二 「悪事は諸君の人生をより豊かにするのだ」
「たまむし」シティのゲームコーナーの地下に、秘密組織のアジトは隠されてありました。
薄暗く少しばかり埃臭い、倉庫みたようなその一室に、あたしとそのほかにも新しく入った団員十人ばかりが集められています。
それらはみんな黒尽くめの制服に着替えさせられていて、不安げな顔やよそよそしい仕草を盗み見合って過ごしているのでした。
ところがあたしはといえば、きっとまわりからしてみたら不思議なほどにニコニコと笑みを浮かべていたことでしょう。
だってそれまであたしは満足に服も買ってもらえないので、いつもよれよれの洗い古し、それも自分でツギハギした服ばかりを着ていたものですから、こうして自分が真新しいきれいな服を着ているということだけでウキウキとした気持ちでいっぱいだったのです。
あの公園での出来事の後にあたしがどうしたかと申しますと、かの男からR団という組織の存在を聞きだしたのでした。
R団というのはモンスターを使ってお金を儲けるマフィアとかいうものの一つで、そこでは政府認定の資格やら何やらと一切関係なく、団員はモンスターを使ってよいことになっているのだそうです。
そこであたしが資格を持たないためモンスターの怪我を治してあげられない事情を話しますと、男は親切にもタッちゃんの傷に合う薬をみつくろって分けてくださいました。
この薬を飲ませてみますと、驚いたことにタッちゃんは傷がふさがってもいないというのに、みるみると元気になってあたしの胸に飛び込んでくるではありませんか。
こうしてR団への信用を深めたあたしは、是非にと頼み込み、R団の
勧誘係だという男に従い入団手続きを行ったのです。その日のうちに保証人の要らない安アパートに放り込まれて数日を待たされ、今日になっていよいよこの秘密アジトへやってきたというわけです。
この一室に背広を着た男が現れますと、一瞬のうちにピンと空気が張り詰めました。それというのも、R団に入るためにこれからこの
幹部の方から訓示を受けようと言うことで、あたしたちはこうして待っていたのですから。
「よくぞ集まってくれた。俺はR団の
幹部をしているニドキングという者だ。諸君はR団に入ろうという若者たちだが、であるならば我々R団が一体どのような活動をする組織であるのかをまずは知っておかねばなるまい。そこで俺がこのように諸君に訓示を垂れようというわけだから、心して聞いておくことだ……
まず第一に、我々の活動が世間一般には悪事と呼ばれているものであるという事実である。諸君は果たして悪事というものをどのように心得ているだろうか。
殺人、
窃盗、
詐欺、
強姦、まさかこういったものが人間社会から絶対に排除されるべき罪悪だと信じてはいまいか。確かに今挙げた行為が多くの国家、社会において禁止されているという事実はある。古代の未開社会の時代から、人類は自らにタブーというものを課してきた。ところが、どうして人間を殺してはならぬのか、という至極単純な命題に対してさえ、人類史上の哲学者たちは一度たりとも明白な回答に成功した試しが無い。この矛盾がなぜ起こってくるかに深く考えを巡らせたことのある者が、果たしてここにいかほどいようか。諸君の中にこれまで一度たりとも悪行を働いたことがないという者はよもやおるまい。けだし子供時分には詰まらない悪戯を親に叱られた経験くらいはあることだろう。しかし、子供という純真無垢な穢れのないはずの人間がなぜ自ずから悪行に走ることが出来るのか。実は悪と呼ばれるものの本質がここにあり得る。子供自身に穢れがないとするならば、その子供の働く行為にもまたそれ自身に穢れはあり得ぬ。ところがここで親という子供にとっては絶対であるところの、いうなれば国家に値する者によって、それが悪戯である、悪いことであると教えられたとき、途端にそれが悪行になり果ててしまい、反対に褒められ、尊ばれた場合には善行として成立してしまう。すなわち、行為というものはそれ自体には悪の要素も善の要素も持っておらず、ただ他者の評価によってのみ善悪が決定されてしまう。個人個人の思想は必ずしも一致するものではないわけだから、自らの働いた行為が自身の親に叱られたにも関わらず、別人の子供が同じ働きをした所その子供の親は褒めそやす、と言ったことが起こってしまうのもこういった理屈である。このとき悪行の行為者の持つ思想が国家によって無化されている点も留意しておくべきであろう。タブーとは社会が個人に押し付けた呪詛であり、個人の影響力を幻滅させるべく執り行われる前時代的な
政治なのである。これらの考えの及ぶ射程を拡大してみたとき、ある地域での犯罪行為、例えばその住民を虐殺するなどしたことが、また別の国家においては反対に英雄的行為と看做されるといった場合が容易に理解出来てくる。要するに、諸君らの現在までに信奉してきた善行、悪行なるものの正体は、社会または国家が定義して諸君らに押し付けようとする一つの価値基準に過ぎないということである。
第二に、我々がこの悪行と呼ばれる方式によって経済活動を働くということである。ここまでに悪事というものが行為者の思想に関係なく他者によって勝手に申し付けられたレッテルに過ぎないことが分かった。そしてもう一つ、国家の定義しうるものなぞは、あるいは簡単に変幻してしまうものということを知っておかねばなるまい。一昨年に起きた「しおん」発電所事故はまだ記憶に新しかろう。それ以前には国策として推奨されてきた新方式による発電施設の開発が、「しおん」発電所で起こった事故に付随する電気怪獣の大量発生とその被害という惨事によって、途端にあたかも中世の魔女狩りがごとき弾圧を受けるようになった。このことからも、社会や国家のいう善行や悪行の決まりというものが、始めから矛盾を孕んでいるがためにあるとき暴走する危険のある非常に不安定なものであることが分かるのである。ゆえに、我々の活動がときに悪事として朝刊に飾り付けられ、凡人の浅はかな良識を脅かしたからといって、それによって我々の思想や哲学が不当に貶められる謂れはまったくもってないのである。R団に入団したからには諸君もこの先、俺や他の者に人の金やモンスターを奪うことを命令されることもあるだろう。初めのうちは他人の財産を脅かそうということに抵抗を感じるものもあるかも知れない。しかし他人の財産を奪うという意味では、怪獣勝負で賞金を得たり、顧客から取引によって利益を得るなどといったことと我々の悪事と、一体何が違うというのか。ただ単に我々の行為の方が見た目に利己的であることが分かりやすいばかりに、国家によって犯罪行為と決め付けられてしまっているに過ぎず、その本質はなんら変わるところがないことは自明である。すなわち悪事によって富を築くということは、その行為のみに観点を絞ったときに、堅気の者が日々努力して稼ぐのと比較しても同じ程度に尊いということだ。ただし後者を利巧な者が行うべきでないことはいうまでもあるまい。悪事を働きより効率よく稼ぐことによって、諸君は自身の人生をより豊かにしていくことができるのである。ということは、果たして悪事と罵られようとも、我々の思想の方が実はより尊いものであることもまた自然と判明してくるのである。
第三に、我々がその活動方法にモンスターを利用するということである。経済におけるモンスターの活用が普及するに従って、トレーナーにはモンスターがよく懐き、トレーナーもまたモンスターに優しく接するということを美徳とする風潮がある。しかしこのような美徳というものもまた国家がトレーナーという職業の印象を故意に歪曲するために社会に押し付けたものに過ぎない。もしトレーナーというものが本当にモンスターに優しく接するものであるならば、なぜ認定ジムは合格者にそのジムの特色たる性能を発揮するムチを配布し、トレーナー自身もこれに疑いを持たずしてモンスターにムチを振るい従わせるというのか。例えばこのムチが
一度人間に対して振るわれ、命令が強制されようとしたならば、社会正義はこれを犯罪として制裁するにも関わらず、モンスターを擬人化する国家がこれをモンスターに対しては推奨するという矛盾を見よ。トレーナーがモンスターにムチを振るうことが単なる暴力ではなく、それがモンスターを取り扱うために有効であるためであって、すなわちモンスターを過剰に保護してはならないことを国家自身が認めているのである。モンスターを可愛がるなどという方便は、自分だけは潔白であろうとする者がこのことから眼を反らさんとする欺瞞に過ぎない。それが分からないから、娯楽のためにモンスターを決闘させるなぞということがおこる。我々には怪獣勝負を楽しむなどということがあってはならない。怪獣勝負によって動物との絆が深まったと感ぜられるならばそれは錯覚に過ぎず、我々はこういった幻想を拭い捨て去らねばならない。なぜなら、金儲けのためにモンスターを利用するのは非常に有効な手段であるから、これを最大限に有効活用するためには、ときにはモンスター自身が嫌がることであってもやらねばならない場合があり得るからだ。モンスターは我々にとって大事な商売道具であるから、それにはモンスターの人間に服従しようという心情をより自覚的に、そして誰よりも上手に利用してやらねばならないのである……」
あたしは
幹部の訓示に耳を傾けながら、その指し示すものがあまりにも恐ろしいので、身体中が芯からぶるぶると震え上がってしまうのでした。
けだしその理屈ごとの全てを理解するまでには及びませんが、その一つ一つが指摘するもの、犯罪はよい行いであること、それからモンスターと仲良くしてはいけないらしいこと、それらはあたしにとって世界を逆さまにしてしまうようなお話でしたので、一度に受け止め切れないのです。
ところが一方では、不思議とそれらが深く心に突き刺さってくるような感覚もまたあるのでした。
どうしたことか、これからR団の団員となるための心構えに怯えると同時に、
幹部の言葉とはかけ離れた私事に関係すること、あたしがいくら継母に叱られようとそれをもってしてあたし自身の価値が減退するわけではないと、そう言ってもらえているような気がして、まるで
幹部があたしのことをよくよくご存知で、あたしのためだけに特別に言葉を選んで慰めてくださっているかのような、喜ばしい気分になってくるのでした。