#3 Vanishing Point
#3 Vanishing Point-6-
 顎が外れそうだ。口の中に異物を突っ込まれ、身体を内側から浸食していく。まるで自在に曲がる丸太を突っ込まれたようだ。歯に当たる感覚は、どろどろとしているのに堅い。鼻の方にも上がってきて、呼吸器官は完全に塞がれた。
「ふむふむ、なるほど皮膚から胃の粘膜までなかなかうまそうなニオイがしているぜ。これが術力を持った人間の匂いか。味が楽しみだ」
 男は恍惚とした表情を浮かべて言った。
 薄れゆく意識の中で、この人食いは何を食べるのだろう、と考えた。中から全ての部位を貪り尽くすのか、それとも胃や腸の表面を削るようにしていただくのだろうか。胃の中まで覆われるまでは感覚があったが、それ以上のことはよくわからない。
「むっ……奥の方が堅いな」
 彼は不審を口にした。
「ぎゃっ」
 次の瞬間、彼の叫びが耳をつんざいた。同時にどろどろの腕が一気に引き上げられ、ジャグルの身体を押さえていたものも全て彼の身体に戻っていく。解放されて支えを失い、その場に崩れ落ちて手をついた。
「げほっ、げほっ」
 咳込みながらも、何とか息を吸い、男の姿を捉えようとする。
 男は低いうなり声を漏らしながら、先端の無くなった腕を押さえつけている。腕は紫色のつやつやとしたものに変わっていた。これが口の中に無理矢理押し込まれた、彼の本当の姿のようだ。
「貴様っ、何をした」
 ぜえぜえと息を吐きながら、彼は言う。
 後ろの方で、戸がゆっくりと開いた。
「悪いが、こいつを食わせる訳にはいかねえんだ。誰もいないと思って油断したか? 運が悪かったなあ、メタモン」
 顔を上げると、開いた扉の向こうで杖が自立していた。キュウ。ジャグルは名前を呼ぶが、声にならない。杖はゆっくりと傾き、ジャグルの方へ倒れた。
「もしもの時の為に、こいつの身体には守りのまじないをかけてあったのさ。神秘の守りって奴だ。お前ごときの術力じゃあ、せいぜい皮膚をなで回すのがせいぜいだと思うぜ。それより先に進んじまえば、守りの力の反動で大怪我するしかないってもんだよ。けけっ」
 キュウはけたけたと笑う。
「図ったな、キュウコン」
 メタモンは低いうなり声を上げ、憎々しく言い放つが、キュウは微塵もうろたえない。
「騙し討ちはお前の得意技だろう? お互いさまだ」
 キュウはジャグルの方に倒れ、背中をぽんと叩いた。
「ジャグル、聞け。人食いの中には人間の好きそうな姿に擬態する奴が存在する。こいつはとりわけその力に長けているんだ。確かに俺からしてもこいつの顔はレガ・タルトそっくりだぜ。だが長けているのは猿真似する力だけで、戦闘能力は大したことはない。俺を火矢代わりにして貫けば死ぬぐらいには弱っちい人食いなんだ。お前さえよければ、俺を使ってもいい」
「ああ。だが、その前に聞いておきたいことがある」
 ジャグルは杖を手に持ち、立ち上がった。
「メタモン、と言ったな。どうしてお前がレガの姿を知っている」
 ナイフの刃を当てるように、杖を彼の首筋に向けた。術力を発揮し、すぐに杖を放てるように張力を込める。だが、メタモンは不適な笑みを浮かべてジャグルの顔を見上げるだけだった。
「答えろ!」
 ジャグルは叫んだ。思わず、杖に必要以上の熱を込めそうになったが、キュウの一言がそれを思いとどまらせた。
「今日の昼に来たガキンチョ、あれはお前だったんだな」
 えっ、と声を漏らすジャグル。真実は想定していなかった方向から押し寄せる。
「こいつは他の生き物に変身してしまえば、まるっきり元と同じになれるからな。ある程度なら、その記憶でさえ真似することができる。自分の術力を隠すことなんて簡単も簡単だったろう。俺もついさっきまで、騙されていたよ」
 キュウは語る。
「きっと本当のあのガキンチョは、この家のことなんて知るまでもなく死んだんだろう。こいつは母親を食った時に得た記憶をたよりに家族の居場所を探り当て、一家全員を皆殺しにした。そして、人食いに復讐を誓う人間を装ってドドの元を訪ね、話を聞いてもらうフリをして食ってしまうことを考えた……だから最初からこの家に来ていたのは人間のガキじゃなくて、メタモンだったんだ」
 キュウはケタケタと笑った。
「前から目はつけていたんだ。強い術力を持つまじない師、一度は食ってみたいと思ったからな」
 メタモンは杖の先端を掴み、立ち上がる。
「怪しまれないようにするためには、もっともらしい話が必要だった。まじない師ならば、人食いに食われた家族のこととなったら興味をそそられるに違いないだろう、と。だが、あいつは中々本性を見せない。何十回と訪ねたが、一向に取り合ってはくれなかった。見抜かれたのかもしれないが、こっちの正体を暴くでもなく、ただ追い返すだけを繰り返す。食えない奴だぜ、まったく」
 メタモンはそう吐き捨てるように言った。そして、杖の先端を掴み起き上がる。レガの姿を借りたままなので、立ち上がるとジャグルを見下ろす形になった。
「だが、今日はお前が現れた。普通の人間よりも強く、それでいてあの男よりも未熟なまじない師。俺は計画を変更することにした。まじない師にはまじない師の仲間がいる。その中で、弱い奴を優先的に狙っていけば怪我をすることもない。食って力を付けたら、最後にはあいつを食ってやるのさ。今日はその最初の一歩のつもりだった」
 メタモンの身体が変化を始めた。身体が青く変色し、二足歩行の鰐のような大柄な姿へと変わっていく。
「ほほう、オーダイルとも知り合いなのか。なるほどね」
 キュウはケタケタと笑った。オーダイルと化したメタモンの、大きな顎の端が歪む。これも人食いか、とジャグルは敵を見据える。そして、驚くほど冷静な自分がいることに気が付いた。真実が一つ分かり、少なからず下る溜飲もあった。だが、胸の奥のざわつきはまだ続いている。今まで感じたことのない熱が、体に満ちあふれている。
「水を操る人食いなら、お前の炎も効かないはずだ。おとなしくしてれば、楽に死なせてやれるぜ、ちょっと痛いぐらいだろうが……まあ、勘弁してくれよ。黙っちまって、可愛いやつだぜ。言うとおりにしてくれるなら、とてもありがたいねェ。へへ、いただきまあす」
 メタモンは姿を変えると、その性質ごと写し取るようだ。きっと元の人食いらしく、荒々しく、それでいて鈍く、頭の悪そうな口調だった。鰐の口が開かれ、ジャグルの頭がすっぽりと入り、胴体からぶちりと食いちぎられようとしている。
 ジャグルの瞳に閃光が宿る。
 そして、何もかもが一瞬で行われた。
「キュウ、少し我慢してくれ」
 呟くやいなや、片手で自分の髪の毛を掴み、もう片方の手で杖を振り上げた。杖はまるで鋭利なナイフのような切れ味を発揮し、ジャグルの髪の毛を美しく刈り取った。
 ジャグルは身体から離れた橙色のそれを、大鰐の口の中に投げ入れる。
「針っ」
 鋭い叫びが響きわたる。その声に呼応するように髪の毛が鋭く立ち、オーダイルの口の中で刺さった。突然の出来事に反応できず、大鰐は痛みに鈍い声を上げた。
「雷っ」
 ジャグルの二声。鰐は口の中で雷の落ちたような衝撃が走り、全身の筋肉の自由を奪われる。もはや叫び声を上げることすらままならない。
「馬鹿な、炎のまじないしか使えないと言っていたはずなのに」
「俺もそう思っていたよ。さっきまではね」
 イカズチ、と再び呟き、追い打ちをかける。
「お前もおれの記憶を読んだからには知っているだろう。おれは小さい頃から自分を男と偽って生きてきた」
 一つ息を吸い込み、ハリ、と呟く。鰐の体のあちこちから、貫通したジャグルの髪が突きだしている。鰐の姿はほぼ解けかかっていた。
「全てはそれがいけなかったのさ。自分の正体を隠し、周囲に女であることを疑わせないようなまじないを常に自分でかけていたんだ。それも無意識のうちに。寝ても覚めてもずっと走っているようなもんだよ。休まる暇も、他のことに手をつけている余裕もない。だから、他に覚えていられるようなまじないは、炎を何かに灯す、これくらいしかなかったんだ。着火はタルトのまじないの基本だから。だけど、もう自分を隠す必要なんてない。自分を縛るものが消えたなら、他のまじないもいくらだって覚えられる。いくらだって使えるんだ」
 ジャグルが語り終える頃には、メタモンは完全に元の姿に戻っていた。二つの黒目と口のついた、紫色の小さな軟体生物。体の所々から、ジャグルの髪の毛がはみ出している。だらりと全身を地面に溶かしそうになったところで、異変が起こった。メタモンの体が別の生物へと形を変えながら、しかし姿を定められないまま、少しずつ肥大化していったのだ。
「生意気な口を」「俺は何にでもなれる」「お前が一番怖いものにだって」「つべこべ言わずに」「餌め」「くそっ」「人間風情が」「食われとけばいいんだ」「俺の力があれば」「お前なんか」「お前なんか」「お前なんか」
 狂い始めた人食いの言葉に、ジャグルはもう心を波立たせることはなかった。どんな姿に変身しようとも、自分を圧倒するような気迫や術力は感じられなかった。きっと騙されさえしなければ、こんな人食いなど並のまじない師でも勝てるだろう。所詮姿を変えたところで、それはかりそめの隠れ蓑でしかないということだ。
 一つ深く呼吸をすると、杖を術で浮かせて張力を作る。
「お前が一番嫌いなぁぁ」
 メタモンは自分の記憶を探ったのか、サンダースの姿を再現した。高速で移動し、雷の力を操る獣。髪の雷を警戒してのことだろうが、それが失策であることは明らかだった。
「レガの形を借りたこと、おれは絶対に許さないからな」
 呟き、キュウの矢を放つ。ジャグルの怒りが、確かな指向性を持ってメタモンの眉間を貫いた。
 そしてようやく、全身を駆けめぐる熱の意味を理解した。レガがこの世からいなくなったという事実をようやく受け入れ、深い喪失に悲しみを抱いているのだ。皮肉にも、彼を騙る人食いの登場によって。
「ぎっ」
 メタモンは短い叫びをあげ、しゅるしゅるともとの姿に戻る。傷は負ったがまだ生きてはいるようで、なめくじのような動きで必死に退路を探している。
「逃がすものか」
 床に突き刺さった杖を再び手に取ろうとしたが、メタモンの動きは気味が悪いほど俊敏だった。あっと言う間に扉に到達し、半分液体のような体を使って、扉と地面との隙間をくぐり抜けようとする。
 悔しがったその時、扉がほんの少しだけ、きいと開いた。それと同時にメタモンの動きがぴたりと止まった。扉の動きを認め、警戒したというより、まるで全身がすくんでしまったかのような動きだった。
 誰かが、まじないをかけたのだと悟る。
 扉が開く。部屋の中にいる者は誰一人身動きがとれないまま、その人物の姿をゆっくりと認めた。黒い帽子を被った男が、ジャグルを一瞥してから、メタモンに目線を落とす。
「捕獲させてもらうぞ」
 その男ーーディドル・タルトは、ポケットの中から赤と白の封印玉を取り出し、メタモンに向かって落とした。封印玉がメタモンに触れると、不自然に大きく弾み、半分に割れ、紫色の体をその中に吸い込んでしまった。

 再び地面に落ちた玉を拾い上げると、ドドはそれを机の上に置いた。
「無事だったようだな」
「そうとは言えないよ。死にかけたんだから。大変だったんだぞ」
 ジャグルはキュウを引き抜く。
「そうか。でも生きてる」
「でも危なかった」
 ジャグルはむくれる。ドドは小さく笑った。まるで含むところがなく、ただ慈しむかような瞳でジャグルを見つめた。
「一人にさせたことは申し訳なかったよ。座ってくれ。食べ物はいるかい」
「さすがに人食いを殺す殺さないの戦いをした後じゃ、そんな気にはなれないよ」
「やっぱり、そうだろうな」
 ドドは笑う。その訳を尋ねるより早く、ドドは背中を向けてしまった。
「それならお茶を出そう。気持ちを落ち着かせる効果がある」
 後ろで何をやっているのかは見えなかったが、手を二度、三度動かすだけで、あっというまに淹れたてのお茶が完成してしまった。
「どうぞ」
 ドドの手つきはしなやかで、つい見入ってしまいそうだった。ありがとう、とお礼を言おうとするも、すこし声がうわずってしまった。一口飲むと、スープの時と同じような、ほっとする温もりが胸の中に広がる。
「キュウから、話は聞いたのか」
「一応。どうしてドドが、タルトから離れた場所でまじない師をやっているのかとか、レガとどうやって知り合ったのかとか、いろいろ」
 その全部をちゃんと覚えているかどうかは、自信はないのだが。
「俺はちゃんと仕事したからな。文句言うなよ」
 キュウが横で抗議の声を上げる。
「分かってるよ。十分働いてくれた」
 ドドは笑う。
 しばしの沈黙の後、ジャグルはボールに目線を落とした。
「今日の昼、親を人食いに殺された男の子が来たんだ。まあ、実際会ったのはメタモンだったわけだけど、ドドはどうして何度も追い返したりしたんだ。最初から人食いが変身した姿だって見抜いていたのか。それとも単純に、男の子がお金を持っていなかったから引き受けたくなかったのか」
 ドドは腕を組んみ、低い声で唸った。
「悔やんでも悔やみきれないことだ」
 話すのに心構えが必要な話なのだ、とジャグルは思った。
「正直、人食いを退治するという点においては、あいつを倒すことには何のためらいもなかった。無償で戦うことだって、喜んでやっただろう。だが、問題は少年の動機だ」
「復讐」
 ドドは頷いた。
「ここで簡単に俺が手を下してしまったとして、この子の人生が果たして好転するのだろうか。母親は死んだ。父親は生きてはいるが、最愛の妻を失った悲しみに耐えられず、自棄を起こして息子に当たり散らす。少年を愛してくれる家族は、最早どこにもいない。居場所のない中で、彼は母の仇を討つことだけを頼りに何とか生き延びてきたのだと思う。だが、憎しみの上には、同じ憎しみしか積み重なりはしないんだ。人食い相手であっても、それは同じだ。やがて自分の重ねた憎しみに押しつぶされて、自分自身を壊すことにもなりかねない。そう思うと、彼の復讐には賛成できなかった。何か別の形で、彼に生きる希望を見いだして欲しかったんだ。
 だが、次に彼がここを訪れたとき、すでに彼は彼ではなかった。親の仇を討つという名目で、俺を食らおうとする人食いにすり替わっていたんだ」
 彼は机に肘を置き、自分の顔を隠した。ジャグルはお茶を口に含む。時間が経ったせいで、少し冷めてしまった。
「既にキュウはこの姿になっていたこともあって、こいつの正体が分かっていても手を出すことが出来なかった。この家を壊すことにもなりかねない。放っておくわけにもいかず、ずるずると今日まで来てしまった」
 この男にも、迷うことはあるのだとジャグルは思った。何でも出来そうなまじない師が、自分にも読めない未来のことで悩んでいる。そして、たった一回の迷いが結果的に一人の少年を死なせてしまった。
「俺の代わりにあいつを倒してくれてありがとう、ジャグル。礼を言うよ」
「……うん」
 ジャグルは短く答えた。思いがけない出来事だったが、少しは彼の助けになっただろうか。彼の顔は、心底安心しきった様子だった。機会仕掛けの人形のような表情から解き放たれて、血の通った彼自身の人格が、そこに表れているような気がした。それも、母親のまじないが発動するよりも前の、純粋なディドル少年の心が。
「だけどさ」
 ジャグルは言う。
「おれはやっぱりまだまだ半人前だよ。キュウが助けてくれなかったら、今頃きっと何も出来ないまま、食われて死んでた。キュウの助けは、ドドの指示だ。だからお礼を言うのは、おれの方だよ。ありがとう、ドド」
「……ああ」
 会話が途切れ、しばらく二人はお茶を飲んで過ごした。おかわりはいるか、と聞かれたので、遠慮なくいただいた。

「あのさ」
 ジャグルはふと、口に出した。
「もし良かったら、しばらくここでドドの仕事を手伝わせてくれないか。おれはいつかきっと、一人でも生きて行かなくちゃいけないから。助けてくれたのは嬉しかったけれど、いつまでもそれに甘えているわけにはいかない。そのための力をつけるためにも、ドドの近くで色んなことを見聞きしなきゃ、駄目なんだ。だから……お願いします」
 思いつきのようでいて、実は心のどこかで考えていたことだった。ドドの近くで、色々なことを学んでいけたらと、そう思っていた。自分の知らないまじないのこと、そしてドド本人のことを。
「いいだろう」
「本当!?」
 ジャグルは叫んだ。ドドはゆっくり頷いた。
「レガと昔話したとき、約束をしたんだ。もしレガが死んだ時には、代わりに俺がお前のこと守る。例え拒まれようとも、俺は約束を守るつもりだったんだ」
 ドドは大きな笑みを作り、右手を差し出した。
「君の方からそう言ってもらえて良かった。よろしく、ジャグル」
「ありがとう。こちらこそ、よろしく」
 ジャグルは満面の笑みを浮かべて、固くその手を握った。これから、どんな生活が始まるのだろう。ほんの少しでも、彼の役に立てるようになるだろうか。未来がこんなに楽しみなのは、生まれてはじめてのことだった。
「ただ一つ、条件がある」
 ドドは人差し指を一つ立てて、ジャグルを止めた。
「条件」
 ジャグルが繰り返すと、ドドはその通り、と笑った。


乃響じゅん。 ( 2014/03/17(月) 22:00 )