ゆっくり歩く。 - 2014。
ヴェリタ

 ある山の近くの森に一匹の生き物が住んでいました。
 その生き物は親に出会ったことがありませんでした。
 普通なら親から教わるはずの、何を食べたらいいのか、いけないのかを知らなかったのです。生き物は自分の種族さえ知らず、名前も貰わず、その森で生きていました。
 その生き物は生まれつき目が見えませんでした。目が使えないかわりに、鼻と耳を使って生活をしていました。そのおかげで嗅覚と聴覚が、ほかの生き物より発達していました。
 だけれど、やはり目が見えないのは、その生き物にとって不便でした。
 あるときは樹の根元にあったきのこを食べて、おなかを壊しました。生き物はあのもにゅもにゅとした食感を覚えて、それは食べないようにしました。
 あるときは周辺に生えている雑草を食べました。それはとても、言葉では言い表せないぐらい苦いものでした。すぐさまそれを吐き出した生き物は、そのあと体の調子がすこぶる良くなっていることに気付きました。これは体に良いものだと生き物は知りました。
 そうやって色々なものを体験しながら、その生き物は成長していきました。
 生き物が生まれて、約一年が経とうとしていました。その間生き物は、ほかの生き物に会ったことがありませんでした。

 ある晴れた日のことです。
 その生き物は暖かい日光をさけて、木陰でうたた寝をしていました。すると鳥の羽音が、生き物の耳に入りました。生き物は聞いた事のない音に驚いて、飛び起きました。
 そんな生き物に気付かず、一羽のオレンジ色の鳥が地に足をおろしました。嗅いだことのないにおい、そして辺りが少し暖かくなったのを体感して生き物は固まりました。
 しかしその暖かさが、生き物の硬直をときました。
 その生き物は得体のしれないものについて考えたすえに、いつも初めて会ったものは食べてみるということをしていたので、口のなかに入れてみることにしました。
 木陰からでた生き物は口を大きく開けました。
 野生の勘がはたらいたのでしょうか。その生き物に気付いていなかった鳥は、生き物のほうを突然ふり向きました。
「ちょっと待って!」
 鳥が大きな声で言いました。
 その生き物は食べようとしていたものが、いきなり喋ったので、びっくりして口を閉じました。ついでに舌も噛んでしまい、生き物は顔をしかめました。
「ちょっと、居たのなら声ぐらいかけてよ。って、どうしたの? どこか痛いの?」
 舌がぴりぴりしている生き物は、黙って小さく頷きました。
「どうしたの。どこが痛いの?」
 心配そうに鳥は、生き物にたずねます。いつの間にか生き物は体のいたるところを調べられて、何かの草で作られた塗り薬を鳥にぬられました。それはとても苦くて傷がズキズキしたのですが、生き物は吐き出さずに我慢しました。だけど顔はしかめたままです。
「ふう、これで明日になれば痛みはひくと思うよ。それにしても、君、この辺では見かけない顔だね。君は確か洞窟を好んで住むはずなのに」
「……ぼくのこと、しってるの?」
「え? 君のことはよく知らないけど、君の種族なら知ってるよ」
「しゅぞく?」
「うん。例えば俺には空を飛ぶための翼があり、そんなに火がためれないけど、炎袋がある。これらは、ヒノヤコマの特徴の一つなんだ」
 空や炎袋などの意味が理解できなかった生き物は、とりあえず自分と言葉をかわしているモノが、ヒノヤコマという種族だと頭にいれました。
「それで、ぼくは?」
「君はもうわかっているだろうけど。目がよくみえない、そうそう欠けたりしない丈夫な歯、そしてなるべく怪我をしないように、君を守るための分厚い体毛。これは……」
 ヒノヤコマは一気に喋りすぎて、口の中が乾いたので、すこし黙りました。生き物は話についていこうと、集中して耳をすましています。
「これは、君のお母さんにも聞いただろうけど、モノズという種族の特徴なんだ」
「……ものず、モノズ……」
 その生き物は、モノズは自分の種族をくり返し、口にしました。
 何回かくり返して、モノズという言葉がすとんと心に収まり、モノズは自分のことが一つわかって嬉しくなりました。
「そうか、ぼくはモノズ。きみはヒノヤコマ!」
「あ、うん。君はモノズ。俺はヒノヤコマだね。そうそう俺の名前は、グランノア。よろしく。君は?」
「よろしく、グランノア! ぼくは?」
「え……? え」
 そのあとグランノアは、モノズが自分の名前を知らないこと、モノズはまだずいぶんと若いのに、近くに親がいないことに気付きました。
「…………。俺の家に来るかい? よかったら、美味しい夕食もあるし、ふわふわした寝床もあるんだ。どう?」
 家ということも、夕食も寝床も、その言葉の意味がモノズにはわかりませんでした。
 寝たいときに寝る、食べたいときに食べる、休みたいときは雨風がしのげる場所で休む、など時間にとらわれない生活をしていたからです。
 でも話すということが楽しくて、まだグランノアとお話がしたくて、大きくモノズは頷きました。どこか違う場所に移動するのということは、グランノアの言い方でなんとなく察せました。
「いいね、いきたい!」
「よし、じゃあうちに招待しよう。君は初めての客だよ。今日は沢山食べ物を持ってこよう」
 それがモノズにとって初めての出会い、そして初めての友達でした。

 ヒノヤコマのグランノアは独りで生きているモノズをほっとけず、家に住まわせました。
 最初は初めてきた場所に、なかなかモノズは落ち着けませんでした。どこかに出かけたら、またそこに帰ってくるということは、モノズにとって不思議な感覚がしました。
 でも美味しい果物を食べられました。モノズはリンゴが大好物になりました。
 ふかふかの羽毛で作られた寝床は、すぐにモノズを眠りへとさそいました。モノズは寝床に横たわったとたん、こてん、と意識を失いました。あまりのはやさにグランノアが驚くぐらいでした。
 それも少しずつなれてきた頃、グランノアはモノズと一緒に出かけました。
 グランノアはこの森で食べてはいけないもの、食べていいもの、体にいいものを、モノズに教えてあげました。
 モノズは目がよく見えなかったので、においや食感、どういう場所にそれがあるのかを、ちょっとずつ覚えていきました。
 一緒に住み始めてから、二年が経とうとしていました。
 今度はグランノア以外の森に住んでいる生き物について、広い世界を飛んで旅した両親のお話などをモノズに話しました。
 そのお話はモノズの好奇心をくすぐりました。
 グランノアの両親は大きい水たまりの上を飛行したとか、その大きな水たまりから顔をだしたとっても大きな生き物の上で休ませてもらったとか、その生き物が言うにはその水たまりは海というものだと教えてくれたそうです。
 そして生き物は別れぎわに高い水しぶきをあげて去っていったというお話でした。
 ほかにもたくさんの心躍るようなお話を、グランノアは話してくれました。
 モノズはそれを知識として吸収し、いつしか自分もそれを見てみたいと心の底から思うようになっていました。
 それから少し月日が経って、モノズはヴェリタと呼ばれることになりました。名付け親はこの森の中で、一番長く生きているキュウコンがつけてくれました。モノズは名前を付けてもらって、その日はずっと嬉しそうに飛び跳ねていました。
 二人が出会ってから、四年の歳月が経とうとしていました。

 その日は憂鬱な気分になりそうな天気でした。
 いまにも雨が地上に降り注ぎそうです。
 ヴェリタは家で、グランノアが帰ってくるのを待っていました。グランノアは果物を取りに行ったきり、なかなか戻ってはきませんでした。
 ヴェリタは座って待ちました。
 ピクリとも動かず、グランノアが戻ってくるのを待ちました。
 座っていたヴェリタは、立ち上がって家を出ました。グランノアを迎えに行こうと思ったからです。リンゴの木がある方に向かい、やっぱりクラボの木の方に向かいました。
 話し声が聞こえて、ヴェリタは立ち止まりました。
 けれどグランノアの声も聞こえたので、また進み始めました。
 クラボの木の前にグランノアと、ミルホッグ、そしてその進化前のミネズミがお話をしていました。みんなはヴェリタが現れたことに気付いていません。話に夢中でした。
「だーかーらー、本当なんだって」
 グランノアが少しむっとした顔で言いました。
「あー? 海だって、そんなものあるわけないだろ」
 ニヤニヤとミルホッグが笑いました。完全にグランノアをからかっています。
「そうだ、そうだ! 見たことないぞー」
 右手を挙げて、ぴょんぴょんとミネズミが飛び跳ねました。
「そりゃ、そうだろうね。だって、海はここよりずっと離れた所にあるんだもの。ここから海までは、四十七日かかるんだよ」
「はあー? そんなに遠ければ、本当にあるかどうかもわかんねえなあ」
「わかんない、わかんない!」
 そんな聞く耳をもたない兄弟の態度に、グランノアは疲れた顔をしました。
「いや、四十七日かけて行けばいいじゃん。海に行く途中に砂漠があるから、水分をとれる物を持っていた方がいいよ」
「兄貴、兄貴! どうするの?」
「ふん、行くわけねぇだろ。そもそも砂漠っていう、砂だらけの場所なんてものも、耳にしたことがねえ。お前、それ本当にあるのか?」
「だーかーらー、本当なんだって」
「そうだよ。グランノアが嘘をつくわけないじゃん」
 ヴェリタが会話に混ざりました。
 みんなは驚いてヴェリタを見ました。ミルホッグ兄弟はヴェリタに気付いたとたん、一歩後退りました。ミネズミがミルホッグの後ろに隠れます。
 ミルホッグ兄弟はとある日に、ヴェリタに食べられそうになったことがありました。ミネズミは頭から食べられそうになり、そのことを思い出したのか、ぶるぶると小刻みに震えています。
 ヴェリタは初めて出会ったミルホッグ兄弟が、どういうものなのか知ろうとするために、口に入れようとしたのです。ヴェリタに悪気はなかったのです。噛み切ろうとしていましたが。
 あれ以来ミルホッグ兄弟にとって、ヴェリタはトラウマでした。
「ねえ、ちょっと、そこのお二人さん? 聞いてるの?」
 固まっているミルホッグ兄弟に、ヴェリタが尋ねました。
 ミネズミがミルホッグの尻尾を引っぱります。意識を取り戻したミルホッグが言葉を吐きました。
「ふ、ふん! 今日はこの辺で勘弁してやるよ! じゃあな、グランノア!」
「ああ、またね」
 グランノアは苦笑して、自分達の住処に帰っていく兄弟を見送ります。
 とある日、ヴェリタに食われそうになった彼らを助けたのはグランノアでした。
 何故ミルホッグ兄弟が帰って行くのか、理由が見当たらなかったヴェリタは首を傾げて、去っていく足音を黙って聞いていました。
「あれ、二人とも帰るの?」
「そうみたいだね」
「ふーん?」
「俺らも帰ろうか」
「そうだね。お腹空いた」
「よし、急いで帰ろう。君に食べられる前にね」
「ぼくはグランノアを食べないけど?」
「うん、知ってる。ちょっとした冗談だよ」

 クラボの木の前でミルホッグ兄弟に会ってから、空は雨雲が支配していました。
 今日も雨が降り続いています。
 虫ポケモンに一口も食べられていない立派な葉っぱに、雨粒がどんどんと落ちて行き、四方八方に飛び散ります。ポツポツと一定のリズム音が鳴ります。
 それを家の中で聞いていたヴェリタは、くちばしで翼をつついて、何かをしているグランノアへ振り返って言いました。
「ぼく、行きたいところがある」
「ふーん、君がそんなことを言うなんて珍しい。どこに行きたいの?」
「海」
「そっか、そっか、海か」
「そう。海に行きたいんだ」
「なるほど、ん……? 海?」
「うん」
「それ本気で言ってる?」
「本気だよ。とっても遠い場所にあるのも、よくわかってる」
「ほう」
「でもね。なんか行きたくなった。本当に海はあるんだぞ! グランノアは嘘をついてるわけじゃないんだぞ! って、言いたくて」
「俺は気にしてないよ。嘘つきと言われても」
「知ってる」
「そっか」
 グランノアは食料を保管しているところに向かい、リンゴを二つ取り出して、ヴェリタの方にちょこちょこと歩きました。ヴェリタはお礼を言って、渡されたリンゴにかぶりつきます。リンゴを食べながら、二匹は話を続けました。
「それで、海に行きたいんだっけ」
「そうだよ」
「俺は海というモノを見たことがないんだけど、それでも行きたいの?」
「行きたい」
「でもさ、俺の両親が見たって言っていたのは、数十年前のことだよ。もしかしたら、なくなっている可能性がある。それでも?」
「行きたいんだよ」
「……そっか」
「どうしたの、グランノア? やけに歯切れが悪いよね。もしかして行きたくないの?」
「いや、行きたいけど」
「じゃあ、なに。自信がないの?」
 ヴェリタはリンゴを食べるのをやめました。目がよく見えないのにもかかわらず、顔はグランノアの方を向いています。
「本当にそれがあるのか、自信がもてないの?」
 ピカっと光が空を駆け巡りました。遅れて大きな音が鳴り響きます。雨音がずいぶん大きくなっていました。
 グランノアは口を閉じました。グランノアが考え事をしているのを察して、ヴェリタは黙って話しだすのを待っていました。
 その時はヴェリタが思っていたより、はやくやってきました。
「違う、俺は……そうじゃなくて……。いや……君が言っていた通りかもしれない」
「…………」
「……俺は母さん達が旅をして見てきたことをみんなに話した」
「そうだね」
 ヴェリタはゆっくりと頷きました。
「それが本当かどうかは、俺自身は知らない。だから……かな? ……反論されても何も思わなかったんだ。そりゃ、ちょっとはむっとした時もあったさ。だけど両親が見て、聞いて、感じたことを否定されても……強く言い返せなかった。俺自身、本当と思っていない、信じていない部分があったのかもしれないな……」
「じゃあ、さ。見に行けばいいんじゃないかな」
「え?」
「グランノアの家族が見てきたモノを見に行くんだ! そしたら、わかるよ。嘘か真か」
「……なるほど」
「しかも実際に見てきたんだから、本当だって、本当にそれらはあるんだって、自信をもって言えるよ!」
「……確かに、そうだね」
「ぼくもね、見てみたいんだ。だけど、ほら、ぼくさ、目が見えないから……」
「そんなことない。君も見ることができるよ」
 暗い気持ちから這い上がってきたグランノアが、穏やかな声で言いました。
「……なんで? なんで、そう思うの?」
 ヴェリタがぽつりと言葉を零しました。ヴェリタの顔がぐにゃりと歪みます。
「ぼくは……ぼくは目が使えないんだよ! こんなんじゃあ、駄目なんだよ! 見えないんだ……ぼくには、きみがどんな姿をしているのか! いまどんな顔をしているのか! ここはどういう場所なのか! ぼくの大好きなリンゴは、なに色をしているのか!」
 言葉があふれてきて、どんな言葉を吐き続けているかわからくなって、それでもヴェリタは口を動かし続けました。今度はグランノアが黙って、それを聞いていました。
 雨の紡ぎ出す音が、小さくなってきました。
 ヴェリタの声も、小さくなってきました。
「ぼくには無理なんだよ……」
 それからヴェリタの言葉の嵐はおさまりました。ヴェリタは地面のほうに顔を向けています。二匹とも少しの間、喋りませんでした。
 最初に言葉を発したのは、グランノアでした。
「ごめん、君を傷つけてしまったね」
「…………」
「だけどね、見えなくても違う方法があると思うんだ。例えば、においを嗅いでみたり、音を聞いてみたり、手で触れてみたり。それらをひっくるめて、見るという言葉を使ったんだ。感じる方法は、俺らが知らないだけでたくさんある。俺はそう思う」
 見ていてほんわり暖かくなるような笑みをグランノアが浮かべます。
「だから、一緒に行こう? 一緒に海や砂漠が本当にあるのかどうか、見にいこう。ね? ヴェリタ」
「……うん」
「よし、じゃあ早速行く準備をしよう! 最初はどこに行きたい?」
 ゆっくりと顔を挙げたヴェリタが、打って変わって元気いっぱいの声で答えました。
「海!」
 明るい日差しが地上に降り注ぎます。
 いつの間にか雨は止み、雲の間から太陽が顔を出していました。



おなつお ( 2014/03/31(月) 17:05 )