六 「あたしは悪人にならなければならなかった……」
毒ガス作戦は開始されませんでした。
それというのも、作戦前夜にメノクラゲお姉さまが行方をくらましてしまったのです。
この作戦は、お姉さまの使役する毒ガスモンスターがいなければ実行に移すことが出来ません。
さて大変なことになりました。
あたしの提案のために出入りの手筈が大きく狂ってしまったのです。
急遽
幹部の指示のもと、団員の中から決死隊が選び抜かれ、各所に送り出されました。
街中に凶暴な怪獣を放ったり、人質を取って怪獣病院や地下通路に立てこもったりして、警官隊をおびき寄せるのです。
そしてある者は怪獣を
殺られて取り押さえられ、またある者は警官隊の銃弾に倒れ、結局彼らの多くがもう基地に戻ってくることはありませんでした。
噂によれば、メノクラゲお姉さまはこの出入りの数日前から高飛びの用意をしていたといいます。それもよりにもよってあのゴースト
先輩が一緒だったらしいと聞いて、あたしはそれはきっと何かの間違いだと思いました。
だって、それではまるで、あたしのお姉さまとあのゴースト
先輩が駆け落ちをしたみたいに聞こえるではありませんか。
お姉さまがあたしに何も言わずにそんなことをなさるなんて……裏切られたような気持ちになりました。
それというのもあたしがメノクラゲお姉さまを信じていたばっかりにです。
そうです、あたしはお姉さまを信頼していたのです。
しかし元来、人というものは信じてはならぬものなのだということを、このとき初めて気付かされました。
自分の都合で人を信じ、ひとりでに裏切られたような気分におちいるなどというのは、まことに手前勝手な事情といえましょう。
それでもあたしはどうしても辛抱たまらない気持ちなのです。
「お前は一つ過ちを犯した」
打ちひしがれるあたしにニドキング
幹部が語りかけます。
「お前とメノクラゲは懇意であったらしいな。つまりお前は自分の欲のためではなく、他人の名誉のために働いたのだ。お前はメノクラゲのR団の中での立場を知ったがために、彼女が活躍できる機会を作り出そうとあのような進言を思いついたのだ。しかし他人の問題をどうしてお前が勝手に解決できるというのか。俺はいつかお前に教えてやったつもりだぞ。ただ自らの欲望を追及することこそ、間違いの起こりえない確かな道だとな。お前が欲望に対してより素直になるためには、お前にとって唯一必要なものは何かということを考えてみることだ」
「あたしがあのような思い付きをしましたのはお姉さまの名誉のためなどではありません。ただお姉さまが喜んでくれると期待したばかりにそうしたのです。それがこのようなことになるなんて」……
幹部はずっとあたしのそばにいてくださいました。そしてこんな話をあたしにしはじめました。
「およそ八歳から十二歳に前後して訪れる前思春期はまたギャングエイジとも呼んで、人間の人格形成に重要な精神成長期の一つである。
まったく自己中心的であった幼児期を終え、同性同年輩の他者と友好的な関係を結ぶことが出来るようになる、すなわち友人関係のことだな。この過程において人間は初めて他者を通して外界を認識し、安全保障の有効性を学習し、他者と自らとの同一視を体験し、そしてここに初期的な愛情を発生する。これを前思春期における
静かな奇蹟と呼ぶ。
なぜこれが重要かというと、たとえ幼児期までの生育環境にいくらかの不全があったとしても、この過程を満足に経験することができたならば充分に健全な精神を育むことが可能だからなのだ。
お前の家庭の事情についても俺はよく知っているぞ。母親にいじめぬかれて育ったようだな。
そこでお前は、失われた親子関係をメノクラゲとの友人関係において再演し、幼児期に充分に得られなかった愛情をそこにおいて補填しよう試みていたのだ。これこそが人間が自然本来的に保有している能力だと認められよう。
ところがお前の不幸というのは、このメノクラゲの愛情表現を後輩を育成するための偽りであると気付けなかったことにある。
お前はメノクラゲと
盃を分けてはおるまい。
盃を分けるという行為は我々にとって互いの安全を保障することを明示し合う儀礼なのだ。
ところが我々は
盃を分けた兄弟、下ろした親子相手であっても決して信用したりはしない。信用というものが必ず裏切られる可能性があるということを知っているからだ。だからこそ
盃によって築かれた関係性を犯すものには制裁を与える。信用ではなく、そういう約束事の上に相互安全の関係性を築くのが我々の仁義というものだ。信用に由来しないからこそ我々の関係性は強固なのだ。
お前はこの
仕来りに従わず、ただひたすらメノクラゲを妄信し、その結果、メノクラゲの裏切りを受けた。すなわち
静かな奇蹟を失敗したのだ」
「
盃を受けなかったのが……あたしの犯した間違い……」
幹部のおっしゃる仁義とはすなわち、自らの前思春期的体験をマフィア特有の擬似家族関係によって回復しようという試みなのでしょうか。
だからこそゴースト
先輩は前思春期的体験の不要から仁義をおろそかにしていて、お姉さまを巻き添えに裏切ることさえできてしまう。
一方あたしにとってはそれが必要不可欠だったと、そうおっしゃるのでしょうか。
「そうだ。
このままではお前は人格の荒廃を招くことが予想されよう。他者を理解できずに恐れ、あるいは愛情を強要し、そしてより深く他者に信頼を寄せることで裏切られる恐怖から逃れようとあがく。
そうして自ずからますます深く傷付いてゆくだろう。世間の者は目まぐるしく変わるお前の感情にいちいち構ってやれるほどお人好しではないからな。
両親の愛を受けられず、友にさえ見放されたお前がほかにどのような生き方を見つけられようか。
これを避ける手段はただ一つだ、俺の盃を受けよ、お前は俺の養女となるのだ。
前思春期には相互安全の関係性を持つことが必要であるというのに、今のお前に誰がこれを取り結ぼうというのか。
しかし俺ならばお前に父親という役割を演じてやって、新たな、そしてもはや唯一の人間的関係性を構築してやることができる。身に結ぶすべての糸が切られ地の底に崩れ落ちたお前という存在に、ただ一本の確かな糸を括り付けて現世に繋ぎとめてやることができるのは、娘を自らのもとに支配しようと目論む父性的存在でしかありえない。
お前を救ってやれるのは俺だけだ。お前はこれより俺の養女となるよりほかに道はないのだ」
「そんな……いいえ……いいえ……そんなはずはありません」
あたしはゾッとしてふるえ上がります。
幹部の誘惑の忌まわしいこと……予言されるあたしの未来のおぞましいこと……そんなときあたしが思い馳せるのは、あたしにこんな仕打ちを強いたメノクラゲお姉さまなどではなくて、唯一あまえることの許されていた、あの継母から助けてくれることさえなくともあたしを裏切ることなんて一度もなかった、実の父、その優しい顔。
「ああ、あたしには本当のお父様がいます。確かに生きております」
ところがそれは恐怖のあまりかおぼろげで、遠い昔に生き別れてしまった人のようにさえ感じられて、なんともたよりなく……
「なに」幹部はあたしに詰め寄ります。「お前がどうして家族のもとに帰れるのだ。
愛着理論の指し示す通り、家族関係というのは血縁によって成立するものではない。日々の生活の中でこそ育まれるものだ。
お前はR団に入ってからというものずっとアジトで暮らしておるではないか。貸し与えられた
閨に寝泊まっていて、実の父に会いに行ったことなど一度たりともないではないのか。
よいか、そのためにお前の本当の父親というのはお前のことなどとうの昔に忘れてしまっているのだ。そればかりかお前の弟やお前にとっては意地悪な母親と、お前がいなくなったことにせいせいして、水入らずで仲良く暮らしているに違いないのだ。
悪の組織に身を捧げている者を、堅気者がどのような目で見ると思っている。
お前がこれから父親に会いに行こうものならば、あるひとつの幸福な家庭を破壊するためだけに彼らの過去の汚点をわざわざ見せ付けに行くようなものなのだぞ。それが今のお前にとっての家族なのだぞ。
ましてお前というのは父親から預かったモンスターをどのように扱っている。今や父親との関係を証明するのはもはやそのくたびれたモンスターしかおるまい。
ところがお前はそれをR団式に馴致して、ムチ打って調教し、悪行の供に使役しているではないか。
そのモンスターはお前にとってなんなのだ。お前にとって実の父とはなんなのだ。お前みたいなものがどうして本当の父親との間柄を主張できるというのか」
そうです、あたしに付き添っているのは
幹部だけではありませんでした。あたしのそばにはいつも、いついかなるときだってタッちゃんがいてくれていたのです。
ふれあい広場でトレーナーに嫌がらせをされたときだって、R団に入り立てで不安だったときだって、お姉さまがいなくって心寂しいときだって、それに今だって部屋の隅に小さくちぢこまりながら、
幹部に組み伏せられたあたしのことをつぶらな瞳でじっと見つめているのです。
あたしは
幹部をようやく押しのけて、タッちゃんのもとへ這っていきました。そんなあたしを
幹部は止めはしませんでした。
あたしの小さな可愛らしいねずみ怪獣は、あたしがこれまでに与えた傷跡を生々しく身体に刻んでいました。
だってあたしたちは怪獣病院でモンスターの治療なんてさせてもらえやしないんですもの。
R団の中でも
三下のあたしは安価な傷薬しか分け与えてもらえないので、こういったように怪我を満足に手当てしてやることすらままならないのです。
「タッちゃん……」と、あたしはタッちゃんを抱き上げようと手を伸ばします。
するとタッちゃんはおびえた様子であたしの差し出す手を避けるのです。それを見たとたん、
「どうして……ネエ、どうして逃げるの、ネエッタラ」あたしは頭にきたものですから、気付けばタッちゃんにムチを振るっていました。
ビシャリと叩かれたタッちゃんの小さな身体が転がってうずくまります。
はっとしました、望まぬ行動に対して速やかに懲罰を与える、普段の調教を条件反射的にやってしまったのです。
そうして抵抗のなくなったタッちゃんを抱き上げると、あたしはいよいよ悲しくなりました。
だってムチで引っぱたかなければもう抱き上げることすら出来ないのですよ。腕の中でぶるぶると震え上がっているのですよ。ああ、きっとあたしにはもう以前のようにタッちゃんと心から触れ合うことができないのでしょう。それがあんまりにも切なくて、
「アッ……アッ……あたしはもともとタッちゃんを守りたくってR団に入りましたのに……それなのにあたしというのはこのようにタッちゃんを傷付けています。こんな馬鹿な話があるものでしょうか。今ではもうムチで打ち付けなければあたしたちは一緒にはいられない関係になってしまっただなんて、そんな、そんな……」
あたしの悲鳴を聞いて
幹部はニッタリとしながら、
「お前のモンスターへの傾倒もまた必要な友人の代替物に違いない。もしこれから俺と健全な人間関係を築いていけたならば、いずれ自然と忘れていけるものと考えられよう。
お前がこのモンスターをR団式に調教すること教えたのは誰だ、あのメノクラゲとの交遊の中でのことだろうに。メノクラゲがここにいない今、お前に必要なものは本当の父親でもモンスターでもない、この俺なのだよ。
さあいい加減観念するのだ。俺にひざまずけ。
調教を受けよ。悪徳に従え。その身を捧げよ。お前は俺のものなのだ」
怒鳴りながら
幹部があたしをものすごい力で組み敷きます。
「なにがいけなかったんでしょうか。あの家から逃げ出さなければよかったのでしょうか。お姉さまと仲良くならなければタッちゃんは今でもあたしに懐いていてくれたのでしょうか。お姉さまと仕来りに則る方法で打算的擬似家族関係を結んでいたら、お姉さまのために働いたりしなければ、身の程知らずにもこの男を篭絡しようとしなければ、何か違ったというのでしょうか。あまりにも理不尽です。一体あたしのどこが悪かったのでしょうか。悪いことなんてこれっぽちだってしてはおりません。だってあたしがしたいことをしなければ、望むことを望むようにしなければ、何一つ手に入りはしないではありませんか。だってそうでしょう、あたしを助けてくれる人なんて初めからいないんですからネエ。
それなのに……そ、そうか……ハハッ……そうだったんですか……それならばあたしは悪人にならなければならなかった……悪行の快感だとか、仁義だとか、あたしというのは偉そうに口先ばかりで御託をならべて、いまだ根っから悪徳を信奉することができないでいたのですね。愛情も、満足も、すべて自分の手で他人から奪い取るべきでした……ちっぽけなねずみ怪獣など早々に打ち捨ててしまわねばならなかった……愛着感情に支配されていたのはあたし自身に過ぎなかったのです。悪人になることではなく、愛着対象を失うまいとすることにばかり気をとられていて、だからお姉さまにも捨てられてしまった……なら、それならドウシテお姉さまはあたしに優しくなどなさったのですか……ドウシテ……。はじめからあなたがそうなさらなければあたしはきっとこんなところとっくに逃げ出していたでしょうに。そうです、あたしというものはいつだって誰かにすがっていなくてはいられない性分だったのです。
アアッ……
幹部さま、後生ですからそんな痛いことはやめてください。いくらなんでもあたしには耐えられそうもありません。謝りますから、どうぞお許しください。そのように乱暴をされると身体がブルブルと震えだして止まらなくなるんです。頭が真っ白になって何も考えられなくなってしまうんです。背筋が凍って身動きが出来なくなってしまうんです。やめてくださいまし。なんでもいたします。言うことを聞きます。いい子にいたします。言いつけを守ります。ごめんなさい、ほんとうに、ほんとうに、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。ヒ、ヒエ――ッ……誰か……誰か助けてエ――ッ……お、おおお父さまアア――ッ……」