ゆっくり歩く。
2014。
赤い世界で思う

 ここは真っ赤な世界だった。僕が目を擦っても、その事実は変わらない。
 赤の中、僕が何色を身にまとっているのかわからない。知ろうとは思わなかった。僕はそんなことよりも、やるべきことがあった。
 先を歩く彼女を、抜かす。
 それが僕の目標であり、僕という人間を形作るものだった。
 コンテストという舞台に立つ彼女の背中を、僕はいつも遠くから見ていた。彼女と僕の間には大きく開いた距離があった。そのことについて、彼女は気にしていないようだったけど、僕は違った。
 ポケモンを美しく見せることができない僕はバトルに身を投じた。道が違っていても、彼女を追い越したかった。彼女が高山の頂上に辿り着く前に、頂点に立ちたかった。
 だが、その願いは呆気なく散っていた。

 最後の階段を上っていた彼女が転んだ。
 長い洞窟を抜け、ポケモンリーグにやって来た日、ポケモンセンターで休んでいた僕に電話がかかってきた。センターに備え付けてあるテレビ電話からだった。勝手に家を出てきた僕は、名指しでかかってきた電話のことを不審に思いつつ、ジョーイさんから受話器を受け取った。
「……理苑? 元気してた?」
 彼女からだった。
 携帯電話から、彼女はかけているのだろう。画面の色は真っ黒で、反射した僕と目が合う。ポケセンに備え付けられた電話コーナーには誰もいない。それなのに自然と笑みが顔に貼りついていた。
「……やあ、姉さん。まあまあかな。姉さんこそ、どうなの? 急に連絡をよこしてきてさ。何かあった?」
 姉さんからの返答はない。
 珍しい。年中元気はつらつで、口を開いたらマシンガンのように言葉を打つ人なのに。笑顔の自分を見ながら、姉さんの言葉を待っていると、耳元で雨音が聞こえ始めた。
 ぽつり、ぽつりと雨が発する声は哀しそうだ。
「う、うん、元気だよ。……ごめんね理苑。姉ちゃんが、こんなんだったばっかりに」
「な……なに、どうかした? なんかあったの?」
 なぜか彼女に謝られて、胸に小さな痛みが走った。彼女はなぜ「ごめん」と言った? 頭のすみに追いやられていた思い出を、なんとか引っぱりだして原因を探す。
 とくになかった。
 僕の思考を疑問が蝕んでいく。
「……ごめん。……お姉ちゃん、負けちゃった」
「へ……?」
 視界が赤で埋め尽くされた。
 その言葉によって思考回路が、着実に答えを導きだしていく。引きつった笑みを浮かべる僕に問いかけた。
 彼女に。姉さんに、どう声をかければいいのだろう?
 彼女の瞳から零れる雨粒の音が耳に入り、受話器を片手に僕は立ち尽くした。

 降り続く雨は、やむことを知らないらしい。
 消灯され、最低限の明かりしか点いていない部屋で、僕らは無言電話を続けていた。
 少し肌寒い。片手をショートパンツに擦りつけて、冷えてきた手をあたためる。
「……ねぇ、理苑」
「うあっ。……な、なに」
 前ぶれもなく呼ばれて、驚いた僕の声が室内に浸透していく。そんなのお構いなしに、姉さんは言葉を続けた。
「あのさ……理苑はもう、リーグに辿り着いたんだよね……」
 そうだよ。ていうか、ポケモンリーグのポケセンに電話を入れてきたんだから、知ってるじゃん。どうしたの、改まって。
 答えようとした言葉が、喉に張り付いて出で来ない。寒いはずなのに、喉が乾きを訴えはじめた。
「あと……、あともうちょっとだから……。頑張って、あたし、応援してるから」
 電話が切れた。体に電流が駆け巡ったような感覚がした。
 いや、違う。切れたんじゃない。
 何も持っていない自分の右手を見た。受話器が元のおさまるべき位置に戻っていた。
 僕が切ったんだ。唐突にそのことを、理解した。
「なんなんだよ……」
 苦々しいものを吐き出すように呟いた。自分は一体何をしているんだ。
 僕の目標は、彼女に教えていなかった。
 姉さんは僕の密かな望みに気付いていたのだろうか。それを理解した上で……、ここに電話をかけて来たのだろうか? もう一回かけなおす気にはならなかった。テレビ電話が並ぶ部屋を出る。淡い電灯の光が僕を照らすが、足下までは行き渡っていなかった。
 帰ろう。借りた部屋へ戻るために、おぼつかない気持ちを携えて廊下を歩く。

 朝の目覚めは最悪だった。勝手にボールから出てきたセイブルの重みで、僕はいつもより早く起きた。彼は頭に生えている曲がった角で、僕の背中を押してベッドから落とすと、まだ意識がはっきりしていない僕を上から見下ろした。
「……眠いんだけど」
 僕があまり睡眠をとっていないのを知っているはずなのに、セイブルは獲物を狙うようなギラギラした目で見てくる。起きろ、ということか。
 彼が吐く火で燃やされる前に、大きく伸びをしながら立ち上がる。
「……わかったよ。朝ごはん、食べに行こうか」
 ベッドから飛び降りた彼に続いて部屋を出る。ぼさぼさの髪を手櫛でなおしつつ、今さらだが、ラフな服装で出てきてしまったことに気付く。
 まあ、いいや。こんな姿を見たら、母さんが怒って、着替えなさいって言いそうだけど。
 食堂は思ったより空いていた。食欲が湧かないので、ポケモンフーズだけを頼む。
 ジョーイさんが作ったフーズを、セイブルのもとに置いて席に着いた。右横から固形物を咀嚼する音が聞こえてきた。
 前方のテレビに流れるコンテストについての映像を眺めながら、姉さんが予選で敗退したのを知る。なんだか、頭が重い。長く息を吐く。昨日、起こったことは夢ではないと突きつけられた気がした。
 姉さんは頂点に辿り着けなかった。勝つ者の隣には、必ず敗れる者がいる。仕方がない。そう思っても、気分はすぐれない。
 なんでだろう。
 チャンスなのに、姉さんよりも先に行くチャンスなのに、なぜ僕はこんなにも、憂鬱なのだろう。幸せを口から吐き出して考える。
 ひたすら姉さんの背中を追ったおよそ一年、それは苦しいようで楽しい日々だった。すべては僕が誕生日に、一匹のデルビルを貰ったことから始まった。僕はそいつをセイブルと名付けて、カントーに渡り、ジムバッチを手に入れるため、仲間を増やし、何回もポケモンバトルをした。
 ……やっと。やっと、夢にまで見たポケモンリーグに来たのに、まるで闘志が抜け落ちたような、自分が空っぽになってしまったような気がした。
 ふと……、下りようと思った。
 リーグに挑戦する手続きはしていなかった。この状態では、もしリーグの頂点に立てたとしても、残るものは何もない。そんなことをしたら、僕らが積み上げてきたものは、きっと崩れてしまう。それだけは、絶対に嫌だ。
「……リーグを下りよう」
 右横にいるセイブルに声をかける。彼は全身の動きを止めると、赤い瞳に強い力を宿し、理由を問いかけてきた。
「……ここまで、ぶっ続けでやって来たんだ。休憩をとろうよ。今まで走り抜けてきたカントーの町を、今度はゆっくり見てまわるんだ。……どう? 駄目?」
 彼は目を離さない。失くし物を探すみたいに、僕から何かを見つけようとしている。
 だが僕にもわからないこの感情を彼に伝えるのは、それはそれで無理な話だ。勝手に決めたことについて、怒りもせず、呆れることもなく、こうなる事がわかっていたような雰囲気を醸し出したセイブルは、何事もなかったように食事を続け始める。
 とくに異論はないようだった。
 赤い世界が薄れていく。

 僕の見ていた世界は、彩度を失っていた。もう目が染みるほどの、刺激の強い真っ赤な世界ではなくなっていた。空を雲が覆い隠し、雨が降りそうに見えて降らない、そんな灰色になっていた。
 今の自分の色は、灰色に紛れている。何色なのか確かめようとしても、覆いつくされていてわからない。
 これで、よかったんだと思う。
 でも一つ気がかりなことが、あるといえばあった。ここまで彼女を抜かすために、がむしゃらにやってきたけど、もしかしたら本当は、その為ではないような気がした。
 この喪失感は、いまだに叶わない本当の望み。
 僕は、姉さんと同じ舞台に立ちたかったんだ。


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おなつお ( 2014/07/24(木) 09:35 )