#2 火矢を放つ-1-
レガ・タルトは、弓矢を放つ構えをした。とは言え、手に握られる弓はない。弓を持つ手を模した体勢をとっているだけだった。身体を垂直に立て、左手を伸ばし右手を引く。両の人差し指をぴんと伸ばし、動かぬ的に狙いを定める。
これがただの「ふり」でないことは、見守る少年の誰もが知っていた。と言うより、誰の目にも明らかだった。
レガの引いた右腕には、一本の矢が浮いていた。術によって発生した見えない張力によって、宙に浮いたまま留まっている。射撃は、タルト一族に伝わる基本的な攻撃術だ。さらに、一人前の術師になると別の術と組み合わせることもある。
子どもたちは矢の羽根に注目した。周囲の熱が彼に吸い込まれていくかのように、一陣の風が吹く。その瞬間、羽根に橙色の火が灯った。驚きと、片時も目を離すまいとする気持ちが同時に現れ、おかしな動作をする子どもたち。そして、観客を息づかせる暇もなくレガは矢を放つ。術で浮かせた矢とは言え、その軌道、速度ともに本物の弓矢と遜色なかった。矢が正確に的の中央を貫いたその瞬間、矢の炎は消え、代わりに的が勢いよく燃え始めた。側に控えていた者が、すぐに消火する。レガが一つ息をつくと、周囲から歓声が上がった。
「十五歳までに矢を放つ。十六歳までに火矢を放つ。これが出来れば一人前だ。誰か、やってみるか」
レガの火矢を見ていた少年達の中でも、最年長は十四歳だった。矢を放てるほどの術力を得るにはまだ少し早い。そうと知りながらもレガが火矢を見せたのは、タルトの子どもたちは十六歳で火矢を大人たちの前で披露するという、通過儀礼を受けるからだった。
「おれ、やります」
矢に灯った炎のような、くるくると丸まった鮮やかな橙色の髪をした少年が手を上げた。
「ジャグルか。君は勇気があるな。よし、やってみろ」
周囲が興奮に沸き立つ。ジャグル・タルト。まだ十四歳だが、一部の仲間は彼の才能を知っていた。そういう仲間は、こいつならやってくれるのではないかという期待のまなざしを向けた。ジャグルは頷き、少し下に目線を落としながらレガの方へゆっくりと歩み寄る。自ら志願はしたが、緊張を隠しきれない子どもらしさがそこにはあった。レガは矢を一本、ジャグルに手渡した。
「大丈夫。自分のペースで、焦らずやるんだ」
レガはジャグルの背中を軽く叩いた。やがてジャグルも、意を決したように頷き、顔を上げた。
ジャグルは的の方に顔を向け、足を前後に開いた。沸き立つ声が止み、周囲は緊張感に包まれる。両手に神経を集中させ、矢に術力を込める。矢を持つ右手を開き、術力によって右手にくっついたまま落ちないことを確かめる。親指と人差し指をぴんと伸ばすと、人差し指に矢はくっついてきた。左手も同じ形を作り、矢を構える形を取る。
ジャグルは的を睨んだ。決して近くはない。だが、狙えない距離でもなかった。ジャグルにとって、矢を操るのはこれが初めてではない。既に何度も練習を重ねている。
ジャグルは矢に術力を込める。思わず肩に力が入った。本当は、矢を放つのに力を込めてはいけない。力が素直に伝わらず、ブレる原因にもなる。基本的なことだから、レガの注意が入りそうな気がした。
――だが、構うものか。
矢の先端に全ての力が集まっていくイメージを浮かべる。そして、ただひたすらに先端が赤く燃えるさまを見ようとする。本当なら、今誰もきっと火矢を放つことまでは望んでいないだろう。だがジャグルは、今こそがチャンスだと思っていた。何としても手に入れたいものが、少年にはあった。この集団の中で、いち早く実力を認められ、一人前としてやっていけるようになること。それが願いだった。
ぼっ、という音とともに、光がはじけた。矢の先端に、熱い炎が灯っている。周囲から、期待と困惑に満ちたどよめきが起こる。レガは何も言わない。見守る連中は次第にレガの沈黙の意味を悟り、声をあげるのを止めた。しんと静まったその空気に、ジャグルの心は固まる。次の瞬間、右手に集めていた非物質の張力を解放する。弦が支えを失い、その力は恐ろしいほど綺麗に伝わっていく。炎を帯びた矢がただ一点を目がけて、宙を駆ける。
すとん、と小気味の良い音が響いた。その直後、更に大きい音を立てて、矢が的を爆破した。黒い煙がもくもくと登る。術力を込め過ぎて、燃えるどころでは済まなかったらしい。流石にジャグル本人も予期しておらず、目を丸くした。周囲の少年たちも、同じ顔をしてその場に固まっていた。
沈黙を破ったのは、一人の手を打つ音だった。レガだった。何も言わず、ただひたすらに拍手を送っている。その笑顔の意味が称賛であると気付くまでに、時間はかからなかった。この時、ジャグルの評価は完全に決まった。歓声が上がる。誰もがジャグルを褒め、激励の言葉を投げかけ、肩を叩いた。きょとんとしていたジャグルも、皆の嬉しそうな、それでいて少し悔しそうな顔を見るうちに少しずつ笑みがこぼれ、最後は大笑いした。
――あぁ、自分は認められたのだ。これでもう誰も自分のことを疑う者はいない。一流のまじない師としての将来は、約束されたも同然だった。あとは、上り詰めるだけ。そう思うと、ジャグルは生まれて初めて、心から笑えた気がしたのだった。