九の乙 タッちゃん
「――お姉さまです。メノクラゲお姉さまです」
「R団にいました。今は違います」
「憧れていたんです」
「あたしに優しくしてくれて、いろんなことを教えてくれて……」
「助けて欲しかったんです。お姉さまならきっとあたしを助けてくれるって。それなのに……」
「――お姉さまの旦那さまです」
「そうすればお姉さまが悲しむだろうなって」
「反省ですって、そんなものするわけないじゃないですか。謝ったら誰かが助けてくれたんですか……」
「――怪獣です。あたしのたった一人の友達です。でももう……フフフ……あたしが、あたしのせいで……ウッ……ウッ……」
「大丈夫です。申し訳ございません」
「あの、どうしているか分かりますか。行方をご存知ですか」
「……そんな……そうですか……」
「もうずっと元気がなくて、無理をさせていたので……」
「とても可愛かったんですよ。いい子で、優しくて」
「お父さまからいただきました。お父さまが飼っていたんです」
「雑食用のモンスターフードと、あとはナッツや果物を食べさせます。それからソーセーズが好きです。よく分けっこして一緒に食べました」
「おでこのところをなでてあげると喜びます。気持ちがいいらしいんです」
「お風呂が嫌いで……大きくなってからはずっと苦労しました。暴れるものですから、あたしまで水びたしになって」
「いつもタッちゃんを抱っこして寝ていました。そうすれば寒くなかったから」
「でも……タッちゃんは……もう……」
「――あたしにはもう何もありません」
「帰るところもありません」
「生きていたくありません」
「……」
あたしは警察の方からお取調べを受けました。
アパートにお住まいの方の通報を受けてお巡りさんが駆けつけたとき、あたしはお姉さまのお体に何度もムチを打ちつけていたそうです。
お姉さまを病院へ運ぶ際に、お姉さまにしがみつくあたしを引きはがすのに難儀したといいます。
拘置所では父が会いに来てくださいました。数年ぶりにお会いした父はいくぶん背が縮んでしまわれたかに思われました。あたしのお父さまはこんなにも頼りなさげな方だったかしらとなんだかガッカリしました。父はあたしに、「いつか帰ってきたら一緒に暮らそう」と言いました。「あの人と一緒にですか」とあたしが尋ねると、父は言いよどみました。だからあたしは、きっと本当は帰ってきて欲しくないんだなと思いました。
あたしは今年で十一歳になる成人ですから、少年法による保護ではなく刑法の定める刑事処分を受けます。
あたしのことを決して守ってくださらなかった法があたしを裁きます。
「裁判官さま、陪審員のみなさま、検察官さま、弁護官さま、傍聴席のみなさま、この度はあたしの成した悪行を公の下に審判する場へお集まりいただき光栄に存じます。またこうして陳述する機会を設けてくださった裁判官さまに御礼申しあげます」
法廷であたしは、悪人としての精一杯の誠意を持って語りかけました。
「――検察官さまのご指摘された犯罪、そしてあたしの証言、それらは誓ってすべて事実に相違ありません。しかし、蒙昧なるみなさんにあたしを裁くことは決してできないことをここに申しあげておきます。
――刑罰とは犯罪者への応報であるといいます。
それならあたしの犯罪もまた、なべてこの世の理不尽への報復でありました。大人が子供に、あるいは社会が個人に及ぼす害悪に対して、正当な報復を与えることは、将来出現する不幸を未然に防ぐための必要悪です。あたしはあらゆる理不尽に虐げられた者たちの代表に過ぎないのです。
――刑罰とは犯罪者への教育であるといいます。
ところがあたしは確立した自我でもってあたしの下しうる最高の意思決定を行いました。自らの快楽のためではなく、この世に正当な秩序を取り戻すために、あえて困難な道を選んだのです。あたしに宿ったこの強固な意志はもはやいかなる刑罰をもってしても修正されることはなく、ただあたしを未来永劫に渡って働かせ続けるのです。
――かくてみなさんはただあたしを殺すことによってのみ、あたしという害悪をこの世から取り除くことができるのです。それならどうぞみなさん、これからあたしになさるように、道徳を違う者たちを一人ひとりとくびり殺し、この地球にお一人になるまで殺しあってくださいませ。善人であろうとするみなさんが、愚かにもそのために殺しあう姿を、あたしは地獄の底からそっと見守りたく存じます。
――したがって、この場で裁きを受けているのは実はあたしではなく、みなさんご自身に他ならないのです。それもすべて、あたしをこのような犯罪者に育てた原因、あたしという悪夢を産んだ根源、被害者のお二方を真に殺害した犯人が、この世界だからです。
――それでもどうか、浅はかで蒙昧な善人たるみなさまにおかれましては、将来あたしのような悪人を生み出さないために何をなさるべきか、よくよくお考えいただきたく存じます……」
しかしあたしの言葉は、誰にも顧みられることがありませんでした。
たまむし地方裁判所はあたしに矯正教育刑を科す判決を言い渡しました。
××女子学院に入所したあたしは、上手にやっていくことが出来ませんでした。
集団寮に移ったとき、寮生の方々はことあるごとにあたしに声をかけてくださいました。でもあたしはそれらをかたくなに拒みました。誰にも、何にも期待したくなかったからです。
先生はたびたびあたしを呼び出して、協調性の無さや更生意欲の不足を指摘しました。
あたしは自らの無実を訴えましたが、それは誰にも聞き入れられません。
それでもなぜか保健医のS先生だけは、あたしの話に辛抱強く耳を傾けてくれました。
「先生、あたしの脳みそは半分溶けているんですって。だから何を言い聞かせてもしょうがありませんよ。あたしはどうせこの世に生きている価値のない人間なんです」
「人があたしに罰を与えるでしょう。みんなや、先生方が。でもそんなことに意味なんてないじゃないですか。反省することなんかないんです」
「あたしの中にはちゃんと、善いことと悪いこととを判断する心があって、自分で考えて、自分で決めたんです。誰かに見てもらうものではないんです」
「あたしを罪に問うなら、子供であった私をいじめ抜いて、悪徳を吹き込んだ大人たちは一体誰が裁いてくれるのでしょう」
「涙をこらえて、なんとかがんばって、一生懸命生きてきただけなのです。あたしじゃなくて、社会の方が狂っているんです」
「社会には戻りたくありません。誰もあたしのことを認めてくれないから」
「どうして先生はこうしてあたしの話を聞いてくださるんですか」
「あたしは生きていてもいいんでしょうか。不安なんです。どうか正直におっしゃってください」
「もっと薬を減らしてくださいませんか。あたしは病気じゃないんです」
「先生、あたしは悪いことをしたでしたでしょうか。先生はどう思いますか。教えてください」
「次はいつ会うことが出来ますか。もっとお話しすることはできませんか」
「先生があたしとお話しすることをお嫌いでなかったらいいのですけど」
「あたし、先生のいいつけならきっと守ります。きっとです」
「もうあたしには先生だけなんです。だから見捨てないで下さいね。きっとですよ」
「本当に、ずっと一緒にいてくださいますか」
「んっ……あっ……先生……」
「先生、あたしのこと、どうお思いですか」
「誤魔化さないでください」
「だから、ねえ先生……」
「先生……」
「先生……」
「先生……」
「……」
あたしは寮生の方々に嫌がらせを受けるようになりました。
作業の邪魔をされたり、食事を台無しにされたり、下着を汚物入れに入れられたり、身に覚えのない悪さを報告されたり。
それらはまわりの人に見つからないようこっそり行われるものですから、先生方にはあたしの素行不良と受け取られたようです。
しだいには先生方も、指導や治療と称してあたしに暴力を振るうようになりました。
何時間もベッドに縛り付けられたり、何度も水をかけられたり、体に電極をつけられて電気を流されたこともありました。
しかしあたしは自分が間違っていないことを示すため、嗚咽ひとつもらさず、決して涙をこぼしませんでした。必死に歯を食いしばり、理不尽な体罰に抗い続けました。
ある日あたしは、先生方から逃げようと刃物を振り回した罰として、隔離室に入れられることになりました。
隔離室はベッドと仕切りの無いトイレがあるだけの小さな部屋です。ドアの内側にはノブがついておらず、中から開けることは出来ません。廊下の側にガラスの窓がはめられていて、外から中が見えるようになっています。
きっと先生方はあたしから一切の自由を奪って、反省するまで閉じ込めておくつもりなのです。あたしには反省することなど、何一つないというのに。
ふと、廊下の窓から誰かがこちらを覗いていることに気がつきました。
それはS先生でした。きっとS先生は助けに来てくださったのです。S先生ならきっと分かってくれるはずです。S先生に訴えて早くここから出してもらおうと思いました。
ところがS先生は、部屋の前で誰かと話していました。あたしを取り押さえた先生です。
それが一体どういう意味か……S先生はどうしてあたしの話をあんなにも聞いてくださったのか、それでいてどうして寮生たちの嫌がらせや先生方の暴力をただしてはくださらなかったのか……あたしは恐ろしい事実に気付いてしまいました。
S先生は、表向きあたしに優しくする一方で、暴力を振るう他の先生とも通じていたのです。きっとはじめから他の先生方と企んでいて、あたしを陥れようとしていたに違いありません。追い詰められていくあたしを見て、影でほくそ笑んでいたに違いありません。あたしは騙されていたのです。
途端に、頭が真っ白になって、何も考えられなくなりました。
「――アアッ……アッ……アッアアア……アアアァァアアァァ――……」
喉がはり裂けるほど叫んだり、体をガタガタと震わせたり、床を叩いたり、壁に体を叩きつけたり、食器を投げたりしました。
それに気づいた先生方が駆けつけて、よってたかってあたしをベッドに縛り付けます。
S先生がオドオドとあたしに声をかけます。
あたしはS先生を口汚く罵りました。
何本ものベルトでベッドに縛り付けられたまま、何時間か、何日か、何週間か分かりませんけども、とにかく長い長い時間が過ぎました。
縛られたままのせいか、だんだんと息が苦しくなってきました。視界がチカチカとして、体中がしびれます。このままでは死んでしまうのではないかとさえ思えました。一人孤独に死ぬことを想像すると悔しくて、あまりにも悔しくて涙がこぼれてきました。
自らの死に涙することができるのは、恵まれた人生を送ることのできた者の特権だろうと思っていました。しかしあたしの意思は、みすぼらしく生きることを希求する身体に抗うことができませんでした。
あたしは世話をしにやってきてくださった先生に、「どうしたらこれを外してくれますか。あたしが謝ったら外してくれますか」と尋ねました。
「それはS先生が決めるからね」と先生はおっしゃいました。
「あたしの何が悪かったのですか。S先生に何を謝ったらいいですか。どうか教えてください」とあたしは尋ねました。
先生は答えてくれませんでした。
きっと先生方にはあたしを自由にする気なんかこれっぽちもなくて、あたしはこのまま殺されてしまうんだと思いました。
死ぬのは怖いです。でも苦しい思いをするのはもっと怖いです。
あたしは縛られたまま叫びました。
「S先生、ごめんなさい。もうしません」
監視カメラを通じてきっと先生方が気づいてくれると信じて、しかし何を謝ればいいかさえ分からないまま、
「S先生、ごめんなさい。許してください。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい……
息をするだけで体が痛むんです。苦しいんです。お願いですから、これを解いてください……
誰か、ネエ、先生エェ、誰かアアアァァ……聞こえているのに、どうして答えてくれないんですか、聞こえているのに……どうして……どうして……どうして誰も助けてくれないんですか……どうして誰も優しくしてくれないんですか……そんなにあたしが嫌いですか……あたしが一体何をしたんですか……みんなあたしを見捨てて、あたしを一人ぼちにして……謝りますから、助けてください、謝りますからアァ……誰かあたしを助けてください……お願いですから……誰か……誰か……」
でも、誰か、なんてもういません。あたしが自分の手ですべて断ち切ってしまったからです。あたしがこの世で一人ぼちなのは、他でもないあたしが招いた結果です。
あたしはこれまで、あたしをのけ者にしようとする世界すべてを呪って生きてきました。しかし、あたしを不幸へと導いたのは、そうした運命に抗う力のないあたし自身の弱さ、愚かさでありました……
みなさんはどう思われますか。あたしのような人間は罰されて当然なのでしょうか。自業自得とお笑いになりますか。
もしそうなら、どうぞお聞きください。もがき苦しむ悪人の悲鳴を。さんざん自分勝手にふるまって今さら必死に許しを乞うみじめな女の断末魔を。
「アアッ……アアアァァ――……アァアアァァアアァ――……
もう嫌アァ――……お父さまアァァ――……お姉さまァァ――……お父さま、おうちに帰らなくてごめんなさい……あたしはお父さまと一緒にいたかったんです……お姉さま、幸せを壊してしまってごめんなさい……あたしはお姉さまに優しくしていただきたかったんです……あたしが悪かったです……あたしのせいで、みなさんを不幸にして、あたしのせいなんです……お願いですから、もう許してェ……助けて……助けてェ――ッ……アアァ――……ア……アァ……」
よい行い、悪い行い、自ら価値を生み出すものは、自らの行いの責任を自ら生み出します。
よい行い、悪い行い、社会の定めた価値に従うものは、自らの行いへの報復を社会から与えられます。
きっと、どんな行いをしようとも、幸福を得るだけの資格を持たない人間は、すべからく不幸を得る定めなのです。
あたしは一人では生きていくことのできない、甘えん坊なただの子供でした。
そんなあたしに居場所なんて、はじめからどこにもありはしなかったのです。
あの継母がやってきた日から、公園のふれあい広場に逃げ込んだ日から、R団に雇われた日から、お姉さまに出会った日から……
それなら、あたしの過ごした日々は無意味でした……あたしの信じたものは無意味でした……あたしの人生は無意味でした……
「もう疲れたよ……辛いよ……苦しいよ……誰かあたしを殺してよ……死なせてよ……こんなのもう嫌だよう……嫌だよう……うあぁぁ――……うわああぁぁ――……」
……
…………
………………
……がりがり……がりがり……
意識が薄ぼんやりとしていたころ……どこからか物音がするのが聞こえました。
それは次第に大きくなって、この部屋に近づいてくるようです。
途端に大きな音を立てて部屋の壁が崩れました。
「ヒィッ……アアァッ……」
部屋へ冷たい空気が入ってきます。壁のあったところに夜空が見えます。
そこから毛むくじゃらの大きな塊が現れます。
「エッ……エッ……
アレッ……
そんなッ……
うそ……
あなたは……
……
タッちゃん……」
あたしの大きな可愛らしいねずみ怪獣のタッちゃんです。
あたしが名前を呼ぶとタッちゃんはひげをピクンと動かして、あたしの匂いを嗅いできました。
そしてあたしが動けないことが分かると、丈夫な前歯を使って、あたしをベッドに縛り付けていたベルトを千切ってくれました。
「タッちゃん、タッちゃんだ、うわあ――ッ……アアァ――ッ」
気が動転して理解が追いつきません。
それなのに胸の奥から熱いものがこみ上げてきて、涙となってこぼれました。
あたしはようやく起き上がって、タッちゃんに抱きつきました。
「タッちゃん、タッちゃん。
どうして、タッちゃん、どうして……
もしかして、あたしを探しに来てくれたの、助けに来てくれたの……
どうしてこんなあたしのために……
どうしてそんなに優しいの……
あたし……あたしはあなたにたくさんひどいことしたのに……
それなのにタッちゃんはこうして来てくれた……
ウアアァ――……」
タッちゃんは毛がフサフサしていて暖かでした。動物の脂の匂いがしました。丸い瞳であたしを見つめました。あたしに顔をこすりつけてきました。うれしそうにしっぽを振り回していました
あたしはタッちゃんをたくさんなでてあげました。手がブルブルと震えました。愛しい気持ちがあふれてきました。胸がじんと熱くなりました。涙があふれて止まりませんでした。何度も名前を呼びました。
「ああ、タッちゃん、タッちゃん……
あたしも会いたかったんだよ……
元気でよかった……
うれしい、うれしいよォ……
うわあッ、ウワアアァァ――――ッ……
来てくれて、来てくれてありがとう……
いつだってタッちゃんは一緒にいてくれたね……
タッちゃんが一緒にいてくれたから、あたし寂しくなかったんだよ……
それなのに、いっぱいひどいことしてごめんね……
勝手な飼い主でごめんね……
嫌いにならないで……
大好きだよ……
お願いだから、ずっとそばにいて……
あなたがそばにいてくれたらあたし、何があっても平気だから……
みんながあたしを見捨てても……
石を投げられて殺されても……
タッちゃんがそばにいてくれたなら……
だからお願い、離れないで……
タッちゃん……タッちゃん……」
あたしはそうしてタッちゃんをずっと抱きしめていたかったのに、タッちゃんはおもむろに背を向けて、崩れた壁の方を見ました。
「……どこにいくの、タッちゃん……」
タッちゃんがあたしに振り向きます。
「タッちゃん、またお別れなんて、そんなの嫌だよ……
ネエ、あたしも連れてって……お願い、タッちゃんと一緒にあたしも連れてって……」
あたしはタッちゃんの大きな背中にしがみついて顔をうずめました。
するとタッちゃんは、あたしを背に乗せて駆け出しました。
崩れた壁を飛び出して、あたしを広い世界へと連れ去ります。
「タッちゃん。
大きくなったねえ。
フカフカだねえ。
暖かいねえ。
大好きだよ。
タッちゃん。
あたし、あなたと一緒ならどこへでも行けるよ……
あなたに出会えて、幸せだったよ……」
あたしはタッちゃんの背に乗って駆けていきました。
夜の街を、
山の向こうを、
雲の上を、
月の裏側を、
星の輝く空を、
どこまでも、
どこまでも、
どこまでも……
……