七 「悪事をなすたびにあなたの心は貧しくなっていくのよ」
お姉さまとお別れしてから三年の月日が流れました。
その夜、サイレントヒルズという地方都市の少し寂れた歓楽街の片隅で、あたしは数人のゴロツキに取り囲まれておりました。
彼らは精一杯にドスを利かせた声音で、「こちらで
商売をするならね、お嬢さん、ショバ代はきちんと払ってもらわねばならないな。しからずんば少し痛い目を見てもらおうか」といったようなことをおっしゃいます。
けれどお嬢さんだなんてまったく馬鹿にされたものです。あたしがR団の黒尽くめの制服を着ていないばかりに、そこいらの小娘と一緒にされたのではたまりません。
モンスターを使って適当に追い払ってしまうのは簡単ですが、しかしここの親分さんに目をつけられてはあたしも面倒な身の上です。いっそこれを機会にひとつスジを通しておくのもよいかしらなどと思案してましたそのとき、あたしたちのあいだに割り込んで口を挟むものがありました。
「恐れながらうかがいます」女性でした。言葉通りいささか強張りながら、それでも凛とした声で、「さきほどから拝見しておりましたが、立派な殿方が子供一人によってたかって一体なにごとでしょう。あなた方がもしその子へ乱暴を働こうという了見でしたらどうぞおやめなさい。人を呼びますよ。警察へ出ますよ。社会正義はきっとあなた方を許しはしませんよ」
間の悪いことに彼女が現れたことであたしは
面通を通すこともままならなくなりました。まったくもっていらぬ世話です。
けれどこの横槍にゴロツキたちがよそ見をしたスキをあたしは見逃しませんでした。
おもむろにモンスターカプセルからタッちゃんを繰り出して攻撃を指示します。
タッちゃんは眼にも留まらぬ電光石火の
早業で、アッという間にゴロツキたちを伸していきました。
ところがこの大ねずみが男たちを一人二人と組み伏せているあいだに、一人の大男が無防備なあたしをガツンとやりました。
あたしは建物の壁面に
額をしたたかうちつけられて目がくらみます。
指示のとどこおったタッちゃんはそれでも暴れまわっていたようで、あたしの意識がシャッキリしてきたころにはゴロツキたちは一人残らず伸びてしまっているようでした。
そしてついにはさきほど割り入ってきた女性をもその鋭い牙にかけようとしたタッちゃんを、あたしはムチで鋭く打ちつけます。
「えい、分からない子だね」とあたしが叫びます。「ヤクザ者と堅気者の区別もつかないか。これでもか、これでもか」
そうしてしきりにタッちゃんをムチ打ちます。
この大ねずみ怪獣ももう年ですし、こうしたムチ打ちというものはくたびれたモンスターの体力なんてかんたんに奪い去ってしまうものです。
あたしはひとしきりの懲罰を行った後、ムチ打たれ縮こまったタッちゃんの尻尾をむんずとつかみあげ、驚いてポカンと呆けてしまった女性を尻目に、さっさとその場から離れることにしました。
ところが、「待って」と先ほどの女性が追いすがってきて、「額が割れているわ。そんなお顔で一体どこへいくつもりかしら」とハンカチをあたしの額に押し当ててきます。
かと思うと急に驚いたような顔をして、「アレ、あなたは……あなたは……お顔をもっとよく見せて頂戴」とあたしの顔を覗き込みます。
そして必死に払いのけようとするあたしを捕まえて、こんなことを言い出すではありませんか。
「……ええ、きっとそうよ。こんなところで偶然にあなたと再び出会えるだなんて、なんて素晴らしいのかしら。アア、私は運命というものを感じないではいられないわ」
ところがあたしの方ではこんな人はてんで存じません。ややもすると気の触れた御仁ではなかろうかと、なにやら気味が悪くなってしまいます。
「どちらさまでしょうか、オクサマ。いらぬお世話でした。どうもありがとうございます。身の程をわきまえませんと今に痛い目をみますよ。それではどうか夜道お気をつけて。ごきげんよう」
「マア、そんな他人行儀な口の利き方はよして欲しいわ。私よ、メノクラゲ、あなたのお姉さんよ。もちろん覚えているでしょうね。
件の組織にいたころはあんなに仲が良かったんですもの。
心配していたのよ、あんまりに突然のお別れで、ろくにあいさつも出来なかったものだから」
「エ……エッ……」とあたしは思わずまごつきました。
この方は今なんと申したでしょう。
お姉さまですって、いいえ、そんなはずがありませんよ。だってあたしのお姉さまはそれはお美しい方でいらっしゃって、こんなに胸の張った、いやらしく尻がずんと突き出たご婦人とは、とても似ても似つきません。コンナ人をあたしは知りません……よくよくお顔を見てみましてもずいぶんふくよかでそれでいてくたびれた、その上なんとも商売気のあるお化粧などしていて、あまりの印象の違いが信じられません……
それにも関わらずこの女性は、
「あなたはちっとも変わっていないわね。まるであるときを
境に成長をやめてしまったみたいだわ。背丈まで出会ったあの頃のまんま。それに隠しているけど袖口からのぞく沢山のアザ。いつも何かにおびえて不安そうな瞳。アア、私の可愛らしい唯一の妹」と言ってあたしを優しく抱きしめてくださいました。「困ったことがあったらいつでも私を頼ってちょうだい……」
ふんわりと優しい香りにつつまれて、脳裏から懐かしい記憶がようやくよみがえってきました。
以前にもきっとこんなことがあったんですね。
ずっと昔もあなたはそう言ってあたしを抱きしめてくださったのです。
あれから……そうです、お姉さまがあたしの前から姿を消してから、すでに三年の月日が経とうとしていました。
けだしあたしはこの三年のあいだ、お姉さまとの思い出をあんまりにも美化していて、まるで空想の人物を記憶していたのかもしれません。それでお姉さまのお顔を見ても気付くことが出来なかっただなんて……
「あなたは私のこと……忘れてしまったの……」とお姉さまが寂しそうにつぶやきます。
……でもやっぱりお姉さまはお姉さまでした。ちっともお変わりないお姉さま。間違えようもありません。あたしに優しくしてくださるこのお声はやはりお姉さまに違いないのです。
それまでの思いが胸いっぱいにこみ上げてきて、いつのまにか涙があふれてきて、たまらずお姉さまにしがみつきます。
「お姉さま……お姉さま……アッ……アッ……大変な失礼をいたしました……いいえ、いいえ、忘れるわけがないじゃありませんか。だってあたし、本当はお姉さまに一目だけでもお会いしたくって、この街に暮らしているらしいという噂だけを頼りに、こうして一人この街にやって来たんです……お姉さまにお会いしたくてたまりませんでした……だからあたし来る日も来る日も、見知らぬ街で待ちぼうけていたんです。確かな噂じゃありませんから、お姉さまがもしこの街にいらっしゃらなければどうしようかと思うこともありました。まかり間違ってとっくに
情死でもなさっていたらと思うと胸が張り裂けそうでした。出会えたとしてもずいぶんとご無沙汰ですから、もしお姉さまがあたしと分からなかったらどうしようかと不安でたまりませんでした。そうしてついにこうしてお会いできましたのに、あたしというのはお姉さまのお顔さえ覚えていなかっただなんて、申しわけなくて、恥ずかしくてたまりません……アア……お姉さま……」
「そう、会いに来てくれたのね……うれしいわ……いいえ、いいのよ……あなたは幼かったし、それに私の方だってこのねずみ怪獣を見なければ思い出せなかったかもしれないわ。
それにしても驚いたわ、モンスターをあんな使い方するんですもの。R団式にメチャメチャにムチ打たれてしまって可愛そうに……これまでもずいぶん酷使してきたのでしょう、くたびれてしまっているのがよく分かるわ。昔はあんなに元気のいい子だったのに、私感心できないわ……いいえ、それは私があなたに仕込んだのだったわよね。ごめんなさい。そうよ、私一言謝りたかったの。あなた一人を組織に残して逃げ出してしまったこと、本当に謝っても謝りきれないわ……」
「そんな、謝らないでくださいませ。タッちゃんはこれでいいんですわ。だってこの子はあたしを喜ばせるためだけにいる、ただの
道具ですもの。それにもし勢いあまって死んでしまってももう大丈夫です。こうしてお姉さまにお会いできましたもの。
今ならお継母さまのお気持ちが分かります。慣れてしまえば別に可愛そうだなんて思わないんです。昔お姉さまのおっしゃった通り、むしろとっても心地がいいの。
ねえ、お姉さま、もっとお話をしましょうよ。あたしのこと、お姉さまのこと……
あたしたちの組織といえば、今では公安に目を付けられてどこの街でも面倒な身の上でしょう。ですからあたし、ニドキング
幹部の下で潜んでいたんです。
美人局をして暮らしていたんです。いいえ、ニコニコと楽しく暮らしていますわ。タマはあたしじゃないんです。とっても面白い方法なんですの。あたしが考案しましたのよ。そこらで若い男や娘をさらってくるんです。なるべく器量のいい。トレーナーが簡単ですわ。トレーナーなんてものは誰だってお金に不自由していますからね。それらを
金持ちに売りつけますの。いくらでも乱暴していいって言って、そのあと
強請りますでしょう。そうすると乱暴した負い目があるものですからいくらでも払いますのよ。ああ、若者ですか、そんなこと。そこらに打ち捨ててしまえばいいんですよ。だってこんなご時勢でしょう、トレーナーの野垂れ死になんて珍しくありませんもの。黒狩りのせいで怪獣はサバくのに難儀しますから、こうしてお金を稼ぐんです」
黒狩り……というのはR団残党に対して行われる熾烈な取締りを指します。三年前、企業テロが失敗に終わったことを引き金としてR団は内部抗争が激化、反社会的勢力の取締まりは強化され、R団は公然と活動することが難しくなりました。現在ではあたしを含む一部が地下に潜みながら、組織復活の機会をひっそりと待っているというわけです。
「本当です、嘘なんかじゃありません、本当ですのよ。あたしは何にもしなくていいんです。モンスターを売りつけるよりよっぽど楽な商売です。心も体も傷つきませんし、暴力を振るう人もおりません。だからあたしは今でもちゃあんとお姉さまに一途なんですのよ。本当ですのよ、信じてくださいますわよね。泣いたりなんてしませんわ。誰も気にかけてくれませんもの。逃げ出したくなんてなりませんわ。どこにも行くあてがありませんもの。
いつかお姉さまがおっしゃったように悪事というものがどれほど心地よいものか知りました。三年前のあたしといえばいつまでたっても悪人になれないので、お姉さまは去ってしまわれたんですよね……でもお姉さま、あたしも今ではこんなに悪いことができるようになりましたよ。ですから、ですからね、お姉さま、アア、あたしのお姉さま、これからはあたしとずっと一緒にいてくださいますよね」
「……なんて恐ろしい話をするの……あなたは……あなたは……私が目を離した間にきっとあの忌々しい
幹部に洗脳されてすっかり悪人になってしまったんだわ。
あなたに更生の機会を与えるには一体どうしたいいのかしら。きっと警察に捕まればあなたは相応の罰を受けるでしょうけども、事情を何も知らない刑務官はきっとあなたをいじめ抜くだけで満足するに違いないわ。
なら勇気を振り絞ってあなたを受け止めましょう。だってそれは私にも原因があるのでしょう。
R団の姉貴分などといって、一人ではやっていけないためにあなたを引き入れてしまった。ごめんなさい。本当にごめんなさい。
あまつさえ、あのときの私はあなたの好意に答えられなかった。あなたが私のような者を無批判に敬愛することが信じられなくて、恐ろしく思えて突き放してしまった。それがあなたの人生を狂わせてしまったのね……
青春の一時期、社会に挑戦しようという志を持つ過ちは誰にでもありえるわ。私もそうだったから分かるの。でもそれはあなたのせいではないのよ。いいこと、あなたは多くの理不尽の中で暮らしてきたので、他人に同じように振る舞うことで満足が得られるのだと誤解してるわ。そんなことをしたところでどれだけ心が満たされるかしら。友人と喜びと悲しみを分かち合うことで本当の安らぎが得られるというのに。他人を強いたげ搾取するたびにあなたの心は貧しくなってしまって、それをどうにかしようとますます悪行を重ねていく。そうした悪循環をあなたはニドキングに利用され、助長させられているに違いないわ。だから、あたしがきっとあなたを助けてあげます。黒狩りから、いいえ、ニドキングの束縛から救ってあげましょう。あなたの心を真実の愛で満たしてあげるわ。誠実に生きることで充足した日々を送れるということをあなたに教えてあげるわ。
さあ、これから私の住処へいらっしゃい。傷の手当をきちんとしないといけないから」
「……アッ……エッ……お姉さま……一体何を……おねえさま……」
一体全体お姉さまは何をおっしゃっているのでしょうか……どうして褒めてくださらないんでしょうか……変ですね……なんだかおかしいです……どうして以前みたく一言おっしゃってくださらないんでしょうか……えらいわね、いい子ねって……ただ頭をなでて欲しかっただけなんです……
それをごめんなさいだなんて、謝られたら空しいじゃないですか、切ないじゃありませんか……あたしに謝って、あたしを否定して、それでお姉さまは満足なんでしょうか、すっきりなさるんでしょうか……あたしはお姉さまのお言い付けどおりに、お姉さまがおられなくても、立派に悪行を積んでいますのに……どうしてそんなことをおっしゃるんですか……どうして……
あたしはただ認めて欲しかっただけなんです……あなたはあなたでいいのよって……そうしていただけたらあたしは、ただそれだけで……それだけで満足しましたのに……それなのに……それなのに……お姉さまはこうして変わってしまわれて……でもあたしにはもう……いままでの自分を無下にすることなんてとてもできないのです……
あたしの手でお姉さまを取り戻そうと思いました。