五 「他人に尽くすことこそ、一番低俗な悪徳なのだ」
次の交遊会のこと、このときもメノクラゲお姉さまは何か用事があったらしくいらっしゃいませんでしたので、あたしは大変寂しい思いをすることになりました。
近頃のお姉さまときたらあたしをたびたび一人ぼちにしてしまうことがあって、交遊会の日にはきっと思いきりあまえてやろうと考えていましたから、それは落胆したものです。
あの腹の立つゴーストという
先輩もまたこの席にいなかったのがせめてもの救いと言えましょう。
お姉さまがいらっしゃらないとなれば特にお話しする相手もいないあたしは、
先輩の一人からニドキング
幹部のお相手をするようにと申しつかりました。
幹部さまのことはもちろん尊敬していましたが、いざ二人きりでお話ししようということになると、あたしはとても緊張してしまいました。
そんなあたしに、
「R団に入ってみてどうかね」と
幹部さまがあたしを怖がらせまいと気を使い努めて穏やかに聞きます。「悪事を働くことが怖くはないか」
「まだきちんと活動したことがありませんから」あたしはなんとか受け答えします。「せいぜい配達をして小遣いをもらうといった程度なんです。けれど、可愛がっていたモンスターを、今まで間違った接し方をしていたタッちゃんをはじめてムチで打ちつけましたとき、感激にふるえました。きっと悪事というものはこのように気持ちがいいものだろうと思えますわ」
「お前はなかなか感度がいい。R団員として見込みがあるようだな」と
幹部さまはあたしをなでて下さいました。
あたしは褒められたことに気をよくして、「ところが、ある
先輩さんがこのようなことをおっしゃるのです」とゴースト先輩との口論の件をすっかり話してしまったのです。
すると「けしからんな」と
幹部さまがおっしゃいます。「確かにお前の言うとおり、悪人にも仁義というものがある。
R団とはもともとジム付けトレーナーの互助組織のようなものだったのだ。今の時代、トレーナーを目指して夢叶わなかった者が働き口も見つからず路頭に迷うというのが一種の社会問題になっている。トレーナーという職業はやれ資格だの認定だのとうるさいものなのに、一度道を踏み外せばそんなものは何の役にも立たない。そういう者たちはほかにまともな職業にはつけない、モンスターカプセルの投げ方を知っていたところで決して役人にはなれんのだ。お前の言う団員も似たようなものだ。今現在R団がこれほど勢力を伸ばしているのは、
偏にはこういった者たちをいくらでも受け入れているためなのである。我々の組織は国家によって反社会的存在とひとくくりにされてしまっているが、社会というものも所詮は個人の集合にほかならないよ。このような者たちが相互扶助を行うことで辛うじて人間社会に踏みとどまることのできる場がどうして社会を侵すものか。何者かに必要とされているからこそ、我々は社会の寛容によって成り立つ。この互助関係性をもって我々は仁義と呼び習わすのだよ。
悪行であることによってただちにその品位は損なわれぬということは以前にも話したな。今日はそこからさらに考えを深めてみようではないか。もし我々が彼らを雇用しなければどうなる。国はトレーナー業を推奨こそするが、落ち零れた者たちに対して何の保障も行わない。こういった視点でものごとを捉えてみたときに、果たしてどちらが善でどちらが悪かまるっきり分からない、より社会を成り立たせているのはどちらかを考えてみれば、もはやはっきりと逆転して感ぜられることがままある。そのほかにも、国家が我々を弾圧する理由の一つに略奪行為というものがあるな。我々は確かに他人の幸福を奪って我が物とする。しかし例えば一つのパンを十人に分け与えたとして、誰一人として満足はすまい。それならばただ一人が一つのパンを喰らい満足を得るほうが、より多くの者が幸福になったとは言えまいか。こうした事実を考えてみたときに、不平等というものが、引いてはそれを生み出す略奪というものが、憲法も定義するところの公共の福祉を真に全うするものであると言えるではないか」
「悪徳が本当に人間の目指すべき真理であることは理解できます。しかしあなたさまのおっしゃるように、一体どれがさげすまれるべき美徳で、どれが敬われるべき悪徳であるのか分からなくことがあるようです。そういったとき、あたしたちは一体なにを信じたらよいものでしょう」
「お前はそんなことも分からんか」と
幹部さまは笑います。「その指針となるものがつまり、自らの欲望というものだ。世間一般の道徳はかように見る立場によって変幻してしまう、非常に頼りないものであることは分かるな。そのようなものに行動の規範を則るなどというのは危険極まりない。ところが欲望というものは自らの心のうちの奥深いところから生まれてくる。その発生過程を考慮するなら、欲望とはただ自分だけのものである。他人の欲望を評価しようなどというのは、他人の庭に勝手に踏み込んでこの花は綺麗だの汚いだのというようなナンセンスな行為といえよう。欲望には人間の生まれ持った自然のままの姿が投影されている。それすらも疑えてしまうとするならばそれはすでに自我喪失、狂人にほかならない。道徳というものは個人の欲望を一意に縛り上げるものである。とするなら、道徳の反対として定義できる悪行こそが、人間の本質的な欲望に通じているものだと考えることができる。悪行というものがかように心地よいものである理由がすなわちこれなのだ」
そう説きながら
幹部はあたしの身体にべたべたと触れてくるのでした。
はじめのうちは
幹部なりにあたしを可愛がってくださっているものだとあたしも思うようにしていましたが、それがあんまりにもしつこいのでいいかげん気持ちが悪くなってきていました。
「ゴースト先輩は動物を可愛がりたいと思う気持ちこそが自分の欲望だと申しておりました」
「ええい、はなはだしく不愉快だ。お前は決してそのような考えを持ってはならんぞ。他人に尽くそうという考えこそ、この世で一番に低俗な悪徳なのだ。お前はこれを欲しがっているのだろうなどといって要りもしない親切を贈られる、まったく不自然な浪費行為である。自立した人間同士というものは必ず打算的関係で結ばれなければならぬ。互いの欲望をより尊重するならそれが理想の態度なのだ。一方モンスターというのは明らかに人間より下等な存在であるから、決して人間と同等に取り扱ってはならぬ。徹底して搾取すべき存在なのだ。それを人間の赤子のごとく愛で慈しむというのはつまり、一種の
性的倒錯にほかならないのだ」
あたしは実のところ、この
幹部の演説をいまひとつうんざりして聴いていました。
仰っているところはお姉さまの主張に近しいものでして納得もできますが、お姉さまのお言葉に比べれたらこの
幹部なんていうのはただ自分のしゃべりたいことをしゃべっているだけのように思えてなりません。
ですからあたしは適当なところで相槌を打って、聞き流してしまっていたのでした。ところが
幹部はあたしが本当に感激していると思い込んでいるようでした。
そこであたしはこの男にひとつ仕掛けてやることを思いつきました。
「ニドキングさまの仰りようはあたしの心に深く染み込んできます。ああ、どうぞ、あたしをしっかと抱きしめて頂けませんか」
「そうするとしよう」
そこで
幹部があたしの唇に吸い付こうとするのを避けて、「あら、いけませんわ。その前に一つ、あたしのほうからもお話を聞いていただかなくては」
「よし、聞こうではないか」と
幹部が促します。「早く述べよ。それはゴーストのやつめのケジメのことか」
「いいえ、あたしがそんなたれこむようなつまらない真似をするとお思いで」あたしはできるだけ回りくどくじらすように、「来週には出入りが予定されてますわね」
「うむ。諸君らには地下通路を封鎖する仕事を任せることになっている」
「それよりかもっと容易い方法がありましてよ」
R団が行う企業テロ……そこから警察の目を欺くため、地下通路に毒ガスを充満させて大きな騒ぎを起こすという計画がなされました。
そしてこの毒ガスを撒くという重要な役目を、メノクラゲお姉さまが担うことになったのです。
これこそがあたしが
幹部に提案した作戦でした。
怪獣を暴れさせたり、バリケードを張って立てこもったりするよりもずっと安上がりで手間も要りません。
それにこの地下通路というところには普段からガラの悪い
アマチュアトレーナーがたむろしています。そこへお姉さまのモンスターが毒ガスを撒き散らしたらどうなることでしょう。あたしはきっと、苦しむトレーナーたちの顔が見られるのです。
あたしに対して平気でひどい仕打ちを行ったトレーナーとかいう人たちが、毒ガスに苦し身悶えさせて、どんなに表情をゆがませることでしょう。
そうした期待に胸躍らせるあたしを見つけて
幹部が、「君は悪事によってますます美しくなるな」と申されました。
「それは嘘ではありませんことね」
ところが……
私はまだこのとき、自らの犯した大きな過ちに気がついておりませんでした。