2:ラブリー?
話しているうちに、村長のいる離れ島が見えてきた。本島から少し離れてはいるものの、潮が引いている時は歩いて渡ることができる。立ち入る時間帯が限られていることが、なおさら島の神秘性を高めているように感じる。
浜辺から伸びる白い道が島まで伸びている。道は広く、まるで自分たちに開かれているようだ。
離れ島に砂浜はほとんど無く、岩の階段を上ると、すぐに木々の中に入っていくことになる。中の空気は外とは打って変わってひんやりと涼しく、風が吹き抜けると心地良い。
「ああ、いい風だなぁ」
オルフェは全身を広げて、空気を味わう。
「空気が外と全然違うね。まるで別の次元にいるみたいだ」
「ははは。でも、それもあながち間違いじゃないぜ」
そうなのか、と聞くと、彼はうん、と頷いた。
「この場所はやっぱり特別だから」
この島に立ち入ると、とても静かな気持ちになる。冷たい空気は、厳かながらもどこか包み込むような優しさを持ち合わせていた。私たちの声はしゃらしゃらと鳴る葉っぱの音にかき消されて消えていく。それに合わせて私たちは喋るのを止め、自然と前を向いた。離れ島のちょうど中心に、一本の大木が伸びている。大樹の麓にはたくさんの陽が降り注いで、気が付けば引き寄せられていく。そうして進んでいくうちに、植物が綺麗に刈り取られた広間に辿り着く。
「村長、来たよ」
気さくにオルフェは呼びかける。ご無沙汰してます、と私は頭を下げる。
「よく来たね。今日もいい天気だ」
背高のっぽの黄色い生き物……デンリュウという種族の男が、かがんだ姿勢から起き上がり、こちらに向いた。手に持った沢山の雑草を見るに、草むしりをしていたようだ。彼が、島にいくつかある村の一つを治めている村長である。揉め事や特別な出来事があった際に取り仕切る役目を負っているが、普段はこの島の手入れをして過ごしているという。自分には彼らの年齢のほどは見た目では分からないのだが、彼に限ってはオルフェや他の島民に聞いても歳のほどは分からないのだとか。一つ言えるのは、彼は根っからの祭好きであるということだ。ただ、この島の祭は少々野蛮なニュアンスを含んでおり、私としてはあまりいい気はしていない。
「さて、二人とも。祭までの最後の稽古だ。頑張ろう」
村長は短い腕を伸ばして高く掲げる。ガッツポーズのつもりなのだろうか。オルフェもつられて拳を天に突き上げた。
「どっちからやる?」
全身を逸らせて準備運動をしながら、村長は尋ねた。はいっ、はいっ、と横から大きな声が聞こえる。唐突に静寂を破られ、思わず心臓が跳ね上がってしまう。村長はゆっくりと頷くと、広場の中央までゆっくりと歩いていき、振り向いた。
「そしたらオルフェ。全力で来なさい。遠慮はいらないよ」
と、優しく微笑む村長の瞳は、閃光のような輝きを放っていた。
触発されるように、オルフェが弾丸のような速度で飛び掛かる。
オルフェと村長が頭と頭でぶつかり合い、ばちっ、という破裂音と共に閃光が飛び散る。その光景が目の奥に焼き付いたかと思うと、次の瞬間には残像となった。次に見えたのは、こちらへ吹き飛ばされるオルフェの姿。顔の横をふっと掠め、耳元で風が起こる。くっそ、と呟いた声が聞こえた。彼の姿を確認しようと顔を向けたが、既に黄色い姿はそこには無い。またしても、村長の胸元へと突撃していた。村長はひらりと身を翻し、弾丸と化したオルフェの攻撃をかわした。勢い余って、オルフェは地面に転がる。
この島の住民たちは大抵、バトルと称して己の力をぶつけ合うことを好んでいる。デンリュウもピカチュウも、電撃を操ることに長けており、ぶつかり合う二人の周囲のあちこちで文字通りの火花が散っている。その度に驚き、身体がびくっとしてしまう。私には、彼らのバトルと喧嘩との違いが良く分からない。暴力ごとには変わりがないような気がしてしまうのだ。ましてや、これを自分もやらなければならないと思うと、猶更である。
「だぁぁぁぁ〜、ダメだ、当たらねえ。村長ってばずるいよ」
気が付くと、オルフェは息を切らして倒れていた。
「いやぁ、上出来、上出来」
対して、けらけらと笑う村長は全く疲れている様子を見せない。オルフェの攻撃は打撃も電撃も全ていなされてしまっていたようだ。
「では、次はナガレさん、やりますよ」
にやりと笑う顔が見えた。やれやれ、諦めるしかない。私は立ち上がり、足取りの重さを隠しながら歩く。
村長がこれほど熱を入れて村の若者を鍛え上げるのには理由があった。明後日に開かれる祭では、島全体の住民が集まって大バトル大会が開かれる。島にはもう一つ村があるが、その住民のほとんどが一同に会するのであるのだから、相当な規模である。そのバトル大会の参加者として、自動的に自分も名を連ねることになってしまっているのだ。
「どうもナガレさんは優しいところがあるようだね。バトルでも相手を傷付けるのがいやだと見える」
以前、徹底的にやり込められた記憶が蘇る。攻撃せよと言われても、相手を傷付けることをためらっているうちに電気を纏ったパンチを数発もらってしまったのだ。そして今回の稽古でも手を出すことが出来ないうちに尾で足払いを喰らい、転んでしまったのであった。
村長との組手が全く形にならず、諦めてオルフェと交代した。小さな体で縦横無尽に飛び回り、まだ立ち上がれるその体力は凄まじいものを感じる。自分にはないものだ。
休憩がてら、島の奥を散歩して回ることにする。
大木の裏側には、離れ小島のもう一つの神秘が存在する。大木の裏側に隠れた、小さな池である。
池の水は暗く、空の色を反射しているようにも、透明にも見える。かと言って、塗りつぶされたような色合いでもない。景色の一部として見るとそこに水が張っていないように感じられ、底を覗き込もうとすると途端に見えなくなる、不思議な池である。この池は、この村で亡くなった者の亡骸を沈めているのだという。この池を通じて死者は「つぎの次元」に行けるのだ、とオルフェは言っていた。そして、また帰ってくることが出来るとも。
池の水をじっと見つめる。奥を見透かそうとすると、途端に池は扉を閉ざしてしまう。それでも、私は池を見つめる。この地に来るまでに失ったものも、沢山ある。離れ離れになってしまった人たちも、この池を抜ければ安らかに眠ることができるのだろうか。目を閉じて、大事な人を思い出す。どうすることもできなかった過去に思いを馳せて、一人問いかける。この時間が、自分にとっての慰めであった。
ふと、ポケットに忍ばせていたものを取り出した。デジカメである。私にとって大切な時間が切り取られている、思い出の品だ。完全にバッテリーが切れているのか、故障しているのかは分からないが、どのボタンを押しても起動はしない。きっとあまりにも長い時間が経ってしまったのだろう。使えないのにも関わらずこうして持ち歩いているのは、ただお守り代わりにするためだった。
この池に来ると、デジカメを沈める想像が脳裏をよぎる。死者を沈めて弔うのであれば、このデジカメを沈めることで、過去の自分の思いも浮かばれるかもしれないと思った。だが、どうしてもできない。もう恐らく戻ることのできない故郷をまだ諦められないでいる自分に、力なく苦笑するしかなかった。
「……る」
ふいに、地面を揺るがすような声が響いた。反射的に、顔を上げる。
巨大な頭と茶色の瞳が、こちらを覗き込む。私は思わず、目を見開いた。島の中心の大木は、ドダイトスという背中に木の生えた亀のような種族が、長年かけて成長した姿だと聞いている。言葉だけでは想像できなかったが、いざ目の前にすると、それがどういうものなのかが分かったような気がする。とにかく、大きい。今の地鳴りのようなものも、この島の主のものと言うのなら納得である。
「悪い客が、来る」
今度ははっきりと彼の言葉が聞こえた。あっけに取られているうちに、彼は目をつぶり、また島と同化してしまった。しばらく待ってみたものの、もう一度巨木の本体が目覚めることはなかった。すっかり自問自答を繰り返す気分ではなくなり、そろそろ広間に戻ることにする。
悪い客が来る。胸の中で、彼の言葉をもう一度繰り返した。予言めいた響きだと思った。何の事かは分からないが、ただ確実に何かが起こる。そういう説得力を持った言葉だった。
「はい! もっと素早く! そこで電撃! スキを突く!」
広間に戻ると、村長の大声が聞こえた。集中しているのか、オルフェは全くの無言だ。白熱しているなぁ、と眺める。ふと、カメラを取り出し、シャッターを切るポーズを取ってみる。黄色い竜と黄色いネズミが、電撃を飛ばし合いながら組手を行っている。自分の故郷では、絶対に見ることのできない光景だ。
「あれ?」
ふと声に出して呟いた。デジカメの液晶が白く光ったかと思うと、目の前の景色が画面の中にぱっと映し出された。ちゃんと起動している。なぜ今になって電源が入ったのかは分からないが、とりあえず一枚。
カシャリ。わざとらしい音が鳴り、目の前の景色が切り取られる。村長とオルフェが電撃をぶつけ合う光景。この星の生き生きとした活動が記録された。
「ナガレ〜、そろそろ帰ろうぜ」
顔を上げると、オルフェの姿がそこにあった。今日の稽古は終わりらしい。
「何見てるの? 前言ってたやつ?」
「あぁ。これね」
私はデジカメを少し高く掲げた。二人のバトルの様子を収めた後、データを確認している時に気付いたのは、昔の写真が全て消えてしまっていたことだ。メモリがやられてしまったのかもしれない。どうして消えてしまったのか、復元する方法がないか、色々試しているうちに結構な時間が経ってしまっていたようだ。
「デジカメ。壊れてるって思ったけど、回復したみたいだ。丁度さっき一枚撮ったところなんだけど、見るかい」
画面を操作し、オルフェに見せる。二人の電撃がぶつかりあう瞬間が、画像として写し出される。おおぉ、と興奮した声を上げてはしゃいだ。後ろで村長も、感心したように画面を見つめている。
「すごい! これおれと村長? どうなってるんだこれ」
「こうやって使えば、写真を撮ることが出来るんだ。やってみるかい」
私はオルフェにカメラを持たせた。自分には片手で持てるサイズでも、彼にとっては両手でしっかりと掴まなければいけない。少しだけ起動の手助けをしてやり、シャッターさえ押せば撮影できる状態にする。
「すげえ」
画面の中と外の様子を見比べて、あちこちを見渡す。シャッターボタンを指で示して、ここを押すよう指示する。彼は短い指を何とか届かせると、音と共に画面が白く光り、風景が切り取られた。驚いたように、また声を上げるオルフェ。
「面白いなこれ」
画面越しに風景を見つめながら、歩き出す。ふいに振り返ると、こちらに向かってカメラを構えた。しばらくすると、画面を確認し、納得した様子で戻ってくる。
「見てみて」
カメラを手渡された。画面を見ると、大木をバックに、小さな自分と村長が並んだ姿が写っている。特にポーズも何も取っていない、自然体の二人がそこにいた。
「どう?」
「うん。上手く撮れてる」
後でズームのやり方とか教えてやろう。そんなことを思いながら、オルフェにまたカメラを手渡す。すっかり気に入ってしまったようで、あちこちを回ってはシャッターを切っている。これはしばらく手放しそうにないな、と苦笑した。
「楽しそうですね」
私は村長に話しかけてみた。
「オルフェって、いつも元気が有り余っているみたいだ」
村長はゆっくりと頷く。
「小さいころから、あの子はいつも無邪気だね。大変なこともあったけど、いつだって彼は素直な心を忘れない。あの子のいいところだよ。それに、君が来てから彼はより楽しそうになった」
「そうなんですか」
「そうだとも」
満足そうな瞳が、こちらに向けられる。少し照れくさくて、目をそらす。
「僕はまだ、この島に来てから助けられてばかりです」
気が付けば遠くへ走って行ってしまうオルフェの姿を見ていると、微笑ましい気持ちが沸き上がる。そうやってはしゃぐオルフェにも、悲しみや苦しみがあったのだろうか。
「そういえば、村長さん」
ふと思い出し、話を変えた。
「さっき池の方に行ってたら、声が聞こえたんです」
もしかすると、大事なことかもしれない。彼に話すのが得策だろう。
「その声は、何と?」
「『悪い客が来る』。そう言っていました」
緩んでいた村長の顔が、急に引き締まったような気がした。すっと立ち上がると、私にも立ち上がるように促した。
「ありがとう。君は大事な伝言をしてくれた。君たちもそろそろ帰るといい。私もこれから本島に行くから、一緒に行こう」
理由は説明されなかったが、彼にとってこの言葉はとても重要な意味を持っていたようだ。深刻そうな表情を見ていると、これ以上何かを聞けるような雰囲気ではないと悟り、黙って後を付いていく。早足で島の出口へと歩いていく村長の姿に気付き、オルフェもカメラから目を離す。
「オルフェ。今日はもう帰りなさい。帰り道で誰か見かけたら、『悪い客が来る』ことを伝えてくれ」
「えー、この時期に来るの? やだなぁ」
嫌悪感たっぷりにオルフェは言う。
「ナガレさんが聞いてくれたそうだ。お礼はちゃんと言うんだよ」
二人が振り返り、自分の顔を見つめる。状況が飲み込めず、きょとんとしてしまう。すぐに村長は振り返り、島を出て行こうと歩みを進める。
オルフェは足を止め、自分を待ってくれている。近づくとカメラを差し出し、自分に返してくれた。ありがとう、と伝えると、どういたしまして、と返ってくる。その表情は笑ってはいるが、どことなく覇気がなかった。やはり予言のような言葉のことが気がかりなのだろう。
「池を眺めていたら、ふいに『悪い客が来る』ってあの大木の主が喋ったんだ。あれは一体、なんだったんだろう」
歩きながら、オルフェに尋ねてみる。
「そっか、言ってなかったっけ」
オルフェは言う。話を聞いていると、どうやら私の聞いた声は本当に予言の類のものらしい。ドダイトスは危機が訪れるのを察知すると、島の誰か一人にだけ、予言を伝えるそうだ。その内容は決まって、『悪い客が来る』なのだという。一緒にいる時間の長い村長が聞くことが多いが、予言のタイミングによっては別の誰かが伝言役となる。伝言役となった者は他の島民や村長に伝え、村長が島全体に予言があったことを広める。
悪い客の正体は、大抵の場合は嵐だ。七日後か十日後か、はたまた三十日後か。明日すぐに来る、などとという事はほぼないものの、とにかくドダイトスが喋った時は近いうちに大きな嵐が来る。彼らにとって、ある種の天気予報という認識のようだ。その予言を受け、島の住民は家を補強したり、仕事で使う道具を整理したり、食料を蓄えたり、雨風に備えるのだ。
帰り道、とん、とん、と小さな太鼓を打ち付ける音が聞こえた。その音はゆっくりとこちらに近付いて来る。やがて派手な装飾に身を包んだ一団の姿が見えた。隣村のお偉いさんかな、とオルフェが話した。この村で祭を開く以上、住んでいる場所が遠い人は泊りがけで移動することもある。前々日の日中とは少し早い気もするが、上の立場の者ならば当日の打合せということもあるのだろう。
彼らもまた、装飾など無くとも様々な姿をしており、背の高いものから足で踏みつけてしまいそうなほど小さなものまで、多種多様であった。そのうちの一人に、私とオルフェは視線を釘付けにされた。
オルフェと同じ、ピカチュウである。
そのピカチュウはオルフェより少し小柄で、ギザギザの尻尾の先が僅かに二股に分かれていた。毛並みはオルフェと違って艶があり、朱いスカーフのようなものを巻いていた。布には黄色い刺繍が施されており、端には小さな宝石が数珠状に連なっていた。他の者たちと区別をつけるかのような高貴な装いと、少し潤んだような瞳が印象的であった。
すれ違う僅かな時間の殆どを、そのピカチュウはオルフェに視線を向けることに使っていたことに、私は気付いた。様々な姿を持つ者達が暮らすコミュニティの中で、同じ種族に出会うことが珍しいのかもしれない。
「あ、あのっ」
オルフェが声を上げる。
「『悪い客が来る』って。だから、気を付けて」
なにっ、そうなのか。オルフェはそのピカチュウに向けて言ったつもりだったのだろうが、大きく反応したのは周りの者たちだった。ある者は空を見上げ、ある者は小さな声で話し合った。概ね不安げな様子であったが、そのピカチュウに動揺した様子は無かった。ただ何かを伝えようとして口を開こうとしたが、別の者の声に遮られてしまった。
「ありがとうな、ボウズ。祭はどうなるか分からないけど、お前の活躍を楽しみにしてるぜ」
軽い挨拶を交わし、その一団は通り過ぎて行った。しばらくの間、オルフェはその一団の行く先をじっと見つめ、歩き出そうとはしなかった。
「……なぁ」
最後の一人が見えなくなりそうな頃、オルフェは口を開いた。
「あの子、すげぇ可愛かったな」
一瞬何の事か分からなかったが、さっきのピカチュウのことなのだと思い至る。
そして、微動だにせず立ち尽くすオルフェの姿を思い出す。なるほど、そういうことか。その結論に思い至った時、私は大笑いしそうになるのを懸命にこらえた。オルフェは今も、彼女と目が合ったあの一瞬を何度も繰り返しているに違いない。そして、これから悶々とすることだろう。私の想像を悟られないよう、できるだけとぼけたような返事を選ぶ。
「あの子……女の子だったのか」
あのピカチュウが女性であることに気付かなかったのは事実である。
「ええっ!? そりゃないよ、ナガレ」
「残念ながら、その辺りの見分けはまだ全然つかないのが実情でね」
私は肩をすくめた。
帰りの道中、私はひたすらオルフェからたった一度見ただけの女性の美しさを力説された。ひたすら夢中になる彼を見るのは、やっぱり面白い。もしものことがあれば一肌脱いでもいいかもしれないな、などとぼんやり考えているうちに、太陽が沈んでいく。今日という一日が終わる。