七話 ひととき休憩
午後八時。歯車の鉄板と戦ってきた寛也が実験体収容室に入ると、甘利、絹が先に着いていた。寛也を確認した甘利が、糸目をもつ狐色のポケモンのぬいぐるみを、手に言った。
「よし、全員揃ったな」
甘利はひょっこりとぬいぐるみの手を振って、寛也を呼び寄せる。子どもっぽいしぐさに、逆に離れていってやろうかと思いつつ、それだと後が面倒くさくなるので、素直に呼ばれる。
ケーシィの背中のジッパーを開けた甘利が二人に訊いた。
「行くぞ?」
「はい」
「どーぞ」
甘利がぬいぐるみに隠されたスイッチを押した。寛也は目を閉じた。深い穴に落とされたような浮遊感を味わう。実際に落下しているわけではないが、何回やってもこの感覚には慣れなかった。地に足が着く。寛也は目を開けた。
コガネシティの暗い路地に、三人は立っていた。焼かれるような暑さを、肌に感じる。青ざめた顔で絹が言った。
「……気持ち悪い」
「ああ、わかるわ」
ケーシィのジッパーを閉めながら、甘利が言った。路地から出ると、ビルの群れが三人を見下ろした。ちかちかと辺りに光が舞う。
「それ、何とかならないのですか」
甘利と手をつないでいるケーシィのぬいぐるみを絹は指した。
「ああ、浮遊感のこと?」
「はい」
通行人に混ざって歩く。可愛らしいぬいぐるみを、ぶらぶらと揺らしている甘利に、ときおり視線が注がれる。寛也も会話に混ざった。
「気分が悪くなるよな。あれ、どうにかなんないの」
「そんな、ケーシィ君三号をいじめんなよ。まあ、結論から言うと、無理」
「そのケーシィ君を、ぞんざいに扱っているお前はどうなんだよ。いじめんなよ」
「あの、なぜですか?」
「やっぱ、物体をテレポートさせるからね。お手頃サイズにするんだったら、居心地とか詰め込められなかった」
「そこを、なんとかできないでしょうか」
「無理言わないでよ。収まりきらないって。特大サイズになっちゃう」
「そうですか……」
まだ気分が悪そうな絹がしゅんとする。寛也はとんとんと軽く、その丸まった背中を叩いた。
「まあ、開発者がそう言うなら、無理なんだろうな」
「絹、ごめんな」
「いや、いいんです。こちらこそ無理を言ってすみませんでした」
徐々に街の活気がなくなっていく。三人が歩くたびに、明るさが失われる。甘利の黒髪が景色に溶け込んでいた。ぽつりぽつりと、電柱の電灯が道路を照らす。
営業時間を過ぎたフラワーショップ。その横にあるカフェの扉には、クローズの文字がぶら下がっていた。
「閉まっていますね」
絹の言葉に寛也が、
「いつも通りのようで」
と返し、甘利が
「嘘ついてるよな」
と言った。
寛也はドアノブを回してみると、想定通り鍵は開いていた。扉を開ける。涼しい風が、外へと飛び出していく。澄んだベルの音が、広いとは言いがたい店内に鳴った。
木製のテーブルが並べられた、落ち着いた雰囲気の店内。カウンターに立って、冊子を見ていた若い男が笑顔を三人に向けた。
「いらっしゃいませ」
そこで引きつった笑みに変わり、猫撫で声をやめる。
「……なんだ、君たちか。珍しいねぇ、三人揃ってくるなんて」
寛也は小さく頭を下げて、店内に入った。とても涼しい。どこかのRPGみたいに、その後をぞろぞろと二人が続いていく。
「こんばんは」
赤髪を肩まで伸ばした男に、絹が挨拶をする。男は片方が隠れた銀の瞳を細めて、挨拶を返した。甘利も屈託のない笑みとともに言葉を放つ。
「よう、夜明」
「はい、どうもー」
夜明と呼ばれた男は、三人にカウンター席を勧めた。三人が座ったのを目視すると、メニューを手渡す。甘利が自分の横の椅子に、ケーシィのぬいぐるみを座らせた。
「なにか食べるの? 飲むの? それとも、それ以外?」
「それ以外ってなんですか?」
夜明に聞き返した絹に、隅っこに座っている寛也が答える。
「気にしなくていいですよ。俺はコーヒーで」
「え、じゃあ、ミルクティーをお願いします」
「んー、悩むな……。俺はショートケーキと、詰め合わせクッキー、あと、レモンティーで」
夜明がにっこりと笑う。
「なんでみんな、揃いも揃って違うの。別にいいけど」
ポットの湯気が、天井へのぼる。夜明はそれぞれが注文したものを、手際よくテーブルに置いた。最後に、白い陶器に入ったミルクと、角砂糖を寛也の前に並べる。
微笑みを携えて、夜明は訊ねた。
「無糖派だったっけ?」
「いや、ありがたいです」
「そう?」
ケーキを一口食べた甘利が口を挟む。
「これ、めちゃめちゃ甘いんだけど……」
「だよねぇ。知り合いの子が作ったんだけど、どうやら砂糖の配分をまちがえたらしくて、舌が麻痺するくらい甘いんだよ。まあ、頑張れ」
「投げやりにもほどがある……。しかも客に対してこの態度。食えなくはないけどな」
「それじゃあ、残りも食べてもらいたいねぇ。僕はそれ無理。もうヤダ。当分、ケーキを食べたくないよ。よかったら、そこのお二人さんも食べる?」
話題の火の粉が降りかかる。絹と寛也は、お互いの顔を見た。
甘利は相当甘いものが好きだった。その彼が甘すぎるというものを食べられるはずがない。
「えっと、ご遠慮させていただきます」「今日はちょっと無理」
ハモった二人の声。
「やっぱりねぇ」
苦笑いを浮かべて、夜明が二人から視線を外した。一難去ったよう。
ほかほかのミルクティーを啜り、絹が幸せそうな顔をした。寛也もコーヒーにミルクを注ぎ、角砂糖を一個落とす。スプーンでかき混ぜると、くるくると黒の中に、白の渦巻きが浮かぶ。相反した色が、同調していく。
温かいコーヒーは飲んでみると、ぬるくもなく熱くもなく、丁度いい温度になっていた。
つかの間の、のどかな時。
きっと話したことを忘れてしまう、たわいもない話を友達とする。緩やかに進む時間に、名残おしさを感じてしまいそうだった。
ミルクティーを飲み干した絹が、先ほど聞きそびれた疑問を口にする。
「そういえば、夜明さん。それ以外って、なんだったんですか?」
夜明は、絹に目を向けた。絹の隣にいる甘利が、透明な袋に入ったクッキーを、ぼりぼりと音をたてて食べている。ぼりぼりと。
「ああ、それ? そのまんまの意味だよ」
勿体ぶった言い方を夜明はする。
「僕はね。夜限定だけど、商品を売ったり、情報の売買をしたり、仲介人をしたりしているんだ。甘利がいつも持ち歩いているあめ玉も、ここで売っているものだよ。絹くん、言ってなかったっけ?」
絹は、ほうと小さく呟き言った。
「いや、初耳ですね」
「そっか。まあ、なにか欲しいものがあったら、僕に言ってよ。すぐに取り揃えるよ」
嬉しそうに微笑んで、絹が言った。
「いいんですか? ありがとうございます」
ぼりぼり、ぼり。
「いいなー。俺にもそんな優しい対応してくれたらいいのになー。そう思わねえ寛也?」
「どうした甘利。甘いものを食べ過ぎて、言ってることが変になってるけど」
「なってない」
「いや、なってるから」
「まあまあ」
二人の間にはさまっている絹が、会話にもはさまる。夜明が笑って言った。
「それは、君がいけないんでしょ」
「どこが」
首を捻って甘利が訊ねる。夜明は目を細めた。
「自覚してるでしょ。改めな」
「なにかしたのですか?」
「いや、まったく身に覚えがない。なんだろ?」
ぼりぼり。甘利のクッキーを食べる音を聞きながら、寛也は最後の一口を飲む。コーヒーの入っていたカップが空っぽになる。
そろそろお開きの時間だった。甘利がなんでもないように言った。
「今日は付けでよろしく」
口が三日月みたな弧を描いて、にんまりと笑った夜明は聞き返した。
「あ? なんだって?」
糸みたいに細くなった銀の瞳は、笑っていない。
「……こういうところがなんでしょうか」
絹の小さな問いかけに、
「可能性はありますね」
答えた寛也はあきれ顔で甘利のほうを見た。