八話 黒髪が遊びにやってくる
蝉の鳴き声が、かすかに聞こえる。誰もいなくなった静かな店内で、夜明は冊子に目を落としていた。カウンター内の椅子に足を組んで座り、なにか起こるかもしれないという期待をせず、つまらなそうに活字を追っている。
暇だなあ、と夜明は思った。
四人でたわいもない話をしていたときに満ちていた穏やかな空気は刻々と冷めつつあった。冊子を読もうとするのを邪魔してくる長い前髪を耳にかけて、夜明は掛け時計に視線を移した。黒と白を混ぜた色の双眸は、秒針が指し示す数字を追う。
深夜。朝が顔を出すまで開いている店の主人は、ほんとうなら時間を気にしなくていいはずなのに、ちらちらと時刻を確認していた。
今日はいつもと事情が違うのだ。
待ち時間、暇。夜明は心の中で呟く。
待つのが退屈で退屈でしかたがないと言いたげに口を尖らせて、はやく時間が過ぎるのを願っていた夜明は、淹れた紅茶がカウンターに置き忘れられているのを見つけて口をつけた。すっとした味が喉を通り、目が冴えてくる。
そこで鈴を転がしたようなベルの音が鳴った。夜明は店に来たお客に気軽に声をかけた。
「やあ」
「こんばんは」
女性にしては低い声で挨拶を返すお客。流れるようなしぐさで立ち上がった夜明の口元には、つまらなそうな雰囲気が消え去り、なにを考えているのか判断しにくい微笑が浮かんでいた。
にこにこと笑いながら夜明は言った。
「時間ぴったりだよ。でも、今度からこの時間帯を指定するのは勘弁してほしいねぇ」
「なぜ」
お客は短く問う。それに夜明も短く答えた。
「暇だし、眠いから」
「どうせ、朝までやっているんだろ」
「まあ、そうだけどね」
「じゃあいいだろ」
「なんだか時間を無駄にしているようで、い、や、な、の」
相手にわかってもらおうと、嫌なの、をやけに強調する夜明。なにを言ってるんだこいつ、と視線を送る相手。
「無理だ。なら待っている間、好きなことをすればいいだろ」
強調しすぎてむしろ逆効果だった。お客のぶっきらぼうな物言いに微笑を崩すこともせず夜明は訊ねる。
「ええー、いいじゃん別に。どうして駄目なのよ」
「これより前だと、他の客とかぶるからだ。それと、仕事が長引いていて来れない」
「ああ、確かにね。さっきまで人がいたことは認めるよ」
認めると言いつつ、夜明は呆れたような顔をして続きを言った。
「だけどねぇ。君は仕事に力を入れすぎだと思うんだけど。少しは休んだら? そんなんじゃあ、体がいくつ有っても足りないよ」
「足りているから、ここにいるんだが」
「僕にはそう見えないけど。早めに仕事を切り上げて、ここへ来たらどう? 早い時間は人があまり来ないし」
自分の体調を気にかけてくれた言葉に、相手は感動することもなく、それこそ呆れたように言った。
「待つのが面倒臭くて、私を説得しようとしているだろ」
夜明は嘘がばれた子どものようにぺろりと真実をこぼす。
「……バレた?」
「なんとなく。感だ」
まいった、お手上げだ、と夜明は悪びれもせずに言葉を紡ぐ。
「まあ、残業をやめたほうがいい、と本当に僕は思うけどねぇ」
「そうだな。気をつける。それで、頼んだものは?」
「ちゃんとあるよ〜。これでしょ?」
夜明は例のものが入った封筒をお客に渡した。お客は中身を自分の目で確かめたあと、夜明に厚いお礼を渡した。
「まいどありー」
あたたかい焼き芋を受け取ったみたいに、ほくほくと笑む夜明。客は貰った封筒を大事そうに鞄にしまい、帰る準備をした。
「助かった。また、よろしく頼む」
お客の手で開けられたドアから、深い夜が店内に侵入してきた。
「はいはい。気をつけてねぇ」
背景の黒に溶け込んでいった客の背中に、夜明は言葉を投げる。開いていたドアが閉まり、熱せられた空気が内の冷気と混ざり合う。まだ朝は訪れない。
寛也は買った昼食を、食堂で食べながら考えていた。歯車について思考を巡らせていた。
歯車の奥にあるコードを修復するため、もう一つ開口部を作ろうとしているのだが、やはり時間がかかりそうだった。これでは八月までに修理が完了するだろうか、すこしばかり寛也は不安になる。
八月一日に催された時森祭に時を戻す。念のため、八月一日に起動させたいと思っている寛也は、思うように進まない作業に苛つきを覚えていた。
まだ時間はあるのに焦るのはよくない。
そんなことはわかっているのに、どうにも寛也の気分は静まらなかった。
寛也はそこで食べる手をとめた。買ったはずのおにぎりがすべてなくなっている。
もう胃の中か。考えごとをして食べていたために、たらこだったのか鮭だったのか、なんの味を食べていたのかわからなくなる。なぞの満腹感に寛也は違和感を感じた。
冷や水を飲み、立つこともなく席に居座る。ちょうど昼食を食す時間なだけに、たくさんの研究員や団員が行き交っていた。
寛也が座っている席から、見知った覚えのある焦げ茶色の頭が見えた。寛也はトレーを持った絹が席を探しているのに気付き、恥ずかしさを忘れてひょっこりと手を振った。
動きをとめた焦げ茶色の頭が寛也のいる席へと向かってくる。ようやくお互いの顔がはっきりと見える距離にやってきた絹は、空いている席を探しまわって疲れたような顔をしていた。
「時間さん……」
こころなしか声までやつれているように聞こえる。
「こんにちは、絹さん。大丈夫?」
「はい、ちょっと人に酔っただけです……」
「そっか。まあ、どうぞ。席空いているんで」
「あ、どうもありがとうございます」
やっと席を見つけられてほっとした顔をした絹が席に着く。絹が持っていたトレーにはうどんが入っていた。寛也はおにぎりを食べてしまったため、トレーには皿と冷や水しか入っていない。
「頂きます」
律儀に手を合わせて唱えた絹が、うどんを吸い上げてもぐもぐと食べる。白い太めの麺が絹の口へと簡単に吸い込まれていく。
寛也はうどんをおいしそうに食べている絹に、愚問だと知りつつも訊ねた。
「おいしいですか」
「はい。ちょっと伸びちゃっていますが。寛也さんはなにを頼んだんですか?」
「俺はおにぎりを頼みました。でも違うことを考えて食べてたら、ほんとうに食べたのか一瞬わからなくなっちゃって……。やっぱ食べるときは、食べることに集中したほうがいいですね」
麺を噛んでいた絹は若干話しづらそうに答えた。
「私もそれよくあります。満腹なのに気持ちは、あれ、食べたっけ? となりますよね」
「ていうか、いま、その状態で」
「あらら……」
絹は速いペースでうどんを食べ進めていく。寛也は何の気なしに、食堂を見渡した。白やら青やら何やら、色が行き交うなかに黒がぽつんと溶け込めずにいた。
寛也から遠くもないが近くもない距離。黒色の服は目立つなあ、と白衣の群衆と比較して寛也は思った。実際には白衣を着ていない人も多かったのだけれども、寛也の火炎に似た赤い瞳は夜みたいに薄暗い服を着用した人に向いていた。
その人は寛也に背を向けて座っていた。肩まで切られた黒髪の長さからして女性だろうか。髪の先端は外にはねていた。まるで切ったばかりと言いたげに。
なぜか寛也は目を惹かれて、残りわずかなうどんを食べている絹に訊ねた。
「あんな人いた?」
「……はい?」
絹は寛也が知っているか訊ねてきた人を見ようと、後ろに首をまわした。寛也は補足する。
「ほら、あの黒の目立つやつ」
寛也がした説明を受け、絹は黒色を探した。何人か黒い服を身につけている人がいたので、絹はすこし混乱したが、また寛也が言った補足によりなんとか見つける。
「ああ、あのお方ですか」
寛也が言っていた女性に目を留め、絹はつかの間黙り込んで、なにかを考えると首を振って答えた。
「いえ、知りませんね」
「そっか……。あ、立った」
寛也の目に彼女の顔が映る。
冷たい電流が寛也の体を駆け巡った。それは恋が芽生えるような甘いものではなく、不可解な現象が起きた限りない恐怖だった。
あの人だ。なぜ今まで気づかなかったのだろうか。寛也は自分に尋ねたくなる。きっと生きている間に忘れることのできないその顔は、自分を助けようとして地面に横たわった少女そっくりだった。
もうこの目で見ることは叶わないだろうと思っていた彼女が、消えた灯火を燃やして存在している。
現実に黒髪の少女が遊びにやってきた。
寛也は体をかすかに震わせて、意味のわからない現実に目を向けた。