも違うよな甘利は。前に食べたメニューと違うやつを食べているんだっけ? 覚えてんの」
「もうこれ何周目だと思ってんだ。さすがに覚えるわ」
「俺は毎回違うけど」
「中身だけだろ」
「前なんか天むすが入ってた」
「あ、天むすはいいな。俺、結構好きだったんだよそれ」
「うまいよな」
たわいもない話から現実に引き戻されるように、はっとした寛也は食堂内に意識を戻した。
飾り気のないシンプルな半袖シャツを着た少女が、席に着くのを寛也はちらりと見て確認した。彼女だ、間違いない。確信めいたものが寛也の中を渦巻く。甘利は会話を止めた寛也の一瞬で切れた視線を辿った。
意味がわからないと言いたげな、くるくると丸まった黒い瞳が寛也の顔を見る。
「あの人がどうかしたか?」
寛也は努めて素知らぬ顔を作った。
「いや、見たことない人だなって思って」
「ああ」
ゆるく納得した甘利が麺をずるずると吸い込む。ずるずるずる。思案しているように麺をしっかり噛んで、やっと飲み込んだ甘利が口を開いた。
「なんか、最近来たんだってよ」
「へえ、なんで」
「俺らの監視じゃね?」
「そうなの?」
「いや、よく知らない」
「ふうん。ならあの子だけが来たのだったら大変そうだな」
「違うらしいぜ」
途端に甘利が目を細めて黒縁の眼鏡を押し上げ、何気ないかんじで呟きをこぼれ落とす。
「……あいつの店に行くとき、これからは今以上に気をつけないとやばいかもしれない」
その言葉に寛也は数回瞬き、息でも吐き出すかのように小さな声で言った。
「そっか」
夜に自由に動けないのは少し厄介だな。寛也は思うが口には出さない。
ラーメンを食べる手を止め甘利が真剣な表情を崩して、聞きたくて仕方がないと言いたげに、にやりと笑った。
「お前、あの人が気になんの? 一目惚れ?」
「……え、はあ?」
予想外に飛んでいった会話に寛也は反応が遅れた。その慌てたようにも見えなくはない様子に、完全に楽しんでいる甘利がにやにやと笑んで言う。
「なんだよ、図星か? まあ、確かに可愛いよな。昨日ちょこっと世間話をしたんだけど、礼儀正しくて感じの良い人だったぜ。お前にぴったりなんじゃね?」
寛也は調子を取り戻そうと軽く息を吐き出した。
「……あのさあ、お前が思ってんのと全然違うから」
寛也の赤色をした目が明らかにからかってきている甘利を見る。
「いいか、勘違いするなよ。そんなんじゃないから。ただ気になって聞いてみただけだから」
「はいはい」
まだ表情を崩して笑う甘利。いまにもお節介をやいてきそうだった。
「ヒロが珍しく俺を昼食に誘ったから、なにかあると思ってたんだよ。そういうことだったんだな。いやー、若いっていいな。青春だな」
「違うから! ねえ人の話、聞いてる? ていうか、俺より一個上だろ。なに懐かしがってんの」
楽しそうにからからと笑う甘利に、じっとりとした目を向ける寛也。
「いやあ、そうだな。はあー、お腹がよじれそう」
「…………」
寛也はだんまりを決めこむ。
「そんなに、怒んなよヒロ。そういや、お前もう十八になるんだよなあ。早いもんだ。そりゃあ恋の一つや二つ、するお年頃だよな」
「怒ってない。それにしてない。お前がしろ」
「むしろお前がしろ。ていうかさあ、俺はいちよう年上なんだけど。ヒロも絹の丁寧語を見習えよ」
甘利のちょっとした要望に寛也は棒読みで答える。
「承知しました。甘利さん」
「違和感しかねえな」
「やらせといてそれかよ」
寛也は眉を顰めておにぎりを口にする。冷んやりとした空気のせいで冷たい。箸でぱちぱちと音をたてて、少女の名を思い出そうとしていた甘利は閃いた顔をした。
「そういや、あの人、志木勇希って言ってたぜ。頑張れよ、ヒロ」
「……うるさい」
そう煩わしく言い返すものの寛也は名前を頭に叩き込む。志木勇希か、よし。
あとは夜明さんにでも訊いてみるか。名前さえわかれば、何かの手がかりになる。だけど。
これから水を得た魚のように、甘利が賑やかになりそうでちょっと嫌だ。
「もうそれでいいから、あんまり言いふらすなよ」
きっぱりと断る気力が失せた寛也は弱々しく念を押す。
「わかってるって」
怪しげに笑い、ほっといていたラーメンを甘利は食べる。ずるずるずる。麺をすする音。にこやかに笑っていた甘利が、天国から地獄に落とされたような顔になった。
「どうした?」
いちよう寛也は訊ねる。
「……麺が」
「麺が?」
「麺が伸びてる」
「人をからかった罰だな」
「ああもう最悪だ……」