八 「悪徳こそすばらしい人生を送る秘訣に違いありません」
小さな安アパートの一室に、扉を開けて入ってくる者がありました。
「オ――イ、帰ったぞオ――ッ。いないのか、寝ちまったのか」
廊下からの逆光が真っ暗な室内に男の影法師を落とします。手探りに玄関の明かりを点けました。そして目の前につっ立っているあたしをようやく見つけてくれました。あたしはこの男のやってくるのをこうしてずうっと待ち構えていたのです。つかの間目を見合わせるあたしと男、その後ろでひとりでに扉が閉まりました。
「お
兄さん、どうぞお控えあそばせ」
聞けばお姉さまはR団を抜け出して以来このゴースト先輩と同棲していたというじゃありませんか。仲のおよろしいことで。お姉さまのおっしゃる愛というのがこれですか。こんなつまらない男にかかずらうのが愛ですか。
あたしは立ち上がり、なるたけ丁寧に申し上げました。「お邪魔いたしましてご免あそばせ。本日はお姐さんにうかがいまして、お
兄さんがお帰りになられるのを三尺三寸お借りしまして待たせていただきましたのよ。恐れ入りますがどうぞお控えあそばせ。向かいましたお
兄さんとはお見知りおきまして、ゴーストさまと存じあげますわ。私、縁たまわりまして継父はR団麾下ニドキング
幹部に従ってますの。渡世名と発しますはマダツボミと申しあげますわ。稼業駆け出しの青いつぼみでご免あそばせ。長らくご無沙汰のほどたいへん失礼いたしました。お
兄さんにおかれましてはお元気そうで何よりですこと。いつぞやは急にいらっしゃらなくなりましたので、皆さんたいそう寂しくしてらっしゃいましたのよ。この度は継父に代わりまして僭越ながらご挨拶にうかがいましたの。ぶしつけではございますがいっそご仲裁、お盃など略しまして
仲直りといたしませんこと。ではよろしくて、目下ご覚悟あそばせ……」と微笑んで、ムチをパチンと打ち鳴らしタッちゃんをけしかけました。
R団式に厳しく躾けたタッちゃんはあたしの期待通りに素晴らしい残虐性を発揮しました。
衰えて息も絶え絶えといった様子の老体でなお、ゴーストめをその牙と爪でメッタメタの八つ裂きにしてしまいます。
「そう、そうですよタッちゃん。あなたはとてもお利巧なモンスターだからよく分かってるわ。えらいですね。もっとよ、ほら、そこです。ほらモット、モット」といって、あたしはますますムチを打ち鳴らします。
仲直り式とは言葉ばかりの
制裁、私刑でした。
そこへ、縛り上げて奥の間に閉じ込めておいたお姉さまがまるで芋虫みたいに這いずってきました。
「やめて――ッ、その人に酷いことをしないで。私があなたを見捨てたことを恨んでいるのなら、まるで筋違いでしょう。私のせいなら、私が罰を受けるのではなくて」
「あら……お姉さま、いけませんわ」とあたしは振り向きます。「大人しくしていただきませんと。これがR団に反目したことの始末なんですから。そちらでご覧下さってもよろしくてよ。断末魔の悲鳴というものをお聞きあそばせ。ぞくぞくしますよ。とってもステキですよ。
ご安心くださいね。もちろんお姉さまへも
制裁入れてさしあげますから。お姉さまにおかれましては、ゴーストにさらわれたようなものですから、ちゃんと落とし前がつけられますよ。そうそう、お姉さまはこの方が大変気に入ってらっしゃるんですよね、ロマンチックですこと。でしたらこんな男は殺ってしまいましょう。エンコ詰めなんてつまりませんよ。誰だって愛着対象を剥奪されるのは苦しいものですから、でしたらこれを以てお姉さまも許されますわ。そうしたら優しいお姉さまはきっとあたしを愛情で包んでくださいますわよね。ねえ、そうでしょう。この男がいなければ、あたしはお姉さまとずっと一緒にいられたんですから。思う存分お姉さまににあまえることができたんですもの」
「なんの話をしているの。それはR団も何も関係のないまったくあなたの都合でしょう。私の方から言い出したのよ、R団を抜けたいって。嫌で嫌でたまらなかったのよ。それに応えて彼は一緒に逃げてくれたわ。どこか遠くの街へいこう。R団の名も聞かない遠くへ。悪徳を捨てて、堅実に日々の糧を得て、可哀相な人にはできる限り力になってあげるようにして、そうして罪を購おう。二人でそう誓ったわ。ゆくゆくは結婚だって考えていたわ。本当ならあなたにも祝福してもらいたかった。幸せになれたの。働くというのは素晴らしいことよ。だれかの役に立ってる、だれかが助かってる。そうして私たちもだれかから恩をさずかってるの。私があなたを置いてけぼりにしたことで、それをあなたが妬む気持ちも分からないではないわ。けれど愛情というのはそうやって人に強要するものではないのだと私は知らされたわ。心のうちから自然とあふれでてくるものなのよ。人間はそうやって気持ちを交換していくものなの。他人の幸福を奪うことばかり考えていては、いつまでたってもあなたの望むものは手に入らないわよ。あなたはもう正しい感覚を失くしてしまっていて、伝わらないかもしれない。でもそうなのよ。私はこの一つの真理に従って、あなたが可哀相だから助けてあげようとしたのに。昔だって今日だって。それなのにあなたはどうしてこんな恩をあだで返すような真似をするのかしら。あなたはてんで混乱しているようだわ。本当は心から愛情を欲しているのに、人を傷つけることでしかそれを求める術を知らないだなんて」
「お姉さまって誰にでもああして助けたり、優しくしたりなさるんですか。あたしはどこかのだれかじゃなくて、お姉さまの寵愛をいただきたかったんですのに……けれど、もはや世の道徳がいかにあるべきかなんて説教されたくありませんわ。お姉さまのおっしゃるように、ただ悪行があたしの幼い自尊心を辛うじて支えた、それだけが事実なのです。心が貧しいとおっしゃいましたね。そうかも知れません。お姉さまのような方にいくら同情を積まれようと、気高さがなくては人は生きていけないのです。お姉さまは変わってしまわれました。こんな小さな部屋で、そんな安ぽいお洋服を来て、何が幸せですか。お姉さまはこんなつまらない男にかどわかされたんですね。あたしを裏切るからこんな目に遭うんですよ。こんな暮らしにどうして満足できるっていうのでしょう。ざまあごらんあそばせ。そんなお姉さまでもあたしが可哀相ですか。助けてくれようとしたんですか。お優しいんですのね。お姉さまはやっぱりとてもお優しい方です。ですけどね、それがとても腹が立つんです。会えて嬉しいですって、ならどうしてあたしを置いていったりなさったのですか。ごめんなさいですって、お姉さまは裏切った相手へ謝って、自分ひとりだけすっきりとした気持ちになるんですか。裏切られたあたしがどんな思いで過ごさなければならなかったか、お姉さまはご存知かしら。頼る人もなくマフィアに取り残されたあたしが、保身のためにどれだけたくさんの屈辱にあまんじなければならなかったか……お姉さまから見捨てられたとき、
幹部さまの辱めを受けたとき、欲望のはけ口にさせられたとき、あたしはこの世のすべてからノケモノにされているんだって、徹底的に思い知らされました。結局お姉さまの優しさというものは、ご自分に向いたものでしかないんですのよ。でも別にいいじゃないですか。こんなあたしに罪を感じたりしないで、手前勝手に幸せになればよかったんですよ。罪ほろぼしなんて馬鹿げたまねはおよしあそばせ。あたしだって、ただあたしの願いをかなえるために悪行を働くんですから。確かに憎く思うことさえありました。でも今ではそういうよこしまなお姉さまを恨んだりしません。尊敬するばかりです。ますます愛情が深まるのです。その気持ちを受け取っていただきたいんですよ」
でもみなさん。
メノクラゲお姉さまがあたしをこんな悪人に育てただなんて思わないでくださいね。
あたし……本当は人間にいいも悪いもないと思うんですよ。
あたしみたくこうしてひねくれていたり、今のお姉さまみたく美徳にすがったり、それから自堕落だったり、自惚れていたり、それらがせめぎあって世界ができあがってるだけなんだって思うんです。
だからあたし、何が正しいとかって人に押し付けたり、押し付けられたりするの、もうやめたいんです。
「ごらんあそばせ。これは怪獣用のムチですわ。人間に怪我をさせるのに充分な代物ですよ。これを本気で打ち付けられたらどれだけ痛いことでしょうね。そんなことをしたら壊れてしまわれるかもしれませんね。お姉さまがあたしを置いてきぼりにできたのは、けだしその愛着があたしに向いていなかったためでしょう。ですからひとつR団式の調教を試みますわ。条件付けモデルは愛着理論にとって代わる……でしたわよね。ほらあの交遊会を思い出してください。お姉さまの手解きを受けて打ち付け合ったあのムチのことですよ。懐かしいですわ。そういえばお姉さまは昔、怪獣の躾がお仕事でしたわね。条件付けの後に売り付けられたモンスターがそのあとどうなるかご存じかしら。ムチで打ち付けられないのが不安で不安で、最後には壊れてしまうんですよ。発狂して死んでしまうんですよ。ああもっと罰を受けたいと思って、そうしないと自分にはぜんぜん価値がないと思って、気が狂ってしまうんですよ。ご存知かしら。お姉さまはこのように悪のしもべだったんですよ」
「ヒ……ヒエッ……やめて。私の罪を思い出させないで。いつだって罪悪は私の心をズタズタに引き裂いていくの。どれだけの人の心を苦しめたか、どれだけの怪獣を不幸にしたか。背徳の刺激のすさまじさに死んでしまいそうになるのよ。どれほど善行を積んでも、あの死にたくてたまらない気持ちはついになくならなかったのに」
あたし、お姉さまに出会えたことは、本当にすばらしいことだったと思うんですよ。
しょうがないじゃないですか。
お姉さまに出会えたのは奇跡みたいな出来事でしたけど、本当に奇跡みたいな出来事でしたけど、そのせいで悪徳の道に進んだなんて思いません。悪徳万歳する気なんてありません。
お姉さまもあたしも、そういう風に育てられた、ただそれだけなんです。
「お姉さまが欲しがってるのは死ではありませんわ。それは罰なんです。ムチ打ちなんです。ほらどうです心地がいいでしょう。ほら、ほら。どうして心地がいいんですか。お姉さまはね、ただ罰を欲していただけなんですよ。年端の行かない小娘に悪徳の道を案内した背徳の罰を待っていたんですよ。長い間ずうっと待ちわびていたんですよ。お姉さまのおっしゃる誠実な暮らしなどというのはそういうことなんですよ。お姉さまはなぜR団が悪事にモンスターを使うのか本当のところはきっとご存じないでしょうね。それはですね、そのほうがずっとラクチンだからなんです。人を不幸にすることが嫌で嫌でどうしようもなくっても、命令するのは簡単なんです。後悔も罪悪感もないんです。命令されて服従するのもそうなんです。どんな悪事も自分のせいじゃないって思えるんです。お姉さまが苦しんでらっしゃったのはきっとそれが心の底から逃げ出したいと思ってしまったからに違いありませんわ。ということは、お姉さまこそ本当に背徳を背負うべき本物の悪人ということになりますね。男と二人駆け落ちするのはさぞかし心地よかったでしょうねえ。きっと楽しかったでしょう、分かりますよ。だってその背後には背徳があるんですもの。それをもっと心地よくしてあげましょうか。こうして罰を受ければいいんですよ。背徳というのは快感を劇的に増大させる媚薬なんです。この懲罰によって罪悪はお姉さまの身体に染み付いて忘れられないくらい素晴らしい快感がやってきますよ」
「そうよ、本当は恐ろしくてたまらなかったのよ。だから罰が欲しかった。私が悪かったの。あなたを裏切ってしまった。ごめんない、ごめんなさい、ごめんなさい。もっと罰を、私に罰を与えてエ――ッ」
気づくとタッちゃんはゴーストとモミクチャになったままぴくりとも動きませんでした。
予感はしていましたし、おくびにも出しませんが、心の奥ではとても悲しい気持ちでいっぱいでした。
タッちゃんと、それからお姉さまと、いつまでも笑って暮らせたらいいなって、ずっと願ってたんです。
もう叶わないんですよね。
どうしてこうなってしまったか、ここまでお聞きくださったみなさんでしたらお分かりになったでしょうか。
今度こっそり、あたしにも教えてくださいね。
「さて、お分かりですね。あたしはお姉さまと違って、このようにして欲しかったものすべてを手に入れることができるのですよ。道徳とか、誠実だとかいった陳腐な理屈にうつつを抜かした人間は、あたしのような悪人の前に容易にひれ伏すのです。悪徳こそすばらしい人生を送る秘訣に違いありません……アハハ……ハハ……ア――ハーハハハ……」