#3 Vanishing Point-1-
これは夢だ、と思い続けていると、本当に夢の中にいることがある。
そこで見るのは、森の夢だ。ハイラの森とはまた違う植物の森。気がつくと、木々の間にうっすらと残る道を辿って歩いていた。その道は常に右に傾き、少しずつ下っている。まるで螺旋を描くように下へ、下へと向かっている。植物自体が発光しているせいか、夜なのに明るく、ものを見失うことはない。一体どこへ向かっているのだろう、と思う。思いながら、わけもなく歩き続ける。そうしていることが心地よくもあった。一歩踏み出せば踏み出すほど、あるべきものがあるべきところに戻っていくような感覚に包まれた。時折振り返ってみると、道は暗闇に消えている。もう戻らなくていいんだよ、あんな間違った世界には。自分の声がそう語りかけているような気がする。歩んいでいる道のりに更なる自信を得て、彼女は再び歩き出す。
いつも道の途中で目が覚める。自分は切り裂かれてぼろぼろになったベッドに横たわっていて、窓の隙間から差し込んでくる太陽光が顔を照らす。このまぶしさが、彼女の嫌いなものだった。人の営みが始まる。秘密と劣等感を抱え込みながら、ひたすら人の、男どもの中に溶け込む時間が始まる。
朝など来なければ、夢など覚めなければ、どれだけいいだろう。もう私は疲れた。休ませてくれ、ずっと、ずっと。そう願っても、朝は来る。
夢を何度も見るうちに、目の覚めるまでの時間が計れるようになった。あぁ、そろそろ頃合いなのだな、と誰に教えられる訳でもなく、自分で分かるようになってしまった。出来れば知りたくなかった感覚だった。
今夜も頃合いなのだな、と思った。歩いた距離と時間を思うと、残り少ないであろう夢の歩道を、惜しみながら歩いていく。
だが、そう自覚してから、なかなか目が覚めることはなかった。
ふわふわとした感覚が疑惑に変わり、意識がはっきりとしてくる。何かが、いつもと違っている。頭が働くような気がして少し考えてみたが、思い当たる節はない。いや、目覚めの感覚はまだ不完全で、まだどこか呆けている部分があるのかもしれない。
とりあえず、もう少し降りてみよう、と思った。
背後を見れば、道は闇に食われて消え去っている。どのみち、前に進むことしかできないのだ。いつも通りにやるしかない。いつもと違う感覚の正体も、いずれ分かるに違いない。そこに意味があるのかどうかも。
一歩、一歩と歩みを進め、やがて螺旋の底に到着した。
道は終わり、円形に広がった草の絨毯に繋がった。大きな大きな筒の底のように、草の絨毯はきれいに丸い。そして、その中には切り株が三つあった。そのうちの一つに近いてみる。誰かが足をかけていたのだろうか、下の土や葉っぱが散らかっている。それと同時に、なぜ夢の中でこれほど細かい部分に気付くことが出来たのか、不思議に思う。夢とは通常、曖昧なものだ。そう思いながら、土の粒をつまみ上げる。ただの湿った土の粒だ。それと同時に、はっきりと感触を認識した自分に驚いた。ここは、本当に夢なのだろうか?
「とうとう君も、ここまで辿り着いてしまったんだね」
ふと誰かの声が聞こえた。
誰、と振り向きざまに尋ねようとした瞬間、夢が途切れた。
目を覚ますと、ジャグルは布団に寝かされていたことに気付いた。どうやら、ベッドの上らしい。
自分のよく知るものとは、硬さも肌触りもまるで違った。一晩分の温もりが、しっかりと残っている。随分と良い素材のようだ。ゆっくりと生地を撫でると、ふわりと熱を帯びた。心地よさに包まれていく。
堪能しようとして、ふと状況を思い出す。そういえば、自分はあれからどうなった。
置かれている状況を考えた瞬間、意識が覚醒した。思わず飛び起きて、辺りを見回す。狭く、薄暗く、静かな部屋の中。どうやらここは誰かの家の一室らしく、自分の他には誰もいないようだった。とりあえず、命の危機にさらされている訳ではないらしい。ほっとため息をついた。
改めて、部屋の中を確認していく。高いところにある窓から差し込む光で、ぼんやりと薄明るい。大まかなものの位置は確認出来そうだった。
部屋唯一の扉のとなりに、大きな机があった。とは言え、その上に乗っているものはかなり雑多なようだ。本が無造作に平積みされ、場合によっては開いた状態のままひっくり返しているものもある。更に目を凝らしてみると、宝石やら動物の骨やらが本の間に敷き詰められており、どうやら天板は完全に顔を隠しているようだ。整然とはほど遠い。
その机に、一本の杖が立てかけられていることに気付いた。小さな獣の頭部を模した、茶色い杖だ。目に埋め込まれた赤い宝石が、こちらを向いている。妙に生気を宿していて、少々気味が悪い、と思った。それと同時に、この杖をどこかで見たことがあると思った。それも、つい最近。ジャグルは杖とにらみ合った。
杖は、いきなり、ぶぅん、と音を立てて震えた。
振動によって力の均衡が崩れ、杖は机の側面を滑り落ちていく。だが転んでしまいそうになったところで、ぴたりと止まって持ちこたえた。そして、今度は自力で元の位置に体勢を立て直した。
「ふぅ、危ない危ない。あんまりまじまじ見つめないでくれよ。照れるだろ、ジャグル・タルト」
声がした。この杖が喋っているのか。
「おれの名前を、どうして知っているんだ。お前、何?」
ジャグルは聞いた。驚きと警戒から、無意識に布団を手元に引き寄せた。身を隠すには少し頼りない。
「どうしてと言われても、俺はお前のことを知っているからとしか答えようがないね。お前だって、俺に会ったことはあるだろ」
杖はケタケタと笑った。あっ、とジャグルは呟いた。この杖は、ディドル・タルトがいつも握っていたものだ。
「ということは、ここはあいつの家なのか」
ジャグルはぐるりと部屋を見回した。
「その通り。ドドの野郎の住みかだ。狭いところだが、悪くはないと思うぜ。おっと、勝手に部屋を出るなよ。お前のことを見張っておけって言われてるんだ。あいつが帰ってくるまで、おとなしくしてろよ」
「……出かけているのか」
「仕事だよ。町外れの屋敷に呼ばれているんだ」
そういえば彼は確か、屋敷の貴族のお抱えまじない師をやっているのだったか。半年以上も前のことだからうろ覚えだったが、初めて会ったあの時、そんな話をしていたような気がする。
「そう」
ジャグルは布団の中でひざを抱えた。
「君は、一体何者なんだ。どう見ても、人間ではなさそうだけれど」
足の指をこすり合わせて温もりながら、聞いてみる。
「俺? 今でこそこんな姿だが、人食いだよ。キュウコン、ってのが名前だが、ドドなんかはキュウって略したりもする」
キュウは妙に自慢げに答えた。
「ちょっと前にへましちまったが、お前のお陰で喋るくらいは出来るようになったぜ」
その目が妖しく光ったような気がした。
「おれのおかげ?」
「ブースターの尻尾さ。俺は人間の熱や術力の宿った炎とかを食うんでね。いいもん食わせてもらったおかげで、力がついた。もうちょっと力が戻った暁には、人間の格好にでも変身してみせてやるよ」
キュウはけたけたと笑った。よく笑うなぁ、とぼんやり考える。からかわれているようで、いい気はしない。
「いや、いいよ」
ジャグルは首を振った。正直、人間には会いたくなかった。人食いと喋っている方がマシだと思った。人間以外のものと触れていれば、自分のことを思い出さずに済む。
「しかし、すっかり変わり果てたなぁ。髪もすっかり伸びちゃって、女みたいだ。どことなく体つきもしなやかになったねぇ。アンタ、自分にずっとまじないをかけていたんだろう。自分の身体を男のものに変える、そんな術。それ、術力を食う上にずっと使い続けていなきゃいけないんだろ。他の術を覚えようったってそりゃ無理な話だ」
ジャグルは目を丸くして、キュウを見つめた。図星だった。
「よく分かったな」
「人食いだからな。何となく術のことは分かるってもんよ。人間って苦労してる割には弱っちいままなのだけはよく分からんけどな」
キュウはケタケタと笑った。
「出来ることなら、両立したかったんだけどなぁ」
「あ〜、むりむり。やめときなって。無駄な努力なんか、むなしいだけだぜ。ドドの野郎も言ってたけどさ、本来あるべき流れに逆らうのは、力が掛かるんもんなんだよ」
「ドドにもバレてたのかな。おれの術のこと」
「さあて、どうだろう。バレてたんじゃないかねぇ」
キュウはしみじみと言った。本当のことは、本人にしか分からない。
「ところで、やっぱり人食いにしてみたら、女の方が美味い、とかってあるのかい」
「まぁ、その方が多いと言えば多い」
キュウの答えに、ジャグルは笑みを浮かべた。自分はいま、とても人間らしくない会話をしている。そのことが奇妙で、可笑しかった。妙に気持ちが安らぐのは、思い出したくない人間のことを忘れていられるからなのだろうか、と考えたりもした。
「そうだ、キュウ。何ならお前のことを聞かせてよ」
「ほう、俺のこと」
「そう。お前のこと。どこでどうやって生まれたかとか、どんな人間を食ってきたかとか。どうしてドドと一緒にいるのかとか」
「人食いを退治するまじない師が、人食いに頼みごとかい」
「別に憎んでいるわけじゃないから」
「へぇ、そうかい」
そう言って、不敵な笑みを浮かべる。
「話してやってもいいが、その代わり」
その代わり、とジャグルは繰り返す。もったい付けるようにキュウは次の言葉を溜めた。
「お前は丁度、火や熱を扱う術に長けているだろう。その術で作った炎を、話を一つする度に俺に食わせる。どうだ、乗るかい」
ジャグルは少し考えて、答えを返す。
「炎か。それくらいならいいよ」
ジャグルは一差し指を空中に向けると、その先端に小さな火を灯した。
「これでどうだ」
「いや、小さすぎる。そんなの、唾飲んだ方がまだマシってもんだぞ。腹の足しにもならん。その倍の倍くらいはないと、貰ったうちには入らねぇよ」
「贅沢だな」
次々と出てくる文句に、ジャグルは呆れた。とは言え、ここで意固地になる理由もない。
「ほら」
手のひらを上に向け、その上に、自分の顔より大きな炎を作り上げた。
すると、炎は上の方から引っ張られるように、渦を巻いてキュウの方へと吸い寄せられていった。見る見るうちに、火は消えてなくなっていく。完全に消火するまで、一息つく間もなかった。
「ごちそうさま。なかなかいい炎してんじゃねぇか」
キュウは満足そうに、ケタケタと笑った。
「約束だ。話、聞かせてよ」
「あぁ、もちろん」
「まさかこのまま、食い逃げするんじゃないかって思って」
「食わせた後にそれを聞くたぁ、アンタも案外抜けてるねぇ」
「返す言葉も無いよ」
ジャグルは肩をすくめた。
「さあて、何から話したもんかねぇ」
身体があったならきっと首を傾げていたに違いない口ぶりで、キュウはぽつり、ぽつりと喋り始めた。