EX1:ラッコ馳せる、果てるまで
腰に着けたホタチを手に取り、水流の力を込める。
自らの胴を三つ束ねたほどの太さもある木を見据え、水の刀身が自らの背丈ほどになるように制御する。ここまでは簡単だった。ただホタチを媒介にした水の刀の形を維持するだけならば、フタチマルという種族にはそれほど難しいことではない。最も大事なのは、この木を切り倒すにあたって、他の木をなるべく傷つけない角度を狙う必要がある、ということだ。今立っている斜面の下をもう一度見据える。この状態ならば、さほどは厳しくないだろう。
水の刀身を木の根元に斜めにあてがう。ここから先は、一気に行わなくてはならない。自重で狙いが狂い、倒れる方向を間違えるようなことがあっては、倒されようとするこの木も、まだ育っている他の木もを傷めることになる。それだけは避けなければならない。父に何度も教わってきたことだ。
ふぅ、と息を吐いた。それと同時に、刀身の水圧を一気に上げる。豪快な音と共に、自らの身も吹き飛ばされそうになるが、なんとか両足で踏み留まる。ゆっくり、ゆっくりと、水の刃を木の幹に入れていく。半分ほど進んだところで一度、水圧を緩める。金属の刃物とは違い、刀身の出し入れが簡単なのは利点だった。次は、先ほどよりも低い位置から、水平に切れ込みを入れていく。切れ込みと切れ込みが出会い、三角形の木くずが奥へ吹き飛んだところで、刃を止める。
ここまでで半分。費やした水の力と集中力で、既に全身が干上がりそうだった。まだまだ本調子じゃないな、と思いながら、呼吸を整える。反対側に周り、今度は別の角度から刃を入れていく。少しずつ、少しずつ、慎重に。あるところで、わずかに手応えが変わる瞬間が訪れる。その一瞬を見逃さず、ぴた、と水を止めた。
めきめき、と音を立てて、木が倒れる。葉が擦れはするものの、幹は他の何にもぶつかることなく、土の斜面にまで到達する。
「さすがだね。他の木に一切干渉していない。今回は君の狙い通りかい、ベベウ」
横からナガレさんの声が聞こえる。
「そんなことないよ。ちょっとズレた」
目を合わせずに、わたしは答える。本当はもう少し右に落とす筈だったのだが、その違いが分かる者は多くないだろう。それを見極めることができるのは、もう何年も彼女がこの仕事に従事しているからに他ならない。
「材木の切り出しか……小さいのに、大したものだよ」
しみじみとナガレさんは言う。
だが、それも仕方がないことだ。我々の一族は、大人になると陸上での活動が難しくなる。木材となる木が乱立するこの山を、自在に歩き回れるのは青年期のフタチマルであるうちだけなのだ。大人になり、ダイケンキの姿になれば、運び出しなどの力作業が主になる。子どもと大人が、それぞれの役割をしっかりと果たすことで、一家の生業は成立する。
「傷はどうだい」
優しげな声に、思わず肩をさする。
かつて貫かれた傷は塞がり、今ではまた木の切り出しの仕事に戻ることができた。だが、体力はまだ戻っていないことを実感している。
「あまり無理はするなよ」
「……うん。でも、もう大丈夫だから」
見抜かれている、と思った。だけど、あまり心配をかけたくなくて、つい強がってしまう。
「ナガレさんこそ、オルフェのとこの漁は手伝わなくて大丈夫なの?」
「まあね」
彼の姿を見やると、呆れたように空を仰いでいる。
「パネマ、あの子は優秀だよ。仕事を覚えるのが早いし、手際もいい。もう俺が手伝う必要もなさそうなくらいさ」
「だからって、毎日私のところに来なくてもいいのに」
「経過観察を頼まれてるんだ。メディさんに」
そう言って、にっこりと笑うナガレさん。メディさんも医者として、わたしのことを見過ごせないのだろう。応急処置に当たったナガレさんを寄越してくるのは、理にかなっている、と思う。ナガレさんはメディさんの代わりに様子を見に来ているのだから、あまり文句は言えない。そのうち直接挨拶にいかなきゃな、と思う。
「何か手伝おうか」
「ううん。平気」
今日はあと三、四本切り倒して、細かく切っていこう。そんなことを考えながら、次に切り倒す木を決めるために、山の斜面を登る。ナガレさんもあたりをきょろきょろと見回しながら、わたしの後をついて来る。
「おっと」
急にナガレさんが呟いた。何かにつまづいて転んだのだろうかと、私は振り返る。
「もう。足元が不安定なんだから、気をつけてよね」
「ごめんごめん」
訝って言うと、ナガレさんは申し訳無さそうに手を上げた。
ナガレさんの足元には、何か大きなものが横たわっているのが見えた。生き物の死骸だろうか。さっきからほんの少し、嫌なにおいがするとは思っていたが、あれが腐敗しかかっているせいかもしれないと思い至る。死体の折れ曲がり方から想像するに、上の方から転がり落ちてきて、木の幹に引っかかって止まったのだろう。
山で暮らす生き物が死んでいることは、稀ではあるが無いわけではない。放っておけばいずれ朽ちて土に還る。とりわけ気にすることも無いだろう。
「……ナガレさん?」
だが、彼はそれに心を奪われているらしい。死骸を見つめたまま、微動だにしない。名前を呼んでみたものの、応えてくれる様子はなかった。次第にじれったくなって、「上の方に行ってるからね」と声をかけて坂を登り、作業を再開する。
水の刀身を幹に入れていく。木がめきめきと音を立てて倒れる。この瞬間はいつも、胸の中が破裂しそうな思いをする。山も木も、大事にしなければならない。先祖代々、守ってきた山の木だ。いや、うちだけではない。ダイケンキの一族と、植林をやってくれているブリガロン一家。二つの一族が手塩にかけて育ててきた山だ。あまり直接会う機会は無いが、彼らとはこの山を通して繋がっている。彼らの思いを無駄にするか、活かし切るかは、わたしが入れた刃に懸かっているのだ。
はあ、はあ。
いつの間にか、相当に消耗している体を自覚した。あまり無理はするなよ、というナガレさんの声が頭に響く。その場に腰を下ろして、目を閉じる。山を大切にしたければ、
まず自分を大切にしなければ。ふう、と大きく息を吐く。水を飲みたい。水筒をナガレさんに預けたままであったことを思い出し、彼のところへ戻る。
ナガレさんはまだ、死体の近くにいた。わたしが彼を放って行ったから、はぐれないように待っていたのかもしれない。
「あ、ベベウ。戻ってきたのかい」
「うん。水もらえる?」
分かった、と言って、ナガレさんは水筒を取り出し、水を汲んでくれた。私は受け取ると、ぐいと飲み干す。自分でも想像していなかったほど、水はあっという間に体内に吸収されていく。火照った体が冷えて、頭がはっきりしてくる。更にもう一杯求め、またぐいと器を傾ける。一杯目ほどではないが、やはり喉を流れる速度が早い。
「ふう」
わたしは近くの切り株に腰を下ろした。静かな時間が流れていく。空はよく晴れている。水の冷たさが全身に巡るのを感じながら、目を閉じる。
「パネマさんって、どんな人?」
気が付くと、質問が口を突いて出ていた。
「どんな人、か。うーん、難しいなあ」
ナガレさんは少し困ったような表情を浮かべて考え込んだ。彼女がこの村に来てから、まだ数日しか経っていないのだ。よく知らなくても無理はない。だが、彼は自分の見た中で、しっかりと自分の意見を述べてきた。
「器量のいい子だね。はきはきとしていて、料理も漁も、オルフェの一家のやり方によく馴染んでいる。流石は隣村の村長の娘、と言ったところかな。そういう教育を、前々から受けていたんじゃないかな」
「ふうん」
自分から聞いておきながら、何だか素っ気ない返事をしてしまった。だけど、やっぱりそうなんだ。木を切ることにしかおおよそ興味を持って来なかった自分とは、まるで違う。彼女はきっと、何でもそつなくこなせてしまうのだろう。
「料理、ねえ」
わたしは呟いた。
「やっぱり凄いんだ、あの子」
「そうだね。でも、やっぱり気を張っているのは間違いないよ。無理していなければいいけどね」
「そうだね」
何故だか、胸の奥で、心が定まらない感覚を覚えた。どうして、自分はあの子みたいに頑張れないのだろう。そして、なぜほとんど会ったこともない子と自分を比べようとしているのだろう。わたしは、ナガレさんの言葉の中に何を期待していたのだろう。
「あ、そうだ」
不意に、ナガレさんは言った。
「近場でいいんだけど、どこかに穴を掘れないかな」
余りに突拍子もない発言に、目を白黒させた。意図がまるで読めず、わけを聞く言葉すら頭から飛んでしまっていた。しばらくの沈黙の後、ナガレさんはわたしの戸惑いに気付いたようだった。
「ああ、ごめん。この人を埋めて弔ってあげたいんだ。君はどこかに穴だけ掘ってくれれば、あとは俺がやるよ」
どこかぎこちない様子で、彼は話す。
「それはいいけど……弔うつもりなら、池に沈めなくていいの?」
「いいんだ。腐敗も進み始めているし、長い距離は運べない。それに」
彼はそれをじっと見つめる。
「きっと彼も、それを望んでいるだろうから」
言葉の意味をまるで噛み砕けないまま、ナガレさんの言うことだから、という理由だけで、わたしは動いた。
ホタチにまとわせる水流を調整し、地面の柔らかい部分をえぐる。地面に穴を開けるのは想像の何十倍も重労働だった。ナガレさんもどこからか手頃な木の板を持ってきて、土をひたすら掻き出した。二人で会話をする余裕も無くなり、夢中になってしばらく経った頃、ようやく死体がすっぽりと収まる程度の空間を作ることができた。
ナガレさんは死体を抱き上げ、そっと穴の中に寝かせてやった。その所作は、村長にしか扱えないような神聖な道具を操るというより、赤ん坊を撫でるような優しい動きだった。
「さあ、あとは土を被せよう」
そう言って、最後の作業を終わらせた。掘った土を、また戻す。生き物一つを地面の中に残したまま。
死んだものの亡骸は離れ小島の池に沈めるのが当たり前だったわたしにとって、こんなところに埋めるのははたしてどうなのだろう、という疑問はあった。だけど、ナガレさんはこれでいいのだ、と言った。それだけが、わたしの心を躊躇いから引き剥がした。すべてが終わる頃にはあまりにも周りは元通りで、ただ掘った跡だけが雑草もなくきれいになっているだけだった。いずれ、ここに亡骸を埋めたことすら分からなくなってしまうのだろう。
ナガレさんは穴を掘るのに使った板を土に差し込んだ。そして、両方の手を合わせて目を閉じた。なんとなく、わたしもそれに合わせた。きっと、これはナガレさんの故郷の弔い方なのだ、と思った。
「あっ」
私は思わず、小さく声を漏らした。
「どうしたんだい」
ナガレさんは振り返る。
なぜ彼が、この死体を埋めたいと言ったのか。そして、そのわけを詳しく話さなかったのか。その理由に気づいてしまった。
この死体は、この人は、あいつだ。私の肩を貫いた、ナガレさんと故郷が同じだと言う、あの人なんだ。
「ううん、なんでもない」
私は首を振った。ナガレさんは、わたしに嫌なことを思い出させないようにするために、本当のことを言わないでいてくれたんだ。
「そろそろ暗くなりそうだね。帰ろうか?」
空を見て、ナガレさんは言う。
「うん。帰ろう」
私は頷く。
立ち上がり、ナガレさんの後ろを歩きながら、敵わないなあ、と思った。ナガレさんの背中は大きくて、私の背丈では見上げることしかできなかった。いつか追いつくことができるだろうか、そんなことをぼんやりと考えながら、沈んでいく太陽を眺めた。
「ねえ、街にはいつ行くの」
帰り際に、私はナガレさんに聞いた。
「明後日だよ。オルフェ、家の様子が一段落しそうで、ようやく準備が整いそうだってさ」
「そうなんだ」
ナガレさんとこうしてゆっくり喋っていられるのも、あと少し。そう考えた瞬間、何を話せばいいのか分からなくなった。一度島を離れたら、次に戻って来るのはいつになるのだろう。
「あのさ」
いつの間にか、足は止まっていた。ナガレさんの顔を見上げるのが苦しい。それでも見上げると、振り返って真っ直ぐに見つめ返すナガレさんの顔があった。
「絶対に、帰ってきてね。無事で、帰ってきてね」
顔が熱くなった。これが本当に言うべきことだったのか分からず、自信が持てない。だけど、そんなわたしの不安を吹き飛ばすような笑顔で、ナガレさんは答えた。
「うん。必ず帰ってくる。必ずだ」
本当に、敵わないなあ。わたしは無意識のうちにナガレさんと同じ笑顔を浮かべて、少しでも追いつこうとしていた。
いつかナガレさんみたいになれたらいいな。旅から帰ってきたら、少しでも大きくなった自分を見せることができたらいいな。
「明後日は見送りにいく。だから、元気でね」
そう言って、お互いに手を振って別れた。こんなやり取りができるのも、あと少し。名残惜しくなって、夕日を背に歩いていくナガレさんの背中を、いつもよりもずっとずっと長く、眺めていた。