#4 蜂蜜
#4 蜂蜜 -6-


 その男……マティアスの手は、震えていた。
 元はと言えば、自分が見つけた蜜だった。不器用で、大した仕事もできずに蔑まれていた自分が、唯一手にした功績。それが、この蜂蜜の発見だった。
 木こりの家に生まれたものの、斧の扱いも上達せず、図体ばかりが大きくなってしまった。それ故、家庭内では無駄飯食らいと呼ばれ続ける始末。自信のない、整わない顔面もまた、己の自尊心を傷つけた。他の村人の前に姿を晒すのも恥ずかしくて、滅多なことでは人前に出ることもはばかられた。それでも山に入り、木を切り倒し続けたのは、村に役立つことをしていなければ生きていけなかったからだ。
 人目を避けながら木を切り倒す日々の途中、村の女が珍しくマティアスに話しかけてきた。木こりの自分に、何か相談したいことがあるのだと言う。彼女の名前は何と言ったか。村人との関わりが少ないせいで、彼女がどの家の子だったのかも思い出せない。だが、若い女性に頼られるというかつてない経験に、動揺と興奮を隠せなかった。
「怖い虫が出てきたの。一緒に来てくれないかしら」
 彼女はそう切り出した。
 一瞬、理屈が理解できなかった。自身を脅かすもののところに、なぜまた行こうとしているのか。木こりであるマティアスを頼りに来たのは、彼に駆除して欲しいということなのだろうか。何を頼まれるか分からないが、出来ることなら、この美しい女性の力になりたいと思っていた。期待に応えられなくて、彼女を落胆させるのが怖かった。
「俺に、できる、ことなら何でも、する」
 気がつけば、そう答えていた。彼女に伝わるように喋れたかどうかすら分からない。緊張で汗が溢れ出ていた。
「本当!? ありがとう!」
 彼女はマティアスの手を握る。喜び笑った顔は春に咲く赤い花を思わせる。手のひらが汗でにじんで汚れているのが恥ずかしい。
「マティアスさんには、あの虫の巣がどうなってるか確かめて欲しいの」
 湖へと続く山道の、分かれ道。立ち入る者は少なく、殆ど整備されていない道だった。草木をかき分けて進むと、少し開けたような場所に到着する。マティアス自身にとって来たことがないわけではないが、立ち入ることは稀な場所だった。
「この辺りで見つけたんだけど……」
 彼女はマティアスの巨体に隠れながら、周囲を見渡す。
「あっ、あれがそうじゃないかしら」
 指さした方向に視線を向ける。そこにあったのは、根本に大きな穴の空いた木だった。
 六角形の穴が、こちらを向いている。何かしらの蜂の巣であることは、すぐに分かった。彼らは群れで暮らし、近づく者には羽音で警告音を鳴らす。それでも立ち去らない相手には、猛毒の針で攻撃する。襲われたらひとたまりもない。本来だったら、近づきたくないものだった。
「あの、これはあまり、近づかない方が」
「お願い」
 助言を遮り、彼女の瞳が強くマティアスに要求する。
 結局のところ、マティアスは彼女に従うことにした。正常とは到底言い難い判断だった。だが、普段から他人に避けれられてきた彼にとって、頼ってきた彼女をがっかりさせることは、自分の身が危険に晒されることよりも恐ろしいように思えたのだ。
 巣穴を凝視しながら、一歩ずつゆっくりと歩いていく。働き蜂が飛び出して、襲ってくるのを警戒したが、近づいても全く羽音は聞こえてこなかった。ついには、しゃがんで手を伸ばせば届く距離まで来たが、それでも反応はない。もう既に主のいない、からっぽの巣なのだろうか。そう思って巣穴をよく見ると、六角形の中身は黄色いもので詰まっている。幼虫か、はたまた彼らの栄養か。
「なんだか、甘い匂いがしない? とってもおいしそう」
 後ろから彼女の声がした。
 言われてみれば、確かに蜜のような香りがする。色々な花の香りを混ぜ合わせて煮詰めたような、濃厚な香りだ。気がつけば、大きく息を吸い込んでいた。もっと嗅いでいたい、甘い匂いに浸っていたい、と。一度、二度と嗅いでいるうちに、息を吐いている時間すら惜しくなってくる。視界のすべてが、蜂の巣で覆われていく。マティアスの頭の中は、この匂いの元をどうすれば手に入れられるのか、ということだけしかもう考えられなくなっていた。
 蜂の巣に向かって、乱暴に手を伸ばす。
 黄色い虫の身体を巣穴から引っ張り出して、口に放り込む。 
 噛み潰した瞬間、口の中に甘さが広がる。
 声にならない美味しさだった。最初は歯が浮くような甘さだと思ったが、不思議と身体に馴染んで染み込んでいった。こんなものがあるなんて。自然と、二つ目に手を伸ばしていた。もはや、蜂の反撃も、彼女も、どうでも良かった。ひたすらに、蜂を噛み潰し、蜜を舐める。
 腹が満たされるまでに何百匹食べたのだろう。気がついたら、日が暮れていた。

 それから、何を食べても味がしなくなった。頭の中は、あの蜜の味のことで一杯になっていた。食欲はなくなり、他のものを食べると味の薄さに苛立ちさえ覚えた。仕事の合間を縫っては、蜂の巣の場所へ向かう毎日を送る。ただでさえ遅い仕事が更に遅れ、父にはさらに叱られた。それでも、あの蜜を食べられるのであれば些細なことだった。
 ある日、服に大量の蜜をこぼしていたことに気付かず、村へ戻った。
「甘い匂いがするな」
 父は言った。やってしまった、と思った。こうなってしまっては、隠しても無駄だった。気付くまでにそう時間はかからない。服の汚れに気付かれて、ぐいと引っ張られる。
「お前、それをどこで見つけたんだ」
 強い口調で言われ、マティアスは渋々蜂の巣の場所を教えた。
 巣穴に近づくと、父も自分と同じように、蜂蜜をむさぼり食い続けた。邪魔されたくない気持ちは良く分かるので、声をかけずに先に帰った。
 それから、採取場に人が立ち入るようになった。父は蜂蜜の存在を他の連中に教えてしまったらしい。壷を持ってきて、蜂蜜を集めて村に持ち帰る様子を何度も見た。家で出てくる食べ物も変化した。雑穀も、肉も、果物も、少しずつ蜂蜜に置き換わっていった。ここ数ヶ月はもう、麦一粒に匙五杯の蜜をかけて食べている。他のものを食べても味がしないので、マティアスは喜んだ。
 しかし、マティアスに不都合なことが起こった。蜂蜜の採取が、村で管理されることになったのだ。見張りが立てられ、勝手に採取場に立ち入ることが出来なくなってしまった。近づこうとしたら、「勝手に蜂蜜を取るな」と一喝される。泥棒だと蔑まれる。何度か接近を試みたものの、突破することは出来なかった。それどころか、かえって彼らの警戒を強めてしまった。おかしいだろ。見つけたのは自分なのに。マティアスは苛立ちを募らせた。

 我慢の限界だった。その夜、とうとうこっそり家を抜けだした。皆が寝静まった頃を見計らって、採取場へと向かった。月は満月に近く、周囲の様子はよく分かる。誰かに見つかりはしないかと怯えながらも、山道を抜ける。途中、不可解な煙が立ちこめていたが、火事ではないらしく、すんなりと通り抜けることが出来た。追っ手があったとしても、煙のおかげで身を隠せるかもしれない。内心ほっとした。見張りは幸いなことに立てられていなかった。夜はいつもこうなのだろうか。採取場は、静寂に包まれていた。今、この場にいるのは自分一人だけ。蜜を取るのを遮る者は、誰もいない。時間帯をずらすだけでこうもあっさり上手く行くのなら、今までどうしてこの手を使わなかったのだろう。懐かしさすら覚える風景だ。木々の一つ一つが、輝いて見える。今も蜂は同じように木の根本に巣を作っているのだろうか。手頃な木の根本を覗くと、六角形の巣穴が見えた。心を躍らせて、手を伸ばす。
 その瞬間だった。
 ぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶ。
 唸るような羽音がした。
 木の穴から、何かが飛び出してくる。マティアスは思わずのけぞり、しりもちをついた。
 蜂が目覚めたのだと、直感で分かった。六角形の巣穴が三つ連結したものが、空を舞っている。敵意を向けられていることは、羽音からして明確だった。
「ま、待って」
 口元に向かって、飛び交う虫の一匹が飛び込んできた。驚き、身を守る暇もない。口を無理矢理開かれ、固いものが、舌先をつまんだ。乱暴な力だった。虫に襲われて死んだ子どもがいるという話を小耳に挟んでいたが、ふとその話を思い出した。これがまさか、そうなのか。この蜂が、人間を襲ったのか。舌先へ加わる力が更に大きくなる。噛み千切られる、そう直感した。耐えられない痛みが走る。手で六角形の図体を掴んだが、まるで離れない。やめろ、やめてくれ。あまりの苦痛に、足を踏み鳴らした。それでも、食らいついたものは離れない。
「手を離して!」
 もう駄目だ、と思った瞬間、声が聞こえた。
「一旦、そいつから手を離して、手をおろして下さい!」
 少年とも少女ともつかない声がした。その声は力強く、思わずその声に従った。
 目の前を、熱風が駆け抜けた。火の玉が飛んでいったように見えたが、あまりの速さに状況を理解できずにいた。理解できたのは、掴まれていた舌先から、蜂が離れていたと言うことだけだった。
 助かった、のだろうか。全身の力が入らない。情けない声を出しながら、その場に座り込んだ。



 ジャグルの放った火矢は、正確に標的を射抜いた。対象まで、およそ十五歩という距離である。夜中でも、十六夜の月が周囲を照らしており、視界が良いのが幸いだった。食われそうになっていた村人が、その場に倒れ込む。この人は確か、マティアスと言う名前だったか。この村に来てすぐの時に一瞬だけ見えた、大男だった。
 ドドは手短に指示を出した。
「ジャグルはその人を抱えて安全なところへ。それまでは俺が蜂を食い止める」
「分かった」
 二人は駆け出した。ジャグルは倒れ込んだマティアスの方に、ドドは彼と蜂の巣の間に。
「さて、蜂退治だ。ミツハニー……そしてビークイン。お前達を、倒させてもらうぞ」
 ドドは呟く。杖を掲げると、見えない壁を周囲に張り巡らせた。空を飛び回る蜂……ミツハニー達も、その壁に押しやられて近づくことができない。まじないの力が空に広がるのを確認して、ジャグルは村人の巨体に肩を貸した。
「さあ、今のうちに行きましょう。蜂達は大丈夫です」
「う、う」
 何ともつかない声を漏らしながら、彼はジャグルに体を預けた。みすぼらしい身なりのこの男は、この時間に何をしていたのだろうか、と考える。夜は山道も暗く、真夜中に見張りを立てることは殆どないと聞いていた。村の役割があって、蜂蜜の採取場に来たわけではないのだろう。そうなると、目的は密猟、ということになる。
「俺の、蜂蜜は」
 彼はぼそぼそと呟いた。
「……とにかく、今は危険ですから」
 ジャグルは答える。彼はまた黙ってしまった。
 採取場の入り口まで到着すると、木の陰にマティアスを下ろした。肩を支える腕を離すと、彼は力なくその場に座り込んだ。
「ここで待っていてください。すぐに終わります」
 声をかけたが、返事はなかった。聞こえているのだろうか、と訝るも、彼に構っていられる時間はそう多くはない。ジャグルは振り返り、ドドの元へと向かった。

 空を見上げながら、ジャグルは駆ける。飛び交うミツハニー達は、ドドの張った防護壁を破ろうと体当たりを繰り返していた。彼らの体が軽いからか、一回一回はそれほど効果があるようには見えなかった。単体の攻撃力自体はそこまで驚異ではなさそうだ。
 少し安心しかけたところで、その判断は間違いだということに気付いた。びっ、という、ミツハニー達のはばたく音とは違う音が、一瞬聞こえた。その瞬間、ばらばらに飛び交っていたミツハニー達の行動が、急にまとまりを見せた。六角形の巣が組み合わさっていき、巨大な巣の板を形成する。巣の板が防護壁を殴りつけると、壁は耐えきれず崩壊し、その衝撃でドドの体が後方に吹き飛ばされた。
「大丈夫か!?」
 驚き、ジャグルはドドに声をかける。ああ、と返事が返ってくる。
「今の音を聞いたかい。ビークインはあれでミツハニー達の統率を取っているようだ。それに併せて、ミツハニーも一時的に能力を高めることが出来るらしい。女王蜂からの、攻撃せよ、という指令だね」
 防護壁が消えたことで、身を守るものが何もなくなってしまった。ドドの怯んでいる隙に襲われることを警戒して、ジャグルはドドのそばに近づき、炎の渦で二人を包んだ。炎の渦にミツハニー達はぶつかり、燃えて消え去る。体液が溶け出し、わずかに甘い匂いが広がる。燃えてしまえば彼らの意志は届かないのか、その匂いに誘惑はない。
「数が多過ぎる。どうすればいい」
「頭を叩くしかないだろうね」
 ジャグルの質問に、ドドは答える。
「蜂の親玉……ビークイン。奴を倒せば、ミツハニー達も行き場を失う」
「場所は?」
「あっちだ」
 ドドは杖で、採取場の奥を指し示す。その方向に向けて、防護壁の筒を伸ばした。
 ジャグルは炎の渦を解除し、矢をつがえる。まじないの灰を惜しまず刷り込んだ、特別な矢だ。
 親玉とジャグル達の間に、阻む意志を持つものは何もない。極限まで炎の力を込めて、解き放つ。神速の矢は、防護壁の筒の中身を丸ごと燃やし尽くした。
 範囲内の木がすべて灰となり、敵の親玉の姿が浮き彫りになる。さすがに一筋縄ではいかない丈夫さだ。蜂の巣のような下半身、人型に近い上半身。その姿は、ドレスを纏った貴族のようだ、と思った。羽が燃えて上手に飛べないらしく、ふらふらとしている。
 びっ、と音がした。次の指令を出したようだ。防御のためか、回復のためか。ビークインの元に、ミツハニーが集まろうとする。だが、ドドの防護壁を破ることが出来ず、はじき返される。
「出す指令を間違えたようだな。お前は防護壁に攻撃の指令を送るべきだったんだよ」
 ドドはジャグルに向かって合図を送る。ジャグルは頷き、二本目の矢をつがえた。
「とど……うぐうっ」
 張力を高め、火矢を放とうとした瞬間、体に予想外の衝撃が走った。
 何かがジャグルの体にぶつかってきたのだ、ということだけは分かった。衝撃のせいで矢はあさっての方向に飛んでいく。地面に倒れ込んで、マティアスの巨体が突進してきたのだと理解した。彼はジャグルの上に覆い被さり、手足でジャグルの四肢を封じた。乱暴な拘束だった。
「何をするんですか!」
 ジャグルは怒鳴った。
「あいつらを、殺さないでくれ。あれは俺のもんだ」
 マティアスは目を見開き、歯をむき出しにしながら言った。必死な形相に思わず息を飲む。彼は全身を強ばらせて、ジャグルの両手がちぎれそうになるほどの力で握り締めていた。
 抵抗を試みるも、振り払うにはあまりに非力だった。彼は確か、村で木こりとしての役割を担っていたはずだ。仕事で培った筋力は本物だ、とジャグルは感じた。単純な腕力では、自分をはるかに圧倒している。だが、その形相を見ても、身動きが取れなくなっても、恐ろしいという気持ちは殆ど沸き上がって来なかった。ジャグルを掴む手は震えており、それが怯えによるものだと分かってしまったからだ。そして、彼は強引な手段に出たことにためらいを覚えている。
「蜂蜜を失うのが、怖いんですね」
 ジャグルは冷めた口調で言った。
「蜂蜜が自分のモノなんて、そんなの錯覚ですよ。マティアスさん、逆です。あなたが、蜂達のモノになってしまっているんです」
 言い放ち、ジャグルは自分の全身をまじないの炎で覆った。
「ひっ」
 突然人体が発火し、燃え盛るさまにマティアスは思わず離れる。ジャグルは何事もなかったかのように起き上がり、空を見上げる。

 ジャグルがマティアスに倒されている僅かな時間、ドドは防護壁を張り続けていたようだ。状況を理解した瞬間、壁が破られるのが見えた。ビークインがその隙を見逃さず、びっ、と次の攻撃の指令を飛ばす。
「来るぞ!」
 ドドが言い放つ。壁の張り直しは間に合わない。束になった六角形の蜂達は、真っ直ぐにマティアスの方へと向かってきた。彼は両手で頭を覆い、蜂を背にうずくまった。
 ジャグルは即座に次の矢を手に持ち、火をつけて放った。蜂に触れた瞬間、爆発を起こす。隊列を成していた六角形はその大半が燃えて炭となり、残ったものも飛行能力を失い落下していく。
 マティアスは恐る恐る顔を上げる。ジャグルの瞳と、目があった。
「……マティアスさん。蜂の食い物にされたくなかったら、大人しく隠れていて下さい」
 恐怖のためか、抵抗すべきか悩んでいるのか。マティアスは動かない。
「早く!!」
 ジャグルは叫んだ。その声に、マティアスは慌てて走り出した。

「ごめん、ドド」
 ジャグルは言った。
「いや、こちらこそすまない。助けに行けたら良かったんだが、壁を張るしか出来なかった。まだいけるか」
「もちろん」
 ビークインの方を見ると、一度目の火矢で傷を与えた部分にミツハニーが集まっている。どうやら、自身を回復させるような指令を与えているらしい。治療が終われば、逃げられてしまうことも有り得る。
 ジャグルは矢を取り出した。これが最後の一本だった。失敗は出来ない。
「ビークインまでの距離は4、高さは3」
 ドドの呟いた数字で、直感的に思い出した。つい最近、ロコと一緒に勉強していた内容だ。頭の中に直角三角形が思い浮かぶ。距離と高さで斜辺が決まる。
「直線距離は5、ってか」
 最大限の張力を火矢に込め、打ち放つ。
 女王蜂の体に到達した瞬間、矢が轟音を立てて弾け飛び、火と衝撃が炸裂した。熱で巨体は働き蜂もろとも灰となり、跡形もなく消え去っていく。
 なるほど、数学も確かに役に立つものだな。ジャグルは大きく息を吐いた。




乃響じゅん。 ( 2020/09/04(金) 19:32 )